ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

森鷗外 文化の翻訳者 岩波新書

2022-09-25 07:46:29 | ヨーロッパあれこれ

 

森鷗外 文化の翻訳者
長島要一 著 
岩波新書976
2005年10月20日 第1刷発行

この本は、鷗外の文業を広い意味での「翻訳」という観点から概観することで、狭義の翻訳の世界の向こう側に開ける「もうひとつの世界」をほぼ年代順に追っています。
なお、最近にも岩波新書から森鷗外の本が出ているようですが、それとは異なります。

第1章 そこにはいつでも「原作」があった ドイツ三部作
「ドイツ三部作」により、ドイツに留学した三人の日本人が西洋の女性とその背後にある文化環境といかに関わったかを、三種の典型的な例をもって示した作品。
三部作の三人の女性は当時の近代的な西洋社会の表象。しかし手に入れることはできなかった。
鷗外は深い西洋理解を示した上で、諦観する人となった。

 

第2章 鷗外とアンデルセン 文化の「翻訳」
『即興詩人』はリアリスティックな記述とロマンティックな夢物語が融合し、自伝と一人称小説が混合した複雑な作品であるとともに、実人生の記録と小説的虚構が無造作に織り成された紀行文学、観光小説でもあった。アンデルセンの半自叙伝とも呼ばれる。p52

第3章 口語文章体と西洋新思想の日本化 「翻訳」から創作ヘ
文語体を使用することで、以前の翻訳家鷗外は西洋文学作品中の登場人物の声をコントロールすることができた。しかし口語を表現の手段とするようになって、かつては遍在する語り手として作品の細部にまでことごとく制御することが可能だった翻訳者の役割を解体した。p110

 

第4章 仮面をつけた翻訳者 「訳者」であり、「役者」であること
イプセンの『幽霊』で、過去という亡霊にとりつかれた原作中の人物を、『かのように』などの自作中で批判的に取り上げながら、「訳者」であり人生の「役者」である自分の傍観者の立場と諦念を語る鷗外を浮き彫りにする。

第5章 歴史小説の世界 方法としての「翻訳」
『ノラ』翻訳後に発表した作品で鷗外は、自分の目から見た「好ましい」女性像を、理念ではなく生身の人間として提示していく。『安井夫人』の佐代。p190-191

第6章 小説から史伝へ 「翻訳」からの飛躍
「史伝」という方法で、鷗外が「(西洋)小説」執筆の際に「自己」を投影させていた虚構の主人公のかわりに、歴史上の実在の人物に「自己」の理想像を投影させて小説世界を構築する。p196-197
 
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人気モデルにゃんこ

2022-09-23 06:36:12 | 小説

ふにゃ、のんびり窓際で外眺めているのに、また写真を撮りにきたのね

しょうがなゃいなゃあ~
ポーズとってあげるのにゃ

上向いて…

 

下向いて…


小首をかしげて…

今日はこれくらいでカンベンして欲しいのにゃ
人気モデルはツラいのにゃ

 

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フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ

2022-09-21 22:02:11 | パリの思い出

 

フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ

ジョナサン・コンリン 著

松尾恭子 訳

柏書房

2014年12月10日 第1刷発行

 

本書はパリとロンドンの交流によって生まれた物事、あるいは強い影響を受けた物事について取り上げています。

二つの都市の歴史を比較し、交流の歴史をひも解いています。

パリとロンドンは「歴史の交差」によって、単なる都市ではない、今日のような世界の中心都市へと姿を変えました。

(歴史ある大国の首都が、海峡を挟んでいるとはいえ、このような近距離にあるのは稀有な例といえます)

なお原題はTALES OF TWO CITIES PARIS, LONDON and the Birth of Modern City です。

 

第1章 穏やかならぬ家

1789年頃、パリのアパートメントとロンドンのテラス・ハウス(連棟住宅)

