本日の眉山登山会は、雨天中止となりました。
楽しみにされていた方申し訳ございません、次の機会に宜しくお願いします。
さて、火曜日にずぶ濡れになってあんなに怖い思いをして、撮影してきた眉山の植物です。
参加されるハズだった方に是非とも見ていただきたかった。
イチヤクソウ科の「ギンリョウソウ」です。
山地の腐植土の多い所に生える腐生植物です。
薄暗い所に生え、全体に白く透き通ったような感じなので、ユウレイタケとも呼ばれます。
れっきとした植物で、決してキノコなどの菌類ではありません。
茎には葉が退化した鱗片が互生してつきます。
このうろこ状の葉に包まれた姿を竜に見立てて、この名前がつきました。
花期は5~8月で、茎の先に白い花を下向きに1つ咲かせます。
楽しみにされていた方申し訳ございません、次の機会に宜しくお願いします。
さて、火曜日にずぶ濡れになってあんなに怖い思いをして、撮影してきた眉山の植物です。
参加されるハズだった方に是非とも見ていただきたかった。
イチヤクソウ科の「ギンリョウソウ」です。
山地の腐植土の多い所に生える腐生植物です。
薄暗い所に生え、全体に白く透き通ったような感じなので、ユウレイタケとも呼ばれます。
れっきとした植物で、決してキノコなどの菌類ではありません。
茎には葉が退化した鱗片が互生してつきます。
このうろこ状の葉に包まれた姿を竜に見立てて、この名前がつきました。
花期は5~8月で、茎の先に白い花を下向きに1つ咲かせます。
そういえば、ちょっと前に人気お笑い番組の兄弟番組にあったな「爆笑!ホワイトカーペット」って。
こちらは正真正銘(?)「白い絨毯」です。
正体は“エゴノキの花”ですが。
園内のエゴノキが咲き始めたのですが、次から次へと新しい花が開くものだから、最初に咲いた花が次々と落花してきます。
それが降り積もって白い絨毯を作りました。
今週末に開催予定の眉山登山会の下見に、昨日登ってきました。
天気予報では「明け方までに雨は止む」と言っていたので、朝から少し降ってはいたものの登っているうちに止むだろうと下見を決行しました。
結局昼過ぎまで止むことなく、ずぶ濡れになって帰ってきました。
おまけに山頂付近は積もった落ち葉が濡れて、滑る滑る。
あんな怖えー眉山登山は初めてです。
どんなに慣れた場所でも、天候によってその表情は一変しますね。
こちらは正真正銘(?)「白い絨毯」です。
正体は“エゴノキの花”ですが。
園内のエゴノキが咲き始めたのですが、次から次へと新しい花が開くものだから、最初に咲いた花が次々と落花してきます。
それが降り積もって白い絨毯を作りました。
今週末に開催予定の眉山登山会の下見に、昨日登ってきました。
天気予報では「明け方までに雨は止む」と言っていたので、朝から少し降ってはいたものの登っているうちに止むだろうと下見を決行しました。
結局昼過ぎまで止むことなく、ずぶ濡れになって帰ってきました。
おまけに山頂付近は積もった落ち葉が濡れて、滑る滑る。
あんな怖えー眉山登山は初めてです。
どんなに慣れた場所でも、天候によってその表情は一変しますね。
「キリシタン史跡公園」という名前から大きめの公園を想像していましたが、まさか軽自動車1台くらいしか停めれない大きさとは・・・。
おまけにバスが入ってこれないほど道が小さい。
今後のイベントに活用できないかと来ては見たもののトイレもない。
まいったなあ~。
ここ「キリシタン史跡公園」は、有家町内にあった墓碑を一ヶ所にまとめて合祀した公園です。
そのため数多くのキリシタン墓碑を見ることができます。
写真の他にも反対側(撮影者の背中側)にも大きめの墓碑が並んでいます。
長崎県指定の史跡「類子(ルイス)墓碑」や「有家町力野のキリシタン墓碑(2基)」など貴重な文化財を見学できます。
が、説明がないと何が貴重なのか分かりませんね。
まだまだ無学、勉強が足りないなあ~。
おまけにバスが入ってこれないほど道が小さい。
今後のイベントに活用できないかと来ては見たもののトイレもない。
まいったなあ~。
ここ「キリシタン史跡公園」は、有家町内にあった墓碑を一ヶ所にまとめて合祀した公園です。
そのため数多くのキリシタン墓碑を見ることができます。
写真の他にも反対側(撮影者の背中側)にも大きめの墓碑が並んでいます。
長崎県指定の史跡「類子(ルイス)墓碑」や「有家町力野のキリシタン墓碑(2基)」など貴重な文化財を見学できます。
が、説明がないと何が貴重なのか分かりませんね。
まだまだ無学、勉強が足りないなあ~。
予告どおり、有家町の温泉神社境内にある文化財をご紹介します。
しかし、ご存知のように私はあまり歴史や宗教に詳しくありません。
そこで今回はさらりとご紹介だけに留め、詳しいことが分かり次第再度アップすることにします。
と、その前に境内には立派な神木(?)が2本立っていました。
結構な幹周りのある巨木でした。
樹種はなんでしょうね?今度植物の先生に聞いておきます。w
「金剛院跡」
昔むかし、日本は今のように神社とお寺が分かれていませんでした。(神仏習合)
ここ有家の温泉神社も金剛院というお寺と一緒になっていました。
その跡を示しています。(解説板によるともう少し西寄りかも?)
