ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

エンデュアランス号 大漂流

2024-06-29 20:34:41 | ヨーロッパあれこれ

 

エンデュアランス号 大漂流

エリザベス・ゴーディー・キメル 著

千葉茂樹 訳

あすなろ書房 発行

2017年12月25日 18刷発行

 

1914年から1916年にかけての、南極大陸沿岸での遭難と奇跡の生還について述べられています。

 

1874年、アイルランドに生まれたアーネスト・シャクルトン。

10歳の時に家族とともにイギリスにわたる。

 

南極点には1911年12月アムンゼンのノルウェーの探検隊が初めて達した。

その一か月後、スコットが南極点にたどり着くが、生きて戻ることはできなかった。

 

アザラシは肉が食用となるだけでなく、分厚い脂肪が燃料にもなる。

アザラシのステーキやペンギンのシチューが主な食糧だった。

肉は船乗りや探検家にとって最も恐ろしい病気、壊血病を防いでくれる。

壊血病はビタミンCの不足によって起こる。

 

南極大陸と南アメリカ大陸の間に横たわる海域では、西から東に向かう激しい風が吹く。

地球の自転が原因で生じるこの風は卓越偏西風と呼ばれ、海の流れさえも西から東へと押し流す。

 

シャクルトンは次々と事業を起こすのだが、不思議と失敗してしまう。結局彼には南極探検が一番向いた仕事だったのだろう。

シャクルトンがリーダーとして優れていたことは、誰もが認めるところだが、彼のこの偉大さは南極大陸と結びついてのものだった。

 

この時、奇跡の生還を果たした隊員たちは、そのほとんどは、その後すぐに第一次世界大戦の戦場へと駆り立てられることになる。

そして戦場であっけなく命を落とした人たちがいるのは、なんとも皮肉でむごいことである。

 

 

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地政学×歴史で理由がわかる ロシア キエフ大公国からウクライナ侵攻まで

2024-06-21 20:52:53 | ヨーロッパあれこれ

地政学×歴史で理由がわかる

ロシア史

キエフ大公国からウクライナ侵攻まで

岩田秀全 監修

朝日新聞出版 発行

2022年7月30日 第1刷発行

 

1920年代には、「ロシアはアジアでもヨーロッパでもないユーラシア国家だ」とするユーラシア主義という考え方が登場

この考え方は1990年代以降に再び力を増し、ロシアと中央アジア諸国の連帯をアピールする思想として今も影響力を持っている。

 

ウクライナ人とロシア人とは似ていると思われがちだが、実はウクライナ語はロシア語と文法や語彙がかなり違い、語彙面ではポーランド語と共通するものが多い。

 

国名「ロシア」の語源は「ルーシ」というという言葉

しかしルーシの語源はノルマン人を起源とする説や、

ドニエプル川の支流であるローシ川の周辺に住み着いた東スラブ人が「ルーシ」と呼ばれるようになった、という説がある。

 

偽ドミトリーや偽ピョートル、偽ドミトリー2世など偽ツァーリが現れた「動乱時代」

 

「ヴォルガの船曳き」(イリヤ・レービン作)

ロシアでは19世紀後半になっても船の移動を人力で行うことが多かった。ロシアの技術の遅れが読み取れる。

 

最高指導者が「書記長」と呼ばれる始まりとなったのは、ソ連のスターリン

レーニン政権時、彼が就いていたのが書記長だった。

ソ連共産党の書記長は人事権を持っており、自分の都合の良いように人事を自由に操れた。

 

従来「ウクライナ」という語は「辺境」を意味すると考えられてきた。

しかし現在のウクライナでは元々「国」を表す普通名詞で、やがてドニエプル川周辺を指す地名になった、という説が唱えられている。

 

ロシアではロシア人が多く居住する地域を「地方」や「州」、ロシア人以外が多く居住する地域を「共和国」「自治州」「自治管区」と分け、これらを連邦構成主体と呼んでいる。

2000年、大統領に就任したプーチンは連邦を8つの管区に分け、大統領全権代表を管区に配置した。

 

