雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

時の流れる速さ

2012年02月15日 | ポエム



 時の流れる速さ

 3月20日の天気の良い午後に、仕事場でもある実家の竹やら雑木が茂った裏山の方から、ウグイスらしき声が聞こえ、耳を澄ませた。
 「ホーホケキョ」の「ホー」がほとんど聞き取れなかったが、「ケキョ」が繰り返し聞こえてきて、やはりウグイスの声だった。
 それにしてもずいぶんとヘタクソな初鳴きだ。
 ここ近年は、季節の流れ方が例年と違うような話や、例年という言い方自体が当てにならなくなってきている感想を、何度か書いたような気がする。今年の梅の開花が約一月程遅れたと同様、裏山のウグイスの初鳴きも遅かったような気がしたが、昨年の手帳を見ると、2月22日にウグイス初鳴きの記載がある。さらに3年前の手帳を開いてみたら、2月17日。その前年が2月19日とある。実は、ほとんど数日の違いしかない。ウグイスは「エラい」と思わず、声を出すと同時に、人間の、というか己の記憶や感覚のいい加減さを確認してしまった。と、書いているとき、コジュケイの初鳴きが聞こえた。コジュケイはたいていウグイスより10日ばかり前に初鳴きの記録があるから、いつもより遅いのか、今年は鳴いているのに、私が気がつかなかったのだろう。
 歳とともに、時間の経つ早さが変わって来た。
 1年が恐ろしく速い。近所のお年寄りにそのことを話すと、70歳、80歳とますます時の流れは速くなるばかりらしい。
 最近では、風呂に入ったり、ヒゲを剃ったり、部分入歯を洗浄したりという、日常の行為に対して、同じことをつい5分位前に行ったばかりのような感覚に陥ることがある。まだ50代ではあるが、70歳80歳の時の流れる速さを少しずつ体感してきているのかもしれない。
 これに対して、小さい頃の5分の長かったこと。バス停でバスを待つ数分間や、単線の路線で上りと下りの列車が交換するために行う信号停車の時間は、退屈で苦痛な時間だった。今でも、退屈な時間のことを考えると、最寄りのバス停の風景やよく乗った国鉄三角線の交換駅の列車の窓から見た風景が頭に浮かんで来る。
 小さな子どもを連れた親子連れが、その場で何かをじっと待っている場面で、子どもが母親に「お母さん、まだあ」とおよそ30秒もたたぬうちに同じ問いをしつこく繰り返すことに出くわすが、その30秒、1分を長く感じる幼児の気持ちがよく分かる。
 時間の流れる感覚は、年齢に比例して速くなるばかりなのだろう。
 ところが、感覚的な時間の流れる速さは、そう単純ではないようにも思う。
 大好きなサッカーの終了間際の5分。
 贔屓チームが勝っているときは、その5分が恐ろしく長く感じる。審判の時計を疑いたくなる程に、1分1秒の進み具合を遅く感じてしまう。逆に1点差で負けているときや同点の場合は、あっという間に過ぎてしまう。
 若い頃のガールフレンドとのデートの時の、帰らなければならないのタイムリミットの最後の1、2時間の早いこと。さっき時計を見たときは、まだ9時を過ぎたばかりで安心し、1時間位経ったかと、次に時計を見るとすでに11時に近くなっていたりする。同じ5分、同じ1時間とはどう考えても思えない。
 だから時間の流れる感覚は、単純に年齢に比例して早くなるとは言えないようだ。
 そこで、空っぽな頭で考えるに、小さい頃は、思い悩むことも無く、憂いも無く、人生の長年の課題も無く、いろんなしがらみも無く、明日の宿題や今夜の食事の献立などを考える必要も無く、頭の中が単純で良かった。いったん、旅行に出ると、バスや列車から移り変わる車窓の景色にのみ興味が募る。それが、子どもなのだ。その流れる景色を見るという目下唯一の楽しい時間が、列車交換で長い時間止まってしまうことに絶えられないのではないか。だから30秒、1分が長く感じる。
 長く続いてほしい時間は、短く感じ、早く過ぎ去ってほしい時間は長く感じてしまうのだろう。
 私を含めて、歳をとって時の流れを速く感じるのは、今が長く続いてほしいというこの世に対する未練の現れと言えるかもしれない。
 また1年の時が流れて、私のブログも今日で開設364日らしい。まずは毎回見て下さる方がいることに感謝しています。
(2012.2.24)
 


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