大聖堂・製鉄・水車
中世ヨーロッパのテクノロジー
ジョゼフ・ギース/フランシス・ギース 著
栗原泉 訳
講談社学術文庫
2012年12月10日 第1刷発行
第一章 バベルの塔・ノアの箱舟 キリスト教とテクノロジー
第二章 古代のテクノロジー 功績と限界
ヘレニズム時代の占星術の関心から、アレクサンドリアで「アストロラーベ(天体観測儀)」が生まれた。発明者は知られていない。
これは「世界で最初の科学機器」である。
アストロラーベ(星の皿)の原形は、天体図を描いた木製の円盤で、外縁に360度の目盛りが刻んであった。
ローマ人は工学技術に優れ、他から借り入れる才にも長けていたものの、動力利用の面で二つの重大な失敗を犯したために技術的な弱点を抱えていた。
その第一は馬のハーネスだった。馬の力をわずかしか引き出せなかった。
第二の失敗は水車の利用にあった。ローマ人は水車という実に貴重な発明をまったく利用しなかったとまではいえないが、その大きな可能性に気付かなかった。
この二つの技術的弱点に加えて、ローマ人に欠けていたものは、理論科学と経済学であった。
ギリシャ人が行動より知識を優先させたのに対し、ローマ人はその逆だった。知識を得ることより行動を優先した。
経済については、ローマ帝国は政治、軍事の点で立派に機能しているかに見えたが、実は恒常的に貧しく停滞した農民経済を抱えていた。
農園の経営は奴隷たちの労働に支えられていた。
大地主は技術開発によって労働コストを削減する気は毛頭なかったし、奴隷たちは顧客になりえなかった。
第三章 それほど暗くはなかった暗黒時代 西暦500~900年
「ローマの滅亡」では、実際に何が滅びたのか。テクノロジーに関していえば、ほとんど何も滅びていない
六世紀 「蛮族」の世紀
七世紀 イスラムの世紀
八世紀 カロリング朝の世紀
九世紀 ヴァイキングの世紀
中世の船頭も竿をさして川を下り、目的地に着くと船を材木として売り払い、歩いて帰った。
第四章 アジアとのつながり
古代から中世にかけて、技術が伝わる方向はほぼ常に東洋から西洋だった。
ヨーロッパにはアジアに伝えるべきものが何もなく、一方でアジア、とりわけ中国は西洋につたえる技術をたくさん持っていた。
中世の特徴といえば、ヨーロッパ、アフリカ、アジアで科学技術が広範に伝播したことだが、これに特異な役割を担ったのはアラブ人である。
香料や絹だけでなくアジアの発見や発明も西洋に伝えたアラブ人は、ヨーロッパがギリシャの知の遺産をついに取り戻す手助けもした。
第五章 商業革命の技術 西暦900~1200年
西洋で初めて公開羅針儀に言及したのは、12世紀英国の学者アレクサンダー・ネッカムである。
著書『事物の本性について』の中で次のように言っている。
「船乗りたちは・・・曇天で太陽の光の恵みにあずかれないとき、あるいは夜の暗闇に包まれて・・・航路がわからない時は針のついた磁石に触れる。すると磁石が回転し、回転運動が止まると磁針の先は北を指している」
これをネッカムはおそらくパリで1190年頃書いた。
羅針儀の船上での使用は、当時はまだ決して一般的ではなかった。
フランシス・ベーコンの錬金術についてのたとえ話
「ある男がブドウ畑に黄金を埋めておいたと、息子たちに言い残して逝く。息子たちは畑を掘り返すが、黄金は見つからない。だが畑土を掘り返したことで上々の収穫を得ることができた。錬金術についていえば、黄金を作るための努力をとおして、多くの有益な発明や啓発的な実験がなされたのだ」
(それだと、畑はむちゃくちゃになるだけだと思いますが・(笑))
