ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

森鷗外 学芸の散歩者

2022-11-26 11:01:17 | ヨーロッパあれこれ

 

森鷗外
学芸の散歩者
中島国彦 著
2022年7月20日 第1刷発行
岩波新書(新赤版)1937

森鷗外のわかりやすくまとめられた評伝です。
この本を再出発点として、更に鷗外を深める助けにもなりそうです。

プロローグ 自伝と証言の間

Ⅰ 林太郎として生まれて 日本とドイツ
1 故郷と両親 青野山に見守られて
鷗外には、故郷である津和野を正面から描いた文章は、なぜか見当たらない。実は、生前一度も津和野に帰っていないのである。故郷を捨てたわけではないだろう。かえって、無意識の中で、故郷を純粋な姿のまま自分の感性にとどめておきたいがために、触れることがなかったのではないか。p13

2 医学に導かれて 上京と医学校生活
筋肉通論
16歳の林太郎が、エルンスト・チーゲルの生理学の講義を、漢字カタカナ混じりで翻訳したもの。ドイツ語の医学用語の訳も、まだきちんと定まっていない時代に。p21

 

3 ドイツ留学 諸都市をめぐる
夏目漱石は、留学先のロンドンに向かう前に一週間ほどパリに立ち寄り、1900(明治33)年のパリ万博を見物する。その行動や感慨は妻鏡子に送った書簡などで知られるが、林太郎のパリ体験の内実をうかがえる資料はほとんどない。
10月9日パリに着き、大学で同級だった佐藤佐と再会して、その夜「夜電(エデン)」劇場に行くが、滞在三十数時間のパリはどう映ったか、その印象はわからない。p27

 

Ⅱ 鷗外への変貌 創作と軍務
4 ドイツ三部作 エリーゼ事件と最初の結婚

5 翻訳と論争 応答する自己
鷗外の翻訳の中で、著者が注目するのが、ドイツの女性作家オシップ・シュビンの小説の翻訳「埋木」
この作品が、明治の文学者に与えた影響は見落とせない。p74

6 「観潮楼」での新しい試み 『美奈和集』の成立

7 小倉での日々と再婚 新たな出会いと別れ

 

Ⅲ 飛躍する鷗外 文壇への復帰
8 東京への帰還と日露従軍 『うた日記』の世界

9 新しい表現を求めて 『スバル』での活躍
『森志げ小説全集』上下二巻を手にとった人は、志げが書いた小説がこんなにあることに驚く。p132

10 小説世界を広げる 『青年』の心境
『スバル』発刊直後、第三号の誌面から、無名氏による「椋鳥通信」という西洋文化の断片的な消息記事が連載された。
これも鷗外の仕事で、当時これほどのいち早い西欧芸術の紹介記事は他に見当たらない。p149

11 大逆事件に向き合う 「かのように」『雁』「灰燼」

 

Ⅳ 林太郎として死す 歴史と人間
12 明治の終焉 「阿部一族」「安井夫人」の造型
著者(中島国彦氏)は、典拠の若山甲蔵『安井息軒先生』の鷗外手沢本を手にしたとき、佐代の逝去についての記述がわずかであることに驚く。
その短い記述から、これだけの(豊かな)人物描写が生まれている。一人の女性に対するオマージュとして、これ以上のものを著者は知らない。
「お佐代さんは」「お佐代さんは」と繰り返すなかで、鷗外は資料の世界を超えて、一人の生身の人間お佐代さんにぴったりと寄り添う。p191
(鷗外は安井先生にご自身を、そしてお佐代さんに妻の志げさんを見ていたのでしょうね)

13 歴史小説の展開 「山椒大夫」「高瀬舟」の試み

14 史伝の世界 「澀江抽斎」「北条霞亭」の境地

15 晩年の仕事 遺言に至る道

 

エピローグ 移ろい、よみがえる鷗外
鷗外について、よく「テエベス百門の大都」という言い回しがなされる。木下杢太郎が、「森鷗外」という比較的まとまった鷗外論考の最後のまとめの部分である「余論」の冒頭で書いたもの。p233-234

