ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田國男を読む

2023-02-25 17:23:41 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田國男を読む
千葉徳爾 著
東京堂出版 発行
1991年6月28日 初版発行

とかく世間では難解とか要領を得ぬとか、あるいは結論がないなどと評されている柳田國男の書いたものを、なるべく読みやすく説明してみようという目的の本です。p1

柳田の文章の多くは、事実の記載と自らの推論を叙述するに止まって、結論を差し控えているために、今日の知識と状況をふまえて考えると、かえって意外な着想の妙と新たな展開の端緒とを、その行間に見出だすことが稀ではない。少なくとも思考すべき何かの問題を抱えている者にとっては、意想外の貴重なヒントが得られよう。p2

柳田は自分の文字使いにはかなりこだわるところがあり、ある語の濁音を清音とし、「居る」「居て」は「おる」「おって」と発音した。これらは生地播磨の方言で、「いる」「いて」とは発音せず、方言でわかる言葉はなるべくそのまま使うことを主張した人であった。p3-4

 

足袋と菓子
昔足袋を作ってもらった女隠居の臨終の間際に菓子袋をこっそりもって行く老人の話 

長尾宏也著『山郷風物誌』
この文の冒頭からの一、二、三…の区切りは、柳田がよく用いる文意の区切り方であり、それぞれの節は内容的に前節を受けて、新しい展開あるいは具体事例、もしくは注意すべき指摘などを行うためのものである。つまり連歌の形式によっている。p13

柳田は「実験」という言葉を「体験」の意味に用いている。p15

狗の心
柳田の動物行動についての観察記録の一つ

 

清光館哀史
大正15年(1926)の旅行記風の随想。その六年前の旧曆盆の月夜に柳田は佐々木喜善・松本信広を伴って岩手県小子内を通過し、「浜の月夜」として寄稿。大正15年7月~8月、八戸から南下、清光館を見ようとしてそれがすでに失われたのを知る。そこに柳田は人生の一端を感じて、その中での盆の意味を考えた。
没落してその形も無くなった旅館と、盆踊りの風景が、六年間という時空を超えて、幻想的に叙述されています。

清光館が石垣だけになって居るのを見て「浦島の子の昔の心持の、至って小さいやうなもの」が腹の底からこみ上げて来て、泣きたいやうな気分になる柳田さん。p52

柳田自身の思考法もしくは頭脳の構造が、何か一つの閉じた集合としての研究対象を、より深く追求してゆくという思考形式よりも、対象のいま一つ別の面をも考察してみる、あるいは対象とのかかわりとして現れてくる関連分野をも考慮に入れて考える、いわば開かれた集合として研究を拡張してみるという見方をするように、システム化されているということであろう。
これは自ら新しい研究分野を開拓してゆくのに適している。p57

盆踊も盆唄も、要するに祖霊を迎え送る儀礼であるとともに、この人生の重い節目の日に歓楽とともに哀愁を慰める心の憂さを表現する手段なのである。p65

 

金歯の国
大正15年頃の流行であった金の入歯を用いる風潮を批判

杉平(すぎだいら)と松平
杉平と松平の対比において注目されるのは、他の地方が展望できるか否か、つまり閉鎖的な生活に満足するか、それとも他の世界への志向をそそるものがあるかという点が注意されている。
柳田自身が常に遠くを眺める思考に富んでいたことを考えねばならない。彼は13歳の時、郷里福崎の山から瀬戸内海を望んで、大きくなったら世界の海を見て歩こう(「海女史のエチュウド」)と思ったのであった。p84

新たなる太陽
クリスマスと日本の大師講との対比

サン・セバスチャン
キリスト教の殉教者を語るまでに、狐や鹿が泳ぐこと、そしてその状況を狩りしたことなど無関係なような話が続く

 

女の咲顔(えがお)
柳田の平生の主張「今は昔ではない。昔と今は違うのだ」ということが基礎になっている。柳田のように明治初年の農村生活、それも関西のそれを体験した者が、第二次大戦後関東の都市生活までを振り返っての実感として、これは身についた考え方というべきである。p143

笑に対する咲は、内からえむ動きの表現らしいことがうかがわれる。つまり外から笑わせる対象あるいは力が働くのではなく、内面の心の表現という意味で用いた文字と思われるのである。p146

