ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ヨーロッパとゲルマン部族国家

2024-06-14 20:53:57 | ヨーロッパあれこれ

ヨーロッパとゲルマン部族国家

マガリー・クメール ブリューノ・デュメジル 著

大月康弘 小澤雄太郎 訳

文庫クセジュ

2019年5月30日 発行

 

序論

啓蒙主義時代の末期、十九世紀初頭に、ローマ帝国の破壊者はうってかわってポジティブなイメージを取り戻した。

西ヨーロッパ諸国の誕生は、卑しい蛮族のおかげだと考えるようになった。

 

二十世紀初頭から蛮族の時代に関する新しい記述史料はほとんど見つからなくなったが、代わりに考古学が膨大な量のデータを提供した。

 

ラインとドナウの北側に住む古代の人たちが古代全体を通じてものを書くことができなかったのは、依然として認めざるを得ない事実である。

彼らは書物、碑文、貨幣など何一つ残さなかった。

 

第一章 帝国侵入以前の蛮族

蛮族の過去について書かれた初の真の歴史叙述は、「民族史」というジャンルである。

これらは六世紀と七世紀にラテン語で書かれ、西方の新しい王国のエリートに献呈された。

 

二十世紀後半まで、蛮族の出現は大移動モデルによって説明されていた。

それは西方社会の文化を形成する二つの著作が言及する民族形成のモデルと対応している。『アエネーイス』と旧約聖書である。

 

大移動モデルが大成功を収めたのは、ヨーロッパのナショナリズムがそのモデルを再利用したためである。

 

数百年にわたると考えられる移動が矢印で表現されることによって、それらの移動が起こった順番や史料への注意がことごとく無視される。

 

大移動のモデルへの全員一致の支持は、1960年代からの考古学の発展により失われた。

 

蛮族が一度ローマ帝国に侵入すると、特定のアイデンティティを主張することによって、自分自身を区別することが可能になった。

 

第二章 ローマとその周辺

ローマ世界の著述家たちは、リーメス(帝国と蛮族世界から分かつ軍事境界線)周辺での衝突について多くを語っている。

 

帝国は249年から三方向(ライン河方面、ドナウ河方面、東方)から攻撃を受け、帝国指導者はその攻撃に対処することができなかった。

 

三世紀の蛮族の短期的な攻撃の目的は、戦利品にあった。戦争というより襲撃、あるいは略奪というべきだ。

 

370年代から武装した蛮族集団が帝国内にとどまっていた。皇帝から莫大な収入を得ることを目指していた。

 

「大移動」という神話を捨てなければならない理由は、ローマ人と蛮族は対立こそしていたが、同じくらい頻繁に意思疎通もしていた。

 

蛮族との外交におけるローマ帝国の問題

・言語の問題

・蛮族の族長自身の自らの「民族」に対して実在する権威

・蛮族と取り決めを結ぶために、蛮族は文字を書かないため、ローマはさまざまな儀式に頼った

 

230年代、蛮族は帝国の境域において脅威とみなされていたが、その百年後になると、ローマ権力は彼らをリーメスの真の守護者とみなすようになった。

 

第三章 定住の形態

四世紀末から蛮族たちの帝国境界内への入植が強化され、また安定した。

 

第四章 五世紀における蛮族文化

蛮族の埋葬儀礼で最も注目に値する要素は、男性の墓にほぼ例外なく武具が埋葬されていることである。

自由人男性はまず戦士としての地位によって規定されていた。

 

裕福な死者の墓には豪華な食器があった。族長が取り巻きを扶養する役割を堅持しているのではないか。

 

蛮族の到来により、小麦、ワイン、オリーブを消費する地中海世界において、蛮族の好む畜産物と大麦ビールが入ってきた。

 

サルウィアヌスは蛮族の魂の純粋さにのみ焦点を当てているため、彼らによる権力乱用を看過している。

たとえば、彼はヴァンダル族がカルタゴの売春宿を閉鎖したことに注目しているが、地元の聖職者はその施設を黙認していたどころか頻繁に利用していた。

 

第五章 蛮族王国の建国

帝国の直接の後継者・・・西ゴート族、ブルグンド族、東ゴート族、ヴァンダル族

蛮族王国の第二派・・・フランク族、アラマン族、スエビ族

 

第六章 蛮族王国の改宗

 

結論

ローマ世界は消滅したのではなく、蛮族軍の圧力の下で変容した。

このプロセスは新しい民族的アイデンティティの形成をもたらした。

このアイデンティティを中心として新しい民族がゆっくりと形成された。

 

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姫路港(飾磨港)のシスレーのバラとにゃんこ

2024-06-10 20:17:55 | 小説

姫路港(飾磨港)のシスレーのバラ、今や花盛りという感じです。

うちのにゃんこです。

久しぶりの出番ですね。

「アタシも女ざかりなのにゃ!」

シスレーのバラをライバル視しています(笑)

 

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十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め

2024-06-09 21:27:00 | ヨーロッパあれこれ

十二世紀のルネサンス

ヨーロッパの目覚め

チャールズ・ℍ・ハスキンズ 著

別宮貞徳・朝倉文市 訳

講談社学術文庫

2017年8月9日 第1刷発行

 

