ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

にゃんこの奇跡?の一枚

2022-05-29 07:08:55 | 小説

 

うちのにゃんこです。

この一枚、お澄ましの表情で、凄く可愛く撮れました。

お気に入りの一枚です。

「ふにゃん。アタシはいつも可愛いいのにゃ。単にカメラマンの腕が悪いだけなのにゃ」

確かにそうかもしれません‥

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ゲーテさんこんばんは 池内紀 著

2022-05-22 07:21:43 | ヨーロッパあれこれ

 

ゲーテさん こんばんは
池内紀 著
集英社 発行
2001年9月10日 第1刷発行

ドイツの文豪ゲーテについて、一般的なイメージをくつがえすように、楽しく、面白く書いています。

1765年、16歳のゲーテはライプツィヒ大学に入学 
ギリシャ語、ラテン語、フランス語、イタリア語に堪能で英語もできた。地理、歴史、博物学に詳しい。ピアノが弾けて絵が上手。ダンスと乗馬は玄人はだし。一字の乱れもない見事な筆跡 p7
ヨーロッパの18世紀は「啓蒙主義の時代」で、言いかえれば教育ブームの世紀だった。
また父親は資産家で、その人生は財産の管理と、我が子の教育に費やされた。

 

「ファウスト」はゲーテ畢生の作といわれている。二十代で書きはじめ、二部仕立てを完成したのは八十二歳のときだった。
厳密にいうと、さらに十年近くさかのぼる。十代の半ばすぎ、食堂の娘をうたった愛の詩のなかに、すでにその原型がある。p16

ゲーテの『若きウェルテルの悩み』
ゲーテ二十五歳、1774年の大ベストセラー
ウェルテル熱が去ってもそれは読み継がれ、名作となり古典になった。
世界中の言葉に訳されたし、今もなお繰り返し訳されている。
(以前この作品をブログ(当時はYahooブログ)で取り上げた時、イタリア在住の方から、息子さんがちょうど地元の高校で読んだ、というコメントを頂いていました)

 

『若きウェルテルの悩み』が大ベストセラーになった理由
・書簡体というスタイル
折しも手紙が新しいメディアとして晴れやかに登場した時代
・不幸な恋の発見
愛の浄化と救済にあたり、不幸な恋が幸福な恋以上に大きな力を持っている。

原理的に不幸な恋は、愛し合う二人にとっても幸せである。双方がひそかに、不幸な恋を、楽しく思い出すことができる。
その永遠の恋人ばかりは、ベッドでいぎたなく眠りこけたり、年と共に下腹がぶざまにせり出したりしないのである。p46

 

ふつう旅行記は、あまり印象が薄れないうちに発表されるものだが、ゲーテの『イタリア紀行』は違っていた。
旅行から三十年以上もたった1817年に刊行をみた。37歳のときの旅を68歳になって世に出した。しかも『イタリア紀行』第二部にあたる第二次ローマ滞在は80歳近くになってようやく増補の形で陽の目を見た。
この点、『ファウスト』とよく似ている。p86

 

『イタリア紀行』はまずイタリア旅行の最中に、手紙として友人や知人に送られた。
手紙はかつては私信のかたわら公開書簡といった役割をもっていた。情報を伝えるミニコミであって、受け取った側も私有せず、早速夜のサロンなどで公開した。
『イタリア紀行』は、このような手紙を元にして出来た。しかし、相手方に行ったはずの手紙が、どうしてゲーテの著作となったのか?
書いた当人が同じ手紙を持っていた、つまりはコピー、控えをとっていたからだ。

ヴェスヴィオ火山の噴火やサー・ウィリアム・ハミルトンの美女エンマ・ハートや山師カリオストロなど、早く現場から通信を送りたかった。

 

ゲーテの生まれた1749年から死の年である1832年までを、ためしに世界史と引き合わせてみると、奇妙なことに気がつく。ゲーテの青年期から壮年期にかけて、二つの大事件があった。一つはアメリカの独立戦争と合衆国の誕生であり、いま一つはフランス革命と共和制の成立である。いずれにしても自由と革新の気運がみなぎっていた。
一方、ドイツはどうだったか?この間、とりたててしるすべきことは何も起きていない。何も変わっていない。相変わらず二十あまりの国にわかれ、旧態依然とした宮廷政治が続いていた。p136
個性と能力に対して、社会はそれを受け入れるシステムを持たない。いかなる活躍の場も与えない。とすれば外界から意識的に目をそむけて、内部にひきこもるしかない。ゲーテはしばしば「内的社会」という言葉を口にした。それはまた時代の合言葉というものだった。p138