十二世紀末の西ヨーロッパはその姿にも大きな変化が起きていた。
城や大聖堂が登場し、土地の開墾や沼地の干拓が進み、水車や風車が回り、病院や大学が姿を現した。
第六章 中世盛期 西暦1200~1400年
第七章 レオナルドとコロンブス 中世の終わり
レオナルドがあちらこちらに描いた走り書きの寄せ集めを「手稿集」と呼ぶが、その歴史的価値は、作者の技術への貢献というよりも、作者が生きた時代の空気を他の誰にもできないような方法で描いた点にある。
発明だけでなく、ルネサンスの華であった文学や美術もまた、中世に深く根をおろしている。
ジョット、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、チョーサーはみな1400年以前に生きた。
そしてジョットを除く四人はみなプロヴァンスの吟遊詩人や滑稽譚作者たちの影響を受けている。
中世に芽生え、15世紀に花開いた技術システム
・大洋航海術
・活版印刷
・火薬の改良による有効な火器
香辛料貿易の謎を解く二つのカギ
・腐りにくくて高い値がついた
・香辛料と呼ばれたのは、鍋の中に放り込まれたのはほんの一部。風味付け、香水、染料、医薬品などさまざまな用途があった。
ラウンドタワー
アイルランドの不思議な塔の物語
ヘクター・マクドネル 著
富永佐知子 訳
創元社 発行
2014年12月20日 第1版第1刷発行
アイルランドのラウンドタワーは、古代アイルランドの教会遺跡の中で群を抜いて大きな遺物であり、高さが30メートルを超える例もある。
ラウンドタワーは常に修道院の施設の一部として築かれた。
石とモルタルで築かれた細長い円筒形の胴部の上に、帽子にも似た円錐形の石屋根がのっている。
ラウンドタワーを指すアイルランド語はベル・タワー(鐘塔)を意味するクログ・チャハであり、複数形はクログ・チィである。
ラウンドタワーに関する最古の記録は、スレインのクログ・チャハ(ベル・タワー)が火災に遭ったという年代記の記述である。
ラウンドタワーのタワーの所在地の多くは、今でこそ辺鄙な場所だが、1000年前は一等地だった。
閑散としたモナスターボイス遺跡も、かつてはレンスターでも特に重要な修道院だった。
アイルランドのラウンドタワーも礼拝時間を広く知らせるための塔だった。
だからこそ、クロック(時計)はもともと「鐘」を示す言葉であり、クログ・チャハ(ベル・タワー)とも同根なのだ。
日時計や夜間の蝋燭などで、時間を正確に数えていた。
それを注意深くじっと見守っていたことにより、watch(じっと見守る)という言葉が、「時計」をさすものになった。
クログ・チャハは、修道院に近づく者を見張るための場所としてうってつけだ。
また修道院を探す人々にとっての目印にもなった。
モナスターボイス
ほぼ完全な状態のラウンドタワーだが、最頂部が失われている。
高さ28.5m、基底部直径5.0m
修道院は521年に死去した聖ビテ・マクブロニによって創設
ラウンドタワーは1097年に書籍や宝物もろとも焼失
墓地内に2基の非常に精緻なハイクロスがあるほか、ふたつの聖堂遺稿も残っている。
第三章 宗教改革時代の史的人物とその切手
ルター、フッガー、ミュンツァー
ルターは宗教改革者、フッガーは皇帝をもつくる独占的企業家、ミュンツァーはドイツ農民戦争の指導者
宗教改革の時代は、経済史の上では「フッガー家の時代」、社会的には「大農民戦争の時代」といわれているが、ルターはこの両面とかかわりを持った。
ルターの切手が、ミュンツァーの衣鉢を継いでいた社会主義共和国の東ドイツから、なぜ発行されたのか?
