ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

エコール・ミリテールとエッフェル塔のツーショット

2022-10-29 07:20:32 | パリの思い出

 

画像はエコール・ミリテール(陸軍士官学校)とおなじみのエッフェル塔です。
横に伸びるエコール・ミリテールと縦にそびえるエッフェル塔、という感じですね。
パリ在住時代はメトロ8号線をよく利用したので、モグラのようにこの辺りの地中を駆けずり回っていました。
ブシコーから、フェリクス・フォール、コメルス、ラ・モト=ピケ=グルネル、そしてこのエコール・ミリテールを通り、ラ・トゥール=モブール、アンヴァリッド、そしてコンコルドで1号線に乗り換えます。
時にはモグラも地上に出て、この辺りの通りをわざわざ歩いていたのも、いい思い出です。
パリのメトロの駅名の由来を述べた「パリのメトロ歴史物語」(原書房)より、エコール・ミリテールに関する箇所を抜き書きします。

 

このエコール・ミリテールは、ルイ15世時代の1752年から60年にかけて、建築家のアンジュ=ジャック・ガブリエルにより士官学校として建てられました。 
その後まず小麦と小麦粉倉庫となり、革命曆2年(1793-1794)に騎兵隊の兵舎に変えられました。そこには執政護衛隊が、後には国王親衛隊が入ります。
ここを兵舎としたナポレオン親衛隊は貴族に叙任され、それにより兵舎はエリート軍人のものとなります。
第2帝政時(1852-1870)にも、ここに騎兵や砲兵たちを住まわせました。 
しかし第3共和政(1870-1940)でここを軍事教育のための学校に戻しました。
そして現在では国立高等軍事学校となっています。

 

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ピサロ/砂の記憶 印象派の内なる闇

2022-10-24 16:44:42 | フランス物語

ピサロ/砂の記憶
印象派の内なる闇
有木宏二 著
人文書館 発行
2005年11月30日 初版第1刷発行

ピサロは印象派の中でも、シスレーやベルト・モリゾなどとともに好きな画家の1人です。
パリ在住時にはポントワーズまで彼の絵画のモチーフとなった場所を訪ね歩きしましたし、日本に帰ってからも彼の展覧会に行ったりしました。
この本はかなり厚手の本ですが、頑張って読んでみました。氏のユダヤ由来が強調されています。

 

プロローグ 「猶太教の隠忍な潜力」 高村光太郎の批評から
カミーユ・ピサロが、かつてデンマークの植民地であったヴァージン諸島(小アンティル諸島)の一島嶼セント・トーマス島(現在、アメリカ合衆国特別自治領)で、生まれたということ。
ピサロを理解するにあたり、このことは、ぜったいに見逃してはならない重要な事実であり、また出発点である。
すなわち、セント・トーマス島とはユダヤ人の離散の地であり、ピサロの生涯の三分の一は、カリブ海の離散の地に根ざしていたのである。
いいかえれば彼はその土地で、かつてイベリア半島で異端審問の追及と火炙りに苦しんだ「マラーノ」、つまり迫害の記憶を携える隠れユダヤ教徒の末裔として生まれ、それゆえ、ときにその記憶に激しく苛まれつつ生きなければならなかったのである。p8

 

第0章 ある隠れユダヤ教徒の生涯
16世紀、メキシコでわずか30歳で火炙りの処刑により、その短い生涯を閉じた隠れユダヤ教徒、ルイス・デ・カルヴァハルについて
マラーノ
異端審問を逃れるため、表向きにキリスト教徒の外皮を着た隠れユダヤ教徒のこと

第1章 ピサロ一族とその他の異端者たち
モンテーニュの母方のユダヤの血について
ユダヤ人が「商人」と呼ばれて差別されてきたという事実であり、しかも、そもそも「商人」という言葉自体が「ユダヤ人」と同義語だった。p40

 