パリは一つの建物に15世帯から18世帯が入るが、ロンドンは一世帯か二世帯しか入っていない。

家庭を大切にするため持ち家志向のロンドン市民、城壁の中で暮らさなければならないため、住宅は必然的に高層化したパリ。

 

第2章 通り

パリの「遊歩者」

あてどもなく通りを歩きながら、印象を集める。群衆に紛れる匿名性はスリルがあり、かつ高尚だ。

18世紀後半、ロンドンの通りは歩行者に優しく、パリでは馬車が通りの王だった。

パリの通りの泥の多さはロンドンの比ではなかった。

 

18世紀、通りに動物や物をかたどった大きな看板が掲げられていた。

広告媒体であり、街を歩く時の目印でもあった。

 

第3章 レストラン

パレ・ロワイヤルの改造は、1781年から1784年にかけて行われた。

ヴィクトル・ルイが回廊を設けた一階は商店街になった。

クラブや専門街、そしてレストランなどが、1784年4月から営業を始めた。p131

 

第4章 ダンス

フランスの「国のダンス」であるカンカンは、1830年頃に生まれ、やがて「陽気なパリ」を象徴するものの一つになった。

しかし実は、今日、フランスで「フレンチカンカン」と呼ばれているダンスは、フランスのカンカンとイギリスのスカート・ダンスが融合したダンスである。

ふたつの都市のダンサーが、互いに行き来する過程で、相手の国のダンスを取り入れていったのである。p182

 

スカート・ダンスは、スカートを両手で持って動かしながら、ワルツなどの伝統的なダンスを音楽に合わせて踊るダンス。p213

 

第5章 夜の街と密偵

18世紀から19世紀にかけて、パリとロンドンで生まれた探偵小説の歴史。

またホームズやふたつの都市の、夜の姿の変化について。

 

探偵という言葉は、1870年にイギリスからフランスに伝わった。

しかし、フランスでは18世紀に、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌが、探偵小説の起源といってよい作品を発表している。

レチフは多くの作品を残しているが、ガボリオと同じく、現在は忘れられた作家となっている。p235

(オーセールの街には、レチフのカラフルな像がありました)

レチフは自らを「観察する梟」と称し、夜の街を探索した。

 

ウジューヌ・フランソワ・ヴィドックの波乱の人生。その中でフランスの警察の密偵としても活動する。

 

パリにおいて、密偵である「観察する梟」が登場し、その1世紀後、ロンドンにおいてドイルがホームズを生み出した。

 

第6章 死者と埋葬

パリの共同墓地の中で、特にロンドンの共同墓地に影響を与えたのは、ペール・ラシューズ墓地である。

なお、パリの共同墓地は反教権主義的だった。ペール・ラシューズ墓地は1804年に開設された。p282

 

ロンドン郊外の共同墓地を作ったのは、政府ではなく民間企業である。ケンサル・グリーン墓地は、総合墓地会社(GCC)が作った墓地だ。この株式会社は、現在も墓地を運営している。p302

 

現在、ロンドンのナンヘッド墓地や、パリのペール・ラシューズ墓地から眺めるふたつの都市は、どちらもずいぶんおとなしい。

 

墓地から見る街は、アクアチント版画のようだ。墓地の木々の葉の額縁で囲まれており、とても美しい。p327

 

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鷗外 わが青春のドイツ

2022-09-19 06:36:25 | ヨーロッパあれこれ

 

鷗外 わが青春のドイツ
金子幸代 著
鷗出版 発行
2020年11月20日 初版第1刷発行

森鷗外が滞在した四都市、ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘンについて、『独逸日記』、『舞姫』、『文づかひ』、『うたかたの記』などからの引用文と舞台となる場所の写真を順次紹介し、説明文をつける体裁をとっています。内容については1996年から1999年の雑誌掲載時のもの故、現在の研究内容と異なる点もあります。
また鷗外留学目録として、1884年(明治17)~1888年(明治21)も収録しています。これには帰国後舞姫のエリスのモデルであるエリーゼ・ビーゲルト訪日時のてん末なども含まれています。

