ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランス文化読本 フランスを知るための16の窓

2025-02-24 20:42:13 | フランス物語

 

フランス文化読本 フランスを知るための16の窓

田村毅 監修

鈴木雅生・福島勲 編

丸善出版 発行

平成26年4月10日 発行

 

16の窓の内、パリ市内のものが15で(あと一つはパリ近郊のヴェルサイユ宮殿)、パリを通してフランスを知るような仕組みになっています。

 

1 ノートルダム・ド・パリ 

聖母信仰と中世幻想

 

2 パリの橋

右岸と左岸を結ぶ風景

パリで初めて造られた家の無い橋は、1578年から1607年まで30年を費やしてつくられたポン・ヌフ(新橋)である。

現存する橋としてはパリ最古のものである。

 

3 ルーヴル美術館

人類のヘテロトピア

ルーヴルという名前の由来はあまりはっきりしない。要塞にルーヴルという土地の名が冠されたことに由来する。

 

4 カルチエ・ラタン

左岸が生み出す知の空間

当初、学寮は学生たちが寝起きするだけの場所だったが、次第に教育もそこで行うようになり、15世紀末には教育を行う学寮は18を数えるまでになっていた。

 

5 ヴェルサイユ宮殿

権力の劇場

ルイ13世の時代、1623年、ヴェルサイユの地に、狩猟のために館が建てられたことが発端であった。

 

6 バスティーユ

革命の爆ぜる地

1789年7月14日、バスティーユ牢獄に収監されていたのはわずか七人の軽微な犯罪者のみであった。

比較的短時間の攻防の後バスティーユは民衆に占拠された。

 

7 凱旋門

皇帝の栄光とともに

ナポレオンの変革は目に見えるものだけではなく、ナポレオン法典の制定や、軍事・教育システムの整備、さらにパリの番地表示などもある。

 

8 オペラ座

絢爛の祝祭空間

 

9 サン・ラザール駅

〈鉄道の時代〉の文化

 

10 シャンゼリゼ通り

モード・シック・エレガンス

 

11 オルセー美術館

近代を描く新たなまなざし

 

12 モンマルトル

歓楽街に息づいた芸術家たち

サクレ・クール寺院の建設の発端は、1870~71年の普仏戦争と、翌年のパリ・コミューンの犠牲者たちの鎮魂であった。

 

13 エッフェル塔

「無用の鉄塔」からパリの象徴へ

1889年の完成当時、エッフェル塔の巨大さはまさしく前代未聞、想像を絶するものだった。

それまで地球上の最も高い建造物はアメリカのワシントン記念塔(169m)だったが、エッフェル塔の高さは300m、頂上の三色旗まで含めれば312mとなり、約二倍と大幅に世界記録を更新した。そして世界一の座を41年間守り続けた。

 

14 メトロ

地下に広がるモニュマン

メトロの父はフルジャンス・ビヤンヴニュという人物で、モンパルナス・ビヤンヴニュ駅にその名を残している。

 

15 モスク

異文化へのまなざし

 

16 ケ・ブランリー美術館/博物館

モダン・アートと「異文化」展示のゆくえ

 

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第二次大戦下 ベルリン最後の日 ある外交官の記録

2025-02-20 20:22:45 | ヨーロッパ旅行記

 

第二次大戦下 ベルリン最後の日 ある外交官の記録

新関欽哉 著

日本放送出版協会 刊

NHKブックス 548

平成元年12月10日 第5刷発行

 

世界大戦勃発直前の1938年、外務省に入ってヨーロッパに赴いた著者。

リガおよびイスタンブールでの研究生生活の後、ドイツで三年半にわたり大使館員として勤務しました。

ヨーロッパでの最後の戦いとなったベルリン攻防戦の間もそのまま残留して、ナチス・ドイツ崩壊の有様を目の当たりに見たばかりでなく、その後シベリア経由で帰国し、二度目の敗戦を日本で味わいました。

 

第一章 大戦前夜のヨーロッパ

1 ロシア語研究員第一号

外務省が、なぜリガというあまり知られていない場所をロシア語研究員の留学地に選んだのかというと、本来ならばロシア語の勉強に最適と思われるモスクワが留学地として好ましくないと考えていたから。

