夏休み期間中、最後のご予約を受けていたイベントの報告です。
「たるき学習教室~震源立体模型工作~」の2回目を行いました。
震源を書き写し、日本列島の下に深さに分けて積み重ねていくのですが、日本周辺には小さなものも含めると、かなりの数の地震が起きているのですね。
地震の発生メカニズムは色々とありますが、今回の企画では3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」の原因でもあるプレート型地震の解説を行いました。
少し難しい話でしたが、工作中はワイワイ騒いでいた子供たちもシンと静まり返り、真剣に話しを聞いてくれました。
災害から身を守るのは正しい知識と情報です。
解説した話が、将来子供たちの何かの役に立ってくれれば、と思います。
「たるき学習教室~震源立体模型工作~」の2回目を行いました。
震源を書き写し、日本列島の下に深さに分けて積み重ねていくのですが、日本周辺には小さなものも含めると、かなりの数の地震が起きているのですね。
地震の発生メカニズムは色々とありますが、今回の企画では3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」の原因でもあるプレート型地震の解説を行いました。
少し難しい話でしたが、工作中はワイワイ騒いでいた子供たちもシンと静まり返り、真剣に話しを聞いてくれました。
災害から身を守るのは正しい知識と情報です。
解説した話が、将来子供たちの何かの役に立ってくれれば、と思います。
先程、夏休み期間中にご予約いただいていた全てのイベントが終了しました。
まだ明日、明後日の2日間夏休みは残っていますが、とりあえずは一段落つきました。
さて、夏休み最後の日曜日となった昨日、夏休みジオツアー「化石を見に行こう!~島原半島にステゴドン象がいた時代~」を実施しました。
誤解のないように先に言いますが、島原半島から恐竜の化石が出ることはありません。
恐竜が生きていた時代は、約2億2800万年前から約6550万年前までです。
約430万年前から始まる島原半島の歴史とは桁が1つ違います。
では、何を見に行ったのか?
島原半島の西、加津佐町津波見(つばみ)の海岸近くで、昭和40年にゾウやシカなどの動物の化石が発見されました。
化石が発見された地層は、約170万年前の“口之津層群加津佐層”と呼ばれます。
今現在、この場所から発掘されたステゴドン象の左牙の化石が、加津佐公民館に展示されています。
その発掘された海岸と公民館の展示を見学しました。
写真は場所を変えて、口之津町の早崎海岸にて。
ここは430万年前島原半島が生まれ始めた場所であるとともに、護岸工事で持ってきた石の中に含まれた貝の化石を見学しました。
まだ明日、明後日の2日間夏休みは残っていますが、とりあえずは一段落つきました。
さて、夏休み最後の日曜日となった昨日、夏休みジオツアー「化石を見に行こう!~島原半島にステゴドン象がいた時代~」を実施しました。
誤解のないように先に言いますが、島原半島から恐竜の化石が出ることはありません。
恐竜が生きていた時代は、約2億2800万年前から約6550万年前までです。
約430万年前から始まる島原半島の歴史とは桁が1つ違います。
では、何を見に行ったのか?
島原半島の西、加津佐町津波見(つばみ)の海岸近くで、昭和40年にゾウやシカなどの動物の化石が発見されました。
化石が発見された地層は、約170万年前の“口之津層群加津佐層”と呼ばれます。
今現在、この場所から発掘されたステゴドン象の左牙の化石が、加津佐公民館に展示されています。
その発掘された海岸と公民館の展示を見学しました。
写真は場所を変えて、口之津町の早崎海岸にて。
ここは430万年前島原半島が生まれ始めた場所であるとともに、護岸工事で持ってきた石の中に含まれた貝の化石を見学しました。
昨日の午前と午後の2回、「自然観察会~ARに聞いてみよう!~」を実施しました。
参加は地元の学童さん3組、合計48名の子供たちです。
熱中症や網の振り方の注意をし、センターの園内で昆虫採集しました。
おお、何を見つけたかな?
