ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

アンヴァリッドの金箔ドーム

2022-10-15 08:06:51 | パリの思い出

 

画像はパリのアンヴァリッドのドーム聖堂です。
西側のルイ・コデ通りから撮ったものと思われます。
グーグルマップで一生懸命見比べてみたのですが、なにぶん二十年ほど前の写真で、並木などかなり違っていたので、確証は持てませんが。
まあでもその並木の暗がりのおかげで金箔のドームが引き立っています。
このドーム聖堂の建設は1677年から始まりました。
設計および指揮は、ヴェルサイユ宮殿も手掛けたジュール・アルドゥアン・マンサールによります。
その時はルイ14世が王家の礼拝堂として建造させていました。
しかし1840年に皇帝派と王家の和解の印として、ナポレオンの遺体はセント・ヘレナ島から帰還し、21年後の1861年に、その柩がドーム真下の地下霊廟に安置されました。
ドームの金箔装飾はまず1706年に行われました。
その後1815年、1853年、1867年、1934年に補修されました。そして5回目の、現時点では最後の補修が革命二百年後の1989年に行われ、12キロの金が使用されたそうです。
ドームの高さは107メートルです。その高さとキンキラキンのおかげで、パリのランドマークとして目立っています。
最後にアンヴァリッドについて書く時にはいつも触れているのですが、日本語訳の「廃兵院」というのはやはり失礼だと思います。
現地でもらった日本語パンフでもそう書いてしまっているのですが、「傷痍軍人院」とかいう訳の方がふさわしいかと思われます。

(現地の日本語パンフおよび週刊ユネスコ世界遺産第4号パリのセーヌ河岸1、そしてFrench momentのHPを参考にしました)

 

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リュクサンブール公園そばの大探検家庭園と世界四地域噴水

2022-10-10 18:02:56 | パリの思い出

 

この画像は、地図の通り、パリのリュクサンブール公園から長く伸びた庭園で、「大探検家マルコ・ポーロとカヴリエ・ドゥ・ラ・サル庭園」(Jardin des Grands Explorateurs Marco Polo et Cavelier de la Salle)と言われています。
さすがにそれでは長過ぎる、ということか、「大探検家庭園」や、「マルコ・ポーロ庭園」という表記も見つけました。
マロニエの並木が、深緑の壁のようにそびえているのが見事です。
そして手前のモニュメントは、「世界四地域噴水」(Fontaine des Quatre-Parties-du-Monde)と呼ばれています。「天文台噴水」(Fontaine de l'Observatoire)または「カルポー噴水」(Fontaine Carpeaux)とも言われています。
天文台というのは、ここから真南に天文台があるからのようで、またカルポーというのは、中心的な設計者であり制作者のカルポーにちなむもののようです。
噴水と言っても、この時は水を吹き出していませんでした。ちょっと寂しいですが、その分、秋のわびさびを感じます。
この噴水は1867年にオスマン男爵がナポレオン 3 世の公式彫刻家ジャン=バティスト・カルポーに依頼し、1874年にダヴィウドによって完成されました。
構造は、一番上にルグラン作の黄道12宮が刻まれた地球儀があり、それをカルポー作の四体の女性像が支えています。彼女達は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアを象徴しています。噴水名もそこから来ています。
その下の台座を囲む花輪はルイ・ヴィルミノによるものです。
そして周囲をエマニュエル・フレミエ作の馬、イルカ、カメの彫像で囲んでいます。
一番奥にはリュクサンブール宮殿、フランスの上院が小さく映っています。
一度だけ中に入ったことがありますが、内部は宮殿というだけにわかりにくい構造だったなあという印象が残っています。

(パリ市およびUn Jour de Plus à ParisのHPを参考にしました)

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渋沢栄一、パリ万博へ

2022-10-09 11:50:33 | ヨーロッパあれこれ

 

