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犬山城は最古の天守

2022年03月25日 21時00分05秒 | 歴史的なできごと
犬山城は最古の天守」 年輪調査で天正年間築城と発表

6・13・2021

 愛知県犬山市にある国宝「犬山城天守」の築城について、同市教育委員会は29日、柱や梁(はり)の伐採年などから天正年間の1585~90年ごろに造られ、現存する最古の天守であることが科学的に分かった、と発表した。築城年代は1537年や1601年など諸説あるが、これまで確実な史料はなかった。 


【写真】年輪年代法で伐採年を調べた天守1階の柱=2021年3月29日、愛知県犬山市、荻野好弘撮影  名古屋工大大学院の麓和善教授(建築史)と、年輪年代測定で知られる奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員が、市教委の依頼で調査していた。 


 天守は三重構造で4階建て。樹皮が残る1~2階のヒノキ柱1本が1585年に、4階床を支えるヒノキ梁が1588年に、それぞれ伐採されたことが年輪年代法で判明した。4階の床板なども1585~88年に切り出された木材と推定されることが分かった。 

 部材の表面は釿(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)などで加工され、この時代の特徴的な痕跡が多く残っていた。こうしたことから1585年以降、短期間で1階から4階まで一気に建設されたとみられるという。 

 市教委によると、犬山城天守は1961~65年の解体修理された。その際の調査で、1・2階がまず建設され、後に3・4階が増築されたと考えられてきた。

  麓教授によると、1・2階部分の築城について、江戸中期の文献をもとに1537年説や1601年説があったが、石垣の建造年代などをめぐり疑問があったという。  市はこれまで1537年説を重視し、16世紀末から17世紀初めに建てられたとみられる松本城(長野県)、彦根城(滋賀県)など現存する12城の中で最古とPR。文化庁は文化財ベータベースなどで1601年築としてきた。

  麓教授は29日の会見で、織田信長の息子信雄・徳川家康軍が羽柴秀吉軍と戦った小牧・長久手の戦い=1584(天正12)年=の後に、信雄方によって犬山城築城が始まったと説明。「現存最古の天守であることがはっきりした。築城当初からいまの望楼型と分かったのは大きな成果だ」と語った。(荻野好弘)


  ■犬山城  望楼型天守は1952年に国宝に指定された。内部は地上4階、地下(石垣の中)2階。織田氏、池田氏などが城主となった後、1617年に尾張藩の成瀬正成が2代将軍徳川秀忠から拝領したとされる。2004年には個人所有から財団法人所有へと移管。犬山市が管理し、2018年には61万人以上が訪れた。
朝日新聞社


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今朝の朝日です☆

2022年03月25日 18時27分02秒 | いろいろな出来事


今朝5:51の日の出です

3/25/2022
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東大合格者は193人→1人に激減」日本一の都立高校・日比谷から天才がいなくなったワケ

2022年03月25日 18時00分24秒 | 社会のことなど
東大合格者は193人→1人に激減」日本一の都立高校・日比谷から天才がいなくなったワケ

1/31/2022






明治期に作られた「第一中学」の流れをくむ都立日比谷高校は、かつて東大合格者数で日本一の実績を誇っていた。ところが、ある時期から低迷してしまう。教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「1967年に導入された学校群制が、進学エリートコースを崩壊させた」という――。(第3回/全3回) 

【この記事の画像を見る】  ※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。


 ■東大合格者数が低迷し続けていた日比谷高校 

 天才、秀才、神童が集まること――それが一中のプライドの根拠と言える。そのプライドが大きく傷ついてしまう体験をした一中がいくつかあった。  

優秀な中学生が一中に入りたくても入れないことが起きる。その結果、優秀な生徒が集まってこなくなり、難関大学への進学実績が大幅に落ちてしまう。総合選抜(以下、学校群制度、合同選抜、グループ選抜、総合選抜を総称して「総合選抜」と記す)、学区制変更、通学区制限によって、ある時から一中は優秀な生徒を集めることができなくなってしまった。 


 もっとも顕著な例が、学校群制導入後の日比谷高校である。さらに歴史をさかのぼると、戦後、新制高校に移行した時の高知、京都、広島で、一中の大きな“受難”を見ることができる。その過酷な運命をたどってみよう。