元の著作は1927年に発行されました。

この本では十二世紀ルネサンスの例として、ラテン語古典の復活、法学の復活、ギリシャ語とアラビア語からの翻訳、科学の復興、哲学の復興、大学の起源などについて書かれています。

 

第一章 歴史的背景

十二世紀ルネサンスの文化の歴史

ロマネスク美術の完成とゴシック美術の興隆、抒情詩と叙事詩における各国語の隆盛、ラテン語の新しい学問、新しい文学

司教座聖堂付属学校の隆盛に始まり、最初の大学の確立をもって終わる

 

ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出に挨拶を送る」

 

一般的にカロリング・ルネサンスと呼ばれている九世紀の学問・文芸の復興はシャルルマーニュとその直後の後継者の宮廷を原点かつ中心としている。

 

第二章 知的中心地

 

第三章 書物と書庫

十二世紀に記録が発達し、訴訟が増え、文筆の才が進んだことから、また別の問題が生じてきた。大量の偽造である。

 

第四章 ラテン語古典の復活

シャルトルの学校は、十二世紀はじめの司教座聖堂学校の中ではずば抜けた存在だったが、それはまず第一に文学の学校としての優秀さだった。

ブルターニュ人のベルナルドゥス(ベルナール)は第一級の文法学者ながら自由闊達、ウェルギリウスとルカーヌスの作品をこよなく愛して、古典作家をあらゆる面から注解し、研究と思索の静かな生活を讃える詩をつくっている。彼の見るところ、当代の人たちは偉大な過去の巨人の肩に乗る小人だった。

 

アレクサンデル(アレキサンダー)・ネッカムは

ローマはこの世の冠、ほまれ、宝石にして飾り

と書いている。

中世人の見るところ、ローマは帝国であって共和国ではなかった。

 

第五章 ラテン語

十二世紀の西ヨーロッパの共通語はラテン語だった。

文学の目的にかなうような各国語は、さまざまな地方のラテン語方言から、ようやく形成途上にあったに過ぎない。

 

辞書のもう一つのタイプは、記述的な単語集で、無味乾燥なそれまでの語義解説単語表を廃し、文章の中に単語を組み込んで、その意味が説明されるような形をとっている。この系統のはじまりは、この時代でいえば、十二世紀初頭のパリの修士プティ・ポンのアダム、それに続く人は十二世紀終わりごろのパリの教師アレキサンデル・ネッカムである。彼らの著述は、家庭用品、宮廷生活、勉強道具を取り上げている。

 

ネッカム(1157-1217)は、単なる辞書編集者におさまらないところがあった。

パリの学生、ダンスタブルの教師、サイレンセスターの参事会員で修道院長だった。

自身の語るところでは「学芸をまじめに学びかつ教えた後、聖書の研究に転じ、教会法やヒポクラテス、ガレノスの講義も聞けば、市民法もまんざら嫌いではなかった」そうである。

 

第六章 ラテン語の詩

十二世紀のラテン語詩は、古代の様式や題材の単なる復活ではなく、はるかにそれ以上のものであって、そこには宗教の時代であると同時にロマンスの時代であるこの時代の、力強い多面的な生活が種々様々な形で表れていた。

しかし、この多様性がラテン語の迫りくる衰退の兆しである。数多くの国語が文学のより自然な媒体となる。

十二世紀は国際的な詩を持つ最後の偉大な時代なのである。

この一群のラテン語の詩から受ける印象は、混沌と言っていいほどの豊かさである。

 

ほぼ1125年から1230年にかけての十二世紀は、ゴリアルディ(遊歴書生)の詩の最盛期である。

ラテン語の世俗抒情詩を一般にそう呼ぶ。

 

第七章 法学の復活

三度ローマは世界を征服した。

軍隊によって、教会によって、そして法律によって。

さらに一言するなら、法律によるこの最終の征服は、帝国が崩壊し軍隊が瓦解した後の、精神的な征服だった。

ローマの法ほどローマ人の才を示すものは無く、また、根強くいきわたったものはない。

 

第八章 歴史の著述

十二世紀の知的復興が最もよくあらわれているものの一つを、歴史の著述にみることができる。

 

第四回十字軍(1201-04)は結局コンスタンティノープルの征服と短命なラテン帝国設立という結果に終わった。

この遠征の記述として定評があるのは、シャンパーニュの騎士のジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアンの筆になるもので、生き生きとして力強い自国語によるその叙述はきわめて魅力に富み、フランス文学史に著者の名を髙らしてめている。

しかし、その文学的魅力故に、長い間文不相応な歴史的重要性を与えられたきらいがある。

コンスタンティノープルへの方向転換を、所定の計画ではなく、単なる偶然の積み重ねのように書いている。

それは他の史料によって訂正されなければならない。

 

第九章 ギリシャ語・アラビア語からの翻訳

十二世紀のルネサンスは哲学、科学にかかわるものが多く、

コンスタンティノープルならずスペイン、シチリア、シリア、アフリカからも入ってきている。

 

第十章 科学の復興

1125年に始まる一世紀は、エウクレイデスとプトレマイオス、アラビア人の数学と天文学、ガレノス、ヒポクラテス、アヴィセンナの医学そしてアリストテレスの百科事典的に豊かな学識をもたらした。

 