第2章 セント・トーマス島から

第3章 第二帝政期のパリ、そしてサロン

第4章 内部の声を聞く者たち
ザカリー・アストリュックこそ、後に述べるエミール・ゾラが批評を書くより前に、はじめてカミーユ・ピサロの絵に注目し、重要な言葉を捧げた人物。マネの大親友でもあった。p104

ピサロの「反イエズスの道」
カトリック(そしてブルジョワ階級)に対する敵意
また、神の存在を信じる半ばユダヤ教徒としてのピサロから発し、おそらくほぼ同時に、ユダヤ教に対する敵意とはいわないまでも、ユダヤ教からの完璧な離脱へと転移しはじめていることはひじょうに重要である。p121

パースペクティブの消失点ではなく、その彼方に消失するかのような、どこまでも続く道の表現に取り組む。
ピサロにとっての「道」とは、最初期から最晩年に至るまで、さまざまに描き継がれることになる不変のテーマであり、ピサロの芸術の本質を何よりもよく象徴するものと言われる。p123

 

第5章 印象派、すなわち、画家、彫刻家、版画家など
印象派という場において彼らは、平等の権利によって同質化するのではなく、むしろ同じ条件の下で差異(ユダヤ人、女性、プロテスタント(バジール))を分かち合い、そこにおいてこそ緊密に結ばれていた。
普仏戦争とパリ・コミューンによって劇的に引き起こされた第二帝政の権威的な価値観の崩壊を間接的に翻訳するものであるのかもしれない。
第三共和政では、いうまでもなくそれまでとは異なる世界が出現した。p173

 

第6章 ある友情のかけら ピサロとルノワール
アルジェリアは、ルノワールにとって、間違いなく転機の場となった。
アルジェリアにおける光の洗礼は、かつてない明澄な絵をルノワールに描かせた。p196

 

第7章 父として、画家として、ユダヤ人として
ピサロから息子リュシアンに対して繰り返し感覚(サンサシオン)を説く多くの手紙

カミーユ・ピサロが本来の名を「誤り」として書き改めようとした理由
家族にとって「重大な結末」つまりユダヤ人(ユダヤ教徒)に対して繰り返されてきた無情な迫害、あるいは凄惨な虐殺に、何かしら関係するものであると考えざるを得ない。p239

19世紀において、フランスほどに反ユダヤ主義的言説が大量に印刷された国はない。p243

 

第8章 蜜蜂の飛ぶカンヴァス  
自然主義的傾向の強いバスティアン=ルパージュの1878年のサロン出品作にして代表作《干し草》
男女二人の農民が写実的に描かかれつつ、女性の方は、醜悪な表情で表現されている。p277
当時の批評家たちの目には、手前に位置する放心状態の女性はいうまでもなく、女性の背後の、帽子で顔を覆い、仰向けにぐったりと横たわる男性もまた、いずれも故意に人間性を剥奪されているように見えていたのである。
そしてピサロも鋭利な批判の矛先を磨きこそすれ、まったく鈍らせることはなかった。p278
(自分はこの絵は、そんなに嫌いではない。いい作品だと思います)

第9章 反ユダヤ主義的アナーキスト?

 

第10章 ドレフュス事件
最後まで印象派を支え続けてきたドガが、もっとも激しく反ユダヤ主義を表明するようになったことは、ピサロの悲しみを倍増させたことは間違いない。p358
ドガの作品《株式取引所》《コンコルド広場》に現れている反ユダヤ主義

微妙な光の戯れを表現したモネの《カピュシーヌ大通り》とは一線を画すピサロの表現にあらわれている個々の対象への謙虚な態度はさらに、「大通り」よりも小さな「通り」、すなわち「街路」へと視線を向け変えながら継続されていく。p377
1898年1月5日からピサロは、今度はリヴォリ通り172番地の「グラン・オテル・デュ・ルーヴル」の最上階の一室(現在この部屋は「ピサロ・スウィート」として提供されている)に逗留し、部屋の窓から俯瞰できるオペラ座通りの光景を、朝夕、そして霧、雨、雪といった変化にしたがって、いくつものカンヴァスに描写しはじめる。p378

