やっぱり幸せ♪

日常の色んなこと、特に発達障害を持つ息子との素晴らしき日々を綴っていきたいと思います。

父のお陰

2018年08月04日 | 高次脳機能障害の父と・・・

鈴木大介さんの「脳は回復する 高次脳機能障害からの脱出」を読みました。

 

作者は脳梗塞を発症し、高次脳機能障害を持つようになられた方です。

元々ルポライターをされていて、「最貧困女子」など社会的困窮者を題材にした本を書かれています。

 

その彼だからこそ、高次脳機能障害を負って、それゆえの様々な苦しさを文章に表し、自分で自分をコントロールできないもどかしさ、理解してもらえない辛さ、それをかつて取材された社会的困窮者の様子に重ねて考察されています。

 

私の父も大腸癌の手術後に脳炎を発症し、高次脳機能障害を持つようになりました。

それから約3年間、回復を願って父と関わってきましたが、突然変わり果てた父に何が何だか分からず混乱する毎日でした。

 

「ああ、こういう風に感じていたんだ。」

「こんなことに困っていたんだな。」

と、父を思いながら読んでいました。

 

鈴木さんが言葉にならないあまりの辛さに、「みゃああああ」という意味不明な叫びをあげて奥様のもとに駆け込むと、「そうかあ、辛いよね」と、奥様が背中をなでてくれるうちに落ち着いていく・・・。

 

なんか涙が出てきた。。。

 

鈴木さんの奥様は発達障害を持ち、その苦しさからリストカットを繰り返した時期もあったそうで、そんな奥様だからこそ鈴木さんの苦しみをそのまま受け入れ、鈴木さんも障害を受容し乗り越えていくことが出来たのだと思います。

 

私には出来なかった。。。

 

「こうあるもの」

「こうした方がいい」

「気の持ちよう」

「こうしたら楽なのに」

父のことを思ってはいたけれど、常識や自分の思いの中でしか考えることが出来ませんでした。

 

「脳コワさん」(奥様命名の、精神障害や発達障害・認知症なども含めて高次な脳機能に不全をきたす人々のこと)の苦しみは、目に見えなくても、理解し辛くても、「苦しい」と訴えるときは、本当に苦しんでいるのです。

たとえ言葉に表すことが出来なくても、苦しんでいることがあるのです。

 

まずは、父の苦しみをもっと思いやろうとするべきでした。

 

自分が無意識に高次脳でコントロールしていることは、それが出来ないときの不自由さや苦しみはなかなか想像することが出来ません。

それは、単に何かが出来なくなるだけではなく、不具合を感じているような、ざわざわしたり、イライラしたり、落ち着かなくて、集中出来なくて、とてつもなく不安な気持ち・・・そう、息子の不安な様子にとてもよく似ているのです。

 

息子のカウンセリングの先生が、「不安やね」とか「こんなことが心配やったんやね」と、不安な状態を受け入れる言葉かけをした方がいいと言われたのは、きっとこういうことなのだと思います。

 

鈴木さんがユーモアいっぱいに紹介する高次脳機能障害による「困ったこと」は、父もそうでしたが、驚くほど息子にも当てはまり、少し息子の気持ちに近付けたような気がしました。

 

多分、父のことがあって、私はこの本を手に取ったのだろうし、何より父と過ごした3年間があったから、息子の理解できない行動にも「そういうこともあるんやろな」という気持ちで向き合うことが出来ました。

  

お父さん・・・。

 

お父さんの時はいきなりヘビーな経験で、心の準備が出来ないままどうしたらいいか分かれへんかったけど、お陰で〇〇にはなんとか対応してあげられてる。(かな?)

早くに支援機関に繋がることが出来たのも、お父さんのお陰や。

もっともっとお父さんのこと、分かってあげられたらよかったんやけど、私には3年は短すぎて、未だに本を読んで「そうだったのか~!」って、思ったりしてる。

 

今、私が頑張れるのはお父さんのお陰やで。

 

ありがとう。。。

 


生きてて良かった!