1930年代のソ連は非常な混乱期にあり、政情が不安定だった。

そこで、かつてのロシアの領土であり、第一次大戦後に独立したバルト三国の中で一番大きい、ラトヴィアの首都リガが留学の地として選ばれた。

 

当時は欧亜連絡の航空路がまだ開けてなかったので、ヨーロッパに赴くにはシベリア横断の汽車の旅が最短のコースであったが、外務省の特別の計らいで、インド洋を経由して船で行くことになった。

 

2 バルト海のほとりで

リガはもともと13世紀初頭にハンザ同盟によって建てられた町なので、そのたたずまいは、ハンブルグ、ブレーメン、リューベックといった北ドイツの町並みによく似ていた。

 

リガでウォトカの杯を重ねているうちに、前後不覚となり、ぶっ倒れてしまった著者。

ウォトカは一気に飲み干したすぐ後、ザクースカという黒パンの切れっぱしにバターを塗り、その上にソ―セージなんかを乗せたものを丸ごと食べる。

このように、胃袋の中で座布団を敷くようなやり方で飲むと、何杯飲んでも酔わない

 

3 東欧諸国を歴訪

 

4 戦争の勃発

 

第二章 破滅の道をたどるドイツ

1 ベルリンで大使館勤務

 

2 ヒトラー作戦の失敗

 

3 奇妙な同盟

 

4 第二戦線とヒトラー暗殺計画

 

5 東西からの挟撃 

 

第三章 ベルリン籠城

1 大使、ベルリンを去る

 

2 戦場と化したベルリン

 

3 ヒトラーの最期を知る

 

第四章 二回の終戦

1 ドイツの降伏

 

2 占領下のベルリン

1945年5月9日ソ連兵との話

・戦争の惨禍はひどい。今後戦争は絶対に避けるべきである。

・ベルリンの復興には百年かかるであろう。

・米国は強い。日本はかなわない。

・日本がいつまでも中国と戦争しているのは不可解である。

・日本がソ連に戦争を仕掛けなかったことはよいことだ。だが、日本がドイツと一緒にソ連を攻撃するようなことがあれば、ソ連は日本を叩きのめしていただろう。

 

3 ベルリンから東京へ

ワルソー(ワルシャワ)市の荒廃ぶりは言語に絶するほどで、ベルリン市東部の惨状にもひけをとらないものだった。

一面のがれきの中に崩れ残った建物の外壁が所々に建っているだけで、市街の90%以上が完全に破壊されており、かつて見たポンペイの廃墟を想い起したくらいであった。

 

モスクワからソ連国境のチタまで行くのに九日間を要したが、毎日同じような単調な景色で頗る退屈な旅だった。

横光利一の紀行文の中に「なんて馬鹿馬鹿しく広いんだろう」と書いてあったことを思い出した。

 

日本に帰って、徹底的に叩きのめされたドイツを見て、ドイツは再起不能でしょうと父に言ったが、父はドイツは必ず立ち直ると、三十年戦争のことまで引き合いに出して主張した。

著者は歴史的観点に立って冷静に判断するゆとりを持ち合わせていなかった。

 

ドイツでは、どの家にもある地下室が防空壕として利用されていただけでなく、ベルリンなどの大都市では、ブンカ―と呼ばれる防空壕が到る所につくられており、一般市民にも開放されていたが、日本に帰ってきてみると、庭先に塹壕のような穴が掘ってあって、それに雨戸や畳をのせ土をかぶせただけで、全く気休めにもならない状況であった。

 

4 ソ連を通じる和平工作

 

第五章 よみがえる日本大使館

1 戦後の日本とドイツ

日本の場合も、もしポツダム宣言を拒否し、戦争を続けていたならば、米軍は九州から関東にかけて上陸作戦を行い、ソ連軍もこれに呼応して北海道を占領するに至っていただろう。そればかりでなく、第三、第四の原子爆弾が投下されていたかもしれない。

 

2 ベルリン日独センターの誕生

ソ連で「ベルリン陥落」という映画がつくられ、日本でも上映されたとき、日本の大使とおぼしき人が燕尾服の上に勲章をつけて立っているのを見て、同席した元公使が大声をあげて、「あれは僕のものだ」と叫んだ。