 

エピローグ 砂の記憶 
セント・トーマス島を訪問する著者
上下動の繰り返しによって、まったく違う風景を出現させる緩急さまざまの起伏の連続
たとえばポントワーズ時代のピサロの風景表現に強く打ち出されていたのは、もしかするとセント・トーマス島に特有のこの激しい起伏の感覚だったのではないか。
画材を抱えた少年のピサロが、美しい海の見える風景を探して起伏のある道を絶えず歩き続けていたことは間違いない。とすれば、足裏から全身、そして目に伝わる起伏の感覚は、少年のころに培われたものであるだけに、生涯彼の身体から忘れられることはなかったのではないか…。p198-199

 

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日本語はいかにつくられたか?(後半)

2022-10-23 06:34:28 | ヨーロッパあれこれ

Ⅲ 日本語の「仮名遣」の創始 藤原定家
1 『明月記』の定家
治承四年(1180)2月5日、定家は、以後、断続的ではあるが、嘉禎元年(1235)12月30日まで、五十六年間書き続けることになる準漢文体の日記、『明月記』を書き始める。p80

2 「古典」の定位と『仮名遣』の創始
藤原定家の作業(校訂という方法により吟味された書写)がなされるまで、日本には「古典」は存在しなかった。
定家は日本における文化的権威の始祖であり、その権威が古典を創造したとも言える。

文字というものを使用し始めてから約七百年の歳月をかけて、日本人は一つの結論を得るにいたった。
その結論とは、「日本語を書き表すには、漢字だけでも駄目であり、仮名だけでも駄目である」というものであった。
時代は、和漢混交文の時代に入ることになる。p107

3 和漢混交文の時代
『愚管抄』は、神武天皇から順徳天皇までの日本歴史を叙述した書物であるが、単なる事実の羅列の書ではない。
歴史を動かすものは道理であるという歴史観が根底にある。確固たる信念、哲学を有する歴史書は『愚管抄』をもって嚆矢とする。
そして、歴史の書物が、和漢混交文で書かれるのも、これが初めてなのだ。p112

 

Ⅳ 日本語の音韻の発見 本居宣長
1 日本語の音韻の自覚の歴史
円仁(794~864)が唐で学んだ「悉曇」(しったん。古代インドで使用されていた文字から発達した文字。梵字。またその一覧表。または、これに関する学問)
日本で母音と子音に関する自覚は「悉曇」を学ぶことにより得られた。

反切
二つの既知の文字の音を用いて未知の漢字音を表す方法p122

五十音図は、命がけで渡った中国における音韻学・悉曇学の知識をもとに、平安時代の日本人によって考案された。

 

2 本居宣長の学問
本居宣長の学問の特質は、「言」を調べ「事」を明らかにし、「心」を把握することにあった。したがって単なる証拠中心の実証主義ではなかった。
彼は、「かがみに見えぬ心」の存在を信じ、これが最も肝腎なものと考えていたのである。p126
(星の王子さまの「大切なことは目には見えない」というフレーズを思い出しました)

現存最古の五十音図は、醍醐寺蔵本『孔雀経音義』(十一世紀初期成立?)の末尾に書かれているものである。p128

17世紀初頭にローマ字で書かれた五十音図がある。ジョアン・ロドリゲス著『日本大文典』(1604年成立)に載っている。p129

 

Ⅴ 近代文体の創造 夏目漱石
1 時代は天才を必要とした
夏目漱石の思考の原型は、「半分の西洋」が横文字で表され、「半分の日本」が漢字と仮名で表されている。p147

2 二葉亭四迷の悲劇
勝海舟の父、勝左衛門惟寅(夢酔、1802-1850)による懺悔の記録『夢酔独言』
私的文書だが、日本語の歴史の面から見ると、「御家人ことば」(本江戸のことば)による言文一致体の記録として有名になった。p149
(少し引用していましたが、内容も文体も粋な江戸っ子のそれでしたね)

