ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田国男と事件の記録

2022-12-30 17:12:30 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田国男と事件の記録
内田隆三 著
講談社選書メチエ40
1995年2月10日第一刷発行

 

柳田国男による『山の人生』

その冒頭をさりげなく飾る、哀しくて悲惨だが、冷徹に美しくさえ述べられている、ある事件。

その謎に迫っています。



『山の人生』を見ればわかるように
柳田の仕事の大半は、習俗の時間の上に流れる歴史を構想すること、だが他方で
その歴史の底面には何か物深い事件が隠れている。
習俗への配慮と平行しながら、彼の文学的な直感はこの種の事件に憑かれてやまなかった。
そしてそれが『山の人生』冒頭の一節になって現れた。p12

第一章 抽象する視線
柳田が描こうとした「歴史」の弁証法について

 

第二章 可視性の場
伝説と昔話の差異
・伝説は是を信ずる者があり、昔話には一人も無いこと
・伝説は必ず一つの村里に定着して居るに対して、昔話は如何なる場合にも「昔々或處に」であること
・昔話には型があり文句があって、それを変えると間違いであるに反して、伝説にはきまった様式がなく、告げたい人の都合で長くも短くもなし得るということ

柳田は『遠野物語』において
・まず伝説の場を文字言語の空間に転換し、
・次に中性的な標準語の文語体で、一種の翻訳文のように、生々しい「地方性」を脱色し、
・しかも同時にその厳しいほどに簡潔な文語体によって、味付けや文飾の多くなる「説話体」から抜け出している。p79-80

柳田の考える「自然主義」が対象を取り扱うときの態度や視点
・内面や心理の位相を離れ、遠くから鳥瞰するように見ること
・ある抽象的な高い視点から異なる次元、異なる時空を、同じテーブルの上に見ること
・文章の技術にとらわれず、何であれ、いわば写真のように、ありのままを飾らず書くことp84

 

第三章 描かれた構図
『山の人生』は、山人への畏怖や禁忌といった共同幻覚(を語る言説の編成)を通じて、常民の歴史の同一性を構想する試みとなっている。
それは、フロイトやレヴィ=ストロースが近親相姦の禁忌を通じて、人間の文化の普遍的な同一性を構想した試みと平行しているといえよう。p117-118

「一家心中」といえば、日本に固有の伝統のように思われるかもしれないが、実はそうでもない。
親子心中一般は古くからあったが、それが飛躍的に増大するのは大正末期末頃からだという。
一家心中の流行はむしろ日本の近代が生み出した「新しい伝統」の一つというわけだ。p125

柳田の志向にかなう事件の特徴
・事件の経過において登場する人物の情念や恣意による選択の余地はほとんどなく、ある必然の様相を帯びて事件は悲劇や惨劇にいたる。
・悲劇や惨劇にいたる異様な事件が、美しく、さりげない、自然の風光のなかで起こっている。p149

 

第四章 事件の現場
『奥美濃よもやま話』の「新四郎さ」という話
『山の人生』の話に酷似

事件(明治37年)

新四郞(事件の当事者の通称)から金子信一へ口承(昭和9年前後)

金子貞二へ口承(信一がこの話を聞いてから「四十年」を経て話す)

金子貞二が記録(昭和49年、本の中に著す)

事件の動機は『山の人生』に書かれている「飢え」ではなく、娘の奉公先での嫌疑によるもの

 

A  『山の人生』に書かれた、炭焼き男の事件

B 故郷七十年に書かれた事件

D 『奥美濃よもやま話 三』における「新四郞さ」
D1 前段 娘が奉公先で盗みの嫌疑をかけられる事件
D2 後段 一家の心中事件

岐阜地方裁判所にも、岐阜の検察庁にも、東京の内閣法制局にも、法務省保護局恩赦課にも、その当時の記録は残っていない。

Z 通称「新四郞」の戸籍謄本
長男と養女(実際は長女と考えられる)は二人とも明治37年4月6日午前5時死亡と書かれている。

Y 岐阜日日新聞 明治37年4月9日号 6日実子二人を惨殺す
動機は貧苦による飢餓
娘の奉公先については全く浮かび上がっていない。
柳田も新聞報道も、警察の調べや、予審調書、判決のディスクールを共有しているからであろう。