2015年06月16日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父が亡くなったのは、息子が小学1年生の11月でした。

 

息子は、通常学級に在籍し、週1回通級教室に通って、苦手なところをフォローしてもらっていました。

2年生になってからは、大阪府の行っている「こども発達支援センターSun」の療育に参加させてもらうことになりました。

Sunでは、PEP-3の検査によって、息子の苦手を明らかにし、それに応じて、月3回の療育+月1回の保護者指導を1年を通じて受けることが出来ました。

担任の先生、通級の先生、Sunの先生方と連携を取りながら、悩んでは相談して・・・の繰り返しで、親も子も一歩ずつ進んできました。

 

父の一周忌の準備をしていた時です。

ふと、今私が、多くの人達に支えられながら、息子の障害と正面から向き合えるのは、父のお陰だと思いました。

 

父の突然の病。高次脳機能障害が残り、変わり果てた父に、私はどうしたらよいのか途方にくれるばかりでした。

無力だった私を支え、励ましてくれた人達。父がもたらしてくれた多くの出会いが、私自身をも変えてくれていたのです。

 

実は、私は、5歳の時に両親の離婚で実の母親と別れなければならなくなり、それ以来、父にも育ての母にも、「甘える」ということが出来なくなってしまいました。

もちろん、育ててもらって恩あるのは当然なのに、「親の力なんか借りるものか」とばかりに、以前の私は肩肘を張って生きていました。

父自身、自分の力で生きてきたせいか、「努力すれば、自分の力で何でも出来る」と、私達子どもに対しても、出来ないことを責めることはあっても、出来る方法を一緒に探してくれるようなことはありませんでした。

 

人に頼ることが大嫌いだった父が、自分では何もできなくなって、努力だけではどうすることも出来ない障害を持つようになって、私を多くの人達と結びつけ、その人達の力を借りながら困難を乗り越えていくということを教えてくれたのです。

そう思った時、私の心の奥にあったわだかまりがとけて、生まれて初めて、父に心から感謝することが出来ました。

 

父が脳炎を患ってからの3年余り。苦しくて大変だった時間が、かけがえのない大切な時間に変わりました。

その大切な時間を生き抜いてくれた父の遺影に涙があふれ、

「ありがとうございました」と伝えた時、

「生きてて良かった!」

そう、父の声が聞こえたような気がしました。

 

そして、父から孫である私の息子への贈り物。

そう遠くない未来に、息子に伝えるでしょう。

 

障害を克服するということは、障害をなかったものにすることではなく、一つ一つの困難に対して、よりよき対処方法を探し出し、障害に負けずに生きていくことだと教えてくれました。

 

困難を克服しようと、懸命に挑戦する。苦しい時も、悔しい時も、一歩一歩進んでいく。

だからこそ、障害を持って生きる人たちを「チャレンジド」と呼ぶそうです。 

 

息子よ、これから先、楽しいことばかりでなく、辛いこともいっぱいあるでしょう。

たとえそれが、どんなに最低・最悪だと思えるときがあったとしても、いつか必ず、全てが意味のある大切な時間に変わっていく。

 

負けるな! 希望を持て!! 


父のそれから・・・9

2015年06月15日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父の死は、あまりにも突然やってきました。

 

その10日ぐらい前から、私は、起き上がれないくらいの激しいめまいに襲われ、「前庭神経炎」になってしまいました。

ふらふらで、吐きそうで、実家に帰ることが出来ません。

 

ケアマネージャーさんに連絡すると、

「お父さんのことは心配せんでいいから、早く治してね」と言って、ヘルパーさんに、毎日、朝夕入ってくださるよう手配してくださいました。

父にも、私の病気のことを説明し、無茶しないようお願いしました。

 

父は、私に心配かけないようにと思ってくれていたのか、お酒も控えてくれ、何事もなく一日一日を過ごしていました。

 

主人が休みである土曜日に、実家に連れて帰ってもらった時にも、父は、

「心配いらんからな~」って、ヘルパーさんと一緒に笑っていました。

 

それなのに、その2日後の11月26日、父は、お風呂で、突然亡くなってしまいました。

心筋梗塞でした。

 

弟からの連絡で、私が実家に駆けつけた時には、警察が検死をしているところでした。

 

なぜ? どうして?

私は、いつかは、父もこの障害を乗り越え、「生きてて良かった」と思えるような生活が出来るようになると信じて、それを目指して頑張ってきたのです。



それなのに、父が死ぬなんて・・・?

信じられない!!

道が途中でぷっつり消えてしまったようで、私は、どう考えればいいのか分かりませんでした。

 

私が、倒れてしまったから?

もう、限界だと思ってしまったから?

お酒を管理できる施設に入るのが嫌だったから?