二葉亭四迷は、『新編 浮雲』(明治二十年六月~二十二年七月)において、二つのことを試みている。一つは言文一致の文体の創造であり、他の一つは心理小説の創造である。p156-157

 

3 夏目漱石 方法へのこだわり
二葉亭四迷の『浮雲』 明治二十年六月
夏目漱石の『吾輩は猫である』 明治三十八年一月
この十八年の遅れが漱石に幸いした。明治二十年代と明治三十年代後半とでは日本語の成熟度が子供と大人のように違っていた。
J.C.ヘボンの『和英語林集成』
初版は慶応三年
第三版は明治十九年
この二十年で総語数は約一万五千語増加した。増加したことばの大部分は漢語だった。p166-167

日本語には、古来、一人称(自称)二人称(対称)を表すことばは豊富すぎるくらいにあったが、三人称(他称)のことばは少なかった。「あれ」「かれ」という表現は指示代名詞であり人称代名詞ではなかった。
「彼」という三人称代名詞が使用されるようになったのは明治以後である。p171

翻訳体の影響が濃厚でない二葉亭四迷に対して、新しい「文」の在り方を考え、新しい日本語の文章の創造を心掛ける夏目漱石の文章には、翻訳体と判断される表現が続々と取り入れられることになる。p180

Ⅵ 日本語の文法の創造 時枝誠記
1 日本語の文法の自覚の歴史

2 明治以後の文法研究史

3 時枝文法 「主体性」の回復

 

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日本語はいかにつくられたか?(前半)

2022-10-22 09:20:50 | ヨーロッパあれこれ

 

日本語はいかにつくられたか?
小池清治 著
筑摩書房 発行
ちくまライブラリー25
1989年5月30日 発行

日本語は書きことば、読みことばとしては本当に複雑な言語だなぁとよく実感することから、日本語のルーツを調べたくなり、この本を手に取りました。
先人たちの苦労を読み進めていると、中世のシャルトルのベルナールによる「我々は古代人という巨人の肩に乗っている小人に過ぎない。古代人のおかげではるか遠くを見ることができる」というフレーズが思いおこされます。

Ⅰ 日本語表記の創造 太安万侶
1 漢字の衝撃
漢字伝来以前にわが国の固有の文字として「神代文字」があったという説がある。
しかしそれは後世の偽作というのが今日の定説となっている。
古代の日本語は無文字言語として存在していた。p3

馬より低かった漢字の地位
応神天皇十五年(四世紀末から五世紀初頭?)百済の国王が良馬二匹を天皇に贈った。
『王仁』と並んで、わが国へ文字(漢字)を伝えてくれた、大恩人「阿直岐(あちき)」は馬の付き添いとして来朝した。その当然の帰結として、わが国でまず与えられた仕事は馬飼の職であった。そして「経典」をよく読むということで、皇太子の家庭教師になっている。p4-5

 

日本人が日本語を文字を用いて書き表すようになるのは、飛鳥時代、推古天皇(554-628)の時代まで下らなければならない。p9

2 安万侶の苦心
安万侶は『古事記』上・中・下、三巻をわずか四ヶ月で書き上げている。なぜこのような短時間でこれだけの大業が成就されたのであろうか。
・三十年ほどの歳月をかけて用意された資料が存在していた。『帝紀』『旧辞』など
・稗田阿礼という優秀な協力者がいた。
稗田阿礼は「語部」として神話や歌謡を単に暗記していたのではなく、『帝紀』『旧辞』の文献の読み方まで暗誦していたのでは?

