ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

シベリアのビートルズ イルクーツクで暮らす

2023-05-28 20:59:24 | ヨーロッパあれこれ

 

シベリアのビートルズ イルクーツクで暮らす

多田麻美 著

亜紀書房 発行

2022年11月1日 第1版第1刷発行

 

はじめに

著者がイルクーツクに暮らし始めた2018年初頭はBBC、ユーロニュース、ドイチェ・ヴェレ、NHKなどの海外向け放送が常時視聴できたが、ウクライナ侵攻とともにそれらは姿を消した。

国境も封鎖され、「ソ連」への回帰どころではなく、それ以上なのだ。p6-7

 

Ⅰ スラバ(著者のパートナー)の部屋

1 シベリア、イルクーツク、Z通り一番地

シベリアの主な都市には、イルクーツクの他に、ノボシビルスク、オムスク、クラスノヤルスク、トムスクなどがあるが、実際にシベリアの首都の座を獲得しているノボシビルスク以外の住民も、「本当はわが街こそシベリアの首都であるべき」と思っている。

イルクーツクにも、歴史上のある時期、シベリアや極東地域の首府であった。p13

 

1825年、帝政期の首都で「デカプリストの乱」と呼ばれる革命運動を起こしたものの失敗した貴族たち、そして1863年にポーランド立憲王国で反ロシア蜂起「一月蜂起」が起きた時の参加者たちも、政治犯としてイルクーツクに流され、この地に無視できない文化的影響を残したといわれる。p15

 

2 ビートルズで結ばれたきずな

 

3 愉快でマイペースな仲間たち

ウラジオストクが軍事上の理由で閉鎖都市だった時でも、水兵たちが日本から持ち込んだ品がファルツォフシクと呼ばれる闇屋でいろいろ手に入った。p58

 

ロシアでよく耳にする男性の名前は種類がとても少ない。恐らくアンドレイ、アレクサンドル、アレクセイ、セルゲイ、ニコライ、ミハイル、コンスタンチン、エフゲニー、イーゴリー、ウラジミールだけで、何十人もいるスラバの友達の親しい友人の大半がカバーされてしまう。p70

 

Ⅱ ソ連に生まれ、ロシアに生きる

4 サバイバルの時代

1990年代のロシアはギャングが跋扈する恐ろしい世の中

 

5 ペレストロイカ・ノスタルジー

 

6 夢見がちな野心家たち

スラバは短波ラジオでボイス・オブ・アメリカで西側のロック音楽を聴いていたが、著者は90年代、フィリピンの「ラジオ・ベリタス・アジア」のロシア語放送を聴いていた。p136

(渋いところ聴いていたのですね・笑)

 

Ⅲ 二一世紀のビートルズ

7 自分らしい表現を求めて

三年ほどデトロイトに住んでいた著者

日本に帰ってきたら、みんな暗い色の制服を着ていて、顔の表情に乏しく、隣同士で座っていてもあまり話をしないこともある日本の生徒のことを、なんだか不気味に感じてしまった。p158

 

8 遠ざかるソ連ロック・ビート

2002年頃から北京では、秩序より活力が先走りしていて、一定の評価を得た画家は、しばしば複数の画廊と代理契約を結んでいた。

だがイルクーツクでは、かなり評価を得ている画家でさえ、画廊と契約しているのはまれで、絵を買っていくのは、自分の友人とか知り合いくらいだ。p166

 

9 過去との出会い

シベリアでは、日本人はアジア系の原住民であるブリヤート人に間違えられることがある。p181

 

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放浪学生プラッターの手記 スイスのルネサンス人

2023-05-27 21:40:40 | ヨーロッパあれこれ

 

放浪学生プラッターの手記

スイスのルネサンス人

阿部謹也 訳

平凡社 発行

1985年8月30日 初版第2刷

 

ルネサンス・宗教改革時のスイス生まれのトマス・プラッター(1507?-1582)の自叙伝です。

題名には放浪学生となっていますが、出生から晩年までの人生を振り返り叙述しています。

 

Ⅰ さすらいの日々

一 悲惨のはじまり

ヴァリスに生まれる

二 命懸けの山羊番

(アルプスの少女ハイジでもペーターが危険な場面がありましたが、それと同じような感じでしょうか?)