 

ゲーテは町づくりに熱心だった。
ゲーテがしげしげとラテン河畔のマンハイムに足を運んだのは、ひそかな恋人のためではなく、そこに都市づくりの手本があったせいではあるまいか。
今もマンハイム旧区には通りに名前がない。A6・5とかM2・4とかといった具合に標示されている。
マンハイムは18世紀に生まれた人工都市である。ゲーテのころは、まだ星型をした外壁をもっていたが、その中を碁盤目に仕切ってブロックにした。p186-187

あとがき
イタリア遊歴の記録である『イタリア紀行』を、私はとびきりすてきな「地球の歩き方」だと考えている。旅に出るとき、いつもリュックの底にしのばせていく。p252
(晩年の池内さんのインタビューの中で、イタリア紀行の翻訳を出したいと言っておられたのを思い出します。実現しなかったのが残念)

 

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柳田国男 著 日本人とはなにか

2022-05-21 08:22:08 | ヨーロッパあれこれ

 

日本人とはなにか
柳田国男 著
河出書房新社 発行
2015年7月30日 初版発行

考えない文化

日本の笑い
世界の文化は共通であると言ったり、フランスで良い文学なら日本でも良い文学であると言ったりするのに対して、私は疑点を持って居る。学問でも同じ事であるが、全然日本の過去の文化に研究すべきものが無いなら別であるが、日本の文化は日本人でなければ研究出来ないと思う。p11-12

シルバン・レヴィ 
フランスの有名な仏教学者で、元はユダヤ人であるが、に初めて日本で逢った時に、貴方の書いた物の中で何が一番思い出があるかと言って訊ねて見たら、印度のコート・フールの歴史を書いた物が思い出だと言った。p13

 

処女会の話

離婚をせずともすむように

うだつが上がらぬということ 家の話

日本人とは

家の観念

日本における内と外の観念
日本の地理的な特徴
・大陸からの距離
・川と谷が多い
・米をつくる
このような条件の下に同一の人種として、谷谷に群をなして土地を開き、米作りして、割拠した。したがって、日本人の割拠性というのは、たいへんに根が深い。p120-121

 

戦後、いわゆる農地改革のために悲惨な目にあって裏切られたようなことを言っている地主達は、じつはこのあとに出てきたもので、昔からの旧家で代議士も出さずに手堅くやってきたものも少しはあったかも知れないが、それはごく少ない。p137
村村の旧家でほとんど問題のない家はない。そういう家の主人は、たんに酒色におぼれたというのではなく、みな新しい生活をしたためだ。一番はやったのは馬。
世の中が変わったのは、こうした生活の様式の移り変りに応じて人の考え方が変わったのであって、明治の変わりかたをただ政治変革の一つの現れとだけ見ようとするのは間違いである。p138

 

明治憲法調査の時、シュタインは、「どこの国でも過去に歴史があるから、ある国が非常に良くいったからとて、その通りにはいかない。自分の国の立場と経験とをよく考えてみなければならない」と言った。ほんとうにこれくらい平凡な真理はない。p139

私の仕事
幸田露伴の『雁坂越』
少年がけわしい雁坂峠の絶頂を越え北武蔵へ出る。
眼下に開けた新しい世界を望んで小躍りして悦ぶ。
私はその気分が何とも言えず嬉しかった。
ビョンソンの『アルネ』という小説も、その結構はちょうど『雁坂越』と同じで、フィヨルドに住む少年が生まれて初めて北海が見えるところにたった時の少年の心の動きと情景を良く表し得て居た。p146-147
(国男少年が福崎の山から、初めて播磨灘の海を見た時の話を思い出しました)

 

無知の相続

日本人の来世観について

私の歩んだ道
農商務省の役人生活のかたわら早稲田大学とかその他ほうぼうの大学で農政の講義をした。大学を出てすぐだから二十七、八歳のころで今から思うとずいぶん大胆な話なのだが、それでもドイツの本を読んで勉強して一生懸命に講義をしたものである。p188

柳翁新春清談

次の代の人々と共に
皆さんのお父さんの代、お祖父さんの代には、日本を「東方の英国」などといっていたことが、随分あるのであります。処が、実際は違っていて、島だということは異ならぬけれども、向こうは潮は早いが、大きな河だと思えばいいような処で向かい合い、両方とも平地になって居ります。p209

