ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フェニキア人 古代海洋民族の謎(後半)

2024-04-29 20:43:52 | ヨーロッパあれこれ

(黄色がフェニキアの都市)

11 黄金時代の終末

フェニキア人の黄金時代は紀元前1150年から紀元前850年くらいの約300年だった。

このあたり一帯は、国境を彼らのところまで推し進めるほどの強力な大国がなかった。

 

緩慢な衰退は、紀元前850年から350年の500年続いた。

 

12 ギリシア人に称えられ、憎まれて

ヨーロッパの語源となったエウローペーはフェニキア人だった。

 

フェニキア人はアルファベットを発明した。

ヨーロッパの文化に対する彼らの最も大きな、そして最も重要な寄与は、おそらくこれであったろう。

まずヘラス人が、次にローマ人が、最後にヨーロッパの全民族が彼らから受け継いだこの天才的に単純な音標文字組織がなければ、ヨーロッパ人は今日なお、日本人や中国人と同じく、新聞一枚読むのにも200から400の文字を覚えなければならないであろう。

 

ビュブロスの住民は、おそらくはじめから速記文字を目指していたのであろう。

彼らは覚えておく必要のあることをすばやく、人目につかずにメモすることを重視する商人であり、実際に簿記をつけ、世界的に文通しなければならなかったことは確かである。

 

知的なギリシア人は新しい文字組織の長所をすぐに認め、それが首尾一貫した音分析に基づいていることを理解した。

そして自分たちのアルファベットをまでフェニキアの記号、と呼んだ。

 

13 カルタゴの興隆

小アジアの町ポカイアの住民が紀元前600年頃に、南フランスの海岸にマッシリア(マルセイユ)を建設することに成功した時には、テュロスの鉱石商人はさらに重大な打撃を受けた。

 

14 フェニキア国民のポエニ帝国

紀元前450年頃、ヒミルコというカルタゴ人の船長がポルトガルの海岸から北へ行ってブルターニュからコーンウォールへ行って、土地の錫堀りと接触を持とうとした。

その25年後ポエニ人ハンノという探検隊長がモロッコの大西洋岸に沿って南下した。

ハンノはカメルーンまで航海したのか?

その途中、通訳が「ゴリラ」と呼ぶ人間を見た。

その後動物学者がアフリカ最大の類人猿をその体系に組み入れた時、彼らはハンノの報告にはじめて出てきた名前をあっさりそのままつけてしまった。

 

15 帝国はカルタゴに益なし

カルタゴのアルプス越えをしたハンニバル以前に、同じ名前で、戦略的な才能をも同じくしたカルタゴの将軍がいた。

 

アレクサンドロスのテュロス攻略によって、フェニキアの歴史が終わった。

 

16 しかしそれからローマがやってきた。

カトーが何かについて意見を述べる時は必ず、『それはそうと、私はカルタゴが亡ぼされねばならないと思う』という言葉で結んだ。

 

ローマ人ルウィウスによるハンニバル

「危険を引き受ける最大の大胆さ、危険そのものの中での最大の思慮、これを彼は持っていた。・・・彼は戦闘には真っ先に出て行き、会議が終わると最後に出てきた」という輝かしい面の後、ネガティブな面として「非人間的な残酷さ、ふつうのポエニ人を上回る背信行為。彼には真実など問題ではなく、彼にとって神聖なものは何もなかった」と書いている。

 

ハンニバルの有名なイタリア遠征は、アレクサンドロスのペルシア遠征とともに、古代軍事史上おそらく最も危険で大胆な企てである。

 

フェニキア人とわれわれ

われわれの知る最初の偉大な自然科学者、ミレトスのタレス、彼は紀元前585年の日食をあらかじめ算出したといわれる、は半分フェニキア人であったし、

ソクラテス以前の古典哲学者のの一人で、ソクラテス以後の空に暗く燃える星、キティオンのゼノンが、純粋のフェニキア人であったことはかなり確実である。

 

カルタゴに近いタガステの出身であるアウグストゥス

 

ベイルートに住む人間は、信じがたいほどの人種混淆の産物である。

ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人、十字軍従事者、エジプト人、イギリス人、フランス人らが、何世紀もの間にレバノン山麓でぶつかりあって、ひとつのタイプを生み出した。それがレヴァント人で、確かにフェニキア人の直接の後衛ではないが、実に上手く出来上がった子孫である。丁寧で、抜け目がなく、人をそらさず、上品で、雄弁である。

 

フェニキアへの招待

レバノン

キュプロス

レバノンからイスラエルへ行くこと、またその逆は出来ない。もっともパスポートを二つ持って、その一つはアラブのビザだけをもらい、もう一つにはイスラエルのをもらうようにすれば、話は別である。

(よくわからないが、今はどうなのだろう)

イスラエル

チュニス

サルディニア

 

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フェニキア 古代海洋民族の謎(前半)

2024-04-28 20:36:10 | ヨーロッパあれこれ

 

