ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

オランジュの古代ローマ劇場の歴史

2021-09-25 08:58:13 | フランス物語


オランジュの古代ローマ劇場の舞台脇と客席です。
巨大な壁と丘のため、どうしても影が出来やすく、写真を撮るのに苦労していたようです。
今回は古代劇場の歴史について、Le Théâtre Antique et le Musée d’OrangeのHPよりまとめてみます。

紀元前36年 オランジュ(アラウジオ)の街が建設

紀元1世紀 劇場の建設
オランジュの古代劇場はアウグストゥスの統治時、紀元1世紀に建設されました。地元の黄色と白色の石灰岩を使用しました。ローマ帝国の最も良好に保存された劇場の一つです。
(正確な建造時期はよくわかりません。紀元前から建設されていたのかもしれません)

391年 劇場の衰退
劇場は異教と堕落を象徴する神殿と同様にみなされ、391年に閉鎖されました。その後、街は野蛮人に侵略され、劇場も略奪されました。

中世には、劇場は完全に忘れさられ、もはや見世物には使われませんでした。人々に放置され衰退していきました。

1825年 劇場の復活
ヨーロッパの地において古代に対する関心が復興し、過去の文明の遺産を再発見する気運が高まりました。

プロスペル・メリメはその時歴史的建造物とされるフランス史跡の監督官として、大規模な修復キャンペーンを展開していました。ステージ周りとその下段に建っていた建物を取り除きました。ローマ劇場は人々が歓喜していた時の栄光を取り戻しました。

一部修復された1869年には、劇場は初めて「ローマ祭」を主宰しました。
メウル・ジョセフのパフォーマンスとローマを賞賛するカンタータで一万人の観客を魅了しました。

1902年、その「ローマ祭」は「コレジー」と改名し年行事になりました。演劇、オペラ、バレエ、そしてシンフォニーコンサートがこの注目すべき舞台で行われました。有名人たちがここで活躍しました。
1903年には、かのサラ・ベルナールがラシーヌ・フェドルでたいへん印象深い役を演じました。

20世紀には、多くの発掘物の成果により、その建造物の歴史に光が当たり、復元に役立ちました。

1931年、ジュール・フォーミジェによる発掘により、現在見られるが、長年にわたり消えていた円柱が発見されました。

1971年、フランス文化省はアヴィニョンを劇場の中心に、オランジュをオペラ芸術と交響曲コンサートの中心に指定しました。これはカルロ・マリア・ジュリーニとモンスラ・カバレによる新たな「コレジー(夏のオペラ)」の始まりでした。国際的に知られたアーティストとグループの存在により、劇場の世界的な評判は高まりました。

1975年 ロックコンサートOrange75の開催

1981年 ユネスコの世界文化遺産に登録

2002年 カルチャースペイシイズに委任
オランジュ市議会が2002年、カルチャースペイシイズにオランジュ古代劇場とオランジュ博物館の管理、経営、広報を委任します。毎年カルチャースペイシイズは市と共にコンサート、古代ローマ軍団の再演を含む文化イベントを準備します。

2006年 新しい舞台屋根
悪天候から壁を守るための巨大なガラスの張り出しを造るプランが2004年にまとまり、2006年に屋根が完成しました。

2019年 バーチャルリアリティーがオランジュの古代劇場に導入
歴史的建造物がデジタル化され、訪問者にヘッドセットを着けて360度のバーチャルツアーを体験させます。強烈な経験を通して、古代ローマの中心に招待します。紀元前1世紀に戻り、アラウジオの街の創設から、劇場の建設を目の当たりにすることができます。

カルチャースペイシイズはローマ文明を紹介するためオランジュ古代劇場で催し物を行います。それによりアラウジオの街の劇場地域、社会、政治、宗教の中心における生活をよみがえらせます。
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アウグストゥスの立像(オランジュ、古代ローマ劇場)

2021-09-23 08:31:44 | フランス物語


オランジュの古代ローマ劇場の背後壁中央に位置する初代ローマ皇帝アウグストゥス(前63~後14)の像です。
高さ3.5mの大理石の立像です。
この人はもともとオクタヴィアヌスと呼ばれていました。
17(18?)歳の時、かのカエサルに後継者に指名されました。
カエサル暗殺後、彼の右腕であったアントニウスと共闘し、カエサルを暗殺した勢力を一掃しました。
その後、そのアントニウスと権力闘争となります。最終的に紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスの軍に勝利し、カエサルと同じ絶対権力者となります。
前27年に元老院がオクタヴィアヌスに「アウグストゥス」の尊称を贈り、彼が亡くなる後14年まで、実質的にアウグストゥスによる帝政となります。
この古代ローマ劇場は、アウグストゥスの治世に建造されたようです。
アウグストゥス自体、大変イケメンな方だったそうですので、劇場の真正面に鎮座する彼の像は、さぞ「映えて」いたのでしょうね。