旅行記の中では、1188年とその数年の間に『アイルランド地誌』『ウェールズさまざま』『ウェールズの旅』をギラルドゥス・カンブレンシスが書いた。

彼の地理学は非常に人間的である。

 

『サレルノ式健康法』の一節

「朝食のあとには1マイルの散歩、夕食の後にはひと時の休み」など今でも通用することわざがある。

 

第十一章 哲学の復興

 

第十二章 大学の起源

十二世紀は三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、そして神学という専門の学部を生み出した。

それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学門が西ヨーロッパにはなかったからである。

この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。

知的な革新と制度上の革新が相携えて進行した。

 

シャルトルが大学にならなかったのは明らかで、事実、パリの優位が確かなものとなった十二世紀の中葉にはシャルトルの最盛期はすでに終わりを告げている。

 

パリがいつ司教座聖堂付属学校ではなくなって大学になったのか、正確にはいえないし、大学創立の日を特定することもできない。
すべて最古の大学の例にもれず、パリ大学も作られたのではなく、育ったのである。

その成長もある程度物理的なもので、最初は聖堂構内に建てられた学校だったのが、教師と学者が住むプティ・ポンへ、プティ・ポンの哲学者たちは自分たちだけのグループを作っていた、さらには左岸まで広がって、以来そこがパリのカルチェ・ラタンになっている。

 

十三世紀にはパリは諸学の母であるだけでなく、諸大学の母となった。

パリを筆頭として生まれた子供たちは、北ヨーロッパの、さらに広い地域を含む。

 

ボローニャ大学はローマ法の復活の直接の結果として出てきたものだが、最古の法律学校ではなかった。しかし他の学校は大学まで発展しなかった。

ボローニャが最古の大学になったのは、地の利ではないか。

北イタリアの交通の要衝で、フィレンツエから北に向かう街道がアペニン山脈の北側を走るエミリア街道と交差している。

 

1200年頃には、おそらくアレクサンデル・ネッカムから出たものと思われるが、いくつかの科目で使われた作品の系統的な記録がある。

 

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ローマ帝国と地中海文明を歩く

2024-06-07 20:46:58 | ヨーロッパ旅行記

ローマ帝国と地中海文明を歩く

本村凌二 編著

講談社 発行

2013年4月22日 第1刷発行

 

学術的な解説を施した観光案内書です。

 

第一章 チルコ=マッシモ  戦車競走の興奮とファシズムの記憶

 

第二章 マルクス=アウレリウス帝騎馬像  古代都市ローマにただ一体残された大騎馬像

 

第三章 オスティアとポルトゥス  首都ローマを支えた双子の港湾都市

 

第四章 ポンペイ  ヴィーナスの街

 

第五章 シチリア  ギリシャ伝来、劇場文化の花咲く島

 

第六章 ミラノ  ケルト、ローマ、そしてキリスト教

 

第七章 トリーア  皇帝たちの都、北のローマ

 

第八章 リヨンと北辺の町々  都市の華やぎ、支える商人

地中海沿岸から運ばれてきた物資は、河口にほど近いローヌ川沿いの街アルルにおいて海洋船から川舟に積み替えられるか、あるいは海洋船に積載されたままリヨンに到着した。

リヨンで販売・消費される以外の商品は再びここで舟を替え、さらにリヨンで生産された食器等の新たな商品を加えてソーヌ川を北へを遡行する。

ソーヌ川中流域で舟を降りた物資は、牛などが牽引する荷車に積載され陸路北上し、ラングル高地を越えるとライン川支流であるモーゼル川流域に到達する。

そこで再び川舟に積まれ、モーゼル川を下り、ライン川流域を目指す。

そこには当時ローマ軍団などが駐屯していた。

 

第九章 南仏ミヨーのラ=グローフザンク遺跡  ローマ世界第一の陶工集落

 

第一〇章 アンダルシア遺跡紀行  地中海の息吹と都市文明の恩恵

 

第一一章 エディンバラ  スコットランドにおけるローマ帝国

 

第一二章 アテネ  路線バスで古代を巡る

 

第一三章 オリンピア  「オリンピック発祥の地」を超えて

 

第一四章 サモトラケ  マケドニアとローマの野望

 

第一五章 ゴルテュンとクノッソス  ポリスから属州の都、コロニアへ

 

古代クレタ島を代表する二大都市、クノッソスとゴルテュン

 

第一六章 ディデュマ  神の声を聞く地、聞かせる地

 

ディデュマは、現在のトルコ共和国中西部、かつて「イオニア地方」と呼ばれた地域に位置する。

 

第一七章 アンティオキア 忘れられた都市を探して

四~五世紀に作られたポイティンガー図と呼ばれるローマ帝国の地図

そこに描かれた三つの大都市はローマ、コンスタンティノープル、そしてアンティオキア

現在はトルコのハタイ県アンタキヤとなっている。

 

第一八章 キプロス ヒューラーテースと呼ばれた神

 

第一九章 バビロン 天空を仰ぎ見る学知の都市

 

第二〇章 ルクソール神殿 引き継がれる聖性

 

第二一章 ドゥッガ カピトリウムのある町で

カルタゴから南西に100キロ以上進んだ内陸部に位置するドゥッガ。オデュッセウスのモザイクが本来あった場所

 