あとがき
著者はこれまで明治・大正の多くの文学者を論じてきたが、調べれば調べるほど、誰もが鷗外とつながっていることを実感してきた。
鷗外は近代文学の結節点なのである。p245-246

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国境で読み解くヨーロッパ 境界の地理紀行(後半)

2022-11-24 19:29:36 | ヨーロッパあれこれ

 

6 見えない境界を巡る 北イタリアの言語境界

柳田國男の「峠に関する二、三の考察」より
峠には表と裏がある
峠の道には谷をたどっていく道と、尾根筋を行く道がある
谷の道は平野から登っていくのに都合がいい。しばらくは川筋に沿って行くので傾斜が緩く、最後に急坂を登れば峠に着く。
尾根道は峠から下りてくるのに都合がいい。常に目的の場所を見下ろして確認しながら進んで行ける。
つまり峠は谷を上がって尾根で下りるのが自然であり、柳田はそれぞれを表の道と裏の道と呼んだ。p91-92

 

7 国境に接する町を歩く 多文化都市ブラティスラヴァ
多くの都市には、現地読みの名前の他に、それとは異なる呼び名がある。学術的には現地語による呼称を内生地名、現地以外の言語による呼称を外来地名という。 
ヨーロッパの多くの都市に複数の名前があるのは、人の往来によって異なる言語を使う人々がしのぎを削ってきた歴史があるため。p95-96

スロヴァキアの首都がなぜ西の端のブラティスラヴァになったか?
この町は長い歴史の中でオーストリアやハンガリー、そしてさまざまな民族の拠点になり、ブラティスラヴァ城や数々の宮殿、劇場が立ち並ぶ風格ある都市になった。首都にとって望ましい条件は整っていた。もちろん、国境に近すぎるので首都は国の中央に置くべきとする声がないわけではなかった。しかし何よりも、スロヴァキアにはこの町に勝る都市が見当たらなかったのである。p101

 

ドナウ川を越えて、その南側も領土に取り込むことに成功したチェコスロヴァキアのブラティスラヴァ
似た例として、イギリス領ホンコン。そこにはイギリスの大陸への野心が透けて見える。
野心はともかく、ブラティスラヴァの南の領土も、のちにさらに南へと伸びたから p103

スロヴァキアとハンガリー、オーストリアの国境が集まる三国国境を目指す筆者。
ヨーロッパにはこのように3つの国境が集まった場所があちこちにある。
有名なのはドイツとフランス、スイスの三国国境。これが位置するバーゼルは、国境の町として知られている。p109

 

8 国境に消えた人々を追う アウシュヴィッツ鉄道紀行

チェコ北部からポーランド南部にかけての地域にはなぜたくさんの鉄道線が張り巡らされているのか?

19世紀後半、ヨーロッパの鉄道建設ブーム時、このあたりはドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国、それにロシア帝国の国境が集まっていた。産業の要である製鉄業のため、原料、製品、そして労働者を運ぶ鉄道が必要だった。
また国境ゆえ、軍事行動のため、前線に武器や兵士を多量に運べる準備も必要だった。

アウシュヴィッツは大工事を建設するための最適の場所になってしまい、工場の労働力は強制収容所から供給された。
またヨーロッパ各地からユダヤ人を連行するのにも鉄道網が役立ってしまった。



9 国境に紛争跡を探る クロアチア国境

バルカンの特徴を言い当てた言葉「バルカニゼーション」
それまであった巨大な国や領域が小さな国に分裂していく状況p131

クロアチアの町ヴコヴァル
人口2万8千ほどの町だが、クロアチア人でこの名前を知らない人は恐らくいない。なぜならクロアチア紛争の最大の激戦地であり、この町の犠牲があってクロアチアが独立できたとされているからp136