安万侶は結局、日本語を漢字を用いて書き表すには、「訓」だけではだめであり、また「音」だけでもだめだと判断している。「音訓交用」の道を選んだ。p20

本居宣長は『古事記』を読み解くのに三十五年の歳月を要している。なぜこのようなことになるのか。
・遥か昔の古語を見極めることの難しさ
・『古事記』にはよい出本が現存しない
(最も古い真福寺本でも応安四・五年[1371・2]であり、和銅五年[712]以来、六百六十余年も経過している)
・安万侶の表記法が不完全だった?というか、漢文・漢字を主体とした文体では、日本語の文章語・書きことばのスタイルを創造するのは不可能だった。

 

Ⅱ 和文の創造 紀貫之 
1 『万葉集』と『古今和歌集』との相違 
大伴家持の撰した『万葉集』
天皇の相問歌(恋愛歌)から乞食の詠んだ歌まで入っている。「国民歌集」
紀貫之の撰心した『古今和歌集』
貴族・僧侶の和歌ばかり。「知的エリートの詞華集」

万葉集には、文字化された資料のほか、撰者、大伴家持自身の筆録によって書きとどめられた歌が多数入集している。
家持の時代には文字化したくても文字化する能力を持たない人々が多かったはずである。あえて極端な言い方をすれば、この時代は文盲ということで人々は平等であった。その結果、和歌の前でも平等であったのである。
一方、貫之の時代には、既に、「仮名」という日本人にとって至極便利な文字体系が出来上がっていた。p35

2 仮名の発明
「仮名の発明」は、日本語の創造という分野における最大級の発明であったにも関わらず、いつ、どこで、誰が、どのようにして発明したか明らかではない。

漢字の意味を捨てて音だけを利用して表現するということ、即ち漢字を仮名として用いること。このようにして用いられた漢字を「万葉仮名」という。

 

歌謡は定型ということで、表現のための「文法」と「コンポジション」(文章構成法)を既に有していた。
その長ったらしさにも関わらず、安万侶が安心して、これを万葉仮名表記できたのは、歌謡がこれらを備えていたからに違いない。p41

万葉仮名の欠点は意味を捨象しきれないこと
あと漢字そのものの欠点でもある字種の多さと字画の多さp42

万葉仮名は仏典の陀羅尼(サンスクリット語を漢字で音写したもの)の影響を受けたもので、日本人の独創ではない。p44

草体化した万葉仮名を「草仮名」という。「草仮名」は漢字と平仮名の中間形である。p44

「平仮名」化の動きは、延喜五年(905)に成立した『古今和歌集』で一応の完成を見る。「仮名」が公的な場で公的文書に用いられた最初のもの。p46

 

『古今和歌集』を平仮名で書き表すという決断、即ち、公的文書の表記法を変えて、新しい表記法を採用するという決断に匹敵するものを日本語の歴史の上において別に求めるならば、それは、はるかにくだった昭和二十一年(1946)の「当用漢字」1850字の決定・告示になる。p50-51

「片仮名」は、漢字の字画の一部を採り他の部分を省略する「省画」という技法を万葉仮名に適用することから生じた。
片仮名は講義ノートをとるための一種の実用的速記文字として寺院で発生し、発達した。p51

和歌・消息等の分野を「平仮名」に抑えられ、「片仮名」は独自の分野を開拓することが出来なかった。そのため、いつまでも、漢字の補助的符号という身分に甘んずるほかなかった。
片仮名が社会的に通用するようになっていたであろうことを示す現存最古の資料は、天暦五年(951)頃のものとされる、醍醐寺五重塔天井板に残されている落書きの和歌三首である。p52

 

3 日本語の文章(和文)の創造
仮名で日本語が書き表せると意識した時に「平仮名」が生まれ、「平仮名」が生まれた時に、日本語の書きことばは成立した。p54

『伊勢物語』の「東下り」における「だらしなさ」を引き起こしている元凶は、繰り返し。そして、この繰り返しの多さは、口頭言語の特徴でもある。
音声言語の段階を半歩しか離れていない。眼の吟味を経ていないものだった。p61

『土左日記』は土佐の地で失った幼いわが女児への哀傷が中心的主題であることが疑いようがないが、大恩人の醍醐天皇や主君の藤原兼輔の死を悼む挽歌の隠れ蓑であったのではないか。

