■イタリアン・シューズ/ヘニング・マンケル 2019.6.24
「訳者あとがき」
『イタリアン・シューズ』 は、タイトルは柔らかくても内容はハードボイルドかもしれないという気がしていたのだが、これはまったく予想外の作品だった。
ハードボイルドからは程遠い、一人の男の良心の告白の本である。
ミステリではなかったが、ぼくには大変面白く、久々に夢中になれた小説でした。
私は寒いときに、より強く孤独を感じる。
私は二方から攻められ、常に闘っている。寒さと、そして孤独と。
私が毎朝氷を打ち砕いて穴を開けるのはそのためだ。もし遠くから双眼鏡で私の行動をのぞき見る人間がいたら、頭がおかしくなって死ぬ準備をしていると思うかもしれない。素っ裸で、凍てつく寒さの中、手に斧を持って氷に穴を開けようとしているなど、正気の沙汰でない、と。
主人公のヴェリーンは、頭の天辺が少し薄くなりつつある、老齢期に入った元外科医。
この人物、嫌な癖があり余り愛すべき性格ではない。
毎朝習慣にしていることも、少々おかしい。
私は計画どおりの人生を歩むはずだった。
「いえ、誰にでも行くところはあるものよ。でもわたしはあなたにここで会いたかった。あなたと話したいことがあるの」
「そうらしいね」
「なにそれ。そうらしいって。あなたはなにもわかっちゃいない。」
人は森の中や町でよく道に迷うが、自分の中でも道に迷うことはよくあるものだ
ヴェリーンは、嘘つきだ。 その嘘とは。
嘘はいつも重いもの。最初は重さを感じないかもしれないが次第に重くのしかかってくる。
たいていの話には小さな、ほとんど気づかないような嘘が混じっていることに気がついた。人は昔からそうしていたのだろうか、と思ったものだ。自分の望む方向に話を進めるために、人はいつもほとんど気づかないような嘘を交えてきたのだろうか?
「嘘をつくことは子どもにいい影響を与えない。子どもは嘘に苦しむ。大人も同様だが。」
「なぜ知っているといままで言わなかったの?」
「きみのハンドバッグの中を見たことが恥ずかしかったからだ。誰かが私にそんなことをしたら、私は激怒するだろうから」
「あなたはいつもこそこそ人のものを探ってたじゃない。昔からそういう人だったわ」
「そんなことはない」
「いいえ。本当です。わたしたち、もう嘘をつく余力などないんじゃない?」
私は顔を赤らめた。彼女の言うとおりだった。
「私たちは若かった。二人とも、いつも正しく行動できるほど自分自身のことがわかっていなかった。正しく行動するのは、真実を言うのはむずかしいものだ。嘘をつくほうが簡単ということがあるのだ」
「あなたには真実というものがないの? 嘘ばっかりなの?」
友人もなく、孤独に暮らしているが、唯一顔を合わす郵便配達人のヤンソンとも仲良くやっていけない。
今日は郵便物は来ない。
ハリエット、その娘ルィース
ジアコネッリ、アグネス、シマ
ハンスとのやり取りは、たまらなく面白い。
「貧乏人は軽蔑されると、子どものときからの体験で学ぶ。彼女たちは自分の身体を切りつける、見ず知らずの人をナイフで襲う、でも心の中では理由もわからない痛みを感じて悲鳴を上げているのよ」
「憎しみを生きる力にするには限界があるのね。憎しみで生きていけると思うのは幻想ね。憎しみは生命力にはなれない。」
死はなにものにも無関心。それが私を怖がらせる。
はっきりわかったのは、人は死ぬ前に身辺整理をちゃんとしておかなくちゃだめ、ということ。
わたしはその石をそこに置いた。その間ずっと神様が現れて話しかけてくれることをまっていたわ。でも神の声は低かった。わたしには聞こえなかったわ。ずっと神の後ろで叫んでいる者がいて、神の声など全然聞こえなかったの」
「後ろで叫んでいる者とは?」
「悪魔よ。悪魔は叫ぶの。わかったのは、神は囁き、悪魔は叫ぶということ。その二者が争っているところにわたしの場所はなかったわ。」
特別大売り出しと広告を打って私の暮らしに入り込もうとする人たちに用はない、人生において特別価格などどうでもいいと。人生には本当に大事なことがあるはず。それがなにかはわからないけれども大事なことがあるにちがいない。割引券やスクラッチくじよりも大事な、目に見えない意義があるにちがいない、と。
人生って、小さなボートに乗って荒れ狂う約束の海の間を渡ることよね。でも、人はいったいどれほどの約束を憶えているかしら? たいていの人は思い出すべきことを忘れ、思い出さなくてもいいようなことを憶えているものよ。
この物語で忘れられない話です。
「わたしがその湖を見たい理由がわからないと言うの?」
「そうだ。そのわけを知りたい」
「それはわたしが生まれてからいままでの間にもらった一番美しい約束だからよ」
「一番美しい?」
「そう、正真正銘唯一の美しい約束」
人が関わることの素晴らしさ、大切さを教えてくれるお話でした。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
カラヴァッジョ展、2019年8月から20年2月まで札幌、名古屋、大阪を巡回
『 イタリアン・シューズ/ヘニング・マンケル/柳沢由実子訳/東京創元社 』