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは紛争後、連邦制となる。
ボシュニャク人が住むボシュニャク人地区とクロアチア人が住むクロアチア地区からなるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦と、セルビア人が住むスルプスカ共和国であり、両国の間に「国境」が引かれた。
スルプスカとは、セルビア語でセルビアを意味する。
主権国家の国境でないので、パスポートチェックも柵もなくて、案内板があるだけだがp141、セルビア語の文字がスプレーで消されているのをよく見かけた。p142

バルカンはどこか、という質問をクロアチアの知人たちにしてみると、一様に、それはセルビアから東の地域、と答えが返ってきた。
ところが、クロアチアの西隣のスロヴェニアや北のハンガリーで聞くと、バルカンはクロアチアから始まると言ってきた。
そしてオーストリアのウィーンで同じ質問をすると、バルカンはハンガリーから先なのだそうだ。
どうやらみんなバルカンには住みたくないらしい。p144

 

10 ヨーロッパを映し出す国境

川の国境は地理学で自然的国境の例として挙げられている。
しかしその一方川は両岸を結ぶ役割も果たしてきた。そうすると川に国境を引くのは、むしろ不自然ということになる。
多くの川は沿岸に大都市が立地している。
逆に川が国境になっているところを見ると、地域の人々の暮らしを無視して引かれたものが多いことに気づく。
exドイツとポーランドの国境オーデル川
ハンガリーとスロヴァキアの国境のドナウ川
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国境で読み解くヨーロッパ 境界の地理紀行(前半)

2022-11-23 12:39:45 | ヨーロッパあれこれ

国境で読み解くヨーロッパ
境界の地理紀行
加賀美雅弘 著
朝倉書店 発行
2022年5月30日 初版第2刷

自分が経験した国境体験で印象に残っているのはストラスブール、ケール間の仏独国境と、バーゼルそばの三国国境でした。国境越えは独特の感慨がありますね。この本はヨーロッパあちこちの国境の状況を詳しく伝えてくれています。

はしがき
オランダの町パールレ ナッサウ
町の中にベルギーの領土がちりばめられている。
スロヴェニアとクロアチアは地中海に面した土地をめぐってともに譲らす、地図に二本の国境が引かれている。
スペインとフランスの国境にあるフェザント島は半年ごとに統治が変わる。
リトアニアの首都ヴィルニュス市内にあるウジュビス共和国、主権国家ではないが、建国の日とされる4月1日だけ国境で検問が行われ、パスポートがないと入国できない。p1

 

1 ヨーロッパの国境の景観 地理学から見る国境の魅力
国境に特有の景観
・国境自体を示す景観
表示板、標識や標石、柵や壁
・国境の影響で現れた景観
軍事施設、行き止まりの道路、ショピングセンター、原発
・国境付近の少数民族集団の景観
彼らの言語による地名を併記した道路案内板

・国境を挟んで対比される景観

・ヨーロッパ特有の「国境らしくない景観」
人やモノが自由に越えられるEUの国境の景観

西ヨーロッパに比べ、東ヨーロッパは19世紀以降に引かれた比較的歴史の浅い国境が目立つ。

 

2 EUを象徴する国境を訪ねる(1) ドイツ・フランス国境
なぜアルザスが争奪の場になったのか
・ライン川の水運が経済や軍事面で大きな役割を果たしてきた
・アルザス語は言語学的にドイツ語の方言とされるため、統一国家ドイツを目指す上でアルザスはドイツの正当な領土とみなされた。

国境の町ケール
人口3万5000人
1678年 ルイ14世治世のフランスの領土になる
1683年 ストラスブールの橋頭堡としてヴォーバンの手で要塞化される
1815年 ドイツのバーデン大公国に加わる
1861年 ライン川に鉄道橋が架けられ、パリとウィーンを結ぶ直通列車がケールを通過する
1870年に始まる普仏戦争でフランス軍による破壊を受けたのちにドイツ帝国の領土に入る
第一次世界大戦でドイツが負ける、再びフランスの占領を受ける
1930年 ドイツに返還される
1933年 ナチスによる再軍備が始まると対フランスの前線に置かれる
1936年 要塞線「ジークフリート線」が建設される。住民は疎開
1940年 ドイツによるフランス占領によりライン川が国境でなくなったため住民が自宅に戻る
1949年 西ドイツが成立
1953年 ケールが西ドイツに返還される
1957年 欧州共同体(EEC)が設立
1960年 ヨーロッパ橋が開通
1995年 シェンゲン協定により独仏間をパスポート無しで往来可能になる