 

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フランスのクレッソン元首相の思い出

2022-05-19 18:30:49 | フランス物語

(毎日新聞の記事から抜粋です)
マクロン大統領は新首相にエリザベット・ボルヌ労働・雇用・社会復帰相(61)を任命したと発表した。フランスで女性の首相は、社会党のミッテラン大統領(当時)が1991年にクレッソン氏を任命して以来、31年ぶり2人目。
首相任命を受けてボルヌ氏は、クレッソン元首相に敬意を表しながら、「夢に向かって突き進む少女たちに、この任命をささげる」と述べた。

かつて首相時には、問題発言で日本でも有名(悪名?)になったクレッソン(クレソン)さん。
二十年ほど前、彼女にお会いしたことがあります。
フランスでのある国際会議。
フランス人同僚と参加してみると日本人は自分も含めて二人だけ。もうお一方は大学教授のお方で、親しくお声をかけて頂きました。
そのお方に紹介頂いたクレッソンさん。何しろ日本人にとっては有名人ですからね。
残念ながら自分の乏しいフランス語力ではたいした話も出来ず、挨拶と名刺交換くらいでした。
その時、自分のような怪しい日本人にも関わらず、朗らかな笑顔で応対して頂きました。悪い印象は全く残らなかったです。

今、改めてその名刺を確認してみると、
左上にEdith CRESSONという名前だけ。そういえばシャンソンのエディト・ピアフと同じ名前なんですね。
左下にはパリの住所、そして右下には電話番号とファックス番号だけのシンプルな名刺で、肩書きとかは特にありませんでした。
wikiによると、その頃は不正により、公職を辞任していたようです。
そういえばその時一緒にいたフランス人同僚はクレッソンさんにあまり近づこうとはしませんでした。元首相とのせっかくの機会なのに、と思ったのですが、やはりそのような経歴が影響していたのかもしれません。
それでもフランスで女性初の首相、という肩書きは三十年以上女性首相が出なかったという面からも、貴重な存在と言えそうです。
もうかなりのお歳ですが、最近フランスメディアのインタビューにも答えておられました。過去のご経験が新しい首相に生かされるのか気になるところです。

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共通語の世界史 ヨーロッパ諸言語をめぐる地政学 第三部

2022-05-15 06:15:03 | ヨーロッパあれこれ

第三部 ヨーロッパの諸言語とナショナリズムの挑戦
第七章 言語からの号令
言語の運命への人間の介入 私的な道と公的な道
借用は元の言語の用語をそのまま持ち込むこともあれば、受け入れ側の言語の音韻に適応させることもある。借用に対しては、しばしばナショナリズム的態度によって拒否されることがある。その際、改革者たちは土着の語根や、それらの語根の組み合わせからなる複合語に依拠することを好む。p223

言語が民族をつくる
1848年の爆発によって、絶対主義国家がそのこだまを忘却の彼方に追いやろうとしていた古びたことばが再び姿を現した。諸民族が次々と発する声はうねりとなってヨーロッパを揺るがした。それは、中欧や東欧の少数言語にとって、もうひとつの彼らを運命を決定づけた時代、すなわち宗教改革と比することができるほどの希有な時期であった。p226

 

スラブの二つの民族の連合によって1918年に樹立された若いチェコスロバキア共和国の民主主義は、よくある歴史のいたずらで、今度は自分たちの内部のマイノリティの言語的要求に直面しなければならなかった。p238

現代エストニア語の言語改革のために、文の中でドイツ語をなぞったような語順を排除し、廃れていた語根や接尾辞をよみがえらせ、姉妹語であるフィンランド語からの借用語を増大させた。更に言語改革者としてはかなりまれな方式をも導入した。音が意味をなんとなく連想させるような形でこしらえた、人工的な単語を量産した。p245

フィンランド語とハンガリー語は数世紀の間、自分たちの言語を民族の生命の源泉とみなした熱心な言語学者たちのまれにみる熱意のもとで、鍛練され続けてきたという共通点がある。p249

 

民族が言語をつくる 言語の基礎となる国家、ことばの分裂、推進、再生

アイデンティティーを確立したいという意志だけで、ひとつの言語がゼロから創造されるわけではない。むしろ、長い間影に隠れていたり、ほとんど使用されていなくなっていたり、ばらばらの方言により構成されているようなことばに、文章語としての威厳を与える努力が払われる。p260

 