柳田の秋と春の違い
当時のこの地域は米は貴重品だった。
柳田がある差異において書いていること、つまりある種の構造的な曲率をもった表現の空間によって表出している。

岐阜日日新聞 明治39年3月24日号 特赦を受ける「茲に罪跡消滅したり」
柳田と彼を結んだわずかな糸はゆるみ、歴史というよりも時間の流れがその細い一筋の証拠をどこかへ向かってか幾重にも隔てていく。

 

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回想録 ヨーロッパめぐり ジョージ・エリオット著

2022-12-29 21:40:28 | ヨーロッパ旅行記

 

回想録 ヨーロッパめぐり
ジョージ・エリオット 著
冨田成子 訳
彩流社 発行
2018年9月28日 発行

英国ヴィクトリア朝を代表する女性作家ジョージ・エリオット(本名メアリアン・エヴァンス 1819-80)による紀行文です。
彼女が体験した数多くの旅から六つの旅を選抜しています。
ジョージ・エリオットという名前はなんとなく知っていたのですが、作品を読むのは初めてです。紀行文自体は好きなので、彼女を知るよいきっかけとなりました。
また、この本は解説が懇切丁寧に入っているので、作家としての環境や旅行先の当時の状況の理解を容易に深めることが出来ました。

 

ワイマール 1854年
メアリアン・エヴァンズは『ゲーテ伝』の取材に赴くG・H・ルイスに同行して、ドイツに旅立つ。
「ワイマール」で取り上げられるのは
・ゲーテゆかりの地の取材体験
・ワイマールの風土と文化体験
・ワイマールとの別れ

ワイマールの第一印象は、期待していた典雅な「北のアテネ」とは違い「死んだように冴えない村」だったが、ベルヴェデーレ宮殿と公園を散策するうちに、たちまち豊かな自然に魅了される。
特に柵が無い公園を称えている。

 

ベルリン 1854-55
幅の広い単調な大通りが走る無味乾燥な近代都市と、誰もが口を揃えて言う街ベルリン
ワイマールに続いて『ゲーテ伝』取材のため訪問
美術・建築・演劇・音楽・オペラといった多彩なプロイセン文化と芸術を観賞し、その最前線で活躍する多くの芸術家や知識人たちと交流

 

イルフラクーム 1856年
5月8日から6月26日まで北デボンシャーの海辺の町イルフラクームに、その後8月9日まで南ウェールズのデンビーに滞在し、水生生物研究のフィールドワークに勤しむ。
この回想録のテーマは
・水生生物の採集
・山野の散策
・イルフラクームの人と文化

イルフラクームの密集する家々が大きな岩のそばに群棲するフジツボそっくりなのに気づく。p129

 

シリー諸島とジャージー 1857年
3月26日から5月11日までシリー諸島のセント・メアリーズ島に、その後5月15日から7月24日までジャージー島に滞在
更に水生生物、特に貝類の研究のためフィールドワークを行う。 

 

ミュンヘンからドレスデンへの旅 1858年
ミュンヘンからドレスデンへの移動の旅と、ドレスデン滞在に限定され、ミュンヘン滞在関連のものが省かれている。
ミュンヘン後半の心身不調によるスランプが原因か?

ミュンヘンからドレスデンまでは汽車で直行ではなく、汽車、蒸気船、馬車などを使って、ドイツ・アルプスやチロルの大自然に没入して温泉で英気を養い、ウィーン、プラハでは歴史と由緒ある美術館を巡っている。

 

イタリア 1860年
バチカンで味わった最大の醍醐味は、たいまつの灯りのもとで見た『アポロ像』をはじめとする二、三の彫像である。p233
(ゲーテの「イタリア紀行(下)」で、バチカンとカピトルとの博物館を松明の火で観賞しようとする試みについて書かれていました)



まるで羊の群れのように白い家々が丘に点在し、その後方には人気のない雄大な山々がひっそりと控え、右手にはアルノ平野が延々と広がっている。私はフィエゾレ(フィエーゾレ)からの展望が断然素晴らしいと思った。p258

ところで、絵画に関する限り、ピッティ宮殿の方がウフィツィ美術館を凌駕している。こちらの方が絵は厳選された逸品ぞろいたし、収蔵数もひけをとらない。p268-269

3月24日からパリ経由でイタリアへ向かう。3ヶ月の長旅である。
この旅行では知名度でも経済力の面でも圧倒的に優位に立ったエリオットが旅の主体になる。

この回想録にはボッティチェルリへの言及が全くない。ボッティチェルリは17世紀以降、次第に忘れられ、再び光が当てられるのは、ウォルター・ペーターをはじめとする唯美主義が注目される1870年代以降であり、「イタリア」執筆当時は評価が低かった。p299

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ナンシーのクラフ門(ロレーヌ地方、フランス)

2022-12-24 07:34:31 | フランス物語

 

画像はナンシー市のクラフ門です。
実は写真を見ても、これが何だったか思い出せなかったのですが、画像検索のおかげで正体が判明しました。
このような門を残してくれているおかげで、過去、不安定だった時代に、街がいかにして外敵から身を守ろうとしたか実感することができます。
Lorraine Magazineというサイトで説明されていましたので、いつものように自動翻訳してもらい、それを修正した文章(自分の能力では修正しきれていませんが)を載せておきます。

 

LA PORTE DE LA CRAFFE
クラフ門

Cette porte est l’un des symboles de Nancy. Il ne se passe pas un jour sans qu’elle soit photographiée. Ses deux tours massives ont vu s’écrire l’histoire de la ville.
この門はナンシーのシンボルの1つです。その写真を撮らない日はありません。その2つの巨大な塔は、書かれた街の歴史を見てきました。

La porte de la Craffe est la plus ancienne et la plus monumentale des portes nancéiennes.
Une première porte est percée dans la seconde moitié du XIVe siècle, sous le règne du duc Jean Ier. Nancy est alors une cité modeste enfermée dans ses remparts. Sa croissance se fait par étapes : on englobe une partie des faubourgs et on reconstruit une nouvelle enceinte fortifiée. L’actuelle porte de la Craffe est ainsi construite lors de l’intégration des grand et petit Bourgets. Le souvenir de ces anciens faubourgs est d’ailleurs rappelé par les rues du Grand et du Petit-Bourgeois.
クラフ門は、ナンシーの門の中で最も古く、最も記念碑的な門です。
最初の門が開かれたのは、14世紀後半、ジャン1世公の治世下でした。当時のナンシーは城壁に囲まれた質素な都市でした。その成長は段階的に行われます。郊外の一部が含まれ、新しい要塞化された囲いが再建されます。現在のクラフ門は、グラン・ブールジェとプティ・ブールジェが統合されたときに建設されました。これらの古い郊外の記憶は、グラン・ブルジョワとプティ・ブルジョワの通りでも思い起こされます。

 

JEAN II DE LORRAINE
C’est sous Jean II, en 1463, que sont construites les deux tours hautes et massives. C’est vraisemblablement à cette époque qu’elle reçoit également le nom de Craffe (ou de Lescraffe). Certains historiens comme Charles Courbe suggèrent comme nom primitif Porte Sacrée.
ロレーヌのジャン2世
2つの高く巨大な塔が建設されたのは、1463年のジャン2世の時代でした。Craffe(またはLescraffe)の名前も付けられたのはおそらくこの時でした。シャルル・クールブのような一部の歴史家は、最初の名前としてサクレ門と示しています。

 