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柳田国男を歩く 遠野物語にいたる道

2024-06-01 20:59:51 | ヨーロッパあれこれ

柳田国男を歩く 遠野物語にいたる道

井出孫六 著

岩波書店 発行

2002年11月28日 第1刷発行

 

出生地の辻川から、遠野物語までの柳田国男の足取りを、著者自身も訪問しながらたどっています。

 

日本一小さい家

柳田国男は、福沢諭吉や森鷗外がそうであったように、少年時代に生まれ故郷というものから物理的に引き裂かれてしまった明治人の一人だ。

『定本 柳田国男集』の総索引で彼の生地「辻川」を引くと、わずかに一か所しか出てこない。

しかし『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』により、彼の原風景は語り残されることとなった。

 

田山花袋や島崎藤村も柳田と同じ明治十年代、一家離散のような形をとっている。

明治維新から十余年、明治十年代はいかにも少年たちにとって過酷、惨酷な時代だった。

 

「国男少年」考

北条から神戸、横浜に至る初めての旅行

播州の奥の村で「江戸時代」を生きていた少年が、初めて「文明開化」にふれえた瞬間

 

第二の故郷

布佐、布川という町

利根川の河口銚子から帆掛舟ののぼってくる終点が布川・布佐の船着場であった。

布川の舟着場に揚げられた物資は北関東へ、布佐の舟着場にあげられた物資は木下街道を通って江戸へ、まさに海運と陸運の接点としてのにぎわいがそこにあった。

明治時代、あるドイツ婦人がこの辺りの風景をフランクフルトと呼んでこよなく愛した。

 

青春

柳田が生涯、師と呼んだのは、松浦萩坪(辰男)という歌人だけだった。

歌より外に露骨に云えば人生の観方というようなものをも教えられた。

 

1891年(明治24年)から翌年にかけて二年ほどの間に幾つかの私立中学校を渡り歩いて、急階段をかけ上がるようにして五年修了の免状を手に入れた。

 

うたの別れ・・・・・・

柳田国男の回想に、高校、大学を通じて恩師らしい恩師の姿が一切姿を現さないのが一つの特徴だが、ただ一人、大学の二年次にめぐりあった統計学講座の松崎蔵之助についての論及がある。

松崎はヨーロッパ留学から帰り農政学を伝えた。

農村経営にも経済学がなければならないという考え。

農産物の無機質な数字をグラフに表して、農業政策の指針が読み取れはしないか。

 

孤高の農政学

国男の卒業研究のテーマは三倉(義倉、社倉、常平倉)

維新後忘却されていた江戸期の社会保障制度たる三倉の掘り起こしに目を向ける。

 

明治三十年代の農政学は、ピカピカ光り輝くような新品の学問だった。

当時の輸出品目は生糸・茶・米という、純然たる農業国だった。

 

遠野への道のり

日向椎葉村への旅行が1908(明治41年)であることを考えれば、1907(明治40年)の志賀越えの小旅行こそ柳田の注意を峠-山村に向けさせた最初の旅として記念されるもののように思える。

 

山村が峠の死と物流の停止によって、平地の米作地帯にはりあうように現金収入の道をもとめるならば、山畑をすべて桑でうめ、養蚕に頼るしかなく、冬場、灌木を伐って炭を焼くという、モノカルチャーに追い込まれていく。

 

1908(明治41年)5月から8月までの大旅行は柳田にとって昆虫の羽化に似た変化ではなかったか。

柳田の内面で椎葉体験に基づく”羽化”の契機がなかったならば佐々木喜善の話に即座に反応を示すことがなかったに違いない。

 

一週間ほどの遠野の旅の前に、柳田の頭の中には、すでに佐々木の頭脳から搾り取られた百十九の怪異な物語の世界が大きく広がっていた。

旅はこの物語の風景にどのような色彩を塗り込めたらよいかという、いわばロケーション・ハンティングだった。

 

行灯と囲炉裏の時代、どこの家の祖母も母も、二十や三十の昔話をレパートリーとして持つエンターテイナーであった。

 

柳田が佐々木の口を通して聴いたものは、明治という時代が無視し、むしろその水脈を断ち切ろうとさえしていた伏流水だった。

 

『故郷七十年』のなかに生活の風景としての農村は出てこない。

大阪の経済圏に近い播州平野の農村部は早くに商品生産の渦中に巻き込まれてしまった。

辻川は東西南北の交差点で、早くから小さなマチを形成して、農村は近くて遠い存在になっていたかもしれない。

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航海の世界史

2024-05-29 20:57:26 | ヨーロッパあれこれ

航海の世界史

ヘルマン・シュライバー 著

杉浦建之 訳

白水社 発行

1977年1月25日 発行

 

副題は「五千年にわたる船と冒険の歴史」となっています。

 

1 小さな舟と大きな海

 

2 地中海という名の転車台

クレタ島は紀元前五十世紀に入植され、それゆえに六千年以上前にすでに舟が存在していて、かなりの数の人びとがその舟で公海を征服した。

 

エジプト人を助けたもの、というよりはおそらく航海をははじめて可能にしたものは、南北に流れる好都合な海流で、これに乗っていけば、原始的な舟でもナイルの河口からすべりだしてレバノンの港ビュブロスにたどり着くことができた。