礼服・勲章ともトランクに入れて大使館の倉庫に残してきたそうで、それがそのまま映画の小道具に使われていた。

 

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フランス革命を旅したイギリス人 リグビー博士の書簡より

2025-02-18 20:25:38 | ヨーロッパ旅行記

フランス革命を旅したイギリス人

リグビー博士の書簡より

Lettres du DOCTEUR RIGBY

Voyage d'un Anglais en France en 1789

エドワード・リグビー 著

川分圭子 訳

2009年2月17日 初版発行

春風社 発行

 

原著はイギリス人医師エドワード・リグビーが1789年夏にフランス、北イタリア、スイス、ドイツ、オランダを周遊した折に家族あてに書いた旅の書簡の集成です。

1880年英語で出版され、1910年にフランス語訳が出されました。

18世紀後半はイギリス人のヨーロッパ旅行が盛んだった時代です。

 

リグビーは宗教的には新教非国教徒

宗教改革以来イングランドはアングリカニズム(英国国教)を国教としてきたが、これはカトリックを非国教とするだけでなく、プロテスタントとしては国教より純粋な長老派や洗礼派、会衆派などの諸派を非国教として排除するものだった。

 

本書の特色は、なんといってもリグビーが1789年7月14日のバスティーユ襲撃時にパリにいて鮮やかな記述を残している点。

それ以外でもリグビーはローヌ川下りをしながらフランスを縦断し、プロヴァンス沿岸を陸路東に向かって、テンデ峠から北イタリアに入り、モン・スニ峠を越えてジュネーヴに入り、ライン川地方を北上してオランダに達する。

 

7月14日についてのリグビーの記述は、当時の目撃者の一人だったレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの記述とほぼ重なっている。『パリの夜』岩波文庫

 

ド・マリクール男爵の序文(抜粋)

この著作は二つの部分に区分するのが適切である。

・農業家がフランスの田舎について描いている部分

・政治好きが、最初の革命の噴火のような動乱について書いている部分

 

第1章 ドーヴァーの印象

シャンティイの城あるいは宮殿は石材で造った広大な建物であり、まさしく水の中に建っていた。

 

パリのパレ・ロワイヤルを散歩。そこはオルレアン公が最近建てた広大な宮殿で、たくさんの店がある。

 

第2章:マリー・アントワネット

日曜の午後はヴェルサイユ宮殿に付属した公園や庭園、森を散歩した。美しい庭園だが庭の設計は悪い。

(いつも通りのイギリス人のフランス庭園に対する偏見である)

 

第3章:バスティーユ襲撃

 

第4章:死体置き場

 

第5章:パリ脱出

 

第6章:リヨンに到着

オーセールのヨンヌ川は大きくいくつかの砂州で区切られており、ある箇所では天然の堰止め湖や滝が出来ており、石の上に落ちながら轟いている。

 

18世紀ブルゴーニュの田園生活と農民の風俗についての研究の参考にするのに優れた史料はレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『私の父の生活』『ニコラおじさん』である。

 

第7章:プロヴァンス地方

ヴィエンヌのアウグストゥスとリヴィウス帝に捧げられた古代寺院は、次々とキリスト教会、革命派集会施設、商事裁判所、博物館になった。

 

ヴィエンヌの町から少し離れたところでセヴェレス帝の栄誉のために建造されたピラミッドも見た。このピラミッドは不格好なもので、明らかに建築の趣味に頽廃が始まった時代に建造されたものだ。

 

アヴィニヨンは古い町で何世紀も前には教皇の在所であった。この町はまだ教皇に属しており、ローマ教皇特使が統治している。このために、私たちはここを出発するときパスポートを取得しなければならなかった。

 

ニームには保存状態のよい円形競技場がある。しかし今では、この広大な囲いの中は、たくさんの家や底を横切る道路でいっぱいだ。

 

マルセイユの町に隣接した古い城が建っている高台に連れて行ってくれた。ここは一部は要塞として、一部は聖母に捧げられた礼拝所として使用されている。聖母は船乗りたちに大変崇敬されている。(守護聖母教会)