エムに悪意が伴わないのに対して、ワラフにはそれが伴うということは、読者自ら笑われる立場に身をおいてみればすぐわかる。ワラフのワラワレル側には必ず不快感を起こさせるからである。p148

涕泣(ていきゅう)史談
昭和16年、国民学術協会の求めに応じて行われた講演

 

作之丞と未来
従来の史学に対する一種の批判
秋田の学者人見蕉雨の記した『黒甜瑣語』という書からの話
天狗にさらわれた作之丞が、未来に戻ってきたという内容

感覚の記録
民族的感覚を示す記録としての言語表現について、事例をあげて述べている。

岡田蒼溟 著『動物界霊異誌』
おもてをゴマメ売りがゴマメゴマメと呼びながら通った。その後で障子の外に、誰だか小さな声でゴマメ、ゴマメという者がある。おかしいと思って開けて見ると、一人も人の影はなくて、縁側に家のねこがいるだけであった。p24

準備なき外交

 

柳田國男自伝
父の移り気な性格は私にも遺伝して居る。併しその御蔭に一生を幾つにも折って、常に新しく使うことの出来たのは、感謝しなければならぬと思って居る。p302

柳田國男の学問の基礎は自読によって得られた。彼は小学校を出てから18歳で第一高等中学(現東京大学教養学部)に入学するまで、ほとんどこの読書歴で過ごし、正規の学歴を経ていない。p306

「海南小記」は少年時代の志である「出世せねばならぬ。そして世界の海を見て歩こう」という望みの第一歩であった。ここに〈出世〉というのは文字通り播州の一農村から、広い世の中に出てゆくことである。海への希望がはじめに目指した商船学科→船長という形だったので、民俗学ではなかった。p309

 

ヒストリーを望むにはエスノグラフィー(民族誌)の樹蔭がよく、しかも其森の中のただ一筋の小路を辿らなければ、フォークロアの我家には還って来られぬことをこれも偶然に学ばざるを得なかったのである。p310

母から受け継いだ片意地と潔癖なども、世渡りの上には少しは不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。p312
そうして自分の久しく子供らしかったことを、今もって後悔する気にはならない。それだから又下らぬことばかりして来たと思いつつも、案外元気よく活き続けて居られるのであろう。p313
 
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パリとセーヌ川 中公新書

2023-02-23 09:01:17 | パリの思い出

 

パリとセーヌ川
小倉孝誠 著
中公新書 1947
2008年5月25日発行

本書はパリを中心としながらも、その上流と下流にも目を配りつつ、セーヌ川を舞台に繰り広げられられた生活、習俗、文化を歴史的に跡づけ、ジャーナリスティックな言説、文学、絵画、版画などがセーヌ川をめぐってどのような表象を提示してきたかを探ろうとしています。p7

プロローグ
フランスには大河(フランス語で「フルーヴ」[fleuve])が五つある。セーヌ川、ロワール川、ローヌ川、ガロンヌ川、そしてライン川である。p4

フランス史の領域では、1789年のフランス革命勃発から1914年の第一次世界大戦までの120年余りを、巨視的に19世紀と捉える見方が一般的である。p9

 

近代パリを論じ、語った言説の範疇
・ジャーナリスティックな文章
この種の著作では、タイトルの中に「タブロー」(tableau)という語を含む例が多い。タブローとは絵、情景、光景といった意味
・当時「社会観察者」と呼ばれた人々によって書かれた調査記録
マクシム・デュ・カンの『パリ、その構造と機能と生活』がその代表作
・観光ガイドブック「ギード」[guide]と旅行記、すなわち旅行者のために、旅行者の視点で綴られた言説
・文学作品
・絵画、版画、写真など視覚的にパリを表現した芸術

なせパリは語られたか
・当時のパリが急速に変貌していた。首都が変わるからこそ首都について語らなければならない。
・19世紀においてパリがさまざまな価値の温床と見なされるようになった。

 