もちろん帰路は、めったにない北風の日をいつまでも待たなければならなかった。

 

いったん船に乗れば何事も神様まかせというオデュッセウスの轍を踏まぬように、フェニキア人はとりわけて二つの補助手段を持っていた。

ひとつは北極星と小熊の星座であり

もう一つは地中海が提供するいくつかの拠点であった。

 

フェニキア人の航海で最大の、信じられないような、それでいて再三証明されている業績は、ファラオ・ネコの命を受けたアフリカ周航(紀元前613-611)である。

その日数は三年を要したが、マルコ・ポーロにしても海路中国から帰国するのに三年もかかった。

 

フランス大西洋岸のボルドーから古代の最も大胆な冒険航海の一つが試みられた。

マッシリアのギリシャ人ピュテアスの試み(紀元前330年頃)がそれである。

イングランドを回航してベルゲンの北の西ノルウェーにたどり着き、北海航路の特殊条件、とりわけ潮汐、霧、白夜についてはじめて報告した。

同時代や後代の人々が彼の報告を信用せず、とりわけストラポンが躍起になって彼を嘘つき呼ばわりしただけに、ピュテアスはそれに屈した形になったのである。

(ここではアイスランドに行ったとは書いてありませんでした)

 

あらゆる燈台の中で一番風変りなものといえば、カリグラ皇帝が、ドーヴァー海峡にはまだろくな航行もなかったのに、わざわざフランス大西洋探検のために、西暦40年今日のブーローニュの近くに建てさせた燈台である。

ちなみに、この建物は船乗りの怪訝な目をよそに17世紀に至るまで建っていた。

 

3 竜頭船と三日月船

ヨーロッパ大陸の地図を一目見たらわかることだが、陸路を横断するよりも船で一回りする方がたやすい。

ピレネー山脈ががっちり閂(かんぬき)を、アルプス山脈はさらにがっちりとした閂をかけている。そして東にはさらにカルパート山脈に接している。

 

ピュテアスは北イングランドにやってきたとき、港でノルウェーから着いた船を何隻か見せられ、かの国へ立ち寄るよう申し出を受けた。

ピュテアスは船乗りが中継ぎ用の港をよく知り、外国人の扱い方を心得ていること、そして自らのノルウェー訪問後ふたたび楽々と船便を得てイングランドに戻れることを確かめたのだった。

 

ヴァイキングは漁師兼航海者から商業国民になり、アラビア人は商業国民からやむを得ず航海者になった。

 

4 すべての海に帆を上げて

もしルネサンス時代の天才が蒸気船を発明したとすれば、そして蒸気船が十五、十六世紀を支配したとすれば、南北アメリカの発見はたぶん十八世紀まで、いやもしかすると十九世紀まで延び延びになっていただろう。

今日でさえ、現代外洋船の燃料補給はその行動半径にとって決定的だからである。

帆船は外洋越えの長距離航海を一手に引き受けることが出来てきた。

帆船の船室は、貯蔵品と乗組員を納めるためにそっくり使うことができる。それにこの貯蔵品は一般に人が住むところならどこでも補充できる。というより、飲水さえあれば無人島だってかまわない。

 

特に壊血病予防のたまねぎと、古い貯え水の混和剤としての酢は航海の経験に基づくものだった。

事実、大陸ヨーロッパの人間は、香辛料を利かせて料理し、たまねぎ、オリーブ、サラダなどをとる習慣のおかげで、たとえばブリテン人よりもはるかにうまく海の危険を切り抜けた。

 

プトレマイオスは地球の大きさを、誤って七分の二ほど小さく計算したのである。

このことがあらゆる西方航海をことさらに前途有望と思わせたのである。

なんといっても、東に横たわる陸地の広がりを過大に見積もりすぎていた。というのも、シナとインドの旅行記は、果てしない隊商路だの、シナ帝国の途方もない広さだの、そのもっとも東に位置するジパングという名の極めて大きな島だのについて語っているからである。

 

5 人間、船そして大いなる孤独

 

6 ドレークと仲間たち

 

7 ロイテルからネルソンまで

 

8 航海地獄

 

9 全速前進

タイタニックの悲劇は航海の安全規定に革命をもたらし、とりわけ外洋船での無線電信採用を早めるものであった。

こうしたいっさいのことがまだ現代人にどれほど身近であるかは、タイタニックのSOS信号を最初に聞いたアマチュア無線家で、アメリカに住むオーストラリア人が1973年に亡くなったという事実からして明らかである。

 

10 世界の海と世界大戦

 

11 昔はあれほど太平だった洋(うみ)が

 

12 水の上の未来と水の下の未来

コンテナは航海の貨物の面から見た革命

何万人というドック人足がコンテナに反対

コンテナは船の運航計画に基づいて船会社のコンピューターが立てている

また荷役装置が手を伸ばしてつかみやすいようにつくられている。特定のクレーン装置だけで積み下ろしの全部をやってのける。

 

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アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521

2024-05-26 20:43:55 | ヨーロッパ旅行記

アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521

アルブレヒト・デューラー 著

前川 誠郎 訳

朝日新聞社 発行

1996年7月10日 第一刷発行

 