 

ストラスブール中央駅
1889年、ドイツ帝国時代に建設
2007年 ファサードの前面にガラス張りの覆いがつくられる
TGVの乗り入れに伴い、ドイツとつながっていた過去を消したかったのでは、という邪推をしてしまう。

サンポール教会
もとは1897年に駐屯ドイツ軍のために建てられたプロテスタントの衛戍(えいじゅ)教会p27

 

3 EUを象徴する国境を訪ねる(2) ドイツ・フランス国境
コルマール、フライブルク、ヌフブリザック

4 東西分断の国境を体験する 東西ドイツの国境跡
1984年、東ベルリン行きの観光ツアーに参加した著者
バスの中、ガイドが左側の五ヵ年計画で建てられた住宅を紹介する。
隣のドイツ人の男が、今度左側を見ろとガイドが言ったら右を見ろ、という。
その通りにすると、大戦で破壊されたままの廃墟が見えた。p59

 

5 変わりゆく国境の姿を描く ドイツ・チェコ国境
チェコの国境の町へプ。旧市街、町の中心に人がいない。なぜ?
・歴史ある個人商店のほとんどが社会主義時代に消えてしまった。郊外に大規模な住宅団地が造成された。東ヨーロッパ共通の問題。
・郊外に大型店がつくられたため
西ヨーロッパでは、郊外への大型店の進出は制限されている。

チェコの国境沿いにあるかつてのドイツ人の村の説明板
第二次世界大戦まではドイツ人の住む地域だったが、彼らが追放された後、廃村となっていた。
しかし最近記念碑や説明板が出来ている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳田國男を歩く 肥後・奥日向路の旅

2022-11-22 21:28:10 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田國男を歩く 
肥後・奥日向路の旅
江口司 著
現代書館 発行
2008年11月15日 第一版第一刷発行

柳田國男が宮崎県東臼杵郡椎葉村へ足を踏み入れたのは、明治四十一(1908)年7月13日のことであった。
肥後・球磨・奥日向路行程の中に含まれていたものであった。
その時の柳田國男は明治政府の高級官僚であり、椎葉の山人にとっては、ふいに訪れた異人(まれびと)でもあった。
翌、明治四十二(1909)年二月には、その時の所産ともいうべき、日向国奈須の山村において今も伝わる猪狩りの故実『後狩詞記』が生まれる。
2007年、著者は柳田國男が歩いた道をたどる小さな旅に出かけた。
そして柳田の旅の謎に迫っていきます。

 

柳田を椎葉村に向かわせた二人の近世の旅人
橘南谿
京都を中心に諸国を歩いた医者であり旅行家として『西遊記』は天明三(1783)年三十一歳の頃九州を歩いた時の記録。p23
古川古松軒 
天明三(1783)年五十八歳の時敢行した旅の記録が『西遊雜記』p25

二人とも人吉まで行くが、那須・椎葉村には足を踏み入れていない。

柳田の旅の特徴を一言で言えば、「草鞋で歩く」であろう。
そしてもう一つの趣向は、峠越えであろう。

 

柳田の椎葉行きの目的の一つが、焼畑の山茶生産の経済的意義を調査することであった。p42
熊本県の茶業界の礎を築いた一人に、後に可徳商会を興した可徳乾三。p43
可徳商会のことは石光真清の「曠野の花」の中に可徳商会の阿部という茶を売って歩いた立派な人物に北満で逢っている記事がある。
阿部とは、熊本学園大学の母体であった東洋語学専門学校の創設者で初代校長だった阿部野利恭のことであった。p44