渋沢栄一、パリ万博へ
渋沢華子 著
国書刊行会 発行
1995年5月25日 初版第一刷発行

1867年(慶応3年)パリ万国博覧会使節団に加わり、更に徳川昭武のヨーロッパ及びフランス地方視察に随行した渋沢栄一。それを中心とした栄一の活躍の叙述の間に、約120年後、孫の著者が栄一の足跡を追いかけた旅行記を組み込ませています。
発行日からもわかるように、大河ドラマに乗じたものでなく、もともと月刊『歴史と旅』の連載によるものだったようです。ちょうどパブル経済の時代、栄一の「私利私欲のない」心情を見返す時期だったのかもしれません。
一方、女性親族の立場と気楽さからか、栄一の女性好きを皮肉る箇所もあるのが面白かったです。
渋沢の大河ドラマ自体、そんなに一生懸命観ていたわけではなかったのですが、パリ時代はわりとよく観ており、この本を読み進める中で、その場面場面がよみがえってきました。
あと、たまたまネットの古書販売のサイトを見てみると、大河ドラマ効果からかどうかはわかりませんが、この本は結構高値がついていました。それで更に、この本を図書館で無料で借りて読むことができる幸せを感じてしまいました。文字通り現金な話ですが(笑)。

 

第1章 祖父、渋沢栄一
祖父の死/万屋主義、論語とそろばん/女子教育推進/飛鳥山の屋敷/「サボン」の思い出

第2章 青春時代
あさましきお姿/幕末の志士/運命の皮肉

第3章 プリンス昭武一行の出航
船中/マルセイユ着/パリ着/憧れのパリへ
著者と随行者の女性二人で、13都市約四千キロを訪ね歩く
百二十年前、祖父が若殿さまと歩いた道と同じその道をたどりたい。幕府最後の威信を慶喜の家臣としてパリ万博に賭けて戦った祖父の青春の鼓動に、私もふれてみたい。歴史と伝統を保持するフランスのことだ。祖父の目に映った景色がそのまま残っているかもしれない、と期待は大きくふくれ上がった。p50

第4章 宮廷外交はじまる
モンブラン伯/ナポレオン三世の謁見式/グランド・ホテルからシャルグランの借家へ



第5章 ペルゴレーズ館へ
ペルゴレーズ通り/パリのオペラ座舞踏会/昭武、ペルゴレーズ館へ移る

第6章 パリ万国博覧会
陳列場/日本茶屋 
人気のあった江戸の茶屋
柳橋の芸者おすみ(寿美)、おかね(加称)、おさと(佐登)という娘たちが煙管で煙草をふかしたり、茶を点てたりしている。これが新聞に出て大評判となった。p86
この三人は「公用」としてヨーロッパに渡った日本女性の第一号である。p87
褒賞式/日本の曲芸団/ヨーロッパ巡歴へ/イギリスへ

 

第7章 昭武留学生活
ペルゴレーズ仮御屋形/風雲急を告げる日本/慶喜の直書
C・ポラック氏によると、パリの古文章館かどこかに、昭武宛の慶喜の手紙が残っていたという。彼の分析によると、慶喜はパリに亡命し、幕府を存続させることを願っていたという、が…
今後の研究を待つこととしよう。p122-123
鳥羽伏見の戦い
1868年5月13日の帰国者の送別会のメンバーの中にティソ(画の先生。昭武の肖像画が現存している)p127
(ジェームス・ティソ(1836-1902)、以前、ディジョンの美術館のHPを見ていた時、浴室の日本女性を描いた妖艶な絵画を見てドキリとしたことがありました)
5月30日の日記に「朝水練御稽古初」とある。昭武はセーヌ河で泳いだらしい。栄一はお供をしている。栄一も泳いだのだろうか。しかし祖父の水泳にまつわる話をきいたことはない。p131-132
(パリの聖月曜日(岩波現代文庫)によれば、1831年当時では、セーヌ川での水浴は警察が禁止していたが、セーヌの河岸には庶民でも入ることができる水浴場があったそうです。しかしかなり衛生上問題があったようです。四十年近く経って改善されていたのでしょうか?)
昭武帰国命令

 

第8章 ノルマンディ、ブルターニュへ
シェルブール/カン/パリ/ルーアン/ル・アーブル/ナント
栄一は勉強したフランス語を、黒革手帳には一部しかないが、アルファベット順に単語と訳語を付記して書き留めている。
「こんにちは」をJ'ai l'honneur de vous souhaiter le bonjour(私は貴下に佳き日を祈る名誉を有す)、「私は便所へゆく」という言葉をJe vais où le roi va tout seul(私は王も一人でゆく所にゆく)、などと記してある。
著者の父(渋沢秀雄)が書いた『渋沢栄一』で読んだのを思い出したのだが、やはり時代を感じさせる日本語訳である。p165
カンペール/ブレスト