本書はデューラーが1520年7月から翌年の7月までアントウェルペン市を中心に、今のベルギー・オランダ諸都市を訪ねた旅日記です。

内容は旅中の収支の明細を記録した出納簿が主になっています。また旅先で描いた作品も載っています。

文中では、ラファエッロ、ルッター(ルター)、エラスムスなどの有名人が同時代人として出てきます。

 

はじめに

デューラーを直ちに〈新教徒〉であったと速断すべきではなく、当時は今日的な意味での〈新教〉はまだ成立していなかったことに注意しなければならない。p4

 

ネーデルラント旅日記

エラスムスの肖像画作成のためデューラーによる写生が行われていた。

 

ウルビノのラファエル(ラファエッロ)が1520年4月6日亡くなった。その素描類は死後すべて散逸した。しかし彼の弟子のトーマス・ダ・ボローニャがデューラーに会いたいと言った。

 

賭博の記事が多く出てくるが、デューラーは大抵負けた話ばかりである。

遊戯はおそらく将棋(Brettspiel)であり、Schach、Muhle、Trick-Trackの三種があり、盤もこの三つを折りたたんで組み合わせてあった。

 

アントウェルペンでシュトラースブルグ(ストラスブール)のものよりも高いといわれる大聖堂にのぼった。

(実際はストラスブールのそれより11メートル低い)

 

ブリュッゲ(ブルージュ)でミケランジェロの聖母子像(1506年購入)を見るデューラー。

 

ルッター哀悼文

 

解説

デューラーがこの日記で使った言語は、1350年頃から当時まで行われていた初期新高ドイツ語だった。

 

当時と現代の値段の比較には、ローストチキンがまだわかりやすい。

 

当時、このような長い旅は例外中の例外であるとともに、限りない贅沢でもあった。

前半は年金給付請願のためだったが、後半は観光の旅だった。

 

1521年5月4日のルター逮捕のニュースを聞き、デューラーは悲痛極まりない哀悼文を書いた。

この逮捕は実はザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の書いた芝居だというのは今日誰しも知るところである。

ルターは事件の六日前に友人クラナッハへ宛ててしばらく身を隠すことを予告している。

 

デューラー時代、即ち十六世紀第一・四半期ごろのドイツ美術史を眺望して極めて特異に感じることは、デューラー、クラナッハ、グリューネヴァルト、ホルバイン、あるいはラートゲープ、リーメンシュナイダーたちの巨匠たちと政治とのあまりにも直接的な関係である。

 

ルッター哀悼文の四つの段落

・悲報の到来とその依って起こった理由についての考察

・救世主ルッター亡き今、彼に代わるべき真のキリスト者の派遣を神に求める祈り

・エラスムスに向かって万事を放擲して蹶起することを懇願

・黙示録を引用した結尾の祈り

 

 

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藤田嗣治 パリを歩く

2024-05-25 20:56:33 | パリの思い出

 

藤田嗣治 パリを歩く

清水敏男 著

東京書籍 発行

2021年9月9日 第一刷発行

 

藤田嗣治のフランスでの足跡を追っかけています。

文章と絵画と写真が、見事に調和とれています。

この本で扱っている絵画の中で自分が好きなのは『ホテル・エドガー・キネ』と『フレール河岸 ノートルダム大聖堂』です。

 

チューリヒにて 序にかえて

スイスが山岳の地と地と思うのは間違いで平地の国だ、と思う。

山岳が注目されるようになったのは啓蒙主義の時代に言語学者ソシュールの祖先が山岳の文化に関心を持って以来の事に過ぎない。

チューリヒもバーゼルもジュネーヴもヨーロッパと地続きだ。決して山岳の中の孤立した街ではない。

(バーゼルでドイツ国境まで簡単に歩いて行ったことを思い出します)

 

絵画が非物質の世界と物質的世界とのちょうつがいのような存在だとしたら、藤田が確実にいた場所、つまりこの世の側もできるだけ見ておくことは無意味ではないだろう。

 

藤田は1968年1月29日、チューリヒで亡くなった。

 

パリ篇

第1日 ホテル・エドガー・キネ 14区

ホテル・オデッサが藤田が1913年の夏、初めてパリに来た時に泊まったホテル

その道路の反対側にホテル・エドガー・キネ

ホテル・エドガー・キネを描いた絵(1950年)は藤田の二つの時期を象徴している。青春のパリと初老のパリ、しかも傷心で戻ってきたパリである。

その絵には赤い帽子の少女が描かれている。犬に挨拶する少女は新しい時代に挨拶している。

 

第2日 ヴィクトル・シェルシェ街 14区

ピカソは目に見える対象をバラバラに分解し、その後画面上で自由に再構成する、という絵、いわゆるキュビスムを推し進めたが、

ルソーの天性はそれをごく自然にやっている。

藤田の驚きは何層にも重なっている。

ピカソの描いた『アヴィニョンの娘たち』を見てピカソに驚き、ピカソがルソーを大切にしていることに驚き、そしてルソーに驚いた。

黒田清輝の教えとあまりにも違う。

 

第3日 税関吏ルソー緑地(マラコフ市)

ブルーデル美術館は昔は忘れられたような質素な美術館だったが、今は活発に活動している。

 