「四面宮遺跡苑」
島原半島がキリスト教全盛の時代、仏教徒に弾圧が加えられ、多くの寺社が破壊されました。
破壊された仏教遺跡が境内から発掘されたので、寄せ集めて復元し奉祀したのが、この「四面宮遺跡苑」です。
しかし、ご存知のように私はあまり歴史や宗教に詳しくありません。
そこで今回はさらりとご紹介だけに留め、詳しいことが分かり次第再度アップすることにします。
と、その前に境内には立派な神木(?)が2本立っていました。
結構な幹周りのある巨木でした。
樹種はなんでしょうね?今度植物の先生に聞いておきます。w
「金剛院跡」
昔むかし、日本は今のように神社とお寺が分かれていませんでした。(神仏習合)
ここ有家の温泉神社も金剛院というお寺と一緒になっていました。
その跡を示しています。(解説板によるともう少し西寄りかも?)
「四面宮遺跡苑」
島原半島がキリスト教全盛の時代、仏教徒に弾圧が加えられ、多くの寺社が破壊されました。
破壊された仏教遺跡が境内から発掘されたので、寄せ集めて復元し奉祀したのが、この「四面宮遺跡苑」です。
目的にしていた場所の1つ、有家町の「温泉神社(旧称 四面宮)」です。
「当社の創建は不詳であるが、通説として伝えられていることは、『歴代鎮西要略』に記載されている『大宝元年(701)、温泉神(在雲仙)の分身末社として、山田神、有江神、千々石神、伊佐早神』の四神が麓神として鎮座したという記録を典拠としている。」
歴史や宗教にあまり詳しくはないのですが、雲仙の温泉神社を中心に四方を守るように分社が置かれたという話しは聞いたことがあります。
島原半島の宗教的な歴史は、紆余曲折を経ている(西の高野山と呼ばれていた仏教の隆盛期、キリスト教の布教中心地、廃仏毀釈・神仏分離など)ので、この温泉神社も焼失し一時断絶したらしい。
神社の境内にも色々な文化財がありますが、その紹介は明日以降で。
私が一番良く感じたのは、こちらの神社へ向かう参道です。
真っすぐ伸びた参道の両脇に昔ながらの商店が建つ、この風景は日本の良さを表していますね。
「当社の創建は不詳であるが、通説として伝えられていることは、『歴代鎮西要略』に記載されている『大宝元年(701)、温泉神(在雲仙)の分身末社として、山田神、有江神、千々石神、伊佐早神』の四神が麓神として鎮座したという記録を典拠としている。」
歴史や宗教にあまり詳しくはないのですが、雲仙の温泉神社を中心に四方を守るように分社が置かれたという話しは聞いたことがあります。
島原半島の宗教的な歴史は、紆余曲折を経ている(西の高野山と呼ばれていた仏教の隆盛期、キリスト教の布教中心地、廃仏毀釈・神仏分離など)ので、この温泉神社も焼失し一時断絶したらしい。
神社の境内にも色々な文化財がありますが、その紹介は明日以降で。
私が一番良く感じたのは、こちらの神社へ向かう参道です。
真っすぐ伸びた参道の両脇に昔ながらの商店が建つ、この風景は日本の良さを表していますね。
有家町内を歩いていると、またもや史跡を発見しました。
自分が予定していないものに出会えると楽しいですね。
史跡名は「久保キリシタン墓碑」です。
所在地は「有家町久保名隅田233-1番地」になります。
この解説板ははっきりと字が読み取れましたが、今後消えていかないとも限りませんので、メモ代わりに記しておきましょう。
