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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランス革命を旅したイギリス人 リグビー博士の書簡より

2025-02-18 20:25:38 | ヨーロッパ旅行記

フランス革命を旅したイギリス人

リグビー博士の書簡より

Lettres du DOCTEUR RIGBY

Voyage d'un Anglais en France en 1789

エドワード・リグビー 著

川分圭子 訳

2009年2月17日 初版発行

春風社 発行

 

原著はイギリス人医師エドワード・リグビーが1789年夏にフランス、北イタリア、スイス、ドイツ、オランダを周遊した折に家族あてに書いた旅の書簡の集成です。

1880年英語で出版され、1910年にフランス語訳が出されました。

18世紀後半はイギリス人のヨーロッパ旅行が盛んだった時代です。

 

リグビーは宗教的には新教非国教徒

宗教改革以来イングランドはアングリカニズム(英国国教)を国教としてきたが、これはカトリックを非国教とするだけでなく、プロテスタントとしては国教より純粋な長老派や洗礼派、会衆派などの諸派を非国教として排除するものだった。

 

本書の特色は、なんといってもリグビーが1789年7月14日のバスティーユ襲撃時にパリにいて鮮やかな記述を残している点。

それ以外でもリグビーはローヌ川下りをしながらフランスを縦断し、プロヴァンス沿岸を陸路東に向かって、テンデ峠から北イタリアに入り、モン・スニ峠を越えてジュネーヴに入り、ライン川地方を北上してオランダに達する。

 

7月14日についてのリグビーの記述は、当時の目撃者の一人だったレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの記述とほぼ重なっている。『パリの夜』岩波文庫

 

ド・マリクール男爵の序文(抜粋)

この著作は二つの部分に区分するのが適切である。

・農業家がフランスの田舎について描いている部分

・政治好きが、最初の革命の噴火のような動乱について書いている部分

 

第1章 ドーヴァーの印象

シャンティイの城あるいは宮殿は石材で造った広大な建物であり、まさしく水の中に建っていた。

 

パリのパレ・ロワイヤルを散歩。そこはオルレアン公が最近建てた広大な宮殿で、たくさんの店がある。

 

第2章:マリー・アントワネット

日曜の午後はヴェルサイユ宮殿に付属した公園や庭園、森を散歩した。美しい庭園だが庭の設計は悪い。

(いつも通りのイギリス人のフランス庭園に対する偏見である)

 

第3章:バスティーユ襲撃

 

第4章:死体置き場

 

第5章:パリ脱出

 

第6章:リヨンに到着

オーセールのヨンヌ川は大きくいくつかの砂州で区切られており、ある箇所では天然の堰止め湖や滝が出来ており、石の上に落ちながら轟いている。

 

18世紀ブルゴーニュの田園生活と農民の風俗についての研究の参考にするのに優れた史料はレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『私の父の生活』『ニコラおじさん』である。

 

第7章:プロヴァンス地方

ヴィエンヌのアウグストゥスとリヴィウス帝に捧げられた古代寺院は、次々とキリスト教会、革命派集会施設、商事裁判所、博物館になった。

 

ヴィエンヌの町から少し離れたところでセヴェレス帝の栄誉のために建造されたピラミッドも見た。このピラミッドは不格好なもので、明らかに建築の趣味に頽廃が始まった時代に建造されたものだ。

 

アヴィニヨンは古い町で何世紀も前には教皇の在所であった。この町はまだ教皇に属しており、ローマ教皇特使が統治している。このために、私たちはここを出発するときパスポートを取得しなければならなかった。

 

ニームには保存状態のよい円形競技場がある。しかし今では、この広大な囲いの中は、たくさんの家や底を横切る道路でいっぱいだ。

 

マルセイユの町に隣接した古い城が建っている高台に連れて行ってくれた。ここは一部は要塞として、一部は聖母に捧げられた礼拝所として使用されている。聖母は船乗りたちに大変崇敬されている。(守護聖母教会)

第8章:「フランスを離れるのは残念だ」

 

第9章:ジュネーヴ

 

第10章:アルプスの日の出

 

第11章:イギリス帰国

 

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道しるべとなるドイツのことばと絶景100

2025-02-07 20:08:15 | ヨーロッパあれこれ

道しるべとなるドイツのことばと絶景100

地球の歩き方編集室 著作編集

2022年11月15日 初版第1刷発行

 

1章:世界を広げ「前進する」ことば

2章:暮らしが豊かになる「思いやり」のことば

3章:ひとつを極める「勇気」のことば

4章:心が整う「愛と幸せ」のことば

 