藤田の『パリ風景』

線路の向こう側はイッシー=レ=ムリノー市、線路のこちら側で画面の左側はマラコフ市。

(以前イッシー=レ=ムリノーのIT化についての原稿を書くために、当市を訪問したり会議に出席したことを思い出します)

 

マラコフ市でルソーが税関吏として働いていた。

 

ヴェルサンジェトリックス街はガリア人ウエルキンゲトリクスにちなむ。

なぜその名がついたのかというと、アレジアとジェルゴヴィという、彼とシーザー軍との主戦場の地名を冠した通りが近くにあったから。

 

第4日 パンテオン 5区

ピュヴィ・ド・シャヴァンヌがパンテオンに描いた壁画。

その草を同じように藤田と小杉未醒も描いていた。

 

第5日 ラ・ポエジー街 8区

 

第6日 グラン・パレ 1区

ド・ゴールの彫刻。都市景観と彫刻の関係がよい

 

第7日 パリ国際大学 14区

 

第8日 フレール河岸 4区

1950年、疲れ切った藤田をノートルダム大聖堂は受け入れた。その感謝の気持ちを絵にすることを考えた。しかし藤田は壮麗な大聖堂を描かなかった。フレール河岸から見た尖塔をもってしてノートルダム大聖堂とした。

戦争の傷は自分もパリも未だ癒すことのできない深手の傷だったに違いない。パリに戻ってきた喜びは抑えられ、深く内面に沈んでいた。ノートルダム大聖堂をわずかに拝む光景を選んだのはそうした藤田の心だったのではないだろうか。

 

第9日 カンパーニュ・プルミエール街23番地 14区

タルティーヌはバゲットを長めに切り、半分に割って内側にバターが塗ってある。そこにジャムをつけて食べる。フランス人はよくそれをカフェにつけて食べている。

(ランボーは『居酒屋みどり』でハムのタルティーヌをビールと一緒に食べていました)

 

第10日 カンパーニュ・プルミエール街17番地bis 14区

 

第11日 蚤の市 18区

『日曜日の蚤の市』の成立の連鎖

ピカソ→アンリ・ルソー→市壁→ラ・ゾーヌ→スラム街→蚤の市→(骨董・ブロカント趣味)→スラム街の撤去→野原

 

第12区 ガリエラ美術館 16区

藤田が出展した『誰と戦いますか』という絵。格闘家の面々を描く。若い時にパリの舞踏会で柔道のパフォーマンスをした藤田。

 

パリ市立近代美術館が国立近代美術館だった時に、展示室の窓からエッフェル塔を見た著者。いまだに心の網膜に残っているとのこと。

(ひょっとした自分がそこから見たエッフェル塔と同じだったかも?)

 

遠足編 第1日 ヴィリエ=ル=バークル

藤田の住居兼アトリエがある

 

遠足編 第2日 アヴィニョン

1918年アヴィニョンにいた藤田。1920年代のパリの成功をもたらした白い下地の技法をほぼ完成させたのはアヴィニョン滞在中だったと著者はみている。

 

藤田のいた場所はアヴィニョン新町(ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン)

ダラディエ橋を渡り切り左に折れる。

(コローがアヴィニョン教皇庁を描いた場所と同じ角度ではないだろうか?)

 

遠足編 第3日 ランス

藤田と君代夫人の墓があるシャペル(礼拝堂)

 

ランスの大聖堂を集中的に爆撃したドイツ軍。歴代フランス国王の戴冠式を行った大切な場所だからだろうか。

 

 

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後鳥羽院 第二版 Ⅱ

2024-05-17 20:24:35 | ヨーロッパあれこれ

しぐれの雲

五音ないし七音を六音あるいは八音にする工夫は、一つ調子をはずした、ゆったりした節回しをもたらしているようだ

それはいかにも帝王調にふさわしい仕掛けで、哀愁も、悲壮美も、そして場合によってはユーモアと呼んで差し支えないような何かも、それゆえに一層高まるのである。

 

隠岐を夢見る

折口信夫が自分を後鳥羽院に見立てたくなった動機

・この帝が和歌に長けていた。

・後鳥羽院が豪奢な宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけった。

・国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのなかった悲劇的境遇

 

折口が北原白秋の歌集『桐の花』に対するにおいて大事なこと

・白秋が古代、中世の歌謡集およびその用語から刺激を受けたという指摘

・若い折口がパンの会(若い文学者たちを主とした都市的な芸術運動)に切ないほどの関心を寄せていたという回想

 

王朝和歌とモダニズム

日本文学は歴史がむやみに長い。八世紀の古事記の中の素朴な歌謡から現在の村上春樹までとぎれることなく続いてきた。

ギリシャ文学は前八世紀のホメロスの叙事詩で始まるが、二世紀のルキアノスの諷刺文学のへんで中絶して、次はいきなり19世紀の現代ギリシャ文学になる。

イギリス文学は八世紀のベオウルフに始まるが、そこから十四世紀のチョーサーに飛ぶしかない。

中国文学は古代からの歴史は長いが、西洋の影響を受けた現代文学への切り替えに手間取った。

 

日本文学は長いだけでなく、ずっと恋愛に対して肯定的だった。

 

どこの国でも大昔は母系社会だったが、日本はそれが長く続いて、十五世紀頃に父系社会になった。応仁の乱以前の日本はまるで外国のようだった。

 