 

Ⅰ ベルリン 『舞姫』の舞台
マリーエン教会/ブランデンブルク門/ベルリン森鷗外記念館/コッホ研究所/フンボルト大学/シャウシュピールハウス/クロスター教会/ベルガモン博物館

Ⅱ ライプツィヒ・ドレスデン 『文づかひ』の舞台
ライプツィヒ駅/オペラ座/旧市庁舎界隈/デーベン城/マッヘルンの騎士の館/ドレスデン王宮/ゼンパーギャラリー/ゼンパーオーバー/下宿跡/アルベルト王との対面/もう一人のエリス/女性解放運動家ルイーゼとの出会い/ゴオリスでの送別の宴

Ⅲ ミュンヘン 『うたかたの記』の舞台
ミュンヘンの凱旋門/ババリア像/王立美術学校/演劇の都/シュタルンベルク湖/ノイシュヴァンシュタイン城

 

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柳田國男先生随行記

2022-09-18 06:33:14 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田國男先生随行記

今野圓輔 著

河出書房新社 発行

2022年3月30日 初版発行

 

昭和16年、柳田國男66歳当時の九州までの講演旅行にお供した時の記録です。

 

「君は人造スレートっての知ってる?」

「いいえ」

「この前の世界大戦のとき、私(柳田)の弟(松岡静雄大佐)がチェコスロバキアかで、それを見て、ぜひ日本に売ってくれというわけで、日本で個人でやっていたのを、今は浅野セメントで買い取って作っているよ」p36

 

「私(柳田)は、50くらいまでは、飲まなかったんだよ。西洋に行っていたとき、一人であんまり淋しかったから飲み始めたんだ。フランスから帰った時に帰ったら飲もうと思って、そのころは自由がきいたから、ブドー酒をたくさん持ってきたんだ。そしたら結膜炎をやってね、家の者が「今これ飲んだら死にますよ」なんて言うんで、とうとう人に分けてやってしまった。…」p62

 

日本では、古典で我々の教養を形作られていなかったのです。プルタークの英雄によって養われた生活は、今日までヨーロッパの文化層を作っていましたが、日本では古典にょって養われることは許されていませんでした。p121

 

「森鷗外(1862~1922)は兄貴の友達で、例えば「即興詩人」などは、原本と比べると、逐語訳で、よい日本語にわかりいい文章をすらりと使っているところは偉い。その点にかけてはね。私はだいぶあの人に影響を受けています。詩を訳すのに韻まで含んでいます。」p129

 

ここの娘たちは、結婚前ほとんど全部が各地で遊女になって銭をため、結婚資金を稼いでから村に帰って結婚するという。稼ぎ方が多ければ多いほど、いい結婚ができるなど、天草一円がそうであるが、ことにこの辺は日本婚姻史上、多くの史料を蔵している所である・・・p137

(ちょっと信じられない)

 

「僕が13のとき、はじめて播州を出て東京へ出たんだが、家で雇った人力(車)に乗って、15里かそれ以上もかけてここ(神戸)まで来た。・・・」p149

 

「・・・来年の今月の今日の、まったく同じ時刻に通ったとしても、天候も風の具合も光の加減も違っているだろう。だから全く同じ景色というのは、決して二度と見られるものではない」p160

 

柳田先生出講の日、たまたま学生が佐藤(信彦)先生たった一人というときがあった。しかし柳田先生は、はじめっから終わりまでも寸毫もいつもと変わらずに、原稿に従って音吐朗々と講義を続け、終わってそのまま静かに教室を出ていかれた。p163

 

柳田先生が、弟子にあたる人たちを、どんなによく世話なさったか、涙の出るような実話を聞かされた。先輩たちの結論は「先生は冷たくしているが、温情の人だ」ということだった。そして橋浦さんから「先生に優しくしてもらうような境遇になってはいけないよ」と戒められた。p169

 

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