  1967(昭和42)年に東京都は都立高校に学校群制を導入し、日比谷高校は三田高校、九段高校と11群という学校群を組んだ。日比谷を受験するのではない。11群を受け、合格すればこの3校に振り分けられるのだ。そこに受験生の意志が反映される余地はなかった。

  日比谷の東京大合格者数は1964年の193人がピークとなっており、学校群1期生が卒業した1970年は99人となった。71年は57人、72年は52人、73年になると29人となった。わずか3年で70減るという現象はほかの高校では例を見ない。このあとさらに減り続け、77年14人、81年4人、93年には史上最少の1人となる。

  日比谷が東京大合格実績を落としたのが、学校群制によるものであることは火を見るよりも明らかだった。背景の一つに、優秀な生徒が日比谷を志望したが運悪く他校にまわされたことがある。これはわかる。もう一つ、日比谷に運良く入れることになった優秀な生徒が入学を辞退して他校に進んだ。これはどういうことなのか。


■学校群制で“進学エリートコース”が崩壊  

日比谷高校に入学するための近道と言われる小中学校がある。千代田区の番町小、麹町中だ。地元ではエリートコースと呼ばれており、日比谷に入れたいため、これらの学校に通える学区に転入してくる教育熱心な家庭があった。

1965年、麹町中から日比谷高校への進学者は87人を数えた。同級生のなかで群を抜く人数である。当時、このコースに乗っている子どもの保護者がこう話す。

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「主人は2流私大の出身で、苦労しましたからね。こどもにはこの悩みを味わわせたくないのです。そして、東大を出て親のカタキをとってくれ、という気持でいっぱいなのです」(『週刊現代』1966年3月1日号)
 ----------  


ところが、学校群制によって「日比谷高校予備校」のような麹町中で異変が起こった。日比谷愛が失われつつあったのである。麹町中の保護者の声を伝えている。


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「去年までだったら、麹町中学から日比谷へ入るには100番以内の成績でないと無理だったんですが、今度は500人のうち400番以下でも入っているんですってよ。そんなデキの悪い子と一緒は心配ではありませんか」(『週刊朝日』1967年3月24日) 
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この「400番以下」は信憑性にかなり欠ける。十分な根拠、データのない発言であり、受験生と保護者の歪んだ心理が示されている。学校群制以前ならば、日比谷には東京大を目ざして優秀な生徒が集まった。しかし、学校群制で優秀ではない生徒も日比谷に振り分けられる。そのような環境では難関大学突破はむずかしい。ならば、ほかの進学校に通わせたほうがいい――ということである。


 ■有名私立のすべり止めにされていた日比谷高校  

それは日比谷もわかっていた。同校教諭のこんなグチ、皮肉が伝えられている。 

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「すべり止めに日比谷を受けるのがいるんですよ。たとえば、麹町中の優秀なのが、一応は日比谷を受ける。ところが付属や有名私立大に受かると、日比谷をやめてさっさとそっちの方に行っちゃう。学校群が日比谷をつぶすことがねらいなら、その目的は半ばが達せられたことになるでしょうが、付属や有名私立への集中をどう考えたらいいでしょうか」(『週刊朝日』1971年4月2日号) ----------  

前提として一中絶対主義、日比谷中心思想がある。日比谷が「すべり止め」にされるのは屈辱だったのだろう。付属とは東京教育大附属、同大附属駒場、東京学芸大附属、慶應義塾などである。有名私立は開成、武蔵などだが、学校群制以前は逆にこれら「付属や有名私立」が日比谷のすべり止めだった。

  学校群制を導入した責任者である当時の都の教育長、小尾乕雄氏はこう話している。 


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 「某新聞がインタビューにきたんです。東大の合格率が減るんじゃないか、と聞かれたから、減りませんと答えたんですよ。有名校の数がふえて、お互い、競争するから減ることはない。〔略〕日比谷、三田、九段の3校を日比谷高校と思えばいい」(『週刊文春』1966年8月1日号)
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■「日比谷を2つも3つもつくる」という目論見だったが…  学校間格差が解消できるとして、学校群制を支持するメディア、評論家から援護射撃があった。のちにノーベル文学賞を受賞した作家、大江健三郎氏は支持を表明している。 