第8章:「フランスを離れるのは残念だ」

 

第9章:ジュネーヴ

 

第10章:アルプスの日の出

 

第11章:イギリス帰国

 

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道しるべとなるドイツのことばと絶景100

2025-02-07 20:08:15 | ヨーロッパあれこれ

道しるべとなるドイツのことばと絶景100

地球の歩き方編集室 著作編集

2022年11月15日 初版第1刷発行

 

1章:世界を広げ「前進する」ことば

2章:暮らしが豊かになる「思いやり」のことば

3章:ひとつを極める「勇気」のことば

4章:心が整う「愛と幸せ」のことば

 

100の名言と風景や建物、更には食べ物などの写真を掲載しています。

最後の101番目の、ゲーテの言葉を載せておきます。

 

気持ちのいい生活を送りたいなら、

過ぎたことは気にしないこと、

めったに腹を立てないこと、

いつも現在を楽しむこと、

とりわけ人を憎まないこと、

未来は神様にまかせること。

 

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旅の民俗学 宮本常一

2025-02-05 19:44:30 | ヨーロッパあれこれ

 

旅の民俗学

宮本常一 著

河出書房新社 発行

2006年8月30日 初版発行

 

宮本常一を中心とする対談・鼎談集です。

 

旅と民俗学

土と生活と応用の視点

 

日本人の旅と文化の交流

悪人はいない日本の常民文化

with 筑波常治

 

柳田先生がよく言われたことで、私(宮本)もそういう体験があるのですが、商売というのは貧しい者への同情から成り立っているのではないか。

持てるものが持たざるものを救う、逆にいえば、持たざる者が、持てるものから救ってもらうのが当然であるという人と人のつながりが商売みたいな格好になっている。

 

歩く得 歩かぬ損 with 秋元松代

日本人で一番よく歩いた人は一遍だと思うのですが、あれほど歩いて、あれほど自分を虚しくした人はいない。

 

「人生は旅」の思想 with 丸谷才一・紀野一義

西行は歌も上手だったが、戦術とか戦略にも相当深かった人らしい。だから西行はスパイという説がある。

 

日本人とは

その起源にさかのぼって

with 江上波夫・國分直一

 

縄文時代の言語は何らかの形で残っていないか。その残っている可能性が一番あるのは地名だと思う。

 

日本人は二つの、全くある意味では性格や伝統の異なる人間が、ごちゃごちゃにならずに、しかも日本民族ということで統一されていた。

フランスやドイツに行ってみても、何とも一つのものと感じる。

 

日本の原点 with 水上勉

 

旅の伝説に魅せられて with 松谷みよ子・松永伍一

 

高野聖と平家部落

日本人は悲劇的英雄がお好き with 杉本苑子

 

道の文化史 with 中西睦

馬と牛の運搬

昔の馬は小さく、運搬させるのは牛の方がよかった。

また馬は立ったままだが、牛は夜になると横になって寝る。それで野宿するとき、牛を二頭寝かせてその間に寝た。

 

新志摩風土記 

大浦と小浦

 

漁村と港町 with 河野通博

「泊」という字がつく地名のところは、必ず遠浅で、そういうところが最初の漁港になり、それが古い時代の日本の船を平底にした。

シナの造船技術を採り入れて船底に水切りがつくのは平清盛の頃からのことで、それから「津」という字のつく水深の深い港が発達し始める。

 

漁村部では末子相続が多い。播磨の家島など、一本釣りの漁村ではだいたいそうです。

 

瀬戸内海の港町を発達させたものというと、江戸時代の参勤交代が大きい。

 

日本に稲が入ってきたのは二つの流れ

・朝鮮半島(山東半島経由といってもいい)経由の実蒔

・南からの田植えを伴う稲

 

海と日本人 with 山崎朋子・茂在寅男

山口県の見島の漁師の話

船の帆を巻いて西南に向かって走ると、中国の浙江省の先にある舟山列島までわずか二日で行ける。

萩あたりから東南の風に乗ると、同じように二日間でウラジオストックまで行ける。

 

貴重な観光資源を保護する態度 with 荒垣秀雄

 

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