 

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遠野物語と源氏物語 物語の発生する場所とこころ

2024-06-16 20:53:13 | ヨーロッパあれこれ

遠野物語と源氏物語

物語の発生する場所とこころ

鎌田東二 編

創元社 発行

2011年12月1日 第一版第一刷発行

 

はじめに

柳田国男は文明開化の時代の後の人ですから、洋書に対しても関心を持っており、ヨーロッパの社会人類学や民族学(エスノロジー)や民俗学(フォークロア)の興隆に注目しており、グリムのような童話研究に対しても、抜かりなく関心を払い、目配りしていました。

 

『遠野物語』と『源氏物語』の距離 山折哲雄

京都タワーからぐるっと京都を見渡す

京都という都市が形成されるプロセスは、まず山から始まる。

森から始まって、時代が移って、稲作農耕社会になって、御所ができる。内裏ができる。

やがて武家社会になって二条城ができる。

戦乱の時代を経て、東西両本願寺ができる洛中の都市世界が生み出されていく。

 

大正天皇即位時の大嘗祭に参加中、山の彼方の煙を見て、サンカを思い出す柳田国男

平安時代の王朝政権時代の華麗な世界が繰り広げられている時、すぐそばの京都五山、三山の世界には『遠野物語』の世界と見まがうような人間の痕跡がいまだに残存している。

柳田は一面ではものすごいリアリスト、合理主義者だったが、もう一面で、日本の歴史を二千年、三千年のパースペクティブで展望しようとするときは、たいへんなロマンティストになっていた。

 

論考

柳田国男と太安万侶

「古事・古伝」というもともと非文字の「民間伝承」を『古事記』や『遠野物語』という「伝承テキスト」に文字化しようと企図した二人の中央官僚には、意外と近しい喪失感や危機意識があったのではないだろうか。

一方は中央政権の伝承を、もう一方は鄙の山村の伝承という、大きな違いがあるが、

古伝が帝都(平城京と東京)でまとめられ

そこに有能なる話者(稗田阿礼と佐々木喜善)と書記官(太安万侶と柳田国男)がいて、

「偽を削り、実を求め」るとか、また「平地人を戦慄せしめる」とかと、やむにやまれぬ”公情”と”私情”をもってまとめられたことなども共通するところであろう。

(そういえば柳田国男は稗田阿礼に興味を持っており、記憶力の良い自分の娘に「我が家の稗田阿礼」と呼んていた、というエピソード(『父との散歩』より)を思い出しました)

 

『古事記』においてと特筆しておかなければならないことは、「ホト」を含め、女神や女性の姿や活動を生き生きと描いている点と、歌謡が多く採られている点である。

 

『遠野物語』というたった350部の自費出版物は1910年(6月)という、きわめて「物騒」な時代に投げかけられた「爆弾」であった。

「物騒」というのは、一つは大逆事件の勃発である。もう一つはハレー彗星の到来である。(どちらも5月)

 

(編者は)この1910年という年を、世界史のターニングポイントと考えている。

その理由は、ハレー彗星の到来により、地球上に初めて世界同時性についてのリアルな意識と地球史的危機意識が芽生え始めた年であるといえるからだ。

 

(編者は)、柳田国男の『遠野物語』の「平地人をして戦慄せしめよ」という柳田にしては不用意ともいえるほどの過剰な文章は、この時代の相乗された「騒動」の過熱に立ち向かう柳田の心意気がほとばしったものではないかと推測する。

「強権」を発動する側の官僚としての立場と、地方に押し寄せる近代の波とそれによって喪われていく「郷土」の民俗の両方を見据えながら発せられた雄たけびが「願わくば之を語りて平地人をして戦慄せしめよ」という語に結実したのではないか。

 

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ヨーロッパとゲルマン部族国家

2024-06-14 20:53:57 | ヨーロッパあれこれ

ヨーロッパとゲルマン部族国家

マガリー・クメール ブリューノ・デュメジル 著

大月康弘 小澤雄太郎 訳

文庫クセジュ

2019年5月30日 発行

 