第9章 パリを去る
帰国の途、栄一八面六臂の活躍/パリを出発/ボルドーへ
昭武のヨーロッパ巡歴も含めて、全行程を供したのは栄一だけである。忠義を重んじる彼は、義経を守る弁慶の心意気さながらの心境だったろう。p185
バイヨンヌへ/ビアリッツ/トゥールーズへ/アルビ/マルセイユ

 

第10章 動乱の祖国へ
マルセイユ出港/シンガポール、香港、上海、横浜、東京
昭武は十四日の日記(フランス語)に「朝、日本の陸地が見えた。正午頃、あのごろつき薩摩(gredin satouma)の横を通過した」と少年らしい表現で博覧会場のことを思い出している。p217

第11章 帰国後の栄一
常平倉(じょうへいそう)/大蔵省租税司正
栄一はしみじみと過去を振り返った。不本意ながら一橋家の家来となり、不満な心で幕臣となり、こんどもまた思いがけずに新政府の役人になってしまい、運命の皮肉を痛感した。p226
大蔵省辞職、第一銀行設立
1873年(明治6年)5月、二人(井上馨と渋沢栄一)は連袂辞職をした。そして二人は連名で政府宛の建白書を新聞に発表した。
それには歳入歳出の数字をあげ、国家の財政は収入を知った上で支出すべきなのに、政府はその逆を行っていると、その反省をうながした。p230
(その反省もなきまま、今や日本は多額の国債で財政が硬直化してしまっているのは哀しい限り)
論語とそろばん
栄一は欧米列強に負けじと非文明国日本に、フランスで見聞した経済諸制度の種をまいた。また彼は大蔵大臣の役職を断り下野した。そして、栄一の持論「道徳と経済合本論」論語とそろばん、という儒教的発想のモラルを忠実に、ひたすら国の発展のため邁進した。そして彼は自ら設立した多数の会社のオーナーに定着せず、政商にもならず、清廉を誇りとしていた。利潤の追求と私利私欲という矛盾を、彼自ら生涯をかけて克服した。p237
 
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柳田国男外伝 白足袋の思想

2022-10-08 08:21:11 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田国男外伝 白足袋の思想 
船木裕 著
日本エディタースクール出版部 発行
1991年12月5日 第1刷発行

この本では、できるだけ事実に即して柳田国男の実像に迫り、その仕事の価値を見直そうとしています。もっとも「外伝」である以上、従来見落とされてきた点を掘り起こし、これまで作り上げられてきた虚像を批判する面が強調されています。
ただし私生活については敢えて触れていません。p233

〈柳田国男〉覚書
「柳田さんのものを読んで、実をいうと、長く読み続けれないんですよ。なぜかというとテーマそれ自体の動的発展がないから、いつまで経っても平板な、似たような似ないような話がずるずる続いて行く。」p8

遠野物語は、佐々木さんがさまざまの言い伝え、昔話などを遠野の言葉で語ったのを、法制局参事官柳田国男自らが文語体で書き取ったということになります。
ここにこそ、「異様」の核心があるのではないか。
つまり素材と表現の問題を取り違えているわけです。p14

柳田の文章には、どこか、こう人を食うとか、とぼけたようなところがあるんですね、はぐらかすと言っていいんですが、この人(の文章)には。おそらく、気質や生い立ちだけでなく、官僚時代に増幅された用心深さや一流のしたたかな計算があるような気がするんですよ。p26

 

枢密顧問官柳田国男と総理大臣吉田茂

柳田国男の叙勲・叙位とその背景

翻訳家としての柳田国男
『是でも武士か』
ロバートソン・スコット 著
大正五(1916)年12月は東京の丸善から出版
布装、B5版、濃紺ハードカバー、387頁
真中を挟んで、左半分が英語横書き、右半分が日本語縦書き。日英両国語の合冊本 
訳者名は出ていない
実は翻訳者は柳田国男p127