(塩野七生『ローマ人の物語』スペシャル・ガイドブック、を参考にしました)
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物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (後半)

2021-09-20 06:16:12 | パリの思い出
第6章 文化革命としてのフランス革命
1 多岐にわたった大きな変化
ほぼ革命期だけで終わった革命暦(共和暦)
一週を10日、一ヶ月を三週30日、各月には季節を表す名前
西暦であるグレゴリオ暦は、かつて教皇庁がその制定に関わった経緯があるから、信仰の自由と「政教分離(ライシテ)」を原則とする国民主権の国家とは適合しない、という発想
また十進法の方が合理的という考え方

2 表象の多様な噴出
ビラやチラシ、風刺画などの図像はパリ市の歴史ミュージアムであるカルナヴァレが豊富

3 人類の芸術遺産をパリに集めよ!

第7章 ロマン主義以降の芸術文化と新たなパリの中心性
1 古典主義の権威とロマン主義の台頭
革命期に荒廃して以降そのままだったパリのノートルダム大聖堂が、本格的な修復へと向かう。
それは、フランス各地で進められた歴史的建造物の修復保存や史跡保存の組織化と連動していたが、その司令塔はパリにあった。
その史跡監督官として力を発揮したプロスペル・メリメは『カルメン』を書いた文学者でもあった。p134

2 異分野交流と芸術グループ内での切磋琢磨 

3 作品を通して浮き上がる世界とフランス

第8章 パリ大改造序曲 啓蒙のアーバニズムからランビュトーの美化政策まで
1 「文明都雅」の先端と映った19世紀後半のパリ
1872年の暮れ、パリを訪問した岩倉使節団
パリの風景の素晴らしさに目を奪われる使節団
都市の文化的なイメージを決定づける上で、街路状況や建物群が生み出している雰囲気、その場で生きる人々の様相、一言でいってしまえば全体的な都市景観がもたらす力は、無視できない。p152

2 バロック的な都市改造から啓蒙のアーバニズムへ

3 革命期からナポレオン体制化の都市空間

4 復古王政と七月王政期の都市整備

第9章 ナポレオン三世と県知事オスマンによる大改造
1 ルイ・ナポレオン・ボナパルトの政治的浮上と第二帝政の開始

2 大改造のポイント
パリ市内の建築については、建物相互に隙間を空けずに列をなすように建築し、道路幅がどのくらいなら、どれほどの高さの建築が許可されるかなど、18世紀からかなり細かな規制のもとに置かれていた。オスマン化も基本的にこうした伝統を受け継いでいたと言ってよい p189

上水道はセーヌやマルメの川水ではなく、その支流の、それも水源から延々と、直接導水路で引き込むという、それまでには誰もが発想しなかった方式が採用される。p191
(古代ローマ時代に、似たようなことをしていたように思います)

第10章 モードと食と「コンヴィヴィアリテ」
1 モードの先端を発信してきたパリ

2 パリにおけるレストラン、カフェ、ブラッスリー
コンヴィヴィアリテ
互いに言葉を交わし、共に生きていること
レストランやカフェなどが、それを感じる共食空間p209

終章 芸術文化を押し上げる力 私と公の両面の作用
1 芸術文化の新たな飛躍の舞台パリ

2 画商・コレクターが果たした役割

3 芸術文化振興への政策的関与とパリ万博


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物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (前半)

2021-09-19 06:53:47 | パリの思い出


物語 パリの歴史
「芸術と文化の都」の2000年
福井憲彦 著
2021年8月25日発行
中公新書 2658

はじめに より
多くの人にとってパリと「芸術文化」というイメージの結びつきは強い。どこから、それは感じられるのだろうか。どうして、またどのようにして「芸術文化の都市パリ」は、またそのイメージは、形成されてきたのだろう。
本書でたずねてみようとするのは、この問いである。

序章 パリのエコロジーと歴史の始まり
中世からパリ市の紋章に船が描かれるのは、まさにセーヌとの関わりの重要性を示している。パリは港であった。もちろんセーヌの川港である。p6