天草路の旅の一番の目的であったと思われる大江教会を訪ねる柳田。
そこでフランス人のパアテルさんことルドヴィコフ・ガニエル神父に会う。p73

明治の土地所有法制化の最中で起きた焼畑訴訟は換言すれば小作争議であり、重要な国家の土地問題なのである。
また人吉のキーワードから、柳田が敬った近世の旅人が果たせなかった「奈須・椎葉村」踏破も含まれていたに違いない。
このことを下賎に言えば「趣味と実益を兼ねた旅」となる。p92

 

柳田の発言の中で
九州の産地では、今日尚明に畑と畠を区別して居ります。
畠は字の如く白田でありまして、常畠、熟田のことです。
畑は即ち火田、焼畑であります。p110

柳田国男には峠が似合う。「峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である」「境の山には必ず山路がある」
明治四十三年「峠に関する二三の考察」の一文だ。p125

柳田のいうように焼畑は掠奪農法であり、禿山や災害の根源であったのであろうか。私(著者)はそうは思えない。p147

私たちが忘れてしまったような古い文化習慣をまだ残していた山里では、つい最近まで、正月は、特に元日と三日は少しもめでたくはなかった。p214

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようこそシベリア鉄道へ

2022-11-20 16:17:12 | ヨーロッパあれこれ

ようこそシベリア鉄道へ
ユーラシア大陸横断9000kmの旅
二村高史 著
天夢人 発行
2022年3月24日 初版第一刷発行

1981年、1985年に続いて2015年の秋、著者にとって三度目であるシベリア鉄道旅行の記録です。
美しい写真も豊富で、その中には過去の写真と定点観測で比較しているものもあり、ロシアの時の流れも感じることが出来ます。
途中ハバロフスク、イルクーツク、ノヴォシビルスクで下車しています。
シベリア鉄道に関する本は、このブログに残している分だけでも何冊も読んできました。
この本は最新の時代ということもあり、過去の貧しくて苦労の多い面が強調された旅行記とは違い、全体的に明るくて豊かな内容になっています。
当時のロシアの状況が反映されていますが、その後コロナ、そしてロシアによるウクライナ侵略という暗い出来事が続いてしまいました。
この本の中に出てくるロシア人の方々やそのご家族なども、何らかの形で戦争に関わらざるを得ない状況になっているのかもしれません。
あの悲惨な戦争は本当に残念で、一刻も早く終結して欲しいものだと、つくづく思わされました。

 

1日目 30年ぶりのロシア、はじめてのウラジオストク
2日目 いざ9000kmの旅へ 
3日目 現代と34年前のハバロフスク
4日目 古びた2等車での60時間
5日目 電源争奪戦とカップ麺の秘密
6日目 バイカル湖の絶景に乗客総立ち
7日目 ミニバスでバイカル湖へ
8日目 ”シベリアのパリ”イルクーツクの今昔
現代ロシアの食事のうまさは、私や妻だけでなく、仕事でロシアに行った知人も同意していたので間違いない。ソ連時代の「メシがまずい」というイメージは、私が食べた限りもはや過去のものである。p84
9日目 謎の料理とロシアのソウルドリンク
クヴァスというのはロシアの伝統的な飲み物で、黒パン(ライ麦パン)と麦芽を発酵させたもの。p102
10日目 必死に撮った写真と撮り忘れた写真
ロシア人が英語を話せない理由
英語の授業はあるが、先生も生徒もいいかげん
英語に限らず、ロシアにおける最大の問題点は、政府も国民も教育に投資をしないことp106
11日目 鉄道博物館で至福のひととき
ノヴォシビルスクの鉄道博物館
12日目 モスクワ行き1等車の車掌さんはアネゴ肌
13日目 脳内ファンファーレに迎えられて
14日目 モスクワで34年前の撮影地探し
15日目 サンクトペテルブルクへ日帰り旅
16日目 フィナーレはモスクワの地下鉄めぐり

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする