ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

サン・ジェルマン・アン・レーから見たラ・デファンス

2020-09-29 20:29:30 | フランス物語
古の写真で巡るフランスシリーズ、今回からパリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レーになります。
まずはそこから、ラ・デファンスの写真を撮っていました。
パリという巨大な旧市街から、矢のように、真っ直ぐ放たれた新市街、ラ・デファンス。
森の上にその偉容を誇っています。
目の前に流れるのはセーヌ。
くねくね野蛮に曲がりながらパリを目指します。入城した途端、洗練されたふりをして、パリをへの字型に貫いていきます。
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「共産党宣言」になぜか出てくるダンテさん

2020-09-22 08:39:34 | ヨーロッパあれこれ
マルクス エンゲルス
共産党宣言
大内兵衛 向坂逸郎 訳
1951年12月10日 第1刷発行
1992年5月15日 第63刷発行
岩波文庫 白124-5

1893年イタリー語版への序文 より

『宣言』は、資本主義が過去に演じた革命的役割をまったく公正に取りあつかう。最初の資本主義国家はイタリーであった。封建的中世の終結、近代資本主義時代の出現の姿を示す、ひとりの雄大な人物がいる。それは、中世の最後の詩人であると同時に近代の最初の詩人であるイタリー人、ダンテである。現在、1300年ころと同様に、あたらしい歴史時代が生まれようとしている。このあたらしいプロレタリア時代の生誕の時を告げるあたらしいダンテを、イタリーはわれわれにおくるであろうか?
  ロンドン、1893年2月1日
フリードリヒ・エンゲルス  p34

(なせここでダンテが出てくるのだろう。確かに詩人としては新時代を創ったが、政治的にはフィレンツェを追放され、「他人のパンのいかに辛(から)く、他人の家の階段の上がり下がりがいかに辛(つら)いことであろうか」という苦しい流浪の人生を送った人である。とりあえずイタリア人向けに、イタリアの国民的詩人を出しておけ、という、エンゲルスのリップサービスであろうか?よくわからない)
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ブールジュのオダリスク 後ろから前から(ベリー博物館)

2020-09-20 07:24:22 | フランス物語




ブールジュの大聖堂北塔を降りた後、ベリー博物館に入りました。
そこではこの彫像の写真だけを撮っていました。
オダリスク(オスマントルコのハレムの女)と題されています。その名の通り艶かしい彫像です。
なぜこの写真だけを撮ったのかというと、監視員とかがいる場所ではなく、なぜかゴミ箱や段ボール箱もあるような辺鄙な場所に置かれて撮影しやすかったから、ということにしておきましょう(笑)。
また、なぜ二枚も撮ったかについては、作品名や作者名が書かれてあるプレートも記録しておきたかったから、ということにしておきましょう(汗)。
で、ブログを書くにあたって、そのプレートが役に立ちました。
作者はGeorges Jacquot ジョルジュ・ジャコと書かれています。
調べてみると、1794年にナンシーで生まれ、1874年にパリで亡くなったそうです。当時にしては長命ですね。
そして代表作として、ナンシーのスタニスラス広場にある、スタニスラス・レチンスキーの像を制作しています。
生誕地ということが関係しているのかもしれませんが、意外な発見に驚きました。この像はオダリスクと対照的に、恐ろしく貫禄のある像です。
その他、ルイ17世やルイ・フィリップなどの権力者の胸像や、ルーブル宮やサン・ジェルマン・デ・プレ教会の彫像も制作しています。
かなりの彫刻家だと思うのですが、このブールジュの作品はなぜか粗末な場所に設置されていました。
今はどうなっているのかしれませんが、個人的にもお気に入りの作品なので、もっと良い場所に展示してあげて欲しいなぁと思ってしまいました。

今回で、「古の写真でめぐるフランス」のブールジュの巻を終わりにします。当時はフィルムカメラの時代でしたが、それでももっと写真を撮っておけばよかったですね。天気もあまりよくなかったせいもありますが。
ブールジュはガリア戦記の時代からの街で、更に見所があったはずです。
やはりここももう一度訪問したい街のひとつです。

(Wikiphidias - L'Encyclopédie des sculpteurs français Du XIVe au XIXeのHPを参考にしました)
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ブールジュ大聖堂北塔から見た風景

2020-09-19 07:47:12 | フランス物語


ブールジュの街並みを眺めます。
屋根の色は黒系ですが、所々で赤茶系が見られます。
このブログではしつこく書いていますが、屋外広告が見えないのには、つくづく感心します。
更に向こう側は平原なのでしょうか、それとも森なのでしょうか。
曇り空とボンヤリ交わっています。
ヨーロッパに行って、はじめて地平線の意味を理解したような気がしました。
まさしく「ヨーロッパの限りない大地」です。
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サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する

2020-09-13 09:46:53 | ヨーロッパあれこれ
サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する
梯久美子 著
2020年4月24日 初版発行
(株)KADOKAWA 発行

2017年11月と2018年9月にサハリンを訪問した紀行文です。
初回は寝台急行に乗って島を縦断し、北部のノグリキまで行って廃線跡などを見学しています。
二回目は1923(大正12)年に樺太を旅した宮沢賢治の行程をたどっています。
自分が以前読み、なおかつ思い入れの深い林芙美子の樺太への旅(1934年・昭和9年)を重ね合わせている箇所が、個人的には一番よかったです。

芙美子の紀行文は、感覚的なようでいて、よく読むと各種の数字がしっかり書き込まれている。船や鉄道の出発時間や所要時間はもちろん、物の値段から見かけた子供のおおよその年齢、一緒に食卓を囲んだ人の数、車窓から見た山の高さから峰の数まで、こまめに記されているのだ。p41

途中駅の白浦(現在のヴズモーリエ)駅に停車中、芙美子はホームで「パンにぐうぬう、パンにぐうぬう」と呼び売りをしているロシア人を見る。
こういうとき、必ず買ってみるのが芙美子という人p46
北原白秋もこのパン屋を見ている。
このパン屋はロシア人ではなく、実はムロチコフスキというポーランド人だった。
ぐうぬう、は牛乳のこと。

芙美子訪問時の樺太は50度線の国境も観光名所だったが、芙美子は日帰りで国境に行ける敷香まではるばるやって来たのに、断念してしまう。ハイヤーの代金が高く、一緒に乗ってくれる人を探すのが面倒だったと彼女は書いている。
しかし断念の本当の理由は、豊原での巡査からの無礼な態度から、国境訪問にはあらぬ疑いをかけられるとう警戒心から来ているのかもしれない。
芙美子の旅の三年半後、岡田嘉子と共産党員だった杉本良吉はこの国境を越えて亡命している。

サハリンに行きたいと思っていた村上春樹氏は、渡航可能になったあと、本当にサハリンを訪れた。『1Q84』が刊行される7年前、2003年のことで、函館からプロペラ機で行ったという。
その時の紀行文の冒頭近くで村上氏は、サハリン空港の入国審査の係員を「ついさっきおやつに胆汁をたっぷり飲んできたような渋い顔つきで、パスポートとビザを重々しく点検する」と描写している。
「その通り!」と膝を打つ筆者。p132

チェーホフが旅をした1890年のサハリン南部と、宮沢賢治が旅をした1923年。二人は同じルートを通っていた。p219

『サハリン島』におけるチェーホフの文章は、そのほとんどが事実を淡々と報告するそっけないものだ。だが、白鳥湖の岸辺に立ったときは、胸にあふれてくるものがあったようで、島内のほかの場所を訪れたときには見られない、主情的な文章を綴っている。p234
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