フェニキア人

古代海洋民族の謎

ゲルハルト・ヘルム 著

関楠生 訳

河出書房新社 発行

1976年4月15日 初版発行

1992年11月10日 新装初版発行

 

レバノンに海上都市国家を築き、商業民族として地中海を支配したフェニキア人

彼らはアルファベットを創造し、ヴァスコ・ダ・ガマよりはるか昔にアフリカを周航し、ひょっとするとヴァイキングよりも前にアメリカに到達していたかもしれない。

こういうフェニキア人の姿を、聖書、ホメロス、ヘロドトス、あるいはフロベールなどの文献などを踏まえて叙述していくとともに、間に著者自身の旅の話も挟んでいます。

 

1 海に生きたベドウィン人

フェニキア人の権力は目の細やかな網のように張り巡らされた商業路線にあり、こわれやすい船の描く航跡として目に見えるだけだった。

たいていは風の来ない入り江に造られ、市壁を巡らせた見栄えのしない集落に過ぎなかった。

彼らの集落は海に向き、海に向かって方向づけられてきた。

 

フェニキア人はもともと砂漠からやってきた。

砂漠は海と同様、何一つ不変のものの無い世界である。

駄獣に代わって船が、遊牧地に代わって、人目につかない入り江に商館が、登場した。

 

2 レバノン杉の森に接する都市

ルナンの選んだ町ビュブロス

強大なフェニキアの共同体というだけではなく、パピルス、すなわち紙の原料を表すギリシャ語でもあった。

 

レバノン杉は、単に有用というだけでなく、とりわけまた、印象的な木でもある。

レバノン共和国は、シルエットと共にそれを国の紋章に取り入れている。

 

3 インドゲルマン語族の登場

インドゲルマン語族の原故郷はキルギスの草原だったと推測されているが、彼らがのちに移動を開始した時の出発点が西ヨーロッパと南ロシアの中間地域だった。

 

4 オデュッセウスとアキレウス フェニキア人の祖先

フェニキア人の歴史は紀元前2300年頃のアモリ=カナン人の移動とともにはじまる。

カナンの原フェニキア人は紀元前11世紀に外洋の支配者となる。

「カナン人+海の民=フェニキア人」という式

 

5 彼らは人工の島に住んでいた

テュロスは岩礁の上の町、海の中に人工的に造られた避難所だった。

 

6 バール子息商会の設立と興隆

フェニキア人のガラスの発明とテュロス=シドンの紫の染料の製造

 

7 ソロモン王の商売

フェニキア人の姿は、全て他の民族の記録によるもので、自分では記録を残さなかった。

 

8 バールと息子たちとイスラエル

 

9 テュロスの娼婦

 

10 レバノンから世界の果てへ

フェニキア人がいつ、地中海域を商業的に開発しようとして進出し始めたか?

レバノンの商人がヘラス人よりもずっと前に遠い遠い国の海岸まで出かけて行って地中海世界を開化した、という説が有力

 

フェニキア人がジブラルタル海峡の背後に新しい無限の海、地中海より荒れ、潮の干満によって動く海が広がっているのを確認した。

潮の干満は、数世紀後にアレクサンドロス大王もインドで見てひどく不思議がった現象である。地中海にはない現象なのだ。

 

地中海と紅海をつなぐ運河

紀元前600年以後のいつかに、その運河の建設が開始された。しかしネコ二世が工事を中止。

プトレマイオス二世(紀元前3世紀)がのちに運河を改修して、水門を取り付けた。

紀元後640年、エジプトを征服したイスラムの将軍、アムル・ブン・エル・アースが最後に運河を掘り開いた。

八世紀には運河は決定的に崩壊

 

フェニキアの拡張の頂点は、カルタゴすなわち新都市と名付けられた植民市の建設したときだった。

 

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アイルランドのハチの巣型の謎のモニュメント

2024-04-20 20:53:42 | ヨーロッパ旅行記

 

翌日はダブリンからニューグレンジ、モナスターボイスという遺跡を訪問する、現地法人バスエーランの旅行に参加します。

その途中で画像のような場所でバスは止まり、運転手さんがバスに乗ったまま解説してくれましたがよくわからず、とりあえず写真だけは撮っておきました。

このブログに書くにあたって改めて画像検索などで調べてみたのですが、バルブリガン付近にある、このハチの巣のような形をしたモニュメントは遺跡ではなく、現代のアーティストによって創られたモニュメントのようです。

ブレモアヘッドの近くにある古代の埋葬墓や、7世紀にアイルランドに養蜂をもたらした修道士聖モラガに関連した作品のようです。

ひとまず、長年の謎が解けました。

 

(フェイスブックのSteach Maoilín さんの記事を参考にしました)

 

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坊勢島へようこそ!

2024-04-17 20:52:09 | ヨーロッパあれこれ

 

 

兵庫県姫路市家島町坊勢の坊勢旅客船ターミナルそばにある、BOZEみなとガーデンです。

オープンガーデンなかはりま2024に参加します。

姫路港から坊勢島にお立ち寄りいただき、ぜひご覧ください!

 

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