この写真は4歳頃の写真である。元気な明るい伯母と近所のお姉さんに連れられ近くのお祭りに行く途中、「街頭写真」家から撮ってもらったそうである。いたずら盛りの私の頭には生傷が絶えず「できもの」があっちこっちにでき、今でもその痕跡がしっかりと残っている。何しろ「メンタム」や「オロナイン軟膏」などあるわけではなく、ドクダミを焼いたのをくっ付けたり、膏薬を張ったりで、あとは自然治癒を待つしかなかった。 当時は「越中富山のはんごんたん」と記憶しているが、各家庭に常備の薬箱があり薬のおじさんが不足分を充足し商売していた。子どもには紙風船などくれていた。実家の奥の部屋には当時の常備薬の箱が未だに眠っている。今と違って食べ物も着るものもみすぼらしかったが人と人の心の繋がりや温かさは今とは比べ物にならない。 この1枚の写真でふと蘇った記憶である。
この古びた写真は父の字で昭和23年1月と記入されていた。私が小児結核にかかり、戦後の医師不足、薬の不足、不衛生等でいつ死んでもおかしくないと言われた大病を不思議と乗り越え、骸骨に皮をかぶせた状態からどうにか人に見せられるようになった時期のようだ。父は満州に従軍中であり、母は萩市から父不在の福永家に「写真結婚」(父の写真が新夫側に置いての結婚式)で嫁いだそうだ。そんなことや大病(を乗り越えたこと)など覚えている筈もないが、「ものごころ」がつく頃からともかく近所の大自然を遊びまくり、その後は一度も優等賞はもらったことはないが、「はしか」や軽い風邪は引いたものの、小学校・中学校・高校を通じ1日も休まず皆勤賞は毎年貰っていた。当時の家族は祖父母、両親、叔父、叔母、兄妹等9~10人が同居していた。近所の家族もほぼ同じようだったのでこどもの歓声が絶えなかったし、近所の付き合いも親密であった。たまに帰省すると殆どのお宅が独居家庭(婆さん)が殆どであり限界集落状態であり、郷里を離れたことに罪悪感さえ感じてしまう。 子供の当時の大家族、近所同士の親しいお付き合い・・そんな時代にこれから戻ることなどはないだろう。 今後もこのブログに私の人生過程を連載してみたい思っている。 (写真は父と私の貴重な1枚です。)