第1章 キリスト教とパリ
1 教会の多い町パリ

2 襲来する外敵と戦うパリ
フランスの社会と文化を捉える場合には、単一の、あるいはごく少数の、民族ないしエスニック集団の単位で考えてはいけない。
特にパリが位置するイル・ド・フランス地域は、古くからのケルト系、ローマからのラテン系、そしてより北方のゲルマン系緒集団が、この地で相互に交流し、時には権力闘争を展開した。p22

第2章 王権のもとで学術文化の都となる中世パリ
1 中世の王権と王都パリの整備
パリは元来、カペ朝のお膝元であったが、フィリップ二世の祖父ルイ六世は改めて1112年に、パリに、王都としての特別な地位を公認した。
カペ朝の古くからの拠点オルレアンもロワール川のほとりにあり、東西と南北のフランスをつなぐ要衝にあるという点では、十分王都の候補たりうる位置にあった。p29

2 セーヌ左岸に始まる新たな学術文化の輝き

3 パリ大学とソルボンヌ

第3章 職人・商人文化の発展と中世末の暗転
1 20万都市パリの発展
セーヌ川は上流でも下流でも、多くの河川を支流として合わせるので、全体の流域はかなりの範囲になり、水運が発達した理由につながっていた。
ロワール川の流域が、国王の一時滞在用の居城を置くには適していても、王国の中心にならなかったのは、ロワール川の流量が季節的に安定していなかったのも一因ではないか、という推定もあるくらい、水量の安定性は必要であったが、セーヌはこの点、問題はなく、むしろ時たま生じる増水の方が問題であった。p44

2 ギルドを形成した職人・商人と市民生活
職人の社団のなかでも、とりわけ歴史が古く威厳のあった団体が肉屋(ブシュリ)だというのも、象徴的である。
戦う人である貴族をはじめ支配階層にこそ重要であった肉という食料を、独占的に扱った彼らは、市政への発言力も強かった。p52

3 危機の時代のパリ

4 パリの戦闘的な自治の姿勢

第4章 ルネサンスのパリ ー王都から王国の首都へ
1 ルネサンスの魅力とイタリア戦争

2 世界のなかのフランス、その王国の首都としてのパリ
1539年、フランソワ一世による「ヴィレル・コトレの法令」により
・文書主義と国家言語統一に向けての第一歩。法令や裁判等の実践は、公文書として記録に残すこと。それにはラテン語や各種の地域言語ではなく、フランス語で記すこと。
・中世以来の各小教区で、教区民の洗礼と埋葬の記録を必ずつけ、毎年それを国王役人に届け出ることを義務化。戸籍登録の原型。p78-79

3 人文主義と学術文化の再活性化

第5章 17・18世紀パリの文化的発展と王権
1 新たな行動様式とアカデミーの創設
17世紀はヨーロッパ史においては「危機の時代」
気候の寒冷化と悪天候による農業の不振や飢饉
疫病の流行
三十年戦争といった長期の国際紛争
フランスでは絶対王政と呼ばれる政治体制で、一定の安定を見せていた。

2 文化活動の高揚とサロンの活性化

3 17・18世紀のパリ都市空間の整備再編



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屋根の無い時代のオランジュ古代ローマ劇場

2021-09-18 07:00:00 | フランス物語


オランジュの古代劇場の巨大な壁です。客席の高い位置から撮影したものと思われます。
壁の上部には、古代ローマ時代においては舞台や壁の装飾を保護するために、木製の屋根が設置されていました。
しかし4世紀に火災により焼失してしまいます。 
ここを訪問したのは2001年の初夏だったと思うのですが、その時は画像のように、屋根はありませんでした。
しかし20世紀から、屋根を再建したいという気運が高まってきており、2006年にはついに鋼鉄とガラスによる近代的な屋根が完成しました。
遺跡の忠実な再建となると、少なくとも外観だけでも木製にするべきだったのでしょうが、壁部分の保護や舞台としての現代的な機能を考慮すると、現時点で最善とされる資材を使ったモダンなデザインの方がよい、という結論に達したのでしょうね。
もちろん、その決定までには、オランジュの人々やフランスの遺跡関係者による侃々諤々の意見の応酬があったのかと推測されます。
今となっては、屋根の無い時代の画像が貴重になっています。20年ほどの期間ですが、変わるときには変わるものです。同じような例として、シノンのお城も、訪問時には廃墟みたいな場所も多かったのですが、今は建物がしっかり再建されています。
遺跡というものが、過去を現すだけでなく、その時代時代の社会状況、そして人々の思想や意志を反映しているものだなぁと、いつもながら再認識させられます。

(Théâtre Antique&Musée d'OrangeのHPを参考にしました)
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