「訳者あとがき」
『イタリアン・シューズ』 は、タイトルは柔らかくても内容はハードボイルドかもしれないという気がしていたのだが、これはまったく予想外の作品だった。
ハードボイルドからは程遠い、一人の男の良心の告白の本である。
ミステリではなかったが、ぼくには大変面白く、久々に夢中になれた小説でした。
私は寒いときに、より強く孤独を感じる。
私は二方から攻められ、常に闘っている。寒さと、そして孤独と。
私が毎朝氷を打ち砕いて穴を開けるのはそのためだ。もし遠くから双眼鏡で私の行動をのぞき見る人間がいたら、頭がおかしくなって死ぬ準備をしていると思うかもしれない。素っ裸で、凍てつく寒さの中、手に斧を持って氷に穴を開けようとしているなど、正気の沙汰でない、と。
主人公のヴェリーンは、頭の天辺が少し薄くなりつつある、老齢期に入った元外科医。
この人物、嫌な癖があり余り愛すべき性格ではない。
毎朝習慣にしていることも、少々おかしい。
私は計画どおりの人生を歩むはずだった。
「いえ、誰にでも行くところはあるものよ。でもわたしはあなたにここで会いたかった。あなたと話したいことがあるの」
「そうらしいね」
「なにそれ。そうらしいって。あなたはなにもわかっちゃいない。」
人は森の中や町でよく道に迷うが、自分の中でも道に迷うことはよくあるものだ
ヴェリーンは、嘘つきだ。 その嘘とは。
嘘はいつも重いもの。最初は重さを感じないかもしれないが次第に重くのしかかってくる。
たいていの話には小さな、ほとんど気づかないような嘘が混じっていることに気がついた。人は昔からそうしていたのだろうか、と思ったものだ。自分の望む方向に話を進めるために、人はいつもほとんど気づかないような嘘を交えてきたのだろうか?
「嘘をつくことは子どもにいい影響を与えない。子どもは嘘に苦しむ。大人も同様だが。」
「なぜ知っているといままで言わなかったの?」
「きみのハンドバッグの中を見たことが恥ずかしかったからだ。誰かが私にそんなことをしたら、私は激怒するだろうから」
「あなたはいつもこそこそ人のものを探ってたじゃない。昔からそういう人だったわ」
「そんなことはない」
「いいえ。本当です。わたしたち、もう嘘をつく余力などないんじゃない?」
私は顔を赤らめた。彼女の言うとおりだった。
「私たちは若かった。二人とも、いつも正しく行動できるほど自分自身のことがわかっていなかった。正しく行動するのは、真実を言うのはむずかしいものだ。嘘をつくほうが簡単ということがあるのだ」
「あなたには真実というものがないの? 嘘ばっかりなの?」
友人もなく、孤独に暮らしているが、唯一顔を合わす郵便配達人のヤンソンとも仲良くやっていけない。
今日は郵便物は来ない。
ハリエット、その娘ルィース
ジアコネッリ、アグネス、シマ
ハンスとのやり取りは、たまらなく面白い。
「貧乏人は軽蔑されると、子どものときからの体験で学ぶ。彼女たちは自分の身体を切りつける、見ず知らずの人をナイフで襲う、でも心の中では理由もわからない痛みを感じて悲鳴を上げているのよ」
「憎しみを生きる力にするには限界があるのね。憎しみで生きていけると思うのは幻想ね。憎しみは生命力にはなれない。」
死はなにものにも無関心。それが私を怖がらせる。
はっきりわかったのは、人は死ぬ前に身辺整理をちゃんとしておかなくちゃだめ、ということ。
わたしはその石をそこに置いた。その間ずっと神様が現れて話しかけてくれることをまっていたわ。でも神の声は低かった。わたしには聞こえなかったわ。ずっと神の後ろで叫んでいる者がいて、神の声など全然聞こえなかったの」
「後ろで叫んでいる者とは?」
「悪魔よ。悪魔は叫ぶの。わかったのは、神は囁き、悪魔は叫ぶということ。その二者が争っているところにわたしの場所はなかったわ。」
特別大売り出しと広告を打って私の暮らしに入り込もうとする人たちに用はない、人生において特別価格などどうでもいいと。人生には本当に大事なことがあるはず。それがなにかはわからないけれども大事なことがあるにちがいない。割引券やスクラッチくじよりも大事な、目に見えない意義があるにちがいない、と。
人生って、小さなボートに乗って荒れ狂う約束の海の間を渡ることよね。でも、人はいったいどれほどの約束を憶えているかしら? たいていの人は思い出すべきことを忘れ、思い出さなくてもいいようなことを憶えているものよ。
この物語で忘れられない話です。
「わたしがその湖を見たい理由がわからないと言うの?」
「そうだ。そのわけを知りたい」
「それはわたしが生まれてからいままでの間にもらった一番美しい約束だからよ」
「一番美しい?」
「そう、正真正銘唯一の美しい約束」
人が関わることの素晴らしさ、大切さを教えてくれるお話でした。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
カラヴァッジョ展、2019年8月から20年2月まで札幌、名古屋、大阪を巡回
『 イタリアン・シューズ/ヘニング・マンケル/柳沢由実子訳/東京創元社 』