ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

椅子の上でくつろぐにゃんこ

2022-11-19 08:18:38 | 小説

だんだん寒くなってきました。

にゃんこも板張りの所よりか、この椅子のような少しざらざらした肌触りの方が居心地良さそうです。

時々のたうち回って、感触を楽しんでいます。

 

 

ふにゃ、ここもあたしのお気に入りの場所なのにゃ

離れたくないのにゃ

 

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コルマールのウンターリンデン美術館の歴史

2022-11-13 08:41:49 | フランス物語

画像はアルザスのコルマールにあるウンターリンデン美術館です。
2000年の夏に訪問しました。
この美術館はキリストの磔刑と復活を描いた「イーゼンハイム祭壇画」で有名ですが、自分は回廊に展示されていたポットに描かれた拙いキリスト像にひきつけられたものでした。
この建物は地味な外観らしく、もともとドミニコ会女子修道院でした。
その歴史をまとめてみると
13世紀初頭
コルマールの貴族の未亡人、アグネス・フォン・ミッテルハイムとアグネス・フォン・ヘルグハイムの二人によって修道院が創立される。(二人ともアグネスさんなのか)
1252年
菩提樹の下、という意味のウンター・デル・リンデンと呼ばれたこの場所にドミニコ会修道女が定住する。
1269年
レーゲンスブルク司教アルベルトゥス・マグヌスによって教会の内陣が献堂される。
1280年
修道院が完成
15世紀まで
ウンターリンデンの修道女たちの豊かさと威光が増す
16世紀
修道院の衰退が始まる。
18世紀
再び発展の時期を迎え、建物の修復が行われる。
1792年
修復女たちが最終的にこの修道院を離れる。
1847年
ルイ・ユーゴがショーンガウアー協会を設立。
彼が1849年に取り壊される予定だった建物を救う。
1852年
古い絵画をまとめて移動させた。

(現地で買ったゴールデンブック・アルザス 日本語版 BONECHI発行 を参考にしました)

 

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藤原定家『明月記』の世界

2022-11-12 12:36:06 | 小説

 

藤原定家『明月記』の世界
村井康彦 著
2020年10月20日 第1刷発行
岩波新書(新赤版)1851

引き続き、藤原定家の本です。
明月記ということで、皆既月食の夜に図書館で借りました。(ただの偶然ですが・笑)
自分的には宮中内外の細々としたことよりも、雪を食ったことや猫を可愛がった記述の方にひかれます。
後、定家の不肖の息子だと言われている光家を必死にかばう著者の優しさに感動し、自分も光家にシンパシーを感じてしまいました。

序章 『明月記』とは
『明月記』は、平安末期~鎌倉前期の一公家・藤原定家(1162~1241)が、治承四年(1180)から嘉禎元年(1235)まで書き続けた漢文体(一部に和文あり)の日記。
年齢でいえば19歳(数え齢)の時より亡くなる6年前、74歳までの五十五ヵ年にわたっている。
欠けた箇所も多く、後世流出するなどで散佚してしまった結果だと思われるが、中には定家自身が廃棄したものもあったのではないかと考えられている。p6

父の俊成(1114~1204)や子の為家(1198~1275)についての記述が少なくない。しかもその期間の重なり具合を見れば、『明月記』を俊成と為家を加えた「三代」の記録とみることも可能だろう。p7

定家という人は無類の「見物」好きだった。
そして、たぶん、行列を見ながら(手許は見ずに)筆だけ動かしメモしていたのではないか。p8-9

端的に言って『明月記』は「極私日記」だった。これほどまで「私」が表出された日記は、他には見当たらない。p13-14

 

第一章 五条京極邸 
1 五条三位
2 百首歌の時代

第二章 政変の前後
1 兼実の失脚
2 女院たちの命運
3 後鳥羽院政の創始
4 定家「官途絶望」

第三章 新古今への道
1 正治初度百首
2 和歌所と寄人
3 終わりなき切継ぎ
4 水無瀬の遊興

 

