ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フォンテーヌブローからパリ・ヴィレットのコンサートへ

2007-03-28 23:55:38 | パリの思い出
フォンテーヌブローの大花壇や運河の周りをうろついた後、ディアナの庭園なども見学し、正面の中庭から宮殿敷地外に出る。
何か食べようかと思ったが、適当なところが無い。
仕方なく通りかかったパン屋で、コーラとパンを買い、ベンチで食べる。
街中自体は特に見るものもなく、駅へ向かう。
このとき、駅までどう行ったか全く記憶が甦ってこない。
ただ、当時パリ日本文化会館におられた磯村尚徳氏の本「しなやかなフランス人」を座って読んでいた記憶はあるので、バスを待っていたのかもしれない。
でも、気の短い自分はバスを待ちきれず、結局歩いて行っていたことも考えられる。

フォンテーヌブローからパリに戻る。
まだ日は高い。
ヴィレットにでも行ってみる。
というのも、ニュースで、そこでいろんな楽団による野外コンサートがあるという事だったからだ。
添付の写真(ピントがあってなくてすみません)がその時のひとかけらの情景です。
今となっては、このような素朴な音楽に出会えたことに、たまらない幸せを感じる。
まだこの催しは続いているのだろうか?
その時の思い出を前に書いていますので、トラバしておきます。
お読みいただけましたら幸いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古きよき欧州人 エラスムス

2007-03-26 22:47:27 | ヨーロッパあれこれ
世界を創った人びと 12
エラスムス
栗原福也 編訳
1979年12月10日 初版第1刷発行

「世界を創った人びと」シリーズから、エラスムスを取り上げます。
ちょうどこの3月25日で、EUの基礎となった、ローマ条約から50周年となりました。
このエラスムスは「欧州人」という表現がふさわしい、もっとも古い人であるかもしれません。
ロッテルダムで生れた彼は、パリで遊学し、イングランドでトマス・モアと出会い、魂の祖国イタリアを訪れ、マルティン・ルターの宗教改革に巻き込まれ、最後にはスイスのバーゼルで人生を終えました。
その他訪れた欧州内の都市は数知れずで、更に多くの図書が出版されました。
現在、EU圏内の他国の大学で勉強する大学生に財政支援するプログラムを「エラスムス」プログラムと名づけているくらいです。

エラスムスの理想は「文化と宗教がよき学問によって基礎付けられた社会」でした。
しかしそんな理想はルターの宗教改革や、フランスとドイツ帝国との戦争で、破れる事となります。
彼自身、決してルターに反対だったわけではありません。当時の教皇庁の腐敗を攻撃する姿勢には賛成だったのです。
しかしルターの攻撃性、過激性には、温和なエラスムスにはついていけなかったようです。
そして更には友人のトマス・モアも断頭台の露と消えます。
その知らせにはエラスムスは何も書くことが出来ません。
彼の悲しみはあまりにも大きかったのでしょう。
その後すぐエラスムスもバーゼルで亡くなります。
残念ながら、彼の理想は崩れていきます。
今もまだ同じような状態かもしれません。
エラスムスが理想とした、「開明的で近代的な、また寛容で平和な精神」が、更に求められている時代なのかもしれません。

この本の表紙のエラスムス(写真)は、ホルバインという画家によって描かれたものです。
この角度から、執筆中の彼を描いた作品は数作あるようです。
ちなみにバーゼルの美術館にもあることを、NHKの番組で知りました。
バーゼルを訪問した時、この美術館にも立ち寄ったのですが、大聖堂そばのエラスムスの碑と同じく、気にとめることはありませんでした。
もし再び訪れるチャンスがあれば、改めて彼を偲びたいものです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑の中を伸びゆく運河(フォンテーヌブロー)

2007-03-25 00:17:14 | フランス物語
大花壇から運河の方に向かって歩いていく。
ルイ14世の時代に作られた「滝の泉水」から直線的に運河が伸びている
長さは1,200メートル近くもあるそうだ。
はるか彼方まで、運河と緑が広がっている感じだ。
週刊世界遺産NO.17にフォンテーヌブロー周辺も含めた全景の写真が載っているが、結構庭園の近くまで建物が近づいている。
それでも余計な建物は見えない。
文化遺産の景観を守っているのはさすがだ。
勿論日本とは地形や人口などの条件も異なり、公平に比較するのは難しいともいえるが、今まで見過ごされがちだった景観というものを大切にしてほしいと思う。
京都などでもやっとそういう動きが出てきているが、生活のかかっている方々もおり、なかなか解決困難な問題だと思う。
それにもかかわらず、一生懸命取り組んでいる関係者の皆様には、つくづく頭の下がる思いがする。

この運河は1609年の5月に水入式を行った。
ちょうど爽やかな季節に似合う行事だ。
このときアンリ4世は延臣の一人と賭けをしたそうだ。
その不幸な延臣は2日で水が運河に一杯になるというのに賭けたが、予想ははずれ、千エキュ(どれくらいの額かは不明)取られたそうだ。
結局1週間かかっても、水が一杯にならなかったそうである。
運河の大きさを物語るエピソードである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルネサンスの擁護者 ロレンツォ・デ・メディチ

2007-03-24 01:17:20 | ヨーロッパあれこれ
世界を創った人びと 10
ロレンツォ・デ・メディチ
1979年1月10日 初版第1刷発行
編訳者 清水廣一郎
平凡社

前述の「世界を創った人びと」より、まずはロレンツォ・デ・メディチを取り上げます。
彼は別名「イル・マニーフィコ」(偉大なる人)とまで呼ばれた人で、
「フィレンツェが、ルネサンスの魂であった時代の、フィレンツェの魂であった」と呼ばれるくらいの人だった。
自分にとっては以前、メディチ家の歴史のマンガや、塩野先生の「我が友マキアヴェッリ」により、魅力的な姿をある程度勉強していた。
顔は写真のように、少し癖がある。「我が友マキアヴェッリ」の中でも、マキアヴェッリがふざけた手紙の中で書いている、全てが醜い売春婦の唇を、「ロレンツォの口そのものだ」と表現してる。
しかしそれを補って余りある、能力と魅力と運が彼には備わっていた。
華やかなメディチ家に生まれ、暗殺の危機に遭うも、無事助かる。
ちなみに、その時の首謀者のしばり首の素描も何点か載っていたが、やはりダヴィンチの描いたそれが一番迫力がある。
その後のペストと戦争の襲来。「明日に定めなき」世の中。
そんな中、勇躍ナポリを訪問し、ナポリの王フェランテと教皇の結びつきを切り離し、フィレンツェを救済する。
「慎重」の女神により冠を授けられるロレンツォの姿を描いた絵画。
蛮勇の裏には慎重な根回しをほどこしていた。

その後栄光を謳歌する一方、
晩年はメディチ家の持病である通風に苦しむ。
修道士サヴォナローラが宗教的熱狂の下、フィレンツェを支配していく中、1492年、ちょうどコロンブスの新大陸発見の年、ロレンツォは亡くなる。
そしてまもなく、メディチ家のフィレンツェ支配の(一時的な)終焉となるのであった。

(前回この全集の人選について疑問を呈していましたが、よく読むと1968年にミラノの出版社が著したものを、平凡社で編訳という形にしていました。よって、正確な見方は「40年前のミラノから見た世界を創った人びと」というのが正しいかもしれません」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大花壇を一巡り(フォンテーヌブロー)

2007-03-21 23:02:18 | フランス物語
フォンテーヌブローの大花壇を一巡りする。
写真は宮殿を背景にした大花壇です。
宮殿のこの部分の内、大きなガラス窓があるところは「舞踏会の広間」と呼ばれている。
フランソワ1世の時代に着工された。
ルイ13世の時代まで、そしてその後19世紀になってから、この広間で多くの祝宴や祭典が催されたとのこと。
その右側の上部に十字架があるところが「サン・サチェルナン礼拝堂」となる。
このもともとの礼拝堂は1169年にフランス亡命中の聖トーマス・ベケットにより創設されたが、フランソワ1世の時代に完全に造りかえられた。

この庭園自体はいわゆるフランス式庭園で、ル・ヴォーやル・ノートルにより、1660年から1664年に設計された。
建物そばの木々のもと、のんびり歩くのにはもってこいといえそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする