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島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

住吉神社(口之津-早崎漁港)

2022-02-02 12:45:08 | 寺社・仏閣
22.2.2(水) 天気;晴れ 気温;1℃
 また、口之津町に行ってきました。(よく行くな〜)
 南島原オルレで、「八雲神社(22年1月5日掲載)」を紹介するために借りてきた書籍の中に、この「住吉神社」が掲載されていました。
 「そう言えば、早崎漁港に鳥居があったな〜(表紙写真)」と思い出しました。 南島原オルレを歩いている時は疲れが見え始め、スルーしました。

 祭神は住吉三神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神です。
 住吉三神は航海や漁業の守護神であることから、そのほとんどが港湾や河口の近くに祀られています。「筒」は星のことを指しており、その星は航海の進路を決定することから考えられた海神といわれています。
 神社が創建されたのは万治元年(1658年)と伝えれますが、島原の乱後に静岡県浜松から来た高力摂津守が、乱後の人心の安定と宗教政策、さらには神社仏閣の復興をはじめとして、無人化し荒廃しきったこの地域の復興を図るための一環として、この神社も創建されたといわれています。
 地域の人々は昔から「竜王様」とも呼んでいますが、それは明治三年(1870年)に現在の社号に改称されるまでは「八大龍王宮」と称していました。

 龍王は空中を自由自在にかけ巡り、雲を巻き雨を降らせる魔力を持っているということから、水神・龍神・海神と同一視され、その多くが海の近くに祀られています。
 現在の社殿は平成六年(1994年)に改築された新しいもので、前の社殿が建立されてからすでに百十年を経過し老朽化がひどかったため、氏子や特志者の奉賛によって改築されたが、早崎漁港や有明海に浮かぶ漁船などを見守るかのように、海の方を向けて建立されています。
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瀬高観音

2022-01-27 09:40:58 | 寺社・仏閣
22.1.27(木) 天気;曇り 気温;3℃
 う〜失敗した〜。 明け方まで寒くなかったので、着る物を一枚少なくしてきました。 ここにきて冷えてきた〜。 事務所の暖房全開だー!

 南島原オルレのコース途上にある「瀬高観音」です。
「瀬高観音は霊松山潮音院と称し、本尊は十一面観世音にして高さ三十四糎(センチメートル)の座像で、行基菩薩の作として有名である。
 島原藩主の寄進地に寛永十九年(1642年)八月、玉峰寺の開基 松厳良栄和尚によって造営された。
 代官 鈴木三郎九郎が島原の乱後キリシタンを根絶させる目的をもって諸所に寺院をおかせたが、この観音堂の建立もそのためである。
 昔から暴風雨に遭い、大海で暗夜方角を失った時は誠心をもって観音力を念ずれば、直ちに山を現わし火を見せ給うと云われ、別名「火見せの観音」ともいい、霊験あらたかである。 昭和五十一年一月 口之津町」
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南島原オルレを歩いてきました。(松尾神社)

2022-01-08 13:14:16 | 寺社・仏閣
 謂れについて書いた額縁が落ちていました。 今後なくなる可能性もあるため、記録の意味でもまんま丸写しします。
『松尾神社は約320年前の元禄十二年(西暦1699年)9月に創祀されました。島原・天草一揆(西暦1637年)の62年後です。ちなみに元禄十五年に起こった赤穂浪士の討ち入りは3年後です。境内に残っている石灯籠には、安政七年(1860年)奉上の字がわかります。
 祭神は、大山津見神、大錦田津見神です。山の神、武の神、海の神とも言われる神様だそうです。
 古言には、「大松の根本に一つの石祠あり猿の像を祀る何の因縁にや陰暦霜月朔日郷人角力(ついたちさとびとすもう)して楽しむ乃(すなわち)年中行事の一なり」とあります。一本松の相撲は、当時行われていた宮相撲の最後級のもので、冬の足音が近まる頃のこの地はたいへん賑わったと語る古老の話に昔がしのばれます。
 歴史ある松尾神社の一本松は、昭和の初め詩人野口雨情がこの地を訪れ、「野向一本松 根株はここに 枝は栄えて天草へ」と詩を作っており、いかに立派な大老松だったかわかります。
 しかし、終戦後に松食い虫の被害により一本松は枯れてしまい、区民によって後継の松を植えますが、またすぐに松食い虫のため枯れたそうです。その後、松の代わりに植えられたのが今の桜です。大事に育てたいものです。
 ちなみに松尾神社は、京都の松尾大社、東京府中や石川県、島根出雲市や全国に存在します。』
 う〜ん、春に来ればよかった。
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南島原オルレを歩いてきました。(八雲神社)