序論

啓蒙主義時代の末期、十九世紀初頭に、ローマ帝国の破壊者はうってかわってポジティブなイメージを取り戻した。

西ヨーロッパ諸国の誕生は、卑しい蛮族のおかげだと考えるようになった。

 

二十世紀初頭から蛮族の時代に関する新しい記述史料はほとんど見つからなくなったが、代わりに考古学が膨大な量のデータを提供した。

 

ラインとドナウの北側に住む古代の人たちが古代全体を通じてものを書くことができなかったのは、依然として認めざるを得ない事実である。

彼らは書物、碑文、貨幣など何一つ残さなかった。

 

第一章 帝国侵入以前の蛮族

蛮族の過去について書かれた初の真の歴史叙述は、「民族史」というジャンルである。

これらは六世紀と七世紀にラテン語で書かれ、西方の新しい王国のエリートに献呈された。

 

二十世紀後半まで、蛮族の出現は大移動モデルによって説明されていた。

それは西方社会の文化を形成する二つの著作が言及する民族形成のモデルと対応している。『アエネーイス』と旧約聖書である。

 

大移動モデルが大成功を収めたのは、ヨーロッパのナショナリズムがそのモデルを再利用したためである。

 

数百年にわたると考えられる移動が矢印で表現されることによって、それらの移動が起こった順番や史料への注意がことごとく無視される。

 

大移動のモデルへの全員一致の支持は、1960年代からの考古学の発展により失われた。

 

蛮族が一度ローマ帝国に侵入すると、特定のアイデンティティを主張することによって、自分自身を区別することが可能になった。

 

第二章 ローマとその周辺

ローマ世界の著述家たちは、リーメス(帝国と蛮族世界から分かつ軍事境界線)周辺での衝突について多くを語っている。

 

帝国は249年から三方向(ライン河方面、ドナウ河方面、東方)から攻撃を受け、帝国指導者はその攻撃に対処することができなかった。

 

三世紀の蛮族の短期的な攻撃の目的は、戦利品にあった。戦争というより襲撃、あるいは略奪というべきだ。

 

370年代から武装した蛮族集団が帝国内にとどまっていた。皇帝から莫大な収入を得ることを目指していた。

 

「大移動」という神話を捨てなければならない理由は、ローマ人と蛮族は対立こそしていたが、同じくらい頻繁に意思疎通もしていた。

 

蛮族との外交におけるローマ帝国の問題

・言語の問題

・蛮族の族長自身の自らの「民族」に対して実在する権威

・蛮族と取り決めを結ぶために、蛮族は文字を書かないため、ローマはさまざまな儀式に頼った

 

230年代、蛮族は帝国の境域において脅威とみなされていたが、その百年後になると、ローマ権力は彼らをリーメスの真の守護者とみなすようになった。

 

第三章 定住の形態

四世紀末から蛮族たちの帝国境界内への入植が強化され、また安定した。

 

第四章 五世紀における蛮族文化

蛮族の埋葬儀礼で最も注目に値する要素は、男性の墓にほぼ例外なく武具が埋葬されていることである。

自由人男性はまず戦士としての地位によって規定されていた。

 

裕福な死者の墓には豪華な食器があった。族長が取り巻きを扶養する役割を堅持しているのではないか。

 

蛮族の到来により、小麦、ワイン、オリーブを消費する地中海世界において、蛮族の好む畜産物と大麦ビールが入ってきた。

 

サルウィアヌスは蛮族の魂の純粋さにのみ焦点を当てているため、彼らによる権力乱用を看過している。

たとえば、彼はヴァンダル族がカルタゴの売春宿を閉鎖したことに注目しているが、地元の聖職者はその施設を黙認していたどころか頻繁に利用していた。

 

第五章 蛮族王国の建国

帝国の直接の後継者・・・西ゴート族、ブルグンド族、東ゴート族、ヴァンダル族

蛮族王国の第二派・・・フランク族、アラマン族、スエビ族

 