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「ぼくは早くからエリートを分けて、特別な教育をして東大から企業へと送り込むことに反対なのです。できるだけ、長い間、いろいろな人間とつきあい、ともに学んでそれ以降に大学へ行くほうがよいと思います。そのほうが画一的でない人間をつくるのに有効だと思います。だから、学校群に賛成です」(『朝日ジャーナル』1967年11月13日号)
 ----------  

大江氏は一中の松山東高校出身だ。学校群制導入から十年後、先の小尾氏はこう話している。 

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「私の構想では学校群によって受験に有利な名門校をふやし、その上で学区の細分化をはかろうと思ったわけです。当時私が「日比谷を2つも3つもつくる」といったのはそういう意味だったんです。それが少しは高校格差の是正にもつながるだろうと思ったのです」(『週刊朝日』1976年4月8日号) 
----------  

一中をたくさん作るという目論見だったらしいが、失敗に終わった。「日比谷つぶし」への弁解にもなっていない。  

1972年、日比谷からの東京大合格者52人のうち現役は12人だった。減少に歯止めはかからない。学校群の日比谷、三田、九段の東京大合格者数は合計で75人。日比谷が100人を超えていた1960年代には遠く及ばなかった。「日比谷を2つも3つもつくる」どころか、東京大への進学校「日比谷」の存在がなくなりかねない。

 ■93年には東大合格者数は1名に 


 同校の進学指導担当教員はこう話す。 

---------- 
「われわれの11群は3校1群という特殊な事情がありましてね。ますます生徒は迷う。その結果、11群そのものを敬遠する傾向があるんですよ」(『週刊新潮』1972年4月1日号
 ----------  

学校群ではその多くは2校が組んで群となっているが、日比谷の11群は3校が組まれていた。受験生からすれば志望校へは3分の1の確率でしか入れない。ならば11群なんか受けたくない
――

そうして、日比谷にこだわらない、という思いが強くなったのも自然であろう。一中のブランド力は通用しなくなった。 

 1973年、東京大合格者は29人で、ランキング18位となった。こうした状況について、日比谷の教員の学校群に対する非難はおさまらない。 

---------- 
「日比谷が圧倒的に東大合格者を出していた現実をぶっこわそうとしたんです〔略〕いい生徒だって三等分されては入ってくる中学生の学力だってレベルダウンだって当然のことです」(『週刊読売』1973年4月7日号
) ----------  

1970年代、すべり止めの日比谷は東京大合格実績で低迷し続け、1980(昭和55)年には、開校以来初の1ケタとなる。 

 1982(昭和57)年、学校群制が廃止され、グループ選抜が採用される。これによって学校を選べるようになり、日比谷を志望して合格すれば入学できた。しかし、東京大合格者数はふるわない。1990年代も底を打ったままだった。93年、合格者は1人だけになってしまう。



■2000年代後半まで斜陽の時代は続いた  

1994(平成6)年、単独選抜入試制度となった。完全に学校群制以前に戻ったのである。しかし、人気は取り戻せなかった。同年の日比谷の入試は受験者全員合格である。日比谷より、早慶に加えて明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大など私立大学の附属校が選ばれたという。この頃の母校について日比谷OBはこう話している。

 ---------- 
「学校群ができたときから別の学校のような気がしてたからね。それを機に先生たちも大学に移っちゃった。だからあまり感慨はない。入りたい人は入れてやればいい」(『週刊朝日』1994年3月18日号
----------  

東京大合格者が少ない時期の母校を「別の学校」扱いとは、ずいぶん冷たい。

「斜陽」と嘆くOBもいた。  

その後も日比谷は復活が遅れた。単独選抜はなかなか功を奏さない。1998、99年の東京大合格者はいずれも2人で、2004(平成16)年まで1ケタが続いた。ふたたび増えはじめて一中の「復権」と呼ばれるようになるのは2000年代後半以降のことであり、それはお上の政策によるものだった

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小林 哲夫(こばやし・てつお) 教育ジャーナリスト 1960年生まれ。神奈川県出身。95年から『大学ランキング』編集を担当。著書に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『高校紛争 1969―1970』(中公新書)、『中学・高校・大学 最新学校マップ』(河出書房新社)、『学校制服とは何か』(朝日新書)、『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)などがある。
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数千人を強制連行…子供たちを拉致する「想像したくないその目的」