2022-01-05 14:20:28 | 寺社・仏閣
 昔栄えた商店街の先に「八雲神社」がありました。 子供の頃はこんな先まで来たことがなかったので知りませんでした。 10月23日に参加した「ジオ空教室」で初めて知りました。
 創建は貞観十八年(876年)で、須佐之男命と櫛名田比売が祀られています。権力者や宗教の栄枯盛衰、災害による移転などにより詳しい記録は紛失しているらしい。 が、現在は口之津町町名八坂町にあります。・・・八坂? どうやら祇園社(八坂神社)につながる神社のようです。

 大正十三年(1924年)に建立された大鳥居をくぐると、神池とそれにかかる眼鏡橋があります。

 本殿前にある二の鳥居は、「寛文十二年(1672年)建立。 肥前鳥居の古型で形式は島木鳥居で、島原半島においては最古級である」として平成七年(1995年)に口之津町の文化財に指定されています。

 本殿の隣に小さな鳥居がありました。 扁額には「天満宮」と書かれています。

 本殿の奥に進むとさらに上へ上がっていける階段が。

 木造の社殿があったのですが、こちらは使われなくなって久しいらしく、がらんどうになっていました。
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十六善神社

2019-02-23 14:24:37 | 寺社・仏閣
神額にも「十六善神社」って書いてある。
ああ、ここで間違いなかった〜。
一の鳥居と二の鳥居が市の有形文化財に指定されている「十六善神社」です。
「この神社はもとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神といわれていました。
 一の鳥居は安永五年(1776年)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んであります。二の鳥居右柱には『當村領主、三村□□□門』と刻まれています。諌早一揆の中心人物であった諌早家老 三村惣左衛門の寄進と思われます。」

隣にも鳥居が建っています。
扁額には「忠魂」と書かれています。
忠霊塔のようですね。

「延宝三年(1675年)に痘瘡(天然痘)が流行した時、神のお告げにより神社を現在の位置に遷して祀ったところ、痘瘡の流行が止んだといわれます。専務神官をおいたのは寛文十六年(1661年)といいますから、浮津宮時代からの神官ということになります。以来十二代に亘って高井良氏が奉仕されたが、現在は神官不在です。(※昭和40年頃の話で、現在は地元住民が維持管理しているそうです。)
 ともあれ、十六善神社は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もありました。諌早家においても毎年代参を遣わし、米十二俵が供進されたのであった。
 天保十四年、藩主鍋島家の若君 勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参籠するようお達しがあっている。
 神社には宝物の神劍一振りが蔵されていたが、昭和二十年占領軍(米軍)による武器押収のため持ち去られた。」
新しい方の多良見町の郷土誌にはもう少し色々と書いてあるのだが、量が多いし、今のところ重要度もそれ程高くないので割愛する。
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深江町神社迷宮その2(末宝神社)

2019-02-16 12:55:17 | 寺社・仏閣
引き寄せられるように運良く「田中神社」を見つける事ができた。
次に目指すのは、小林小学校を越えた先にある「末宝神社」だ。(“まっぽう”と読むのだろうか?)
郷土誌に読みは書いていない、おまけに一行の解説文だ。
「古江名末宝にある。大山咋命(おおやまくいのみこと)を祭る。」
何も分からないが、まあいいや。
ずんずん歩いていると、丁度小学生の帰宅時間と重なってしまった。
見慣れぬ大人に好奇の視線が注がれる。w(ああ〜恥ずぃ〜)

おや、アレじゃないか?(赤丸の中に社が見える。)
はやる気持ちを抑えつつ、ぐるりと迂回して社に近づく。(表紙写真)
地図とGPSから「末宝神社」に間違いないのだが・・・、

イノシシ避けの柵が設置されていて近くまで行けない。
よく観察すると社まで行く別のルート(青矢印)が続いているようだ。

どうやら川沿いに上流に向っている。
これは上流側から入って行けるのではないか?
これまたぐるりと迂回して川の上流に向う。

ええっと、あの道がこっちに繋がって・・・、

OUT〜!
結局柵に阻まれてしまった。
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深江町神社迷宮その1(田中神社)

2019-02-15 13:10:44 | 寺社・仏閣
今回、スタート地点に選んだのは「深江運動場」です。(南島原市深江町戊3987番地76)
深江町の市街地から外れた場所で、車を置いて行ける場所を他に知らなかったのですが、実際他に車を停められる場所はありませんでした。
そこから事前に調べた地図とGPSを頼りに進んで行きます。
最初に探すのは「田中神社」です。
郷土誌には「四面宮ともいう。」と書かれてあり、住所表記は「田中名板首」になっています。
運動場からはフカエソーイング(会社)やヨネマルオート(自動車整備工場)と看板が出ている、国道からは海側へ下った方向に板首地区があるようです。

目印となる平成新山との位置関係は上のようになります。
この道を下ってきたのですが、どうにも写真の左側、下って来る私にとっては右側の森が気になります。

「立派な森林だな。社叢と言ってもいいんじゃないか?」
と思いながら進んでいると、右に入って行ける道を見つけました。

時間的な余裕はなかったのですが、気になってちょっと寄り道することにしました。

すると、道の先に鳥居のような物が見えてきました。
(表紙写真)
ああ、間違いない。
神額に「四面宮」って書いてある。

「祭神は、豊日別命(トヨヒワケノミコト)、向日別命(ムカヒワケノミコト)、速日別命(ハヤヒワケノミコト)豊久士比泥別命(トヨクジヒネワケノミコト)。 祭典は九月二十二日、奉納相撲が行われていた。 弘治二年(1556年)九月二十二日の創建。 四面宮は温泉神社のことで、その末社である。」
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深江町神社迷宮プロローグ

2019-02-15 13:06:14 | 寺社・仏閣
「もう14時過ぎだぞ。」
昨日、深江町の神社を探しに行った私の最初の一言です。
出掛け始めにしては遅い時間だが、これにはワケがある。
勤務はお休みで、病院に先日の検査結果と今後の治療日程を聞きに行かなければならなかった。
しかし、予約の取れた時間はお昼の11時で、それまではのんびりと休日を楽しんでいられた。
予約の時間にはすでに病院内で受付も済ませていたのだが、案の定お呼びはかからない。
そんな待ち時間の間に他の患者の話が聞こえてきた。
「木曜は人の多かね〜、だけん9時とか10時に予約の入っとっても俺(おい)は11時にくっ(来)とさ〜。」
そんな人間がいるからこっちにとばっちりのくっとやろが!
おいがどんだけ待たされとっと思っとっとや!!
コホン、失礼。
結局なんやかやで全て終わったのが午後1時前。
それから島原に昼飯と買い出しに行かなければならなかったので、深江町のスタート地点に戻ってきたのが14時過ぎだったという事です。
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古江(名)神社

2019-02-13 13:08:22 | 寺社・仏閣
南島原市深江町にある「古江(名)神社」に行ってきました。
と言っても、知ってる人や分かる人は限られているでしょう。w
深江町の中心街からは外れた、ド・マイナーな神社でしょうから。
(そんな事を言っては地元の人に失礼か。)
私も古い「深江町郷土誌」を調べていなければ、一生訪れる事はなかったでしょう。
探すのも苦労しました。
なにせ昭和四十六年発行の郷土誌ですから、今と住所表記が違います。
古い表記だと「深江町古江名字出ノ川」となっています。
「古江」や「名」、「字」といった住所表記が現在行われておりません。
手掛かりとなったのは「出ノ川」、川の名前から調べて行きました。
ちなみに現在の住所表記は、「南島原市深江町甲1226」です。
プラス「古江名神社」で検索して頂くとネット上ではヒットします。
さて、郷土誌から神社の解説をしますと、
「豊受姫命(とようけひめのみこと)が祭神です。
俗に毘沙門天という。(確かに鳥居の神額には「毘沙門天」と書かれています。)
夜に相撲が行われていた。
眼病の神として町外からの参拝者も多い。(自分も一昨年、眼の手術をしたので参っておきました。)
正保元年(1644年)九月三日の創立である。」
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島の神(であろう)大神宮

2019-01-14 13:34:53 | 寺社・仏閣
話が前後して申し訳ない。
多良見町→深江町→熊本と来て、再び話は多良見町に戻る。
町内散策の折りに色々な場所を撮影して回っているのだが、それが何なのか分かるものが少なく、調べてみた結果コレだったなんてのがほとんどだ。
今回紹介する「島の神(であろう)大神宮」もその1つだ。
多良見町の図書館近くにうっそうとした森がある。
その森の中にこの大神宮が祀られていた。
神額には「大神宮」の文字しか刻まれていない。
一方、調査のために借りた「多良見町郷土誌」には大神宮の文字は出て来ない。
しかし、掲載された白黒の写真を見る限り、この「島の神」の事を言っているのだろうと思う。(括弧書きの「であろう」は確信がないため。)

「島の神(木床)
 元釜島が大村湾に面する5、6mの岸上に『島の神』の境内があり、石造り神殿に『とき明和元年』(1764年)とだけ刻まれている。ここは昔はこの島(地続きの丘)の南手に住む蔭山氏が一手で祭っていたのを今は全体の祭りとされたという。
 境内の石灯ろ竿石(?)には安永五年(1776年)六月吉祥日の年号があり、蔭山氏の隆盛時代を物語っているが、蔭山氏の先祖は昔は当地方では富豪家で上方詣り(伊勢大神宮参拝をいった)を宝暦年間に三度もしたと伝えている。」
この後ろにも解説文は続くが、島の神とは何ら関係がない。
解説文も何を説明したいのかよく分からない。
私の浅学故に分からないのであろうが、多分これ以上掘っても何も出て来ないと思う。
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