 

三 放浪のひよっこ

放浪学生の弟分として使われ、物乞いや盗みなど苦労しながら放浪する

 

四 勉学の機熟す

シュレットシュタットでヨハンネス・サビドゥスの学校で勉強する。

 

クストス(助手代行司祭)の時、教会の祭壇にある偶像を薪に使うプラッターp46

 

ツヴィングリの説教を聞いて感動し、司祭にならないと決心するプラッターp48

 

Ⅱ 労働しつつ、学びつつ

五 ツヴィングリ信奉者となる

ラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語を同時に勉強するプラッター

睡魔と闘うために冷たい水を口に含み、砂を口に含んで、万一眠り込んでも砂が口の中でザラザラしてすぐに目が覚めるようにした。p64

 

六 綱造り職人とヘブライ語

チューリッヒで聞いた「額に汗して汝のパンを食せよ」という説教

 

綱造り職人の前垂れをつけたままヘブライ語を教えるプラッター先生p74

 

七 結婚し、故郷で学校を開く

 

八 バーゼルで助手となる

バーゼルの城の学校長の助手となる

 

九 医者エピファニウスのもとで

 

一〇 カッペル敗戦のあとで

ツヴィングリの戦死

 

Ⅲ 名声と富

一一 ペタゴギウムの教授となる

 

一二 印刷業者と教授を兼ねる

 

一三 城のギムナジウムの校長

 

一四 郊外に屋敷を手に入れる

 

トマス・プラッターの世界(訳者解説)

ルネサンス・宗教改革期のスイスは戦乱の中にあった。

この時代に一般化した文学のジャンルとして自伝があった。p195

 

アルプスの山脈地帯が国土の六割を占めるスイスでは本来耕作地が少なく、荘園制も十分に成立せず、封建制成立以前の自由民の伝統が残されていた。

 

ツヴィングリを指導者とするスイスの宗教改革は1528年にベルン、29年にバーゼルで進められ、徐々に広がっていった。これに対してカトリックに留まった諸邦は反抗した。p196

 

放浪学生がひとつところに定住して学問に打ち込めなかったのは、教師の側の事情と経済的な事情の二つなのだが、この時代の人々が旅する人々でもあった。

中世の人間は貴族も市民も聖職者も、国王に至るまで一生を通じて旅をし続けていた。p203

 

トマスの自伝の中で最も注目すべき点は、ツヴィングリが労働の尊さを説いたことに感動してトマスだけでなく、かなり学問のある人間が手工業につき、綱造り職人になるところである。p205

 

中世のバーゼルには大聖堂Domがあったから、当然大聖堂付近のラテン語学校があり、その他の教会にそれぞれラテン語学校があった。教師はすべて聖職者であった。生徒は七~八歳でこれらのラテン語学校に入ったのだが、その前にドイツ語で授業する学校もあった。そこで読み書き計算の基礎を習う。p210

 

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父との散歩 堀三千 著

2023-05-24 21:02:49 | ヨーロッパあれこれ

 

父との散歩

堀三千 著

人文書院 発行

1980年7月30日初版第2刷発行

 

柳田国男の三女で、堀一郎と結婚した著者による、柳田国男を中心とした家族の回想録です。

 

『郷土研究』の最終号は、十四の論文全部が匿名を使った柳田国男の論文であることには、あきれるばかりである。

その中で桂鷺北という名は、自分の曾祖母の実家、姫路市砥堀の桂家を姓に、その土地が白鷺城の北にあったのを名にしている。p8

 

関東大震災が父の逡巡していた心を、本筋の学問のために起つという決心を、一挙に実行にふみきらせた。p46

 

「父は幸せな人であった」と私はかつて「父の思い出」に書いたことがある。長患いすることなく、長寿を全うし、自分の志す道に邁進した。これだけでもたしかに幸せな人だった。しかし私が「幸せな人」といったのは、母のような忍耐強い妻とともに、八十七歳の最後の日まで暮らすことが出来たということである。私の考えは今でも変わっていない。p55-56

 

父は本を読んでいて、注意すべき箇所があると、そのわきに、色紙の米粒大ほどをはりつける習慣を持っていた。父の読んだ本には必ずこの印がついている。p59

 

祖父たちをおかしがらせた言葉に「とても」があった。「たいへん」という意味に使われる「とても」は大正の終わり頃から東京でも流行し始めたようである。本来は否定につける言葉であったから、古い時代の人たちは奇異に感じられるものであったらしい。p72

 

父は地方の人たちの方言やなまりを笑うことをひどく嫌った。十三歳の時に播州から関東に出てきた父は、八十七歳で亡くなるまで、関西のアクセントを持ち続けた。p76

 

父は形式よりも心を重んずる人であったように思う。例えば親類知人が亡くなったような時に、すぐに弔問に行き、葬儀の列に加わるようなことをしない。母に対しても、「もう少し静かになって寂しくなってから、行ってあげなさい」などという。p83

 

紀州山中その他には、笑い祭という面白い習慣がある。祭りの頭がオコゼを懐に入れている。一座の誰かが、「貴殿御懐中のオコゼを見せてください」という。頭は「いやいや、見せることは出来ません。皆の衆はきっとお笑いになるでしょうから」と答える。そこで一座が口をそろえて懇願する。「決して笑いません。一目でよいから見せてください」そこで「お笑いになっちゃいけませんよ」と念を押してながら、頭は懐中へ手を入れて、袖口の端からオコゼをちょっと出す。すると満座がどっと笑いくずれる。

このようなやりとりを三度繰り返す頃には、祭りの儀式であったものが、本当の笑いにかわり、頭、一座ともども大笑いになる。p131-132

(とにかく明るい安村さんのギャグをなんとなく思い出してしまいました)

 

「遊海島記」の一節に次のような記述がある。

我少なくして愁多く、曾て独サーチャイルドが歌の巻を懐にして、西に夕づつの国に憧れ行きし日、図らずも此浦人の宿に留まりて、此処に時の間の幻影を楽しみし事ありき。

彼がなぜ伊良湖岬を選んだかは、知る由もないが、「西に夕づつの国に憧れ行きし日」とあるように、両親と幼い時を過ごした西の方へと、おのずから惹かれて行ったのであろうか。

父が伊良湖の二か月余の滞在の後、さらに西の方伊勢を訪れ、その後、大和を経て姫路、生野へまで足をのばしていることを、年譜は記している。p138

 

かつて橋浦泰雄氏は、このように書かれた。

先生を非情の人だと評する人々が若干ある。弟子の面倒をみてくれない。即ち就職とか、金銭上の援助についてである。先生が、「民俗学では飯は食えないよ」というのは、その予防線ではないか、という人さえあった。むろんこれは自立心の薄弱な人々の批言であるのはいうまでもない。p145

 

父の研究題目は多岐にわたっていた。一時は稗田阿礼に熱中していたことがある。父は稗田阿礼が女性であることを実証しようとしていた時であった。ついに私が「うちの稗田阿礼」というニックネームをもらった。それというのは、子供のころの私は、人の名と年月日に妙な記憶力を持っていたからである。p148

 

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「明月記」をよむ 藤原定家の日常

2023-05-23 20:55:54 | ヨーロッパあれこれ

 

『明月記』を読む 藤原定家の日常

山中智恵子 著

三一書房 発行

1997年2月28日 第一版第一刷発行

 

昭和19年、定家と同じく戦火の中、定家が日記を始めた同じ19歳で明月記を読み始めた筆者による明月記解説書です。

 

はじめに

マラルメ、ヴァレリー、リルケなど、西欧の詩人たちの日常もまた、定家に劣らぬ憂愁の日々だったことを、『マルテの手記』や『ドウィノ悲歌』、『海辺の墓地』などに想った著者p2

 

欠巻といえば、『明月記』は、いつも肝心なところが欠けていて、重大危機にある時の、限りなき悲嘆にくれている定家の心境を知ることができないうらみがある。p5

 

『明月記』まで

 

紅旗征戎吾事ニ非ズ

定家の宿痾咳病は、青春の頃かららしい。彼は、あらゆる病気に罹り、それをよく記録する。p25

(この本の中でも、やたら体調不良の話が出てきて痛々しい)

 

頼朝が伊豆に挙兵した。優美な貴公子平維盛が追討使となり東征する。

定家は、この乱世を、〈紅旗征戎吾事ニ非ズ〉と冷然と断言する。この時、すでに定家は、俊成の子として、歌をもって世に立つ決意をしたのだろうか。〈之ヲ注セズ〉としながら定家は、耳目を開いて情報をよく集めている。やはり重大な〈吾事〉であった。

 

定家は、月光症候群ともいえるほど、月によく反応している。9月15日の夜も、月光蒼然、青侍等を連れて、六条院の辺りに遊歩、大流星か、新星爆発かと想われる天象をまざまざと見る。天体に敏感な人である。p34

 

雨漸く滂沱タリ

 

花月百首のころ

 

良経に百首歌を詠進する

定家は、生真面目ながら生来ゴシップ好きである。まるで週刊誌の記者よろしく、さまざまな見聞を記す。p59

 

譲位した後鳥羽院は、若さにまかせて、稀代のホモ・ルーデンス(遊ぶ人)ぶりを発揮し始める。女車に身をやつして、京中ばかりか郊外を歴覧の毎日である。19歳だから、この解放感に酔うのも無理はない。p64

 

定家が騎馬で行くと、後鳥羽院の車が飛ぶように走ってくる。かろうじて逃げ隠れた。路頭で貴人にあった時の礼は、当時まことに厄介だった。p72

 

二世之願望已ニ満ツ

 

新古今集前後

後鳥羽院の歌

思ひつつへにける年のかひやなきただあらましのゆふぐれの空

丸谷才一曰く「まさしく時間性の情緒そのものを歌っているという点で、定家以上に定家的なのである。すなわちここには、重層性にかけても時間性にかけても、彼の恋歌の方法の若くして優秀な継承者がいた。この一首に接したとき定家おそらく、ついに自分の歌風が宮廷を制覇したと感じたことだろう」p129