第1章 川を通過する
パリは19世紀にいたるまでフランス最大の港の一つだった。
かつては河川と運河により、水上交通が陸上交通よりもはるかに効率的だった。

日本の河川はヨーロッパの河川と比べて、細く急峻なだけでなく、川の最小流量に対する最大流量の比率「河況係数」が際立って高い。交通・運輸には適していない。p19 

可動堰の発明は、パリ市内のセーヌ川の航行を安定化したという意味で決定的だった。川の流量に関係なく水位を上げて一定の高さに保ち、恒常的な水深を確保できたので、かなり大型の船舶でも季節を問わず市内に乗り入れ可能になった。p24

セーヌ川の航行を整備、拡大し、最終的にはパリを大規模な海港と較べてても遜色ない港にすること、それは決して根拠のないユートピアではなかった。
「パリ、海港」という神話的構想は、長い間にわたってフランス人の脳裏に宿ってきた。

中世から近代にいたるまでパリのセーヌ川に架かる橋は少なく(18世紀末で九つ)人々はしばしば渡し船で両岸を往復した。p32

 

1830年代から40年代にかけてがセーヌ川の蒸気船の黄金時代だった。p40
1837年、パリ市内から、西郊サン=ジェルマン=アン=レーまで鉄道が開通した。旅行客はそこまで汽車で行き、近郊の村ル・ペックの桟橋から蒸気船に乗船することになっていた。
当時は蒸気船と鉄道が共存した平和な時代だった。p47

 

第2章 運河に生きる
イベリア半島を除いたヨーロッパ大陸は河川を運河化し、河川どうしを結ぶ運河を作ってきた。

児童文学の古典とされるエクトール・マロの『家なき子』(1878年)
ミリガン親子は大西洋から遠くない河口内港ボルドーを出発してガロンヌ川を遡り、トゥールーズ近郊でミディ運河に入った。そして地中海に出てからローヌ川に入り、リヨンまで北上してソーヌ川へと移り、再び運河を使ってロワール川、さらにはセーヌ川へと船旅を続ける。そしてセーヌ川の河口ルーアンに出て、イギリス海峡に抜ける。p64

首都パリも運河と縁の深い都市である。セーヌ川それ自体が運河化されただけではない。セーヌ川と他の川を、そしてセーヌ川の上流と下流を結ぶために、サン=マルタン運河、ウルク運河、サン=ドニ運河が設けられた。

 

第3章 川を楽しむ
セーヌ川を利用した王政期の祝祭、共和制時代の祭典、そして万国博覧会はいずれも中央政府が先導した国家的プロジェクトであった。
一方セーヌ川を舞台にした市民が誰でも実行できる活動、レジャーとして、釣り、水浴、船遊びがあげられる。

鉄道の開通と発展により、パリ西郊のセーヌ川沿いの町村は人気の高い行楽地になっていった。水辺がリゾート化した。
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルなど、西部鉄道の沿線に位置する町。p121

 

第4章 川を描く
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルは町自体に格別豊かな文化資源が残されているわけではない。
それにもかかわらずこれらの町の名が現代人に何がしらの郷愁を覚えさせるのは、モネやルノワールやシスレーが描き、モーパッサンが数多くの短編小説の舞台にしたからに他ならない。

印象派の誕生と発展がセーヌ川の情景を表象することと密接に繋がっていたことは、あらためて指摘するまでもないだろう。光と水と大気を表現しようとした印象派は、セーヌ川を必要としたのである。p148

第5章 川に死す

 

第6章 橋を架ける
2008年現在、パリのセーヌ川に架かる橋は全部で37。
しかし18世紀末の時点においてパリのセーヌ川に架かる橋の数は現在に較べてはるかに少なく、その多くは中心部に集中していた。p204

橋の三種のカテゴリー
・セーヌ川の中洲と両岸を南北に繋ぎ、いわば首都の主要な縦軸を形成していた橋
・都市交通のためというより、特定の用途にだけ当てられていた橋
・16世紀から18世紀の王政時代に建造された大規模な橋
首都の交通量を分散させるため、パリ市の予算ではなく王室の予算で造られた。

 

18世紀までのパリは中心部の橋の上には、住居兼店舗が軒を連ねていた。
しかし18世紀末、都市景観への好奇心が浸透し始めたと共に、大気や水が循環することが人体の健康と都市の衛生にとって有益であるという「大気循環論」が広く流布し、受け入れられるようになった。そうなれば、橋の上の建物は審美的にも衛生学的にも好ましからざる邪魔物にすぎなくなった。

 