普段から昆虫に慣れていない子が多く、一部を除いてはギャーギャーと大騒ぎ。
「とったー、とったー」と叫ぶのですが、「じゃあ、カゴに入れて。」と返すと入れられない。
島原半島の子供たちはもっと自然に触れていると思っていたんだけどなー。
午後からはセンター入口の草っぱらに入って探しました。
子供たちの集中力は一転突破型ですね。
ある程度の種類の昆虫を集めたところで研修室に戻り、ARの昆虫解説を聞きました。
暴れ回って体力と集中力を使い果たし、ウトウトしてしまう子も。
観察会終了後、飼育できない子には捕まえた昆虫を放してもらいました。
参加は地元の学童さん3組、合計48名の子供たちです。
熱中症や網の振り方の注意をし、センターの園内で昆虫採集しました。
おお、何を見つけたかな?
普段から昆虫に慣れていない子が多く、一部を除いてはギャーギャーと大騒ぎ。
「とったー、とったー」と叫ぶのですが、「じゃあ、カゴに入れて。」と返すと入れられない。
島原半島の子供たちはもっと自然に触れていると思っていたんだけどなー。
午後からはセンター入口の草っぱらに入って探しました。
子供たちの集中力は一転突破型ですね。
ある程度の種類の昆虫を集めたところで研修室に戻り、ARの昆虫解説を聞きました。
暴れ回って体力と集中力を使い果たし、ウトウトしてしまう子も。
観察会終了後、飼育できない子には捕まえた昆虫を放してもらいました。
昨日、この夏最後の「キッチン火山学~チョコレートプリンの成層火山~」を行いました。
雲仙で行われる大きなイベントとブッキングしてしまい、親子1組とリピーターさんの3名での開催となりました。
人数的にも丁度良く、実験も大とは言わないまでも成功しました。
白と黒のチョコレートを使って、溶岩が積み重なっている様子を観察できました。
何回かの実験で分かったことですが、ホワイトチョコレートは溶けやすく、固まりやすい。
なので、サラサラな溶岩流ができやすく、完成したお山も楯状火山チックです。
逆にブラックチョコレートは丁度良い固さに溶けるのですが、団子状の溶岩ドームが出来やすく、なかなか固まりません。
今後、実験してみようと思う人は参考にして下さい。
雲仙で行われる大きなイベントとブッキングしてしまい、親子1組とリピーターさんの3名での開催となりました。
人数的にも丁度良く、実験も大とは言わないまでも成功しました。
白と黒のチョコレートを使って、溶岩が積み重なっている様子を観察できました。
何回かの実験で分かったことですが、ホワイトチョコレートは溶けやすく、固まりやすい。
なので、サラサラな溶岩流ができやすく、完成したお山も楯状火山チックです。
逆にブラックチョコレートは丁度良い固さに溶けるのですが、団子状の溶岩ドームが出来やすく、なかなか固まりません。
今後、実験してみようと思う人は参考にして下さい。
22日(月)に島原半島世界ジオパーク 世界認定記念ジオツアー「絹笠山登山会~雲仙温泉街と橘湾の地形~」を実施しました。
8月22日は、2年前に島原半島ジオパークが世界認定を受けた日です。
いや~しかし本当に残念。
あいにくの天気で、山頂からの景色はまったく見えませんでした。
寺井先生の、景色から見えてくる島原半島の地形解説を聞きたかったんだけどなあ~。
まあ、本降りの雨に打たれることなく登頂できただけでも御の字でしょう。
山頂でお弁当を食べた後は、原生沼、旧八幡地獄と地獄の変遷を経て帰路につきました。
地獄の地熱に触れ、改めてその温かさを実感しました。
んん~何か良いイベントを思いつきそう。
8月22日は、2年前に島原半島ジオパークが世界認定を受けた日です。
いや~しかし本当に残念。
あいにくの天気で、山頂からの景色はまったく見えませんでした。
寺井先生の、景色から見えてくる島原半島の地形解説を聞きたかったんだけどなあ~。
まあ、本降りの雨に打たれることなく登頂できただけでも御の字でしょう。
山頂でお弁当を食べた後は、原生沼、旧八幡地獄と地獄の変遷を経て帰路につきました。
地獄の地熱に触れ、改めてその温かさを実感しました。
んん~何か良いイベントを思いつきそう。
う~む、歴史に詳しい方に尋ねないといけないな。
岩戸山の入口の案内には、「観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。このいわれ古い観音堂は、キリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671年)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。」(平成6年9月 加津佐町)と書かれています。
しかし、加津佐の公民館で入手した資料には、「寛文11年(1671年)領主松平忠房の時、観音堂は建立された。後、宝暦4年(1754年)領主戸田忠寛の時に改築せられ、更に弘化元年(1844年)松平忠誠の時、第三回の改築が見られる。観音堂の内部は、右正面の厨子に十一面様、年に一回、4月18日に御開帳になる。左正面の仏像は如意輪観世音と聞く。」(加津佐ふるさと史跡めぐり 平成14年3月発行)とあります。
寛文11年は共通していますが、復興なのか、建立なのか?