「島原南部一帯のキリスト教信仰は、天文六年(1578)領主・有馬晴信の入信以降、その在世時代、キリシタン王国とまでいわれる程、住民の信仰は頂点に達していた。しかしながら、天正十五年(1587)秀吉のバテレン追放令および慶長十八年(1613)徳川幕府の禁教令発布により、一層の厳しいキリシタン弾圧・迫害の時代を迎えた。
島原藩主・松平豊後守重政は禁令に従い徹底的大弾圧にのりだし、キリシタンに対して強く仏教への改宗を迫り、それに従わない者には水責め、火責め、或いは地獄への投入など残酷を極めるものがあった。それでも尚かつ従わない者に対しては直ちに処刑をもってのぞんだ。
厳しい世情の中でキリシタン達は幕府の厳しい迫害を恐れ、墓碑は人目につかないように土中に埋め、密かに信仰を続けていた。
この墓碑は隅田村庄屋・小嶺内蔵右衛門乃丞屋敷跡の土中に上部の一部が露出しているのを発見、昭和十年(1935)十月二十四日郷土史家・森 豊造氏によって発掘され、キリシタン墓碑であることがわかった。
墓碑の設置年代は不詳であるが、土中に埋もれていることからキリシタン禁令厳しい頃の墓碑ではないかと推定されている。
この墓碑は、分類上「有穴かまぼこ型墓碑」と称されていて、上部に小さい穴があるのが特徴である。
穴は拝礼のときに十字架等をたてるための穴で(イエズス会に記録あり)、この種の有穴キリシタン墓碑は長崎県下で四基だけ確認されているが、全国的に数少ない墓碑で貴重な文化財である。
無記銘の墓碑であるが、近隣の住民によれば、「マリアさま」の名で呼ばれ丁重に奉祀されている。
平成十年三月 有家町教育委員会」
自分が予定していないものに出会えると楽しいですね。
史跡名は「久保キリシタン墓碑」です。
所在地は「有家町久保名隅田233-1番地」になります。
この解説板ははっきりと字が読み取れましたが、今後消えていかないとも限りませんので、メモ代わりに記しておきましょう。
「島原南部一帯のキリスト教信仰は、天文六年(1578)領主・有馬晴信の入信以降、その在世時代、キリシタン王国とまでいわれる程、住民の信仰は頂点に達していた。しかしながら、天正十五年(1587)秀吉のバテレン追放令および慶長十八年(1613)徳川幕府の禁教令発布により、一層の厳しいキリシタン弾圧・迫害の時代を迎えた。
島原藩主・松平豊後守重政は禁令に従い徹底的大弾圧にのりだし、キリシタンに対して強く仏教への改宗を迫り、それに従わない者には水責め、火責め、或いは地獄への投入など残酷を極めるものがあった。それでも尚かつ従わない者に対しては直ちに処刑をもってのぞんだ。
厳しい世情の中でキリシタン達は幕府の厳しい迫害を恐れ、墓碑は人目につかないように土中に埋め、密かに信仰を続けていた。
この墓碑は隅田村庄屋・小嶺内蔵右衛門乃丞屋敷跡の土中に上部の一部が露出しているのを発見、昭和十年(1935)十月二十四日郷土史家・森 豊造氏によって発掘され、キリシタン墓碑であることがわかった。
墓碑の設置年代は不詳であるが、土中に埋もれていることからキリシタン禁令厳しい頃の墓碑ではないかと推定されている。
この墓碑は、分類上「有穴かまぼこ型墓碑」と称されていて、上部に小さい穴があるのが特徴である。
穴は拝礼のときに十字架等をたてるための穴で(イエズス会に記録あり)、この種の有穴キリシタン墓碑は長崎県下で四基だけ確認されているが、全国的に数少ない墓碑で貴重な文化財である。
無記銘の墓碑であるが、近隣の住民によれば、「マリアさま」の名で呼ばれ丁重に奉祀されている。
平成十年三月 有家町教育委員会」