ふるさとは白い雲のしたに
僕は小さい頃からなぜだか青い空に浮かぶ真っ白な雲が好きだった。生まれ育った当時の天草の島では、夏の間しか食べられなかったアイスクリームやお祭りの綿菓子を連想していたのかもしれない。九州本土との連絡船に乗る度に船の立てる白い泡がどうしても大好きなサイダーに見えていたくらいだったから。
まだ食べ物が豊富でない上に、魚採りや虫採りをして近所の野山を駆けまわって、いつもおなかがすいていた少年時代。
小学校の高学年の時に島を出て、中学、高校と熊本市内に住んだ。それでも空を見上げ雲をみることが好きだった。特に遠い阿蘇の山脈の上の、広い空に浮かぶ雲を眺めたくて、家の二階の窓や学校の屋上に足を運んだ。
もちろんその頃は、おなかがすいて白い雲を眺めた訳ではない。汚れつつあるおのれの心や身体を感じながら、一方では汚れのない純粋で無垢なものを求める思春期の微妙な心理が、白い雲にあこがれを抱かせた。
「雲のような人間になりたい」というのが、その頃の僕の理想の人間像だった。
本との出会いもあった。堀辰雄の「美しい村」と「風立ちぬ」。その清らかな世界を求め、僕は阿蘇の高原をしばしば訪れた。草原の連なり。カッコーの声。紫がかった澄んだ青空にコラージュしたような山の端。そしてその草原で雲をあこがれるかのように、人知れず咲くゆうすげの黄色い花。
しかし、高校を卒業した僕はそんな故郷を後に上京しなければならなかった。
東京でも僕は空を見上げた。どんよりとスモッグに覆われた東京の空を。白い雲は哀しげに東京の空を流れていた。
「熊本に帰りたい」と東京に住む僕は常に思っていた。もし今すぐ熊本に帰れたらどんなにうれしいだろう。どんな状況でもいいから熊本に帰れないだろうか。
両親、祖母と姉妹とネコのいる我が家。帰ったら阿蘇に行きたい。馴染みの本屋を訪ねよう。汚いけど美味しい豚骨ラーメン屋。たくさんのランプのある行きつけの喫茶店のコーヒー。母校の在籍していたクラブの部室。
僕は故郷を夢想し、夢の中で故郷の街を歩きまわり、その舗道のタイルの模様まで浮かんだ時に現実に戻る。午前二時の故郷遠く離れた六畳一間で。自分で選んだ道だから帰りたくても帰れない。もし帰る状況があっても、真夜中に故郷には向かえない。午前二時の絶望。
「このままじゃあいけないな」と僕は思った。これじゃホームシックならぬホームタウンシックだと。故郷は自由であるはずの僕をあきらかに束縛していた。「いっそのこと、この国を飛び出してみよう」僕はそう決意した。自分のために故郷の想いを断ち切って遠い国で暮らしてみよう。
二十二歳の夏に、僕は一人、成田空港からフランスに向けて飛び立った。「もっと深い絶望があり、もしかしたら発狂してしまうかもしれない」そんな不安と同時に、一方で僕は束縛から解き放たれた喜びも感じていた。
僕は生まれた。本当の僕はこの瞬間に生まれたのだ。「故郷」という子宮の中から。
故郷は時々フランスまで追いかけてきた。しかし僕は発狂もしなかったし、もう絶望することもなかった。フランスは輝くような時を僕に与えてくれた。望郷の想いは絶えずあったけれど、絶望する前に、僕は自分を自分で取り戻す術を学んだ。
僕は今、妻と二人の子ども達と共に再び僕の故郷である熊本市内に暮らしている。回数は減ったが、時々は空を見上げ、ぼんやりと白い雲を眺める。
二年後に帰国した僕のホームタウンシックはすっかり治癒していた。白い雲の下、日本国中を故郷のように感じてしまうのだ。
ただ阿蘇の高原へのあこがれは続き「いつか阿蘇に住みたい」と夢見るようになった。あちこちで夢を語っていたら、阿蘇の土地を買わないかという話が来た。阿蘇に住まうことは、仕事の関係で当分無理だ。サラリーマンには贅沢なことだが、その土地を求め山小屋を建てた。
以来、家族旅行も車の買い替えもままならぬまが、阿蘇での週末はそんな犠牲を払ってもまだおつりがあると僕は思っている。
イノシシやキツネに出会ったり、タヌキの親子が庭を横切ったり、自分の敷地内の小川にホタルが舞い、庭の木にクワガタやカブトムシがいる生活。ヘビが小さなウサギをくわえている場面に出会い、野苺やムカゴ穫りも子ども達に体験させることができた。
将来子ども達がそんな阿蘇に故郷を感じてくれたらうれしいなと願っている。
外国でしばらく暮らすことで、日本中が故郷に思えた自分は、未来には自分と同じようにホームタウンシックになった若者が、宇宙で暮らした後で、地球全体が故郷になってしまう日が来るかなと思ったりしている。
(1997年 朝日私の新ふるさと宣言」エッセイ大賞応募作品)