国際連盟委任統治委任時代を別にすると、貴族院時代は、柳田国男が最も頻繁に外国人と交際した時期であった(貴族院書記官長柳田国男 岡谷公二) 
この本の著者ロバートソン・スコットは、ロシア人の日本留学生で、日本の民俗・方言研究に従事していたニコライ・ネフスキーとともに、国男が「最も深く交わった」相手である。
スコット(1866-1962)はスコットランド出身の英国人ジャーナリストで、大正四年初めに来日し、四年半、日本で生活した。p131

この『是でも武士か』の内容については、『プロパガンダ戦史』(中公新書)にかなり詳細に取り上げられている。

 

ある凌辱場面の目撃者の証言が翻訳から削除されている。
このことを発見した岩本由輝は「柳田がどのようなものを卑穢として退けたかを示す一つの事例」としてあげた上で「これは民俗学の資料ではないが、柳田は要するに、このようなことをたとい匿名の翻訳であれ、みずからの筆で表現するのを嫌ったのである」と述べている(『もう一つの遠野物語』)p142-143

この『是でも武士か』という書物は、欧州大戦(いわゆる第一次世界大戦)におけるドイツの不法行為、残虐行動を、いかにも実証風に、徹底的に糾弾している。その中心はドイツ帝国のベルギー国侵犯および残酷行為である。
大英帝国はベルギー国の中立侵犯を理由にドイツ帝国に宣戦布告したことに注意する必要がある。p144

書名について言えば、"Ignoble Warrior"(卑しむべき戦士)を『是でも武士か』と訳したのは、柳田の手柄であるといっていいだろう。なかなかの名訳である。p146

 

スコットはこう告白している。「この二冊のうち一冊(是でも武士か)は、日本のある公人の好意溢れる尽力の成果として翻訳された。このことは決して忘れはしない。この方は、なにしろ、極めて乏しい時間をさき、二晩徹夜して、その原稿を完成してくれたのである」
それにしても、これだけ厚い本を、わずか二日で翻訳したとは、さすがに能吏というべきである。p153

柳田国男自身が、当時の新聞記事から晩年『故郷七十年』の回想に至るまで一貫して、ユーモラスな世相風刺をしてみせる、博識で文学通の「学者翰長」、「とにかく暇が多い」法制局の仕事の合間に旅行して歩く「民俗学者」、「至極平凡無事な官僚生活」という自己の印象を、世間にひたすら強調しようとしている。p162

 

柳と雲
柳田国男とラフカヂオ・ヘルン(ラフカディオ・ハーン、小泉八雲)との関係

他人の引用を好まず、また引用するにしても、出典をぼかしたり、明示せず、また他人の著作からの影響を極力自らの著作に反映させまいと腐心した柳田国男にしては、こうしたヘルン(ハーン)への言及の多さは、たぶん異例に属することだろう。p177

白足袋の思想

あとがき
柳田国男は一筋縄ではいかぬ相手だという思いを禁じえません。野球の言葉でいえば、さしずめ魔球をあやつる変化球ピッチャーです。その言動に幻惑されずに真の姿をを捕らえるのは至難の技です。また、言葉の広い意味で、極めて政治的な人物だと思います。p232
 
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歴史紀行 ドーヴァー海峡(後半)

2022-10-07 21:45:50 | ヨーロッパあれこれ

 

第3章 謀略の海 ノルマンディー
広氾な活動を見せたノルマン人はその後、各地に定住してからはまったくその痕跡を残さず、現地に同化して歴史の上から姿を消している。
中国人やユダヤ人が、それぞれのコミュニティーをつくって頑なまでに自分たちの文化的伝統を子孫に伝えているのとは対照的だ。 

日本人が印象派好きな理由
・明治になって、フェノロサらによって印象派は西洋美術の中では最もはやくから日本に紹介された。西洋絵画イコール印象派という”刷り込み”が行われた。
・印象派以前の西洋美術はキリスト教やギリシャ神話の知識がないと観賞できなかったが、印象派にはそうした制約がなく、作品と直に対話できる。
・自然の光の一瞬のうつろいを描く印象派の作品は、短歌や俳句に通ずる美意識がある。p157-158