第四章 定家の姉妹
1 定家と健御前
2 俊成の死
臨終の直前、しきりに「雪を食べたい」と雪を求める俊成
そして届いた雪を「めでたき物かな。猶えもいわぬ物かな」と言って何度も食べるので恐れをなして雪を取り上げた。夜中にもう一度雪を食べた後に休息。p99-100

3 俊成卿女と源通具
後世定家が歌聖として世の評判を得るに伴い、俊成卿女はいつしか「定家ゆかりの女性」として語り継がれるなかで「定家さま」と呼ばれ、それがなまって「てんかさま」になった。
いまも越部上庄(現たつの市市野保)には、越部禅尼の墓と伝えられる「てんかさま」の小祠があり、地元の人々によって大切に守られている。p109

 

第五章 除目の哀歓
1 居所の変遷
2 除目の「聞書」
3 官途「無遮会」
4 「為家しすへむ」 「名謁」の効用
名謁(みょうえつ)
内裏で行われた夜の点呼

 

第六章 定家の家族
1 定家の妻
承元元年(1207)7月4日、一昨年より飼っていた猫が放犬にかみ殺された。日記には、
「年来私は猫を飼わない主義だったが、妻がこれを養ったので自分も共に養った。三年来掌の上や衣の中に居た。他の猫は時々鳴き叫んだが、この猫はそんなことはなかった」と記す。
妻が可愛がっていたので定家も世話をするうちに、猫がとてもなついてきて可愛くなった。だから猫の死に「悲慟の思い、人倫に異らず」と、人の死と同じように悲しんでいる。p138

2 定家の子供たち
二人の息子、為家と光家に対する態度の違い
光家は外人(うときひと)「身内でない、よそ人」の意、と書く

定家は光家を、常に愚息といい、為家との差別を露にしてきたが、どんなに定家が拒んでも、宇佐使まで選ばれ、その上これほどの贈物が届くのは、光家がきちんと仕事をこなしてきたことの証拠である。良輔が光家をかばったように、光家は決して愚鈍な人間ではなかった。宇佐使発遣でそのことが証明されたといってよいのである。前述の定家の「頗る不肖の身に過ぐ。是れ自然の人望か」は、不肖だと思っていた光家に対する、定家自身の驚きの言葉だったかもしれない。p160

 

第七章 「紅旗征戎非吾事」
1 八座八年
2 院勘を受く
3 承久三年の定家
定家にとっての承久の乱は、古典の書写を自分の使命であると自覚し、自分の生き方の出発点とする覚悟を促した戦さであったように思われる。p176

4 一条京極邸
5 院との訣別 

第八章 荘園と知行国
1 御子左家の家産形成
2 知行国主為家

 

第九章 子供たちの時代
1 光家と定修 
42歳で出家する光家
光家の九州下向
大災害から四年を経過した時点で、どれほど復興したかを確かめるために光家が仁和寺から派遣され、北部九州の状況を見て回ったのであろう。
このような大役を任されるまでの信頼を得られたのは、ひとえに光家の実直さゆえであった。p208-209

2 因子と為家
3 為家の家族
4 為家と関東

 

第一〇章 嵯峨の日々
1 嵯峨中院山荘
遁世隠棲の地としての大原と嵯峨
大原は本格的な遁世者のための土地であり、大原へ行くとはすなわち遁世を意味していた。
嵯峨は閑寂な雰囲気があり、隠遁の場というより、俗世とは少し隔たりを持つ、非日常の空間として受け止められ、求められたように思われる。p240

2 小倉百人一首

 

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藤原定家 (吉川弘文館)

2022-11-06 06:24:07 | ヨーロッパあれこれ

 

藤原定家
村山修一 著
吉川弘文館 発行
昭和37年9月25日 第1版第1刷発行
平成元年10月1日 新装版第1刷発行

はしがき
『明月記』のおかげで、定家ほど、生活の隅々までしられる歴史的人物は、近世以前においてはちょっと他に見出だし難い

1 御子左家の伝統とその周辺
藤原定家の生まれた御子左家は全盛期の摂関家から源を発しているだけに、気位も他の公家に比べて一段と高く、道長への敬慕の念もことに強いものがあった。p1

