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ジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

南薩鉄道の想い出

2011-10-20 08:12:19 | 日記
 先日の新聞に、「青森県十和田市にある十和田観光電鉄は、十和田市と三沢市を結ぶ鉄道路線(約15キロ)を今年度内に廃止し、バス路線に転換する方針を決めた。」と言う記事が載っていた。
 それによれば、「1922年に開通し、高校生らの通学の足として利用されているほか、十和田湖や奥入瀬渓流の観光鉄道としても人気があったが、昨年12月に開業した東北新幹線・七戸十和田駅(同県七戸町)が十和田観光の表玄関として機能し始め、客離れが加速した。
利用客は1970年度に約165万人を記録したが、少子化や人口減の影響で昨年度は約46万人だった。同社は沿線3市町に、設備投資費用など今後10年間で約5億2000万円の財政支援を求めていたが、今月に入って拒否された。とある。
 経営難を理由に鉄道が廃線する例は過去に何件もあった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、何とか残せなかったものかと思うと残念である。
 実は、自分の故郷でも住民の足となっていた私鉄路線がなくなったことがある。

 その私鉄とは、鹿児島交通が経営していた南薩鉄道である。
 南薩鉄道は大正3年に伊集院~伊作を開通し、その後順次線路を延ばして、昭和年には、本線となる伊集院~枕崎の約50㎞が完成させた。昭和30年代初頭までは枕崎および薩摩半島西側地域の重要な物流路線となっていたが、過疎化・道路の整備が徐々に進み、最盛期には一万人余りあった一日平均利用客数が、昭和47年度には4,000人程度、56年度には2,100人余りと激減するに至り、経営を逼迫する状況となっていた。そこに豪雨で線路が破壊されると言う災害も重なり、止むを得ず、昭和59年に廃線となった。
 昭和59年と言えば、日航ジャンボ機が群馬県山中に墜落した年の前年に当たる。
 当時、自分は日常の生活で南薩鉄道を利用していたわけではない。ただ一度だけ、幼少の頃、母に連れられて、薩摩湖(今は寂れたが、当時は遊覧船が走っており賑わいをみせた)に行った時に乗った。加世田駅から薩摩湖駅までのわずか数キロの乗車であったが、戦後の貧しい生活の中で鉄道に乗ること自体が贅沢であった。

 加世田駅は南薩鉄道の路線の中では、一番大きく昇降客も多い駅であった。当時関西に出稼ぎに行っていた父が、暮れに帰省する時に迎える駅でもあった。
 5歳下の弟が保育園に入る頃から20年間、父親は出稼ぎを続けてきた。弟にとって父親は普段は身近にいない存在であった。その分母親の躾は厳しかった。毎月の仕送りが届くと、母は必ず子供一人1枚の便箋に父への手紙を書かされた。
 年に一回しか会わなくても、毎月手紙をやり取りすることで、辛うじて家族としての繋がりを維持できたのかもしれない。でも、久しぶりに会うのはなんだか恥ずかしく妙な気分であった。

 自宅から加世田駅までは、バスで約30分かかる。でも遅れてはいけないと一時間も早く駅に着いて、寒い待合室で父に到着を待ったものだ。下りのディーゼル車が到着する度に、改札に行っては父親の影を捜した。子供たちの楽しみは、駅前の食堂でラーメンを食べること、スポーツ用品店でグローブやサッカーボールを買って貰うこと、そして自宅に帰るのにバスではなく、タクシーで帰ることだった。
 都会で食べ飽きていたであろう父はラーメンなんぞ食べたくなかったかもしれない。タクシーが集落の細い道を走ると、井戸端会議しているおばさんたちが我々の乗っているタクシーを珍しげに見たものだ。

 廃線後、加世田駅は取り壊され、現在はバスターミナル機能のみ残している。車輛の修理場は、記念館となり、当時走っていたディーゼル車が残されている。
 廃線を知ったのは、廃線の数年後のことである。まだインターネットが普及する前のことだったので、地方の一部赤字路線の廃線のニュースなどすぐに伝わることはなかった。また一つ故郷が消えてしまったかと、寂しさだけが残ったことを覚えている。(平)


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株式会社ジェイエスピー
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