分岐点
日本語はおもしろい例を提供している。他に類を見ないという点で奇妙な証言が、第二次世界大戦直後にかなりの精神的動揺に陥った日本人がいたことを示している。1946年4月に小説家の志賀直哉がある論説を発表した。志賀はそこで日本語の「不完全さ」と、そのことによって「文化の進展が阻害され」ることを告発しつつ、国語として、その美しさと文明への貢献度の点からフランス語を採用したらどうかと提案したのである。p265
(ヨーロッパの諸言語がその確立のためにさんざん悪戦苦闘しているさまを読んだ後、唐突に志賀直哉のこの話を読むと、更に愕然としてしまいました。こら!直哉、なんば言うとるけ!という感じですね(笑)。高校の教科書で読んだ「城の崎にて」の中で、ケガした時、「フェータルなものかどうか」と聞いている人に感じた違和感がよみがえってきました)

 

第八章 ことばの城塞
ロシア語、または再統合した帝国
ソ連においては、出発当初の第三世界主義的ともいえる意志が影をひそめ、その後はジャコバン主義(国家的単一言語主義)の方向が取られることとなった。ロシア語推進政策は、連邦を構成する最も大きな共和国であるウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、さらにはバルト諸国やモルダヴィアの住民にも向けられた。p273

1988年から1990年の間に多くのソ連の共和国によって一連の言語法が採択される。
これらの言語法を検討すると、政治体の定義において言語に割り当てられた重要性があざやかに浮かび上がってくる。p281

ロシアはその歴史を通して、少なくともアジア的であるのと同程度にはヨーロッパ的であろうとしてきた。ツァーリ時代にモスクワは「第三のローマ」(第一はローマ、第二はコンスタンティノープル)とみなされていたし、その後は、西欧で生まれ、ロシアのことなど想定していなかったイデオロギーであるマルクス主義の祖国にもなった。p291

 

西欧と「小さき」言語
他の言語と公的地位を共有する言語
ベルギーのオランダ語、アイルランド語、マルタ語、ルクセンブルク語
抵抗の砦である言語
カタルーニャ語、ガリシア語、サルデーニャ語
衰退に立ち向かう言語
オクシタン語、バスク語、ブレイス語、ゲール語、カムリ語

ヨーロッパ東部では、国家の公用語の他に多くの少数言語が話されている。少数言語の数が西ヨーロッパよりはるかに多いだけでなく、話者数の点でも西ヨーロッパの規模をはるかに上回っており、ロシアはその際立った例を示している。p312

ソ連の言語政策には二つの重要な側面がある。ひとつは言語規範の確立であり、もうひとつは表記法の確立である。p320

 

おわりに
言語の習得のためにはテレビによる教育を利用すればモチベーションも大いに高まる。このやり方は日本で広く用いられている。日本人は外国語に対する好奇心が強いので、少なくとも今のところは、自国語と外国語の優位性を争ったりしない。p334

欧州評議会は諮問機関としての役割しかもたず、行政的執行権は持っていない。しかし加盟する際には、欧州人権規約を受け入れることが前提条件となっているが、その中には、言語的マイノリティに対する尊重が含まれている。p335-336

ヨーロッパ人はアメリカ合衆国のような単一言語主義の危険から逃れなければならない。ヨーロッパ人は、多言語の地の市民として、人間言語の多声的な叫びに耳を傾けることしかできない。p339

 

訳者あとがき
アントワーヌ・メイエとアジェージュが異なるのは言語の多様性への態度である。次々と民族語が自立していく状況に恐れおののいたメイエと異なり、アジェージュは言語の多様性への無条件の肯定の姿勢が見られる。
しかしその一方、民族と民族をつなぐ役割を果たす「連合言語」の重要性を認識している点では、メイエの「文明語」への執着と通じる。p344

アジェージュにとってロシア語はフランス語、ドイツ語、英語と並んで、ヨーロッパを支える主要な「連合言語」のひとつであり、その重要性は時と共に増していくとさえ予想している。p345

アジェージュの特異性として、ドイツ統一を眼前に見た時、ハンザ同盟とドイツ騎士団を思い浮かべる論者はどれほどいるだろうか。p346

1992年当時と現在で大きく異なるのは、英語の覇権である。当時はまだ「危機感」でしかなかった英語のプレゼンスは、現在はヨーロッパ域内でも圧倒的なものになっている。p354
(2001年頃の欧州評議会の会議でも英語が圧倒的で、議長のフランス語による「メルシーボク」という太い声が妙に印象的だったのを思い出す)

 

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