・ルターの故郷「ルターランド」が、第二次世界大戦後のドイツの分裂によって東ドイツに包含された
・東ドイツのキリスト教派は、なんといってもルター派が主流を占めていた。
・エンゲルスのルター評価、ルターは諸侯の奴隷であり、市民的改革家、に基づき、マルキスズムに立脚してルター批判を展開した。
・しかし政策の変更で、宗教改革を文化的運動として把握し、ルターを東ドイツの国家形成のなかに位置づけようとした。
・ルター評価の転機は1967年の宗教改革450年記念だった。
第四章 クラーナハの描いた女たち
ドイツ・ルネサンス画家の美の感性
クラーナハの「ヴィーナスとキューピッド」
古代ギリシャ・ローマ神話に題材
神話に画材をとったのは、裸体を描くための口実
その裸体は、透き通った細長い布によって、隠されるというより、むしろ官能的に強調されている。
キューピッドの表情は、上品のようで淫欲にあふれているように見える。
明らかに「地中海の伝統」に由来する絵である。
「ヴィーナスと蜂蜜を盗むキューピッド」
彼のヴィーナス像は段々柔軟化し、細身になり洗練されていく。
クラーナハ特有の魅力を持ったヴィーナス像が生まれる。
クラーナハは自己の官能的天性によって、心情の深層からヴィーナスを初め三美神、泉のニンフ、ルクレティアなどの裸体画を描き人気を得た。
「若い女の肖像」
モデルを確定することはできず、現在では、特定の人物の肖像画というより女性像の典型として、自分の好みを描いた作品ではないかといわれている。
デューラーの「若いヴェネチア女性の肖像」を思い出す。
クラーナハは流行を敏感に感じ取り、おびただしい肖像画や「つやもの」と呼ばれた裸体画などを描いた。
第五章 コペルニクスの宇宙とルター派の人々
宇宙論の革新と反響
ポーランドでもルネサンスは開花したのであり、その最盛期は16世紀だった。
コペルニクスはルネサンス期の人々が理想とした「普遍的人間」の典型だった。
ボローニャ大学留学中に独創的な天文学者であるノヴァラ教授から教えを受ける。
イタリアでの勉学を終えたコペルニクスは、東プロシアとポーランドの間に位置するヴァルミア(エルムランド)へ向かった。
1543年に息を引き取るまでこの「さいはての地」で人生を送った。
コペルニクスはなぜ完成された原稿を人の目につかないところにしまい込み、公にしようとしなかったのか?
・彼自身は理論の新奇性と不条理性に対する軽蔑の恐れから発表を長い間控えていた。
・人々のあざけりにあうことを恐れた。
コペルニクスの著書は1616年にローマ教皇庁の禁書目録に載せられた。
それからはずされるのは、19世紀になってからのことである。
メランヒトンは、地域の道徳的・社会的発展に役立つ科学や芸術を奨励したが、コペルニクスの学説は聖書の教えと矛盾したので嫌悪した。
コペルニクスは、自分が生きて活動しているヴァルミアの現実的問題に真剣に取り組み、立派に任務を果たしつつ、一方で、自己の宇宙論を完成させるために情熱を傾けた人物であった。
コペルニクスの宇宙論には、創造的で革新的な要素とともに古い伝統的な要素が含まれている。
例えば、コペルニクスはアリストテレスやプトレマイオスの球殻的宇宙観を継承し、天球という伝統的な概念に固執している。
エンデュアランス号 大漂流
エリザベス・ゴーディー・キメル 著
千葉茂樹 訳
あすなろ書房 発行
2017年12月25日 18刷発行
1914年から1916年にかけての、南極大陸沿岸での遭難と奇跡の生還について述べられています。
1874年、アイルランドに生まれたアーネスト・シャクルトン。
10歳の時に家族とともにイギリスにわたる。
南極点には1911年12月アムンゼンのノルウェーの探検隊が初めて達した。
その一か月後、スコットが南極点にたどり着くが、生きて戻ることはできなかった。
アザラシは肉が食用となるだけでなく、分厚い脂肪が燃料にもなる。
アザラシのステーキやペンギンのシチューが主な食糧だった。
肉は船乗りや探検家にとって最も恐ろしい病気、壊血病を防いでくれる。
壊血病はビタミンCの不足によって起こる。
南極大陸と南アメリカ大陸の間に横たわる海域では、西から東に向かう激しい風が吹く。
地球の自転が原因で生じるこの風は卓越偏西風と呼ばれ、海の流れさえも西から東へと押し流す。
シャクルトンは次々と事業を起こすのだが、不思議と失敗してしまう。結局彼には南極探検が一番向いた仕事だったのだろう。
シャクルトンがリーダーとして優れていたことは、誰もが認めるところだが、彼のこの偉大さは南極大陸と結びついてのものだった。
この時、奇跡の生還を果たした隊員たちは、そのほとんどは、その後すぐに第一次世界大戦の戦場へと駆り立てられることになる。
そして戦場であっけなく命を落とした人たちがいるのは、なんとも皮肉でむごいことである。