ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

教養としての「フランス史」の読み方

2020-10-31 15:20:49 | フランス物語
教養としての「フランス史」の読み方
福井憲彦 著
PHPエディターズ・グループ 発行
2019年10月8日 第1版第1刷発行


この本はまずフランス史を語り下ろして、それを編集するという形をとっているそうです。よって非常に読みやすく感じました。

カペー朝は1328年まで、15代341年間続いた。
これは歴代の王が直系の跡継ぎに恵まれた、から。
これは「カペー朝の奇跡」と呼ばれている。p64-65

フランス革命は従来言われていたような、「古い王政が頑固に市民の自由を抑圧していたので、市民が自由を求めて起こした革命」というほど単純なものではなかった。
むしろ現実は逆で、民衆は当初、強い中央集権のもとでの安定した生活を求めていた。p175

1789年10月から議会の法令づくりがはじまる。
その一つが、中央集権的な行政体制を可能とする、空間の改編。
「プロヴァンス/州」を廃止し、「デパルトマン/県」を置いて、行政システム改編の基盤づくりにあたる。p201

1790年の段階では、市民・民衆は、革命のリーダー同様、国王のもと立憲王政を目指していた。
しかしルイ16世の情勢を読めない優柔不断な態度や、周囲に流されやすい性格が災いし、フランスが立憲王政の国として生まれ変わる機会を逃してしまった。p221

ナポレオンは歴史の正当な展開の上に立脚し、革命が生み出した「自由」という新たな文明的価値を広めるために占領に来た、という身勝手といえば実に身勝手な論理のもと、行動していた。p252

フランスにとってナポレオンは「ヤーヌス的存在」
独裁者と英雄という、プラスとマイナス両面を持った存在だった。p263
(毛沢東の、功績第一、誤り第二、という評価を思い出した)

イギリスは17世紀に政治的混乱をくぐり抜けて、18世紀中にすでに立憲王政の体制を成立させていた。
多くのヨーロッパ諸国が18~19世紀初頭にかけて直面していた様々な問題をすでにクリアしていた。p275

サン=シモン主義
科学技術を発展させることで政治は変わっていく、という考え
ユートピア社会主義とも言われる。p282

ナポレオン3世による第二帝政については時代錯誤的な政権、と考えるのが一般的だったが、最近では、ある種の開発独裁なのではないか、という見方もされている。p296-297

普仏戦争
プロイセンとフランスの戦争だと言われているが、ビスマルクはバイエルンをはじめとするドイツ領邦諸国の協力を取り付けていたので、その実態は全ドイツ連合軍とフランス一国の戦争だった。最近では独仏戦争と表記されることも多い。p305

フランスにおいては、共和政とカトリック教会というのは、うまくなじむものではなかった。
共和政のスタンスは、あくまで個人の信仰の自由は認めるけれど、宗教がそれ以上の力を国家・社会に行使することは絶対に認めない、というもの。p329

第一次世界大戦
全国から兵士が動員されたために、戦死者の四割は農民、主戦場はフランス北部だった。
ほぼ全ての町や村に、「出征戦没兵士の記念碑」が建てられ、終戦の11月11日には毎年、記念集会がもたれる。1922年からは、この日は国民の祝日として制定されている。p364

世界恐慌の時のフランスは、経済の中心を大企業ではなく、中小企業が占めていた。その分恐慌の影響は少なかった。p376

パリ陥落の4日後、ドゴールは自由フランスを名乗り、イギリスのBBC放送を借りて、フランス国内に向けて発信していた。
でも、この時点のドゴールは、まだ軍隊も指揮権も持っていない、ほぼ単身に近い状態だった。軍人としても名を馳せていなかった。見ようによっては誇大妄想の大ぼら吹きに見えても不思議ではなかった。p397

1944年9月9日、ドゴールはフランス解放軍とともにパリに入る。
民間のレジスタンスには、ほとんど無視の姿勢をとっている。これにはレジスタンスが共産党と強く結びついていたのも関係しているのではないか。p399-400

サンジェルマンアンレーから見たラ・デファンスの夕焼け

2020-10-25 07:14:05 | フランス物語
サンジェルマンアンレーを離れる前、再びラ・デファンスを眺めていました。
この間にはセーヌがU型に流れています。
セーヌに育まれた豊かな緑の上に、パリらしからぬ未来都市が浮かび上がっていました。
緑も高層ビルも、平等に夕陽を浴びています。
パリの新市街は、静かに燃えていました。
RERに乗り、たそがれの旧市街に戻ります。

十五の夏(下) 佐藤優 著

2020-10-24 06:58:36 | ヨーロッパあれこれ
十五の夏 下
佐藤優 著
幻冬舎 発行
2018年3月30日 第一刷発行

上の方は東欧中心だったのに対し、下の方はソ連のモスクワ、サマルカンド、ブハラ、タシケント、ハバロフスク、ナホトカを訪問しています。
東欧と違い、地元の住民との接触は無く、インツーリストの職員や、日本人旅行者との会話が目立ちます。
食事も美味しそうに描かれており、インツーリストの職員の世話も行き届いていて、他のソ連旅行記に見られるような不快さは、わりと少ないです。