2022年03月25日 09時05分13秒 | 国際情勢のことなど




第2次世界大戦中のナチスによる強制連行のような蛮行が、21世紀に起きている。一般市民がよその国へ連れ去られるとは、想像を絶する事態だ〉

 【画像】プーチンはここにいる!?  超豪華宮殿「内部」写真


3/23/2022


 ウクライナ南部マリウポリの市議会は、3月19日にSNSを通じてロシア軍の行動を非難する声明を発表した。ロシア軍は、1週間ほどの間に数千人のウクライナ人を強制的に連行。ロシア国内へ連れ去ったみられる。中には、子供も多数含まれているという。その数2000人以上ーー。

 ロシア軍の攻撃が激化している。マリウポリでは住民約400人が避難した芸術劇場が爆撃され、食糧や水を断たれ市民30万人以上が孤立。南部コンスタンチノフカでは、燃料貯蔵施設を破壊するために極超音速ミサイル「キンジャル」が使用されたとされる。

「当初は数日で首都キエフを制圧できると想定していた軍事行動が遅々として進まず、プーチン大統領は相当焦っているようです。長引けば長引くほど、国際社会からの批判と圧力が高まりますからね。 今後は、ウクライナを屈服させるために手段を選ばないでしょう。使用した極超音速ミサイルには、核弾頭を搭載できます。『我々には核兵器を使う準備ができている』という、ロシア側のメッセージでもあるんです」(全国紙国際部記者)


 ◆関与が疑われる非人道的部隊 

前述のとおりマリウポリなど複数の街で、ロシア軍によるウクライナ人の強制連行が起きているようだ。米誌『ニューヨーク・タイムズ』によると、捕まった住民は携帯電話や所持品を調べられパスポートを持たないままロシア国内へ。マリウポリから100km以上離れた、タガンログという街に移送されているという。

 「タガンログには、第2次世界大戦後に敵対した外国人のための収容所がありました。多数の日本兵も抑留されています。食糧や衣服も満足に与えられず、昼夜問わない過酷な労働で多くの人々が亡くなったそうです。タガンログに送られたウクライナ人も、強制労働に駆り出されるのではという懸念の声が上がっています。そもそも民間人を拉致すること自体、国際人道法違反の重大な犯罪です」(同前) 


強制連行への加担が疑われるのが、ロシアに属するチェチェン共和国の部隊だ。同国のカディロフ首長は、3月14日にSNSで〈ロシア軍とともにキエフ近くの飛行場にいる〉と発信。彼の私兵約2万人は「カディロフツィ」と呼ばれ、世界中で恐れられている。 


「プーチン大統領の意向に忠実に従い、任務遂行のためなら非人道的な行為も厭わない兵士たちです。拉致、拷問、殺戮と手段を選びません。過去3回実行されたとされる、ウクライナのゼレンスキー大統領暗殺計画にも関わっていたと言われます。 ターゲットになるのは、政府要人ばかりではない。


彼らには、幼い子供たちを連れ去っている疑惑があるんです。米誌『ニューズ・ウィーク』によれば、ウクライナ当局は『カディロフツィ』兵士がカディロフ首長へ次のように報告する動画を入手したとか。〈首長の指示どおり孤児院への潜入に成功しました〉〈残念ながら内部には泣き叫ぶ看護師がいるだけで、子供はいませんでした〉と」(別の全国紙記者)

 カディロフ首長は子供たちを連行し、どうしようと考えているのだろうか。 「子供たちに、重労働はできません。おそらく、幼いうちから徹底的にカディロフ首長礼賛の教育を施し、洗脳しようとしているのでしょう。『カディロフツィ』の忠実な兵士に育て、自分の手足として使うつもりなのだと思います」(同前) ロシア国防省も、ウクライナ人の連行を認知。あくまで〈ウクライナ国民を救うための包括的支援措置の一環〉としている。



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ドル円が瞬間122円台に=NY為替速報

2022年03月25日 07時48分30秒 | お金のこと
ドル円が瞬間122円台に=NY為替速報


2022/03/24(木) 23:37:37.

ドル円は上値追いの動きを続けており、瞬間122円台に上昇する場面が見られた。

USD/JPY 121.93 


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