今の時期に天草に行ったとなれば、目的の1つはコレでしょう。
暖地の海岸の岩場などに生える常緑低木、ハマジンチョウ科の「ハマジンチョウ」です。
日本では九州西部以南にのみ分布する珍しい植物です(例外的に三重県志摩半島でも見ることができます)。
高さ1~2mほどになり、1~3月に薄い紫色の花を咲かせます。
苓北町富岡のハマジンチョウは、熊本県の天然記念物に指定されており、またごく近い将来における野生での絶滅の可能性が極めて高いものとして“絶滅危惧種”にも指定されています。
海岸に生え、葉がジンチョウゲに似ているのでこの名前がつきました。
果実は直径1cmほどあり、コルク質で軽く、海流にのって運ばれます。
暖地の海岸の岩場などに生える常緑低木、ハマジンチョウ科の「ハマジンチョウ」です。
日本では九州西部以南にのみ分布する珍しい植物です(例外的に三重県志摩半島でも見ることができます)。
高さ1~2mほどになり、1~3月に薄い紫色の花を咲かせます。
苓北町富岡のハマジンチョウは、熊本県の天然記念物に指定されており、またごく近い将来における野生での絶滅の可能性が極めて高いものとして“絶滅危惧種”にも指定されています。
海岸に生え、葉がジンチョウゲに似ているのでこの名前がつきました。
果実は直径1cmほどあり、コルク質で軽く、海流にのって運ばれます。
空?
いえいえ、撮影ミスでもありません。
昨日、所用で熊本は天草へ渡っていました。
お昼くらいの時間だったと思います。
頭上から「コーアッ、コーアッ、コーアッ」とかなり大きな声が聞こえてきました。
始めは気にしていなかったのですが、どこから鳴いているのだろうと空を見上げました。
どこにも鳥らしき姿は見えません。
「おかしいな?」と思いつつ、空の高い所まで視野を広げてみると、
「おお!V字飛行や!!」
ツルじゃねぇ?ツルの北帰行(ほっきこう)じゃねぇ!?
用事そっちのけで一人興奮していました。
いえいえ、撮影ミスでもありません。
昨日、所用で熊本は天草へ渡っていました。
お昼くらいの時間だったと思います。
頭上から「コーアッ、コーアッ、コーアッ」とかなり大きな声が聞こえてきました。
始めは気にしていなかったのですが、どこから鳴いているのだろうと空を見上げました。
どこにも鳥らしき姿は見えません。
「おかしいな?」と思いつつ、空の高い所まで視野を広げてみると、
「おお!V字飛行や!!」
ツルじゃねぇ?ツルの北帰行(ほっきこう)じゃねぇ!?
用事そっちのけで一人興奮していました。
えー、ちょっと島原を離れまして(島原半島博物日誌なのに)、実家のある時津に帰っていた時の写真です。
こちらは長崎県指定の史跡「長崎甚左衛門(ながさき じんざえもん)の墓」です。
今回、島原の歴史を勉強中にこの長崎甚左衛門の名前が出てきました。
地元の時津にはこの長崎甚左衛門の墓があることを思い出し、久しぶり(それこそ二十数年ぶり)に行ってみました。
基本的に場所や道順は変わっていませんでしたが、昔はもっとうっそうとした所だったような気がします。
さて、この「長崎甚左衛門の墓」には“長崎港開港の祖”というキャッチフレーズがついています。
なので、小学生の私は唯単に「長崎港を(土木工事で)開いた人だ」との認識しか持っていませんでした。
ですが先に記したように、島原の歴史を勉強中にその名前が出てきたのです。
疑問を持って調べてみると、キリシタンに関わる人だったことが分かりました。
以下、時津町教育委員会設置の解説板より
「長崎氏は、代々長崎の領主でした。
妻の父であるキリシタン大名の大村純忠と謀り(甚左衛門自身も洗礼を受け、ベルナルドという洗礼名を持つ)、平戸・大村・島原の商人を招いて今の長崎県庁付近に町を開き、元亀二年(1571年)南蛮人と交易するための港(長崎港)を作りました。
禁教により、天正十五年(1587年)長崎を失い、時津に七百石を与えられましたがそれを受けず、久留米・横瀬浦(西海市)を転々として時津に移り住みました。
元和七年(1621年)12月、七十年余りの生涯をこの地で閉じました。」
自分が幼少を過ごした頃の土地と島原の地を結ぶ意外な接点があり、驚きました。
こちらは長崎県指定の史跡「長崎甚左衛門(ながさき じんざえもん)の墓」です。
今回、島原の歴史を勉強中にこの長崎甚左衛門の名前が出てきました。
地元の時津にはこの長崎甚左衛門の墓があることを思い出し、久しぶり(それこそ二十数年ぶり)に行ってみました。