キリシタン騒動の時に、岩戸山にある穴観音に仏教徒、あるいはキリシタンが逃げ込んだという話を聞くので、歴史の古い前者のような気もしますが・・・。
歴史家ではない私には窺い知れない、何か裏の側面があるのかも知れません。(あるいは意見が分かれているのか?)
どちらにしろ観音堂は、平成13年10月4日夕刻に突然出火・全焼し、今現在はその跡を遺すのみとなっています。
岩戸山の入口の案内には、「観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。このいわれ古い観音堂は、キリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671年)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。」(平成6年9月 加津佐町)と書かれています。
しかし、加津佐の公民館で入手した資料には、「寛文11年(1671年)領主松平忠房の時、観音堂は建立された。後、宝暦4年(1754年)領主戸田忠寛の時に改築せられ、更に弘化元年(1844年)松平忠誠の時、第三回の改築が見られる。観音堂の内部は、右正面の厨子に十一面様、年に一回、4月18日に御開帳になる。左正面の仏像は如意輪観世音と聞く。」(加津佐ふるさと史跡めぐり 平成14年3月発行)とあります。
寛文11年は共通していますが、復興なのか、建立なのか?
キリシタン騒動の時に、岩戸山にある穴観音に仏教徒、あるいはキリシタンが逃げ込んだという話を聞くので、歴史の古い前者のような気もしますが・・・。
歴史家ではない私には窺い知れない、何か裏の側面があるのかも知れません。(あるいは意見が分かれているのか?)
どちらにしろ観音堂は、平成13年10月4日夕刻に突然出火・全焼し、今現在はその跡を遺すのみとなっています。
長い階段と山門を抜けると「巌吼寺(がんくうじ)」があります。
巌吼寺は山号を補陀山と言い、加賀大乗寺の直末直系の末寺で、曹洞宗明峰派に属し、本尊は釈迦牟尼仏です。
「巌吼」の文字は慶安4年(1615年)頃、長崎・崇福寺(そうふくじ)の第三代住職で明僧・道者超元(どうしゃ・ちょうげん)が岩戸山を「巌吼」と形容したことに由来します。
寛永20年(1643年)、肥後益城郡出身の修行僧・雲山愚白(うんざん・ぐはく)25歳の時、島原の乱後に廃絶していた円通寺の霊地を復興する意味で、太智禅師養老の地である岩戸山に巌吼庵を建てたことで中興しました。
昭和17年(1942年)に庵号を改め巌吼寺となりました。
うわ、この辺の歴史だとか宗派だとかはまったく分からん。
お寺や僧の名前も読めないからクラクラする。
巌吼寺は山号を補陀山と言い、加賀大乗寺の直末直系の末寺で、曹洞宗明峰派に属し、本尊は釈迦牟尼仏です。
「巌吼」の文字は慶安4年(1615年)頃、長崎・崇福寺(そうふくじ)の第三代住職で明僧・道者超元(どうしゃ・ちょうげん)が岩戸山を「巌吼」と形容したことに由来します。
寛永20年(1643年)、肥後益城郡出身の修行僧・雲山愚白(うんざん・ぐはく)25歳の時、島原の乱後に廃絶していた円通寺の霊地を復興する意味で、太智禅師養老の地である岩戸山に巌吼庵を建てたことで中興しました。
昭和17年(1942年)に庵号を改め巌吼寺となりました。
うわ、この辺の歴史だとか宗派だとかはまったく分からん。
お寺や僧の名前も読めないからクラクラする。