100の名言と風景や建物、更には食べ物などの写真を掲載しています。

最後の101番目の、ゲーテの言葉を載せておきます。

 

気持ちのいい生活を送りたいなら、

過ぎたことは気にしないこと、

めったに腹を立てないこと、

いつも現在を楽しむこと、

とりわけ人を憎まないこと、

未来は神様にまかせること。

 

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旅の民俗学 宮本常一

2025-02-05 19:44:30 | ヨーロッパあれこれ

 

旅の民俗学

宮本常一 著

河出書房新社 発行

2006年8月30日 初版発行

 

宮本常一を中心とする対談・鼎談集です。

 

旅と民俗学

土と生活と応用の視点

 

日本人の旅と文化の交流

悪人はいない日本の常民文化

with 筑波常治

 

柳田先生がよく言われたことで、私(宮本)もそういう体験があるのですが、商売というのは貧しい者への同情から成り立っているのではないか。

持てるものが持たざるものを救う、逆にいえば、持たざる者が、持てるものから救ってもらうのが当然であるという人と人のつながりが商売みたいな格好になっている。

 

歩く得 歩かぬ損 with 秋元松代

日本人で一番よく歩いた人は一遍だと思うのですが、あれほど歩いて、あれほど自分を虚しくした人はいない。

 

「人生は旅」の思想 with 丸谷才一・紀野一義

西行は歌も上手だったが、戦術とか戦略にも相当深かった人らしい。だから西行はスパイという説がある。

 

日本人とは

その起源にさかのぼって

with 江上波夫・國分直一

 

縄文時代の言語は何らかの形で残っていないか。その残っている可能性が一番あるのは地名だと思う。

 

日本人は二つの、全くある意味では性格や伝統の異なる人間が、ごちゃごちゃにならずに、しかも日本民族ということで統一されていた。

フランスやドイツに行ってみても、何とも一つのものと感じる。

 

日本の原点 with 水上勉

 

旅の伝説に魅せられて with 松谷みよ子・松永伍一

 

高野聖と平家部落

日本人は悲劇的英雄がお好き with 杉本苑子

 

道の文化史 with 中西睦

馬と牛の運搬

昔の馬は小さく、運搬させるのは牛の方がよかった。

また馬は立ったままだが、牛は夜になると横になって寝る。それで野宿するとき、牛を二頭寝かせてその間に寝た。

 

新志摩風土記 

大浦と小浦

 

漁村と港町 with 河野通博

「泊」という字がつく地名のところは、必ず遠浅で、そういうところが最初の漁港になり、それが古い時代の日本の船を平底にした。

シナの造船技術を採り入れて船底に水切りがつくのは平清盛の頃からのことで、それから「津」という字のつく水深の深い港が発達し始める。

 

漁村部では末子相続が多い。播磨の家島など、一本釣りの漁村ではだいたいそうです。

 

瀬戸内海の港町を発達させたものというと、江戸時代の参勤交代が大きい。

 

日本に稲が入ってきたのは二つの流れ

・朝鮮半島(山東半島経由といってもいい)経由の実蒔

・南からの田植えを伴う稲

 

海と日本人 with 山崎朋子・茂在寅男

山口県の見島の漁師の話

船の帆を巻いて西南に向かって走ると、中国の浙江省の先にある舟山列島までわずか二日で行ける。

萩あたりから東南の風に乗ると、同じように二日間でウラジオストックまで行ける。

 

貴重な観光資源を保護する態度 with 荒垣秀雄

 

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メリフォント修道院の参事会会議室と歴史(アイルランド)

2025-02-02 19:54:12 | ヨーロッパ旅行記

 

画像の建物はchapter houseと案内板に書かれていました。
手元の英和辞典によると、参事会(牧師団)会議場という意味だそうです。

最後にメリフォント修道院のHPからその歴史について引用しておきます。

The monks at Mellifont hosted a critical synod in 1152. The abbey was central to the history of later centuries, too, even though it was in private hands by then. The Treaty of Mellifont, which ended the Nine Years War, was signed here in 1603, and William of Orange used the abbey as his headquarters during the momentous Battle of the Boyne.