基本的に場所や道順は変わっていませんでしたが、昔はもっとうっそうとした所だったような気がします。
さて、この「長崎甚左衛門の墓」には“長崎港開港の祖”というキャッチフレーズがついています。
なので、小学生の私は唯単に「長崎港を(土木工事で)開いた人だ」との認識しか持っていませんでした。
ですが先に記したように、島原の歴史を勉強中にその名前が出てきたのです。
疑問を持って調べてみると、キリシタンに関わる人だったことが分かりました。
以下、時津町教育委員会設置の解説板より
「長崎氏は、代々長崎の領主でした。
妻の父であるキリシタン大名の大村純忠と謀り(甚左衛門自身も洗礼を受け、ベルナルドという洗礼名を持つ)、平戸・大村・島原の商人を招いて今の長崎県庁付近に町を開き、元亀二年(1571年)南蛮人と交易するための港(長崎港)を作りました。
禁教により、天正十五年(1587年)長崎を失い、時津に七百石を与えられましたがそれを受けず、久留米・横瀬浦(西海市)を転々として時津に移り住みました。
元和七年(1621年)12月、七十年余りの生涯をこの地で閉じました。」
自分が幼少を過ごした頃の土地と島原の地を結ぶ意外な接点があり、驚きました。
南島原市西有家町の「みそ五郎公園」に行ってきました。
「みそ五郎」は島原に残る民話に出てくる巨人です。
「みそ五郎」についてはそのうち紹介致します(最近コレばっかりだな)。
今回は公園の紹介なのですが、公園だから特に記すこともないな~。
初めて行ったのですが、思っていたより広かったです。
山の斜面、というか谷地形に作られた公園で、傾斜がきつかったです。
中には大型の遊具もあり、お子さん連れが遊びに来ていましたが、夕暮れ時間近で寒くなってきていたので帰り支度をしていました。(時間帯が悪過ぎた~w)
「みそ五郎どん、発進!」
何だか変形して、飛び立ちそうだな。w
公園の一番上まで登ったのですが、残念ながらこの日は視界が悪く景色は楽しめませんでした。
天気がよければ、有家の市街地や湯島が見えたことと思います。
代わりに公園入口のグラウンドです。
野球の試合なども行われるようです。
寒空の下、ランニングをしている人が何人かいました。
「みそ五郎」は島原に残る民話に出てくる巨人です。
「みそ五郎」についてはそのうち紹介致します(最近コレばっかりだな)。
今回は公園の紹介なのですが、公園だから特に記すこともないな~。
初めて行ったのですが、思っていたより広かったです。
山の斜面、というか谷地形に作られた公園で、傾斜がきつかったです。
中には大型の遊具もあり、お子さん連れが遊びに来ていましたが、夕暮れ時間近で寒くなってきていたので帰り支度をしていました。(時間帯が悪過ぎた~w)
「みそ五郎どん、発進!」
何だか変形して、飛び立ちそうだな。w
公園の一番上まで登ったのですが、残念ながらこの日は視界が悪く景色は楽しめませんでした。
天気がよければ、有家の市街地や湯島が見えたことと思います。
代わりに公園入口のグラウンドです。
野球の試合なども行われるようです。
寒空の下、ランニングをしている人が何人かいました。
南島原市の史跡「山田右衛門作(えもさく)住居跡」です。
場所は説明し難いので割愛しますが、口之津町です。(島鉄の旧線路脇にあります。)
島原の乱に詳しい方はご存知だと思いますが、島原の乱唯一の生き残りがこの「山田右衛門作」さんです。
そういった糸口から調べてみるとこの人は大変面白いと言っては失礼ですが、紆余曲折を経た人生を送った方でした。
追々人物のカテゴリーを作って、詳しく解説したいと思いますが、今回は史跡としてご紹介します。
もとはポルトガル人に絵を習った南蛮絵師で、島原の乱が勃発するまではこの口之津に居を構え、絵を描いていました。
奥の立て看板の下に石碑がありますが、これは右衛門作の供養塔として遺されたものです。
場所は説明し難いので割愛しますが、口之津町です。(島鉄の旧線路脇にあります。)
島原の乱に詳しい方はご存知だと思いますが、島原の乱唯一の生き残りがこの「山田右衛門作」さんです。
そういった糸口から調べてみるとこの人は大変面白いと言っては失礼ですが、紆余曲折を経た人生を送った方でした。
追々人物のカテゴリーを作って、詳しく解説したいと思いますが、今回は史跡としてご紹介します。
もとはポルトガル人に絵を習った南蛮絵師で、島原の乱が勃発するまではこの口之津に居を構え、絵を描いていました。
奥の立て看板の下に石碑がありますが、これは右衛門作の供養塔として遺されたものです。