第六章 蛮族王国の改宗

 

結論

ローマ世界は消滅したのではなく、蛮族軍の圧力の下で変容した。

このプロセスは新しい民族的アイデンティティの形成をもたらした。

このアイデンティティを中心として新しい民族がゆっくりと形成された。

 

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十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め

2024-06-09 21:27:00 | ヨーロッパあれこれ

十二世紀のルネサンス

ヨーロッパの目覚め

チャールズ・ℍ・ハスキンズ 著

別宮貞徳・朝倉文市 訳

講談社学術文庫

2017年8月9日 第1刷発行

 

元の著作は1927年に発行されました。

この本では十二世紀ルネサンスの例として、ラテン語古典の復活、法学の復活、ギリシャ語とアラビア語からの翻訳、科学の復興、哲学の復興、大学の起源などについて書かれています。

 

第一章 歴史的背景

十二世紀ルネサンスの文化の歴史

ロマネスク美術の完成とゴシック美術の興隆、抒情詩と叙事詩における各国語の隆盛、ラテン語の新しい学問、新しい文学

司教座聖堂付属学校の隆盛に始まり、最初の大学の確立をもって終わる

 

ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出に挨拶を送る」

 

一般的にカロリング・ルネサンスと呼ばれている九世紀の学問・文芸の復興はシャルルマーニュとその直後の後継者の宮廷を原点かつ中心としている。

 

第二章 知的中心地

 

第三章 書物と書庫

十二世紀に記録が発達し、訴訟が増え、文筆の才が進んだことから、また別の問題が生じてきた。大量の偽造である。

 

第四章 ラテン語古典の復活

シャルトルの学校は、十二世紀はじめの司教座聖堂学校の中ではずば抜けた存在だったが、それはまず第一に文学の学校としての優秀さだった。

ブルターニュ人のベルナルドゥス(ベルナール)は第一級の文法学者ながら自由闊達、ウェルギリウスとルカーヌスの作品をこよなく愛して、古典作家をあらゆる面から注解し、研究と思索の静かな生活を讃える詩をつくっている。彼の見るところ、当代の人たちは偉大な過去の巨人の肩に乗る小人だった。

 

アレクサンデル(アレキサンダー)・ネッカムは

ローマはこの世の冠、ほまれ、宝石にして飾り

と書いている。

中世人の見るところ、ローマは帝国であって共和国ではなかった。

 

第五章 ラテン語

十二世紀の西ヨーロッパの共通語はラテン語だった。

文学の目的にかなうような各国語は、さまざまな地方のラテン語方言から、ようやく形成途上にあったに過ぎない。

 

辞書のもう一つのタイプは、記述的な単語集で、無味乾燥なそれまでの語義解説単語表を廃し、文章の中に単語を組み込んで、その意味が説明されるような形をとっている。この系統のはじまりは、この時代でいえば、十二世紀初頭のパリの修士プティ・ポンのアダム、それに続く人は十二世紀終わりごろのパリの教師アレキサンデル・ネッカムである。彼らの著述は、家庭用品、宮廷生活、勉強道具を取り上げている。

 

ネッカム(1157-1217)は、単なる辞書編集者におさまらないところがあった。

パリの学生、ダンスタブルの教師、サイレンセスターの参事会員で修道院長だった。

自身の語るところでは「学芸をまじめに学びかつ教えた後、聖書の研究に転じ、教会法やヒポクラテス、ガレノスの講義も聞けば、市民法もまんざら嫌いではなかった」そうである。

 

第六章 ラテン語の詩

十二世紀のラテン語詩は、古代の様式や題材の単なる復活ではなく、はるかにそれ以上のものであって、そこには宗教の時代であると同時にロマンスの時代であるこの時代の、力強い多面的な生活が種々様々な形で表れていた。

しかし、この多様性がラテン語の迫りくる衰退の兆しである。数多くの国語が文学のより自然な媒体となる。

十二世紀は国際的な詩を持つ最後の偉大な時代なのである。

この一群のラテン語の詩から受ける印象は、混沌と言っていいほどの豊かさである。

 