 

後鳥羽院は水泳の上手だった。定家が書かなければ、後代の私たちは、貴族が裸で、裸馬に乗って、水練に行くことなど夢にも知ることは出来ない。定家の言の如く夢の如しである。p176

 

建永元年(1206)正月から五月初めまで、『明月記』を欠く。その欠落に、また定家にとっての一大事が出来する。良経の死である。p198

 

二月ごろから、三星相犯という、金星・木星・土星が一列に並ぶ天象があり、人々を畏怖させていた矢先の良経の死(三月七日)だった。p200

 

良経を偲びつつ瓜を食う定家。p206

 

七月三日。後鳥羽院、昨日、川上船屋の中に、未練の者二十余名を籠められ、一度に川に流して興ぜられた。p207

(ひどい人ですね・笑)

 

吉富庄にて家司忠弘の下人、傀儡師と闘諍

傀儡師は、本来の芸能の他、馬・櫛などを諸国に遊行して売り歩いた。

農民よりは下の階級であるが、免税をふりかざして勢力があった。p232

 

為家両主好鞠の日に遇う

後鳥羽院・順徳天皇は、ともに優れた鞠足であった。そしてこの両主とともに為家が蹴鞠の骨を得ていることにより寵が厚いのは、よろこびとともに、やはり歎かわしい。歌道の家に生まれた少年が、歌も作らず、楚々たる美服を着て、日夜鞠にふけるのを見れば、父定家の悲涙も当然だろう。

しかし皮肉なことに、為家は定家亡き後、壮年にして歌壇の覇者となり、その子孫は、歌をもって名を残した。p237

 

隠岐のかがり火

承久三年五月十四日、承久の乱が起る。

定家による『後撰集』筆写の写本に、再び〈紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ〉の言葉

しかし19歳のそれは揚言であり、60歳のそれはなす術もない悲歎である。p250-251

 

暁の夢をはかなみまどろめばいやはかななる松風ぞ吹く

隠岐にあっても後鳥羽院ののびやかな帝王調は、いささかも崩れていない。こう思うのは、悲境に在って、帰京する術もない後鳥羽院に寄せる、私(著者)の感傷であろうか。p236

 

七月十五日。天晴

山ヲ出ヅル月、蝕ヲ帯ス(皆既)

月蝕を見る定家はいい。これは、月出帯蝕だった。p257

 

十九日。今度の月蝕、皆既。先々皆既といえども、今度の如きは月輪その在所を見ず。ひとえに消え失せる蝕の如し。

皆既月蝕にて、月は全く消失したように、銅色の影も見えなかったので怖れる。p262

 

十一月四日。夜天晴れ、奇星を見る。この星朧々として光薄し。その勢い小ならず。

天文方が、天象に関心を持つ定家に、いち早くこの異象を知らせてきた。客星とは新星のことである。p265-266

 

『明月記』は嘉禎元年(1235)十二月三十日で終わっている。絶筆か、散逸か。七十四歳である。p277

 

まさしく丸谷才一氏が言われるように、「定家と後鳥羽院は反目し対立する晩年において、実は最も深く互いに影響を与え合ったし、まるでそのためには長い歳をかけての熟成が必要だったように、あるいは孤独という条件が不可欠」だったのである。p280

 

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火 後鳥羽院

「あはれ」から「おき」までは執拗に重層的な意味を狙って雰囲気を濃密に盛り上げ、一転して結句の「かがりび」では単一の意味によってイメージを明確にしぼるあたり、恐ろしいほどの技巧と感嘆するしかない。

丸谷氏の名鑑賞を得て、はじめて後鳥羽院は瞑することが出来たであろう。後生畏るべし。p283-284

 

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中谷芙二子《白い風景―原初の地球》霧の彫刻 #47769、姫路市立美術館前庭

2023-05-20 20:14:39 | ヨーロッパあれこれ

 

 

中谷芙二子《白い風景―原初の地球》霧の彫刻 #47769、姫路市立美術館前庭、2023年5月20日
     ©Fujiko Nakaya 2023 ©Himeji City Museum of Art

Fujiko Nakaya, White Landscape/ Primal Earth, Fog Sculpture #47769, Himeji City Museum of Art, May.20, 2023
     ©Fujiko Nakaya 2023 ©Himeji City Museum of Art

 

姫路市立美術館の「霧の彫刻」を見に行ってきました。

天気は曇っていたのですが、ひとまず霧の彫刻とともに、姫路城、美術館、そして彫像を一緒に画像におさめることができました。

この時は北風が少し強かったです。

天候や風で様々な表情を魅せることができる芸術ですので、偶発的な要素も面白そうです。

また別の日にも写真に撮ってみたいです。

 

 

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