HENRI II DE LORRAINE
Un changement important survient en 1615. Henri II fait augmenter les fortifications de la Citadelle. Celles-ci s’épaississent. La façade extérieure de la porte (nommée porte Notre-Dame, en référence à la scène de l’Annonciation qui la décorait) est déplacée. Pour relier les deux parties de la porte dédoublée, une longue voûte est construite en chicane, afin de ralentir la progression d’assaillants qui auraient réussi à passer les premières fortifications. C’est la physionomie de la porte telle que nous pouvons la voir aujourd’hui.
ロレーヌのアンリ2世
重要な変更が1615年に起こりました。アンリ2世は城塞の城壁を強化しました。これらはぶ厚くなります。門の外側のファサード (門を装飾した受胎告知の場面にちなんで、ノートルダム門と名付けられた) が移されます。分けられた門の2ヵ所をつなぐために、長いアーチがジグザグに組み込まれて、最初の要塞を通過することに成功した攻撃者の進行を遅らせることができます。これが今日私たちが見ることができる門の外観です。

 

LOUIS XIII DE FRANCE
La Lorraine connait bien des malheurs au XVIIe siècle, notamment deux occupations françaises. Louis XIII décide de moderniser la porte et ajoute dans les années 1630 un portail néo-classique sur la façade intérieure. Une partie des fossés est comblée.
Avec la destruction des remparts de Nancy, la porte perd son rôle défensif. Elle reste néanmoins, avec la porte de la citadelle, le passage obligé pour la sortie nord de la ville.
Les tours abritent des salles qui servirent parfois à la torture et des cachots jusqu’au XIXe siècle. On orne également la toiture centrale d’une horloge. Celle-ci, dans l’axe de la Grande-Rue, est très utile aux Nancéiens.
フランス王ルイ13世
ロレーヌは17世紀に多くの不幸を経験しました。特にフランスによる二度の支配です。ルイ13世は門を近代化することを決定し、1630年代にファサードの内部に新古典主義の大門を追加しました。堀の一部が埋められます。
ナンシーの城壁が破壊されると、門は防御の役割を失います。それにもかかわらず、城塞の門とともに、街の北側出口への必須の通路として残っています。
塔には部屋があり、19世紀まで拷問や独房に使用されることがありました。中央の屋根にも大時計が飾られています。メインストリートにある時計は、ナンシーの住民にとって非常に便利です。

 

LA RESTAURATION DE 1861
Cette époque conjugue une prise de conscience du patrimoine, un engouement pour le néogothique et une « lotharo-manie » certaine. La décrépitude de la porte émeut les Nancéiens. Le Génie Militaire, propriétaire des lieux, lance un ambitieux programme de restauration. Le portail néo-classique et l’horloge sont détruits. On restitue une façade intérieure de style gothique avec ogives, niche (on y replace la statue de la Vierge)… On sculpte les portraits des ducs Raoul, René II, Charles II et Jean Ier (inspiré pour certains de portraits de la porterie du Palais ducal). On ajoute un blason aux alérions dans la trémie de la voûte, et sur la façade intérieure un chardon et une grande croix de Lorraine. Afin de ne tromper personne, on prend soin de graver la date de la restauration en deux endroits. On y ajoute aussi la date de 1336, flatteuse par son ancienneté, mais qui n’a aucune réalité historique. Malgré quelques « fantaisies », l’approbation est unanime. En 1871, on crée les passages piétons latéraux, pour plus de sécurité et de commodité.

La porte de la Craffe est, avec la tour-clocher de la Commanderie, l’un des plus vieux édifices de Nancy. Elle témoigne – de manière silencieuse – de la grandeur de l’histoire du duché de Lorraine.

La porte est actuellement en réfection partielle. N’hésitez à aller l’admirer une fois les travaux achevés.
1861年の修復
この時期は、遺産への意識、ネオゴシックへの熱狂、そして特定の「ロタロマニア」が組み合わさっています。門の老朽化は、ナンシーの住民の心を揺さぶります。その場所の所有者である工兵隊は、野心的な修復プログラムを開始します。新古典主義の大門と時計が破壊されます。尖頭アーチ、壁龕(そこにある聖母像を置き換えます)を備えたゴシック様式のファサード内部を復元します…ラウル公、ルネ2世、シャルル2世、ジャン1世の肖像画(公爵の宮殿の受付にある数点の肖像画に触発された)を彫刻します。アーチの暖炉座のアレリオン(くちばしと足のない鷲(わし))に紋章が追加され、内部のファサードにはアザミとロレーヌの大きな十字架が追加されています。間違えないために、修復年月日を2箇所に刻んでいます。1336年の日付も追加します。その古さは誇張で、歴史的な事実ではありません。いくつかの「空想」にもかかわらず、承認には異論はありませんでした。1871年には、安全性と利便性を高めるために側道が作られました。