ほぼ1125年から1230年にかけての十二世紀は、ゴリアルディ(遊歴書生)の詩の最盛期である。

ラテン語の世俗抒情詩を一般にそう呼ぶ。

 

第七章 法学の復活

三度ローマは世界を征服した。

軍隊によって、教会によって、そして法律によって。

さらに一言するなら、法律によるこの最終の征服は、帝国が崩壊し軍隊が瓦解した後の、精神的な征服だった。

ローマの法ほどローマ人の才を示すものは無く、また、根強くいきわたったものはない。

 

第八章 歴史の著述

十二世紀の知的復興が最もよくあらわれているものの一つを、歴史の著述にみることができる。

 

第四回十字軍(1201-04)は結局コンスタンティノープルの征服と短命なラテン帝国設立という結果に終わった。

この遠征の記述として定評があるのは、シャンパーニュの騎士のジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアンの筆になるもので、生き生きとして力強い自国語によるその叙述はきわめて魅力に富み、フランス文学史に著者の名を髙らしてめている。

しかし、その文学的魅力故に、長い間文不相応な歴史的重要性を与えられたきらいがある。

コンスタンティノープルへの方向転換を、所定の計画ではなく、単なる偶然の積み重ねのように書いている。

それは他の史料によって訂正されなければならない。

 

第九章 ギリシャ語・アラビア語からの翻訳

十二世紀のルネサンスは哲学、科学にかかわるものが多く、

コンスタンティノープルならずスペイン、シチリア、シリア、アフリカからも入ってきている。

 

第十章 科学の復興

1125年に始まる一世紀は、エウクレイデスとプトレマイオス、アラビア人の数学と天文学、ガレノス、ヒポクラテス、アヴィセンナの医学そしてアリストテレスの百科事典的に豊かな学識をもたらした。

 

旅行記の中では、1188年とその数年の間に『アイルランド地誌』『ウェールズさまざま』『ウェールズの旅』をギラルドゥス・カンブレンシスが書いた。

彼の地理学は非常に人間的である。

 

『サレルノ式健康法』の一節

「朝食のあとには1マイルの散歩、夕食の後にはひと時の休み」など今でも通用することわざがある。

 

第十一章 哲学の復興

 

第十二章 大学の起源

十二世紀は三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、そして神学という専門の学部を生み出した。

それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学門が西ヨーロッパにはなかったからである。

この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。

知的な革新と制度上の革新が相携えて進行した。

 

シャルトルが大学にならなかったのは明らかで、事実、パリの優位が確かなものとなった十二世紀の中葉にはシャルトルの最盛期はすでに終わりを告げている。

 

パリがいつ司教座聖堂付属学校ではなくなって大学になったのか、正確にはいえないし、大学創立の日を特定することもできない。
すべて最古の大学の例にもれず、パリ大学も作られたのではなく、育ったのである。

その成長もある程度物理的なもので、最初は聖堂構内に建てられた学校だったのが、教師と学者が住むプティ・ポンへ、プティ・ポンの哲学者たちは自分たちだけのグループを作っていた、さらには左岸まで広がって、以来そこがパリのカルチェ・ラタンになっている。

 

十三世紀にはパリは諸学の母であるだけでなく、諸大学の母となった。

パリを筆頭として生まれた子供たちは、北ヨーロッパの、さらに広い地域を含む。

 

ボローニャ大学はローマ法の復活の直接の結果として出てきたものだが、最古の法律学校ではなかった。しかし他の学校は大学まで発展しなかった。

ボローニャが最古の大学になったのは、地の利ではないか。

北イタリアの交通の要衝で、フィレンツエから北に向かう街道がアペニン山脈の北側を走るエミリア街道と交差している。

 

1200年頃には、おそらくアレクサンデル・ネッカムから出たものと思われるが、いくつかの科目で使われた作品の系統的な記録がある。

 

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