後拾遺和歌集 1086年
金葉和歌集  1124年
詞華和歌集  1151年
千載和歌集  1187年
この一世紀こそは公家にとっても誠に重大な政治的変転期であった。p8

 

2 青春時代
定家の日記に「紅旗征戎吾が事に非ず、陳勝呉広大沢に起り」
公家が日記をつける場合、中国の故事をひき、大袈裟に表現することは決して珍しくなく、そこには衒学的知識、権威の根源を中国に求めようとする意識がひそんでいる。
定家は特に感情の激しい人であるだけに、その使用も頻繁であり、またそこに定家特有の風貌がよく伺わえる。p37

3 九条家出仕
定家ほどに漢学的素養をもち、漢詩に得意な歌人も少なく、それはこの時期に九条家学風の感化が絶大であったためと、定家自身の強い感受性が巧みにこれにマッチしたことに原因があった。p59

定家の空想的世界はいわゆる「物語的詠法」によって得られる。
物語の一場面をとらえそれを脳裏にうかべて総合的・立体的に描き出し、みずからもその中に体験しつつある者として詠み出そうとする詠法。
定家はそのよりどころとして、国書では『源氏物語』漢籍としては『白氏文集』『文選』『漢書』『唐書』を愛読した。
定家の得意とした恋歌のごとき『源氏物語』の影響が大きかったに相違ないが、漢籍を好んだのは異国趣味がローマン主義昂揚に好都合だったからだ。p63

 

4 官途への執着
定家の子の為家
定家と違い、社交的で蹴鞠の上手だった。p79

5 新古今への道

6 思索と反省

7 後鳥羽院政

8 権力者と追従者

9 熊野御幸 
熊野御幸は全盛期の院政とは不可分の関係にある。
常に九重の宮厥奥深く君臨していなければならない天皇の地位から開放された上皇は、行動の自由・権力の乱用に対する非常な興味から盛んに各地へ御幸した。p167

 

10 荘園所領
中世公家の生活を支える第一の要素は荘園

傀儡は人形を舞わし諷誦をよくした遊芸団の一行
吉富荘に巡回し、農村で興行
一種の流民であるから、乱暴狼藉を働かれても賠償を要求することが出来ず、敬遠する外なかった。p207

兵庫県揖保郡新宮町にある越部荘
揖保川の水運を利用すればすべて舟のみで京都の南郊に達しうる。
『明月記』に定家少年の頃、越部荘からの贈り物に兎や小鳥があり、これらは公家が食うべきものではない、青侍にやれと父俊成に云われた思い出を記している。
俊成は晩年ここを定家ら三人に分割譲与した。p210

 

11 承久乱後の世相

12 子弟と所従たち

13 洛中洛外の住居

14 新勅撰前後

15 宗教観と自然観
平安末期、末法思想・無常思想が渦巻く公家社会の中で成人した定家は、強い宿命観に支配されていた。彼は特に彼の心を動かすような出来事を見たり聞いたり経験したりした場合、よく「末代」「末世」等の語を使用する。p333

16 病苦と晩年
定家の書写の理由
・老衰で立居が意の如くならなくなった時期でも多少の無理をおして出来る仕事であったから
・写本をつくることが好きだったから
・承久以後彼の家業としての歌道確立の意識が書写に拍車をかけたp369-370

 

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闇夜に浮かぶパリの凱旋門

2022-11-05 07:29:23 | パリの思い出

 

夜の闇に浮かぶパリの凱旋門です。
凱旋門というだけあって、ナポレオンがフランス軍の栄光を讃えるために1806年建築を依頼したそうですが、完成は1836年になってしまい、ナポレオンは既にこの世におらず、1840年葬儀時にご遺体が凱旋門をくぐったそうです。
この中央には無名戦士の墓があります。
フランス各地には、第一次、第二次大戦の戦没者慰霊碑が有りますが、凱旋門もフランス全体の、またパリという一都市における慰霊碑の役割を果たしているのでしょう。
昼間の堂々とした姿ではなく、闇夜にひっそりと浮かび上がる姿を見ると、ますますそういった一面を実感します。
画像だと街灯が、あたかも凱旋門に更なる光のめぐみを与えているかのように見えました。

 

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