 

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播磨の街道 『中国行程記』を歩く

2022-10-16 15:43:35 | ヨーロッパあれこれ

 

播磨の街道 
『中国行程記』を歩く
橘川真一 著
大国正美 解説
ひめしん文化会 発行
姫路文庫10
2004年1月25日 第1刷発行

萩藩(山口県)の絵師、有馬喜惣太が、藩主へ江戸への参勤の道を示すために制作した詳細な絵図である『中国行程記』をもとに、西国街道(山陽道)のうち、兵庫・岡山県境の船坂峠から須磨・一の谷まで歩き、街道筋の歴史や風物をやさしく解説しています。
なお本書は、平成10年から同12年にかけて山陽電鉄発行の「山陽ニュース」に「古い歴史を刻む道」と題して33回にわたって連載したものに加筆したものです。p205

 

西播磨 上郡町~太子町
ヒバリが鳴いた龍野藩領 龍野市
この付近の街道の様子を描いた人にドイツの医師で、日本研究でも知られたフィリップ・フランツ・シーボルトがいる。
文政6年(1823)に来日したシーボルトは、同9年に長崎から江戸を往復した際の様子を『江戸参府紀行』として記録しているが、門前付近を通ったのは3月9日の昼過ぎであった。p50

旗振山だった太田の楯岩城 太子町太田
『行程記』には、石地蔵のそばに「天神」の赤い鳥居と社殿が描かれている。何の説明もないが、播磨の地誌『峰相記』には、伝説の人といわれる藤原貞国の物語が書かれている。
奈良時代の天平宝字8年(764)に異国の軍船二万余艘が播磨国まで攻め込んできて、家島などに陣を敷いた。驚いた朝廷は、鉄を射通すという貞国を将軍にして討伐させた。
大勝を収めた貞国は播磨の西五カ国の大領になり、大田郷(太子町太田)の楯鼓原に住んだ。貞国が亡くなったあと村の人々は黒岡明神に祀ったという。
これは鉄人伝説の一つで、貞国も実在の人物ではない。p58

 

中播磨 姫路市 
古代の市があった市之郷 姫路市市之郷
平安時代中期の歌人・清少納言が著した随筆集『枕草子』の十二段「市は」に奈良の辰の市、椿市、飛鳥の市や飾磨の市があると書かれている。大和の市と同じように、都にも知られた市が姫路の飾磨にあった。
飾磨の市は、今の姫路市城東地区、市之郷町周辺にあったものとみられ、この町名や、すぐ東を流れていた市川の名も、飾磨の市から付いたといわれる。
山陽道ぞいにあった飾磨の市は、平安から鎌倉前期にかけて姫路周辺、市川流域の物資の集積地として最も栄えていたようで、この辺りには、市之郷廃寺跡と礎石、播磨政所などの史跡が残っている。p98-99

 

東播磨 高砂市~神戸市須磨区
謎の巨石・石の宝殿 高砂市阿弥陀町生石
文政9年(1826)3月10日に博物学者・シーボルトもここに来て「石の宝殿は巨大な石が突然そこに出てきたという伝説」と「江戸参府紀行」に記している。p136

明石の城下町 明石市鍛冶屋町ほか
元禄4年(1691)に播磨の海を通ったドイツ人医師ケンペルは、明石の町を見て、美しい城で高い樹木に覆われていて、城壁の中央と両端に三層の櫓があり、白壁の二面だけが輝いていたと、褒めているが、文政9年(1826)に明石を歩いたオランダ商館の博物学者シーボルトは、明石は大きな町だが、秩序や規律の見られない取るに足りない町と酷評している。p191

絶景の海辺の道 神戸市垂水区
『日本書紀』には五色塚は偽陵だと書いてあるが、現在の調査では、この古墳は四世紀から五世紀にかけて築造されたもので、偽陵ではなく、明石海峡を支配した豪族の首長の墓ではないかといわれている。p199

 

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