雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

犬の散歩で出会うこと

2013年06月18日 | エッセイ
▲雲の中の普賢岳(2013.6.15)

 犬の散歩で出会うこと

 ふだんは出来ないが、休日は10歳のメスのブラック・ラブラトールを連れて、ちょっと離れた江津湖という湧水の小さな湖まで散歩する。
 湖の周囲や中の島は、広い公園になっていて、休日には、同じように犬の散歩をしている人や、夫婦や男女二人連れや子連れで散策をしている人、ジョギングをしている人、釣りをしている人、ボートに乗っている人、自転車に乗っている人、ベンチに腰掛けておしゃべりをしている人、鳥を観察したり撮影したりしている人、様々な情景に出会う。
 江津湖には、湧水で有名な水前寺公園の水が流れこんでいる。流れは、市電が走る県道の通称電車通りをくぐり抜け、大きな樹木の茂る、県立図書館の庭の横を通る。かなりの水量の澄んだ水が流れ、泳ぐ魚が見えている。流れに沿った、幅2間程の石畳の道で、たいてい一人か二人は竿をたれている人がいる。お年寄りは休日を避けるのか、釣り人は、若い大人か中学生が多い。
 狭かった流れは、あちこちから湧き出る豊富な地下水が流れ込み、次第に川幅を広げ、川から湖へと様相を変える。いくつかの流れ込みには、小さな橋がかかっている。
 桜の季節。その一つの橋の上で、中学生くらいの男子が3人、立っていた。一人は自転車のハンドルを手に。一人は釣り糸を垂れている。その中の一人の持ち物であるだろう別の自転車が、その狭い橋の真ん中に停めてある。橋は道より幅が狭く2メートル程しかない。犬連れの私は通れないことはないが、この橋を渡る自転車やジョギングの人は、立ち止まらずに通過することは不可能だろう。私は彼らの直前で通り抜けを躊躇するようにわざと立ち止まり、彼らが気付くか、反応をみた。が、彼らに何の変化もないので、「こんにちは」声をかけた。何か注意するときは、まず相手に挨拶をする。
 「自転車、ジャマじゃないかい」。
 返事もなしで「うっ」という感じで私を一瞬見た中学生は、押していた自転車を動かし始めた。「声かけて良かった」と思いながら橋を通り過ぎて、振り返ると、なんとその中学生は、狭い橋の真ん中に停めてあった連れの自転車の横に、並列に自転車を停めていたのだ。
 「なんで。あれじゃ、歩いている人以外はますます通りにくいよ」
 ちょっと橋を降りて、自転車を停めたら誰のジャマにもならないものを。そもそも橋以外は道幅が少し広がるので、最初の子も、橋の上に停めるべきではない。「やれやれ‥‥」と私はそのまま散歩を続けた。たぶんあれでは、すぐに今度は怖いおじさんか誰かに注意されることだろう。
 花見をしているのか、女子大生と思われる10数人のグループが敷物を敷いて車座になって飲食をしている。ところが、その場所がまた公園の中の往来の多い道を半分以上ふさいでいるのだ。
 仕方がないので、犬のリードを短く持ち変えて、飲食中の輪の横を強行突破。
 すると、自分の後ろから犬の荒い呼吸音が聞こえたのか、その中の一人が、驚いたように振り返って身をそらし、「迷惑ねー」という顔で私をにらんだ。
 次の週、同じ公園で犬と散歩をしていると、そろいのTシャツを着た運動部らしい女子高校生の一団が、幅4メートル程の橋の両側の欄干に、背をもたげ足を投げ出してだらしなく休憩をしている。
 前の週の中学生と大学生、この高校生といい、少し移動すれば広い公園、いくらでも自転車を停め、大勢で輪になり、足を投げ出しても、誰のじゃまにならない場所があるのにと思う。あれだけ人数がいても、誰もそのことに気がつかないのだろうか。
 あと、何年間かで親になり子どもの躾をする立場になるだろうに「日本の将来はどうなるのだ」。そんな暗澹たる気持ちで散歩を続けていると、自転車に乗った高校生が二人続けて、身も知らぬ私に「こんにちはー」と大きな声で挨拶をして爽やかに通り過ぎて行った。
(2013.6.47)

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