第六章 日ソ友の会
ソ連での抑留や北方領土に関する国会答弁

第七章 モスクワ放送局
モスクワ放送局の日本課長のレービンさんとの出会い。インタビュー。

空港で出会ったドイツ人
東欧とソ連は全然違う。見た目は大きく違わないが、ロシア人は中東の人たちに近い感じがする。

第八章 中央アジア
学生運動に幻滅し、高校の教師になった人
政治には固有の悪がある。個人を利用するという発想。学生運動ではセクトの影響が強まって、その都合に付き合わされることになる。p364

第九章 バイカル号
元北大生にそそのかされて、関税をごまかしてしまう筆者。
バレてしまい反則金を払う羽目になる。

第十章 その後
著者自身や、旅で出会った人たちのその後について

再考 柳田国男と民俗学

2020-10-21 21:15:25 | ヨーロッパあれこれ
再考 柳田国男と民俗学

播磨学研究所 編

神戸新聞総合出版センター 発行

1994年12月10日 第1刷発行



この本は1992年8月から11月にかけて開催された播磨学講座「柳田国男没三十周年をしのんで・三十年の光彩」をもとに構成したものです。



もともと峠は旅人の行く先を明示するようにお互いに呼び名が違っていたということも大いに考えられる。

モスクワのキエフ駅、レニングラード駅、パリのリヨン駅のように。p17-18



《海岸の的方(的形?)あたりを朝立ちすれば、十時ごろまでには鮮魚が届く所であるから、辻川の思い出には必ず魚売りたちが伴って想起される・・・》

この「故郷七十年」の回想風景は、辻川の象徴ともいうべき十字路が、四方からの情報が集まってくる受信基地であったことの象徴的記述でもある。p72-73



日光寺山はクニョハン(柳田国男)が、村人について海を見に登り、初めて世間の広さを実感したところ。

家島群島の島影や帆船のいる風景を「夢の塊り」のような感じだったと、「海女部史のエチュウド」という文章に書いている。p79



柳田さんが農商務省に入ったのは明治33年(1900)7月だった。

その直前の3月に「産業組合法」という法律が議会を通っていて、それを施行するために役人として採用された。

産業組合とは、今の農協(JA)のルーツにあたるもの。p91



柳田さんのすぐれた独自の農政理論。

その考え方の基本にはドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの国民経済論の考え方がある。

「農商工鼎立併進論」一国の経済が発展していこうとするためには、農業、商業、工業の三つの産業が鼎の足のようにバランスをとっていくことが重要、という考え方。p92



柳田さんの商人資本に対する批判。

もともと金貸しや高利貸を「悪」とするような考え方。

ヨーロッパの宗教改革をリードしたカルヴィンが金貸しや商人でも勤勉であれば神の祝福を受けることが出来ると説く。

一種の「悪人正機説」。日本で親鸞が説いたのと軌を一にするところがある。p102



国木田独歩の「武蔵野」

ツルゲーネフの「あひびき」から「散歩」というものを知り、「武蔵野」という文学作品に反映させる。

柳田は武蔵野から水と道路の問題に関心を持つ。



大正十年代という時期、また戦後の十年間、沖縄が非常に阻害されていた二つの時期に、沖縄を自分の手で自分のもとに引き寄せる、そのことを学問の形でやったのが柳田だった。

時代の先端のなかに入っているというか、時代の最先端の問題とともにあるのが民俗学。p248



地名というのは最も堅固で古い固有名詞。

地名は日本人の共同感情の最小単位。

地名の研究の先鞭をつけたのは、ほかならぬ柳田国男。



梅棹忠夫の指摘

日本の民俗学にはどのようなポテンシャリティがあるか、日本における思想の発展に日本民俗学はどんな風に役立つことが出来るか。

・日本文化のもつさまざまな特質を正当に理解するための科学的な拠り所を提供する。

・日本民俗学は、思想が、日本の国土の上で空転することを避けるための、有効な接地点を提供する。

・日本民俗学は、まったく新しい思想が生まれる基盤になる可能性がある









サンジェルマンアンレー城から見た風景

2020-10-18 08:31:11 | フランス物語
サンジェルマンアンレーのシャトー(城)に入ります。
この中は現代は国立考古学博物館になっています。
ここに行った時はまだ塩野七生先生のローマ人の物語や、カエサルのガリア戦記を読んでいませんでした。
読了した今ならこの博物館も、もっと楽しめると思います。

上の階のテラスのようなところから写真を撮ります。
フランス国旗がなぜか5本も景気よく飾られていました。
国立の建物だから当然なのかもしれませんが、何となく威勢よく感じます。
風景は城の前らしく庭園風です。
左側はグーグルマップで調べると、Le Grand Parterre大花壇とでも訳すのでしょうか、という場所(通り?)になっていました。
この時は花はないようですが、グーグルの画像では、美しい花が写っていました。
右側には整えられた木々が並んでいます。
現在ではこの辺りはプレクルー遊戯場という子供の遊び場となっており、ちょっとした遊具も設置されていました。
看板の写真を見ると(わざわざこのような写真まで撮ってくれている人がいました)、イブリーヌ県による財政的パートナーシップにより、サンジェルマンアンレー市が再整備し、2018年9月16日に使用されることになった、とのことでした。
歴史的建造物・博物館としてだけでなく、市民の憩いの場として、ますます親しまれている場所になっているようですね。