 

イギリス人は皮肉をこめていう。
「ジャンヌ・ダルクを裁判にかけて、火刑に処したのはフランス人だ」
たしかに、ジャンヌを裁いたのは、ヨーロッパの神学界を支配していたパリ大学神学部の神学者たちである。
教会側からすると、ジャンヌは裁かれなければならなかった。
なぜなら、彼女は教会を素通りして、神の声を聞き、行動を起こしたからである。
カトリック教会の立場からすれば、人間は教会を通じてのみ、天国につながる。ジャンヌはそれからいうと、異端者であった。p161
異端者とは、別言すれば、時代や社会の枠を超えてしまった人間である。時代や社会の枠から超越していたがゆえに、歴史を変革する原動力となりえたのだ。
ジャンヌ・ダルク、ナポレオン、ドゴールという”フランスの三大英雄”はみな異端者であった。p162

 

第4章 覇権の海 ロンドン
王様をいただく国の雰囲気は親しみやすく、家族的である。アジアにおける戦前からの君主国は日本とタイだけだが、ともに近代化の過程で流血革命を経験していない。
王制にかわって猛威をふるったイデオロギーは何十万、何百万人をラーゲリに入れたり、虐殺している。
王政にかわるイデオロギーの怖さを最初に経験したのがイギリスであった。
1642年のピューリタン(清教徒)がそれである。
クロムウェルは国王チャールズ一世を断頭台へ送り、返す刀で革命左派を一掃して軍事独裁をしいた。
更にアイルランドで大虐殺を行った。
そんなクロムウェル父子による共和政を11年で終わらせ、王政復古を祝った。

 

ノルマン王家から今日にいたるまで、イギリスの歴代の王室にアングロサクソンがいない。みな、外国からやってきている。
ハノーヴァー家から連なる現王室(ウィンザー家)はドイツ人といってもいいほど、ドイツ色が濃い。
ダイアナ妃は生粋のイギリス人で、むしろ、異例であったのだ。p225

イギリスは島国だが、大洋上の孤島ではない。
ドーヴァー海峡は最短距離で32キロ。これはちょうど”ほどよい距離”といえるだろう。p245
つまり、大陸の先進文化を取り入れるにあたって比較的容易であるのに、大陸からの侵攻を防ぐうえでこの海峡は50万の軍隊に匹敵する天然の要害だったからだ。p246

 

第5章 運命の海 ドーヴァー 
ロンドンとドーヴァーを結ぶ国道2号線の別名は「ローマン・ロード」
ローマが整備した道で、ローマが手を引いた後も、大幹線道路として大きな役割を果たす。
大陸からイギリスに来る人々は、ドーヴァーからカンタベリーを経由してロンドンまで北上した。
聖アウグスティヌスもこの道を歩き、カンタベリーに教会を建てた。
その巡礼者たちを素材にして『カンタベリー物語』を書いたチョーサー
1660年の王政復古により亡命先から帰国したチャールズ二世もこの道をロンドンへと急いだ。

 

カンタベリーにおける、国王ヘンリー二世と大主教ベケットとの確執からのベケットの殉教
当時の教会や聖職者の腐敗堕落
聖職者の犯罪は教会裁判所で独自に裁かれ、その多くはほとんど無罪になった。 
だから、後世の史家の多くはむしろヘンリーの味方であり、ベケットの悲劇は彼の権力欲、貪婪、頑固な性格のせいだという見解が定説。

イギリスの修道院はみな廃墟になっている。ヘンリー八世がカトリックと縁を切り、イギリス国教会を創立した際、全国の修道院を取りつぶし、その土地を没収したからである。p264

英仏間の一千年にわたる歴史的な経緯から、両国民の間には今でも優越感と劣等感のいりまじった複雑な感情が深く根を根を張っている。
「恨み、敬意、軽蔑、熱意、好意と嫌悪が入り交じった、独特の関係」(フェイバー)p272

あとがきにかえて
イギリス人は好んでドーヴァー海峡を”狭い海”と呼ぶが、フランス人は反対に「この海峡は大西洋より広い」(ドゴール)という。
いうまでもなく、前者は物理的距離を言い、後者は心理的距離を指している。
 
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