ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

レコンキスタの夢の跡(ムーアの城跡)

2006-01-31 23:03:10 | ヨーロッパ旅行記
ペーナ宮殿から、山中の車道を下り、途中で山道に入る。
途中、家族連れの観光客などとすれ違う。
巨大な石がころがっているところから入り、城壁にたどり着く。

この「ムーアの城跡」とは、8世紀から9世紀ごろ、ムーア人によって築かれたとのこと。
ムーア人とは、イベリア半島に侵攻したイスラム教徒の呼称らしい。
その後、1147年にアルフォンス・エンリケス王が攻め入り、落城せしめた。同年、レコンキスタ達成。
ちなみに、その4年前の1143年に、ポルトガル王国を建国していた。
現在では、城壁のみ残っている。地味といえば地味だが、きちんと手入れはされているらしく、しっかりとした状態である。
現状をムリヤリ例えれば、万里の長城のミニチュア版て所だろうか。城壁の間に階段がある。そして城壁に沿う山上に高低差があるため、どんどん登っていくような仕組みになっている。
当然、展望も開け、シントラの街はもちろんの事、はるか彼方まで見渡せる。
その分、足もとが心もとなく感じ、少し怖かった。
城壁だけでなく、砦のようなところもあり、城としての装置が垣間見れる。
ヨーロッパの場合、「城」の定義が日本に比べて広く、豪華な邸宅まで含めており、綺麗で豪華な印象を持つ事も多い。
ここは山城の典型的な例であり、軍事的な機能のみの城だったんだなあと想像できる。
今に連なる、イスラムとキリストの厳しい戦いが、ここでもあったわけだ。

城壁の上を、見回り兵のごとくうろちょろした後、シントラへの下り道を降りていく。

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ポルトガルの山上宮殿

2006-01-28 23:35:44 | ヨーロッパ旅行記
レストランを出て、ペーナ宮殿を目指す。
もともと予定では、シントラの街からバスで山頂の宮殿まで行くつもりだったが、わざわざ街中まで行く気にもならなかった。すぐ近くにルートがあったので、そのまま歩いて山道を登っていく。
冬にもかかわらず汗が出てくる。苦労し宮殿に到着する。
このペーナ宮殿は1850年に完成した。このころは既にポルトガル王国に翳りが見え始めた時期でもあり、王政崩壊も近かった。
そんな現実から逃避するかのように、建設当時の王カルロス1世と王妃は、結構長い時間ここにいたようだ。そういう悲哀あふれる宮殿なのだ。
宮殿の中は、豪華なダイニングルームなど、当時の姿を再現し展示していた。
外観は赤や黄色などの原色で彩られており、少しけばけばしく感じられる。この時は、搭の部分が改修中であり、足場で囲まれていた。
宮殿からは眼下にポルトガルの大地が広がり、さらに大西洋まで望めた。
それにしても山の上にこんな豪華な建物を建築するのはたいへんだったと思う。いろんな資材を運ぶだけでも困難だったんだろうななんて思ってしまう。
なにせ自分も直接歩いてきたため、そんな状況を少し実感することができた。

ペーナ宮殿を見学し終わり、少し下がったところにあるバス停まで降りていく。
ここの売店でジュースを買い、一休みする。
このままバスに乗って街まで降りようかと思ったが、結局近くにある「ムーアの城壁」まで行こうと決心する。旅に出ると多少疲れていようが、がめつくなり、少しでもいろんなものを見ておきたいという気になる。
表示を頼りに、緑の中の道を進んでいった。
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シントラでポルトガル米料理を噛みしめる