クラフ門は、Commanderie(修道騎士の所領)の鐘楼とともに、ナンシーで最も古い建物の 1 つです。ロレーヌ公国の歴史の偉大さを静かに物語っています。

門は現在部分的に修理中です。作業が完了したら、遠慮なく鑑賞してください
 
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スタニスラス広場の像と制作者ジャコについて(ナンシー)

2022-12-18 05:11:02 | フランス物語

スタニスラス広場に入ります。
前回の凱旋門の反対側を望むことができます。
後ろ姿の像はスタニスラス1世の立像です。
正面からの姿を見てみると

このようにたいそう威厳のある姿です。
この立像についてナンシー市のHPでの説明によると

 

Sous le Consulat, la société académique de Nancy projette d'ériger un monument en l'honneur de Stanislas. Un premier projet est prévu pour la place de la Carrière, puis pour le socle de l’ancienne statue royale. Une souscription est lancée dans les départements de la Meurthe, des Vosges et de la Meuse.

執政政府《1799-1804》の下で、ナンシーの学会はスタニスラスに敬意を表して記念碑を建てる計画を立てます。最初のプロジェクトは、カリエール広場で計画されており、次に元国王像の土台で計画されています。ムルト県、ヴォージュ県、ムーズ県で寄付金を募りはじめました。

C’est au sculpteur Georges Jacquot (1794-1874) qu’est confiée la réalisation d’une statue représentant le monarque en habits polonais vêtu du manteau royal. Le 12 mai 1826, la commande est passée pour 6 000 francs. La statue de Stanislas, coulée par le fondeur Soyer, est réceptionnée le 22 octobre 1831. Elle pèse 5 400 kg et mesure 4,13 m.

彫刻家のジョルジュ・ジャコ (1794-1874) は、ポーランド国王の礼服を着た君主を表す像の作成を任されました。1826年5月1日、注文は6,000フランで行われました。鋳造者ソワイエによって鋳造されたスタニスラスの像は、1831年10月22日に受領されました。重さ 5,400 kg、大きさ 4.13 m です。

Remplaçant la statue de Louis XV, celle de Stanislas n’en n’est pas moins un éloge au monarque. De son doigt tendu, Stanislas montre le médaillon du roi de France que soutient le groupe de la Renommée en haut de l’arc de triomphe.

ルイ15世の像に取って代わったスタニスラスの像は、それでも君主へのオマージュです。スタニスラスは伸ばした指で、凱旋門の頂上にある栄誉群に支えられたフランス国王のメダリオンを指しています。

 

この制作者のジョルジュ・ジャコについては、ブールジュの美術館訪問の際、彼の作品を写真に撮っていました。
たくましくてゴツいスタニスラス像とは違い、柔らかくて妖艶なオダリスクの彫像です。
この時代の彫像家(というかその工房)は、後世の例えばロダンやマイヨール、ブールデルなどと違い、依頼者の希望に応じて、作風も大きく変わるようです。
この対照的な二作を見比べて、改めてそう感じた次第です。

(スタニスラス像の画像もナンシー市のHPからです)
 
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ナンシーのカリエール広場から見た凱旋門

2022-12-17 07:19:50 | フランス物語

 

画像はフランスのロレーヌ地方の都市、ナンシーに建てられている凱旋門です。
この門だけでなく、スタニスラス広場の設計者でもあるエマニュエル・エレにちなみ、エレ門とも呼ばれているようです。
1753年から1755年にかけて建設されました。
カリエール広場からの画像なのですが、その裏にあたるスタニスラス広場に面した側に比べると、いくぶん地味な造りです。
上部は透かし彫りが入った石造りの欄干に置き換えられています。
こちらからスタニスラス広場にスタコラサッサと入っていきます。

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