ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ルターとクラーナハへの旅(前半)

2024-07-07 20:58:25 | ヨーロッパ旅行記

ルターとクラーナハへの旅

松田至弘 著

牧野出版 発行

2001年12月15日 第1刷発行

 

ルターとその同時代人の足跡がよくわかる内容となっています。

 

第一章 ルターとその時代への旅(1)

ドイツ・歴史探訪への誘い

 

アイゼナハ

バッハの生誕地

ルターの母の出身地で、少年ルターの住んだ町

ルターがかくまわれたヴァルトブルク城のある町

 

エアフルト

ルターが入学したエアフルト大学

ルターが入ったアウグスティヌス修道院がある

 

ヴィッテンベルク

「ルターの町」

ヴィッテンベルク大学の神学部に就任したルターが免罪符に抗議した発端の場所

メランヒトン、クラーナハも住んでいた

 

ニュルンベルク

デューラーやマイスタージンガー(職匠歌人)のザックスが活躍

 

ヴォルムス

カール五世が招集したこの地の議会でルターが自説の撤回を拒否した

 

第二章 ルターとその時代の旅(2)

私のドイツ歴史都市紀行

(1)アイゼナハ

少年ルターが学び、のちに新約聖書のドイツ語訳をした町

 

ルターと同じ聖ゲオルク教会付属学校に、ほぼ二百年後入学したバッハ

 

誘拐されたルターだが、これは異端宣告を受けて命が危なくなったルターを救うために、ザクセン選帝侯が仕組んだ芝居であり、計画的な誘拐事件であった。

ルターはヴァルトブルグ城で選帝侯の友人郷士イエルクとして頭髪を伸ばし、髭を生やし、騎士の服装をして約十か月間かくまわれて生活した。

 

(2)エアフルト

ルターが大学生活を送り、修道院で苦闘した「塔の町」

 

教会の鐘があちこちから鳴りだし、大きな音になって響き渡った。その荘厳な音色は、著者にルターの時代の音の世界をイメージさせた。

 

(3)ヴィッテンベルク

ルターによる福音の発見が行われ、宗教改革の中心になった町

 

ヴィッテンベルク城の城教会の北側正面の扉の前に「九十五か条の論題」を掲示したといわれる場所

 

ルターは当時ヴィッテンベルク大学の聖書的ヒューマニズムの立場に立つ神学者であった。神の言葉の独自の解釈と熱意に満ちた個性・指導性は、全学部から賞賛され、指示を受けるようになっていた。

しかし、贖宥の問題についてルターは、全ての面で明確な考えを持っていたわけでなく、自分の考えに対して反対者がいる場合、討論したいという願いがあったと思われる。

 

クラーナハはザクセン選帝侯によって、ヴィッテンベルクへ招聘された宮廷画家である。

しかしそれに留まらず、市長や印刷出版業や書店の経営者、薬品・ぶどう酒・香料・砂糖などの商売人、そしてルターの友人・宗教改革運動推進の画家としての顔を持っていた。

 

クラーナハは、単にルターとの友情を利用した抜け目のない人物として悪く評価されやすいが、著者はそうは思わない。

クラーナハは広い視野と鋭敏な感覚を持ち、時代の要求しているものを敏感に感じ取って行動した現実主義者であったと思う。

 

メランヒトンは「ドイツの教師」と呼ばれたが、彼の研究は古代言語や神学だけでなく、教育、数学、天文学、占星術にも及んでいる。

 

(4)ニュルンベルク

1525年に市参事会がルター主義を宣言した町

 

ハンス・ザックス

マイスタージンガーは職匠歌人と訳す。

本職の手工業を営みながら、詩人・作曲家・歌手の三役をこなした芸術家

 

ニュルンベルクはデューラーの町。

1509年に家を購入し没するまでの二十年近く住んだ。

 

デューラーにはローマ・カトリック教会から分離独立して新しいルター派の教会を創設しようとする考えはなかった。

デューラーはカトリック教徒として生涯を終えている。

 

(5)ヴォルムス

国会(帝国議会)が開かれ、ルターが皇帝と対決した町

 

宗教改革の記念碑

ルターが一際高く立ち、土台の四隅には、ヴァルドー、ウイクリフ、ヤン・フス、そしてサボナローラが配置されていた。

 

 

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漱石先生の手紙が教えてくれたこと

2024-07-05 20:48:01 | 小説

漱石先生の手紙が教えてくれたこと

小山慶太 著

岩波ジュニア新書

2017年8月22日 第1刷発行

 

夏目漱石はおそるべき手紙魔であった。

確認されているだけでも、22歳から没する49歳までの間に書かれた手紙は、優に2500通を超える。

 

序章 吾輩は手紙好き人間である

 

1章 孤独と向き合う

顧みるもの一人も無

 

松山と熊本時代の漱石について特筆すべきことは俳句である。

 

漱石のロンドンでにおける孤独な生活の、ただ一人例外となった人物であるシェイクスピア研究家のクレイグ先生。

愛蘭土の人で言葉が頗る分らない。

少し隻き込んでくると、東京人が薩摩人と喧嘩をした時位に難しくなる。

シェイクスピア字引を編纂するため、ウェールズの大学の地位を捨て、毎日大英博物館の図書室に通う時間を作った。

 

2章 人生の決断に迷ったとき

死ぬまで進歩するつもりでやればいい

 

3章 決めた道で困難に出会ったとき

自分は自分流にするのが義務

 

4章 戦うよりも許すこと

それが人間の修養

 

終章 吾輩は自己の天分を尽くすのである

 

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