2006-01-27 23:09:16 | ヨーロッパ旅行記
ロカ岬を離れ、バスで再び田舎の村々を抜け、シントラ駅前に戻る。
ここから、シントラの街内に歩いて向かう。簡単に行けるだろうと油断していた。
ところが、どこをどう間違えたか知らないが、緑の中に点在する住宅の間のくねくねした道を行くうち、道に迷ってしまった。(毎度の事だ)
途中、同じように道を迷っている白人の若い男とすれ違う。
しばらく行くと、広場のようなところに、アットホームなレストランがあったので中に入る。ちょうど時間も昼過ぎだった。
注文を取りに来た時に、ガイドブックの地図を指差し尋ねる。「ここはどこですか?」
その地図を覗き込んでくる。
もうここは、すでにその地図から外れているとのこと。
ちゃんとした地図を持ってきてくれて、レストランの場所に丁寧に丸をつけて教えてくれた。
昼ごはんを注文する。米の料理で、タコが入っていたように思う。
普通のポルトガルの家庭料理だろうが、味はちょうどチャーハンで、歯ごたえのあるウインナーが具に入っているような感じだった。たいへんおいしく、なおかつ懐かしい日本の味でもあった。ミネラルウォーターと共に食べる。
店に入ったときはそんなに人はいなかったが、食べているうちに、だんだん客が増えてきて、賑やかになった。
食事を終わる。さすがにここでは、レジはまだユーロ化されておらず、電卓でレートを計算した後、手書きでレシートにユーロの金額を書いてくれていた。
感謝の気持ちをこめて、チップを含めて支払う。
オブリガードオブリガードといい、レストランを出る。
今度は道に迷わないように、もらった地図をしっかり見ながら、山上の王宮を目指す。

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大西洋の風を浴びて(ロカ岬)

2006-01-23 23:40:03 | ヨーロッパ旅行記
ロカ岬の事をはじめて知ったのは、五木寛之の小説のあと書きだった。
小説の題は「戒厳令の夜」と、「黄金時代」だった。
そのあと書きでは、すぐ波土際のそばにモニュメントがあるような書き方だったので、バスから降り立った時は意外に思った。
というのも、切り立った高い崖の上だったからである。
「岬」というので、崖の上が当たり前といえば当たり前の話だが、先入観とは恐ろしいものである。
到着した時にはすっかり天気もよく、少し雲はあるものの、遠くまで青空が広がっていた。
180度以上の展望で大西洋を満喫する。はるか彼方の水平線まではっきり見える。
石碑の周りを歩く。そこには「ここに地果て、海始まる」という意味らしい。本当にその言葉がぴったりの場所だ。
恐る恐るという感じで下を覗き込む。白いさざ波がたっている。
南側に目を転じると、灯台がある。実際に使用されているのかはわからない。
更に向こうには、いく層かの崖がある。そして彼方の海辺に街が見える。
すっかりいい気分になり、多肉草のが生い茂る灯台のところまでも歩き回る。

一旦旅行案内所に行き、最西端到達証明書を買う。
お姉さんもよく慣れており、愛想よく応対してくれる。
自分の名前を紙に書き、それをお姉さんに渡す。
それを見て、手書きの装飾字で名前や日付を書いてくれる。そしてロウ印を押してくれた。こんなものでもうれしいから、無邪気なものである。イノセントという英単語が思い浮かぶ。そういえば、ビリー・ジョエルで「イノセント マン」という曲があったなあ。
でもうれしければいいじゃん、という気持ちにもなる。

案内所を出て、ふたたび海を眺める。
ずっといても飽きる事はなかった。この空と大海原をずっと体中で浴びていたかった。
しかしバスの時間は来る。
バスに乗り、大西洋からの追い風とともに、ロカ岬から離れた。
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ポルトガルの田舎を通って(ロカ岬へ)

2006-01-22 23:23:55 | ヨーロッパ旅行記
シントラ駅からバスに乗りロカ岬を目指した。
バスはくねくねと田舎の小さな村々の間を走っていく。途中、村の広場で野外市場をしていた。バスを降りて立ちよりたかったが、次のバスがいつになるかわからないので、窓から眺めるにとどめる。
また廃線跡などもあり、田舎の風情が出ていた。

バスは海の方に近づいていく。どこで降りたらいいのかよくわからない。そのままカスカイスという終点の町まで行ってしまったらどうしようなんて思ってしまう。
途中、観光客らしい東洋人の男がバスを降りていった。なぜこんなところで降りるのだろう、間違えているのかな、いや間違えているのは俺だろうかなんて、いちいち心配になってしまった。

しばらく行くと、海へのパースペクティブが広がってきた。
そして岬の風景が広がる。ついに到着した。
幸い天気にも恵まれた。
目を見張りながら、バスから降りる。
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