メリフォントの修道士は1152年に重要な教会会議を主催しました。修道院は後の世紀に個人所有になりましたが、歴史的中心でした。九年戦争を終えるメリフォント条約が1603年に締結されました。オレンジ公ウィリアムはボイン川の戦いでこの修道院を本営にしました。

 

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オールドメリフォント修道院で一番見どころな場所(アイルランド)

2025-01-28 19:48:03 | ヨーロッパ旅行記

このメリフォント修道院の中で一番の見所はなんでしょうか?
それは画像のlavaboと呼ばれる史跡です。もとは二階建てで八角形だったそうです。
このlavaboの意味がよくわかりません。
単語としては、英・仏・伊・西・葡語などに存在します。
主な意味は洗面台、洗面所、化粧室などがあるのですが、なんとなくしっくりいきません。
それ以外に、カトリックの用語として、洗手式という単語が書かれていました。
その意味は、ミサの第三段階で司祭が手を洗って詩編を唱える儀式、だそうです。
とすると、その儀式が行われた場所なのでしょうか。よくわかりません。

 

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オールドメリフォント修道院の回廊辺り(アイルランド)

2025-01-23 19:58:36 | ヨーロッパ旅行記

 

オールドメリフォント修道院の本体の場所に着きました。
画像の場所は回廊の辺りです。
Googleマップで見た、現地の案内板によると、画像の手前の方は聖堂になっていたようです。
この修道院のサイトによると、

 

メリフォント修道院はアイルランドで最初のシトー修道院です。アーマーの聖マラキーにより、クレルヴォーの聖ベルナールにより派遣された修道士たちの援助により1142年に創設されました。修道士たちはアイルランドでうまくやっていけず、すぐにフランスに戻りましたが、修道院は完成し、たいへん壮観に奉献されました。

 

修道士たちはアイルランドに馴染めなかったのでしょうか?

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メリフォント修道院の史跡の門(アイルランド)

2025-01-18 19:53:20 | ヨーロッパ旅行記

 

モナスターボイス見学の後、オールドメリフォント修道院に向かいます。
画像はメリフォント修道院の駐車場らしき広場そばから見た史跡です。
これはどうやら、昔の門だった建物で、修道院の本体とは別の場所に建っています。
この貫禄ある門に見送られながら、修道院の史跡内部に入っていきます。

 

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モナスターボイスのケルト十字架(アイルランド)

2025-01-08 19:49:04 | ヨーロッパ旅行記

モナスターボイスの名物は円塔(ラウンドタワー)だけでなく、ケルト十字架も見所となっています。
ケルト十字架とは十字の交叉部に円環を結合した、石の十字架です。
その特徴は過剰とも言える飾り気です。
そこには聖書の場面や教訓的な絵が彫られています。それらを説教の教材の役割としたわけです。
野外の民衆教化所であり、墓標ではありませんでした。
ただ、人物や動植物などのほか、渦巻きや組紐などの抽象的な図柄も組み込まれています。
これは持ち運びのきく聖行列用の木製十字架からの影響だといわれています。

(アイルランド歴史紀行を参考にしました)

 

 

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モナスターボイスの円塔(ラウンドタワー) アイルランド

2025-01-06 19:39:59 | ヨーロッパ旅行記

アイルランドのモナスターボイスに到着しました。

まず画像の、円塔(ラウンドタワー)です。

これはアイルランド独特の建造物ですが、この塔体が残っているのは全島で65だけ(跡が残っているのは25)です。

これは何のためにつくられたかというと、説としては

・鐘楼

・外敵の掠奪的攻撃を受けた際の、聖職者の避難の場や聖器、財宝を移す場

・物見櫓

・信号塔

とありますが

鐘楼としては高すぎて、

防御および避難用としては高さも広さも足りない、ような感じです。

ただヴァイキングの攻撃はヒット・アンド・ラン的の短いものだったため、これで足りたのかもしれません。

 

(アイルランド歴史紀行 高橋哲雄 著 から引用しました)

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ルーマニアとブルガリア、シェンゲン協定に完全加盟

2024-12-21 19:49:21 | ヨーロッパあれこれ

 

【ロンドン時事】欧州連合EU)は12日、東欧のブルガリアルーマニアについて、欧州の加盟国内の自由移動を認める「シェンゲン協定」への完全加盟を承認した。

 3月末に国境検査が廃止された空路と海路に加え、来年1月1日からは陸路でも自由移動が可能となる。

 フォンデアライエン欧州委員長は声明で「きょうは全てのブルガリア人、ルーマニア人、そしてEU全体にとって喜ばしい日だ。われわれは共に、一段と強固に結び付いたEUの恩恵を享受することになる」と述べた。 

世界が内向きになっている中、これは流れにある意味逆行していますね。
EU内の移民や、EU外からの難民の流れが、この加盟でどうなるのか気になります。

 

 

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