婿入りする帝という考え方は高群逸枝の説

 

天皇と和歌の関係

・まず自分で和歌を詠む。代作者がいても、とにかく詠む格好にする。

・宮廷和歌のパトロン

・勅撰集を編集させた

 

後鳥羽院を論じた最高の評論は折口信夫の『女房文学から隠者文学へ』

 

今様

十世紀の末頃からはじまって、十一世紀の中頃からはやりだした。

神楽歌、催馬楽、風俗歌などが古い唄で、今様は新しい様式の唄。

はじめは民謡であったものが職業的な歌い手、遊女や傀儡によって磨き上げられ、次いで貴族のサロンにおいて洗練された。

 

 

 

 

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後鳥羽院 第二版 Ⅰ

2024-05-16 20:58:40 | ヨーロッパあれこれ

後鳥羽院 第二版

丸谷才一 著

ちくま学芸文庫

2013年3月10日 第一刷発行

 

丸谷才一さんによる歌人としての後鳥羽院讃歌です。

 

歌人としての後鳥羽院

 

我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

 

藤原定家の「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」

見渡せば桜も紅葉もない、海のほとりの苫葺きの小屋からの秋の夕景にしくものはない、桜も紅葉もこれにはかなわぬ、という二重に入り組んだこころをこの三十一文字に託したのではないか。

 

後鳥羽院の「見渡せば」

・広やかな眺望を好むという個人的な嗜好

・風景美に対する詩人としての態度

・帝王として見渡した局面

 

橋姫

柳田国男によれば「大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀っていた美しい女神」

 

二十世紀ヨーロッパに見られる現象

文学者たちは写実主義から脱出する手掛かりを神話に求め、神話のパロディや再解釈という形をとった。

詩 エリオットの『荒地』

戯曲 サルトルの『蝿』

小説 ジョイス『ユリシーズ』

 

へにける年

『後鳥羽院御口伝』のなかにおける定家への攻撃

同時代のほかの歌人たちにはみな一言二言、褒めるだけにして、定家に対しては長広舌をふるうあたり、桁違いに重視したとしか思えない。あれはやはり一種特異な形での敬意の表明なのである。

 

定家の歌が称讃されたことを記しているのは、この百首歌が初めてであり、しかもその推賞者は後鳥羽院だったのである。

すなわち定家は後鳥羽院に発見された文学者だったわけで、上皇はこの発見一つだけでも日本文学にこの上なく重要な寄与を行った。

 

すでに卓越した技法を身に着けている初老の男は若いパトロンの嗜好によってそれをいよいよ磨き、

ようやく和歌のおもしろさを解し始めた青年は自分の趣味にかなった芸術家に触発されてみるみるうちに腕をあげていく。

 

定家に関する限り、彼の歌道への執心、彼の力量における上皇の信頼、それに彼の不器用な性格がこもごも作用して、定家は後鳥羽院と何度も衝突しては屈辱を味わった。

そしてあるいは病と称して和歌所に現れず、あるいは事実、病気(おそらく重いノイローゼ)になりながら、しかし結局のところ上皇の最良の助手、ないし相談役だったようである。

 

普通『新古今』編纂の内情について語る場合、『明月記』の記載が主な資料となるため、我々はどうしても定家側から事態を眺めがちで、もっぱら定家に同情し、話をそこで打ち切ることになるけれども、これはあまり想像力の豊かな態度ではない。後鳥羽院にしても多少は気兼ねしたはずなのである。

第一にその相手は遠慮ということを知らなくて、何かにつけて自説を頑強に言い張る。しかも定家は、頑固でひがみっぽい反面、有能で学識があり誠実だったし、それは後鳥羽院もよくわかっていた。

 

柿本人麻呂と山部赤人以降、斎藤茂吉と北原白秋に至るまで、並び称される歌の上手は多い中に、その運命的な対照によって隠岐院と京極黄門の一対に優るものはついになかった。

 

帝王が隠岐配流となってから、定家は保身のために近づかないよいという配慮があった。

彼が関東をはばかったのは動かぬところと言わねばならぬ。もともと定家の生活の基盤は鎌倉方と親しい人々によって固められてた。

 

文学者と文学者との真の関係は、互いにどれほど影響を受けたかということにしか存しないだろう。そして彼らは反目し対立する晩年において実は最も深く互い影響を与え合った。

 

高齢の身になってから、あるいは更にさかのぼって承久以後、定家は批評家であり古典学者であった。

批評家としての彼は後鳥羽院の影響を容易に探ることができる。

 

後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超え、そして定家は最初の近代詩人になることによって実は中世を探していた。

前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な対立はこうして生まれ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。

 

宮廷文化と政治と文学

ナポレオンと対応するものとして後鳥羽院

保田與重郎は英雄にして詩人という彼の主題を託するための格好な対象として、埋もれていた一人の大歌人を発掘した。

 

承久の乱という反乱の最も重要な部分は後鳥羽院という一人の妄想に属しているからである。

彼はそれを長い歳月にわたって心に育て、その結果、久しい以前から隠岐に流されることを夢み、更にはその事態に憧れていたようにさえ思われる。

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火

これは遠島以前の作?

 

和歌という文学形式が呪言によって生まれ、儀式となり挨拶となったという折口信夫の説は正しいようである。

 

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