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『「笛吹き男」の正体』に関するメモ

2023-02-15 21:09:19 | ヨーロッパあれこれ

『「笛吹き男」の正体』について、少し疑問に思った所がありましたので、一応メモを書き残しておきます。

筆者の説によると、東方植民の集団に子供がついていったとのことで、祭りの最中だったので親は気付かなかった、気付いたのは相当時間がたってから、とありますが、気付かなかったのは、せいぜい1日分位のように思われます。それならまだ集団はハーメルン近郊にいるわけで、市長の娘も行方不明ということもあり、街中総出で、馬なども使って、探すことができると思うので、充分間に合うタイミングだったように思えてなりません。またロカトール(植民請負人)もいろんな人たちに声をかけており、結局行かなかった人たちもどこに行くか位は知っているはずで、集団捜索の手がかりは充分あったように思えます。

阿部謹也さんの本では、確かに本丸までは迫っていないにしろ、一番有力な説としてヴォエラー女史による「遭難説」が書かれていました。ヨハネ祭の興奮、それこそ舞踏病のようなもので子供たちが危険な場所までプロセッション(行列)や踊りでトランス状態になり、湿地帯の窪地で遭難したというのが、悲劇性からみても妥当のように思えます。実際舞踏病で川で溺れ死んだという例もあるそうです。『「笛吹き男」の正体』では、なぜかこの説に触れていなかったのが残念でした。

 

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ハーメルンの笛吹き男をパロったThe Axe Piper 2のCM

2023-02-12 20:26:13 | ヨーロッパあれこれ

The Axe Piper 2

 

昔、フランスで見たCMです。

ハーメルンの笛吹き男をパロった内容になっています。

笛吹き男が子供の代わりに町から連れ去ったのは・・・

 

 

 

 

 

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一冊でわかる北欧史

2023-02-12 14:28:15 | ヨーロッパあれこれ

 

一冊でわかる北欧史
村井誠人・大渓太郎 監修
河出書房新社 発行
2022年9月30日 初版発行

本書では北欧5カ国の歴史を包摂しています。
アイスランド、デンマーク、フィンランド、スウェーデンとノルウェーの5カ国に加えて、自治が認められている地域として、デンマーク領のグリーンランドとフェーロー諸島、フィンランド領のオーランド諸島も北欧に含まれます。

1 ヴァイキング時代

2 内乱から王国の統一へ

 

3 カルマル連合
1397年に、カルマル城において、スカンディナヴィア三国の有力者が一堂に会し、イーレク・ア・ポンメルンをスカンディナヴィア三国の共通の王として推戴する。
この時をもって、すでに承認されていたノルウェー王(アイスランドを含む)に加え、デンマーク王、スウェーデン王(フィンランドを含む)を兼ねる。
同時に、三国は永遠に同一の王を戴き、戦争が起こった場合、互いに助け合う、しかし各国は各々の法で統治され、あくまで独立した王国であると定められた。
会議が行われた地名からカルマル連合と呼ばれる。p102
1523年、スウェーデンが独立したことから、カルマル連合は崩壊した。p111

 

4 バルト海の覇権をめぐって
バルト海帝国
スウェーデンのカール10世の在位中、ポーランドとデンマークを相手にほぼ同時に戦争状態になるが、そのいずれにも勝利し、1660年に新たな領土を獲得する。この頃から18世紀初頭まで、最盛期にはバルト海をほぼ包みこむようにスウェーデンの領土が形成されたことから、20世紀以降の歴史家はこの支配圏を「バルト海帝国」と通称している。
その形態はスウェーデン王国を本国とし、その周囲に現地貴族の特権と支配的地位を温存した新領地がつき従う“複合国家”p140-142

5 国民国家の形成

6 中立への模索

7 第二次世界大戦
 
8 国際社会のパイオニア
北欧会議
さまざまな問題に対して、北欧各国が協力し合う場として1953年に発足。
フィンランドだけはソ連との関係を考慮して、1955年まで参加を見合せていた。
1970年代以降は、デンマーク領のフェーロー諸島とグリーンランド、フィンランド領オーランド諸島の各自治領の代表にも参加資格が与えられている。
議題は外交と安全保障を除く、社会、経済、文化、交通・通信、法律の諸問題p280-281
 
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