雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

UITEMATE

2014年07月31日 | ポエム

 UITEMATE 


 私は泳ぐことが、出来ることはできる。
 もし川や湖や海で乗っている船が転覆したとしても、すぐに溺れてしまうことはないだろうと自分では思っている。
 得意な泳法は一つしか無く、それは平泳ぎである。ただし、それが水泳という競技的に正しい平泳ぎであるかは自信がない。誰にも習ったことがない自己流の泳ぎだ。
 小学校の2年生か3年生の夏休みに、近所の海岸の校区指定の場所で浮き輪を使わずに初めて泳ぐことができた。その泳法が見様見まねの平泳ぎ。上学年のお兄さん達が堤防から飛び込みバシャバシャ泳ぐのを見て、「なるほど人間は浮くものなのだな」と思った。
 60歳前の今も頭の中が単純で、さらに疑うことも知らない子ども時代の私だから最初から何の不安も恐れも無く、海底から足を浮かせたら水に浮き、お兄さん達のように手を動かしたら前に進んだのだ。真水のプールではなく、浮力の大きい海だからできたことかもしれない。
私が生まれ育った島の学校には、当時プールというものが無く、従って水泳の授業が無かった。私もそうだったが、小学校の3、4年生になっても「カナヅチ」という児童が半数以上いたように記憶している。
 時代は変わって私の二人の子ども達は、小さい頃から近所にあったYMCAの水泳教室に通っていた。「何のスポーツをするにも水泳は基礎的な身体作りができるよ」と勧めてくれた人がいたからだ。長男も長女も競泳選手になるような才能も実力も無かったようだが、学校の水泳大会を見学に行った際に、二人の泳ぎがクロールの美しいフォームであることに気がついた。子ども達は他の泳法もきちんと習っているらしく、特にバタフライで泳ぐことができるのには感心する。私の方は前述のように、顔を水面から出したままの自己流平泳ぎが専門で、あとできるのは立ち泳ぎくらいだ。バタフライなどは、何度やってもふたかきめ位でぶくぶくと沈んでしまう。
 そもそも私はプールが苦手である。小学校の頃の夏休みに熊本市内の従弟の家に泊まりがけで遊びに行き、かまぼこ板に名前を書いた名札を提出して従弟の通っていた小学校の25メートルプールで泳いだ時が本格的なプール初体験。実はプールが嫌いな理由は、プールに入る前に身体を消毒する塩素の匂いが嫌なのだ。台所仕事で塩素系漂白剤を使用したりすると、プールで溺れたとか苦しい目にあったとかは無いのだけど、小中学校でのプールの授業を思い出し今でも嫌な心持ちになる。
 それともう一つ。潜水が苦手である。海で泳ぎを覚えたためか、まず初めから顔をつけて泳ぐということをしたことがない。次に水の中で目を開けることができない。さらに身体についた脂肪がジャマをするのか、要領が悪いのか、どうあがいても沈むことが困難である。その上、水に潜った時の途端に周囲の喧噪が遠くなり「ブクブク」という泡の音が聞こえる水の中の聴覚の変化がとても怖い。だからもともと性が違うけど私は海女には絶対になれそうにない。
 今、「浮いて待て(UITEMATE)」が国際的な水難防止の合い言葉になりつつあるそうだ。海や川で流された時に、むやみに泳いだり騒いだりしないで、顔だけを水面から出して大の字になり、じっと救助を待った方が助かる可能性が高いという話だ。テレビの情報番組では、友人と遠泳中に遭難した人が「浮いて待て」を思い出し、何もせず浮いて潮の流れに流されたまま18時間後にたどり着いた、遠く離れた海岸で発見救助された例が紹介されていた。
 「沈んで」と言われても絶対無理だけど「浮いて待て」なら私も自信がある。でも救助が来るとわかっていたらいいけど、ただ波の上に顔だけ出して、いつ来るかわからぬ救助を待つのも精神的につらいだろうなあ。暗くなったらますます不安だろうなあ。助かった方を尊敬します。そんな時に限って、絶対に映画のジョーズの一場面を思い出してパニックになるのだよね、私などは。
(2014.7.31)


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