 

ぐるぐると、色んなことが私の頭をよぎりました。

 

実家に戻ってこなかったら、父は、死ななかったのでしょうか?

でも、もし、高齢者住宅のお風呂で亡くなっていたら、父を実家で生活させてあげられなかったことを後悔することになったのでしょうか?

胸が苦しくて苦しくて、潰れてしまいそうでした。

 

でも、私よりも、亡くなっている父を見つけた弟は、どんなにショックだったでしょう。

同じ家に住んでいて、父に何かあったらどうしようと心配し続けてきた弟は、どんな気持ちで通報してくれたのでしょう。

「時期尚早」と、父の自宅での生活を反対していた弟は、毎日不安と戦いながら、それでも、自分の出来る精一杯で父や私を支えてくれていました。

 

こうして、父の自宅での生活は、1月26日からその年の11月26日まで、たった10ヶ月で突然幕を降ろしたのでした。

 


父のそれから・・・8

2015年06月10日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父が自宅で生活するようになって、一番困ったことは、お酒を飲むようになったことです。

 

父が飲んでいた脳の薬は、お酒を飲むと効果が出すぎるので、原則的にお酒は飲まないよう注意書きがされています。

でも、父は大好きなお酒を飲みたがり、医者の許可を得て、1日コップ1杯だけ飲むようになりました。

高齢者住宅では、夕方に、コップに入れたお酒を部屋に持ってきてくださり、父は、お風呂上がりの楽しみにしていました。

 

自宅に帰ってからも、私が、曜日を記したコップに父のお酒を準備をしていました。

それが、高齢者住宅との契約が切れた4月頃から、父は、自分でお酒を買いに行き、約束のコップ1杯以上のお酒を飲むようになってしまいました。

 

決められた以上のお酒を飲むと、父はわけが解らなくなってしまいます。

物に当たったのか、父が倒れたのか分かりませんが、大きな音がして、弟から連絡が来ます。

私が駆けつけると、グラスが割れ、ぐちゃぐちゃになった部屋の中に、父が失禁したまま倒れています。

そればかりか、ストーマ(人工肛門)を外そうとしたのか、汚れた手で部屋のあちこちを触っていて、部屋中がうんちだらけになっています。

 

父は、お風呂上がりにお酒を飲むので、そんな時は、夜中に実家に駆けつけ、父を着替えさせ寝かせた後、弟と二人で部屋を片付け、私は、夜明け前、息子が目を覚ます前にやっと自宅に戻ることが出来るのでした。

 

お酒を飲みすぎた次の日、父は、一日中調子が悪そうにボーっとしています。

「コップ1杯以上、お酒を飲んだやろ!」と言っても、父は、「そんなはずない」と首を横に振ります。

「お父さんが買ってきたお酒やろ!」と、証拠のお酒のパックを見せると、父はきょとんとしています。



どうやら、父には記憶がないようです。

それでも、父は、買い物に行っては衝動的にお酒を買ってしまい、私が気付かなければ、それを飲んで、また倒れるの繰り返しになるので、私は、毎日、実家を家探しし、お酒を見つけては処分していました。

そこまでしても、父は、いつの間にかお酒を買ってきて飲んでしまうのです。

 

「もう、お酒自体をやめよう」と、何度も説得しました。

でも、父は、「お酒を飲まんな、眠られへんのや」と、断固として拒否します。

過去も未来も繋がらない「今」しかない父の、不安でやってられない気持ちが、お酒を欲するのでしょうか。

 

「でも、お父さんの体が心配やから、絶対に、お酒はコップ1杯だけ! これ以上、勝手にお酒買って飲むんやったら、家での生活は無理やで。ケアマネージャーさんに、施設で生活するよう、探してもらうよ」

 

私が父に言い聞かせたことは、父の脳に、いや、父の心に残っているのでしょうか。

お酒をやめられないのは、高次脳機能障害のせい?



父は、無茶苦茶お酒を飲むわけではありません。

ただ、ほんの少し飲む量が多かっただけでも、脳が異変を起こしてしまうのです。

そういう脳になってしまったことを理解できない病識の欠如。約束を覚えられない記憶障害。

それとも、衝動の抑制がきかないせい? 

 

冷蔵庫や玄関のドアに張り紙をしたり、父の顔を見るたびに、「お父さんの体のためやで! お酒はコップ1杯まで!」と、念を押したりするのですが、それでもなお、父は、お酒を買って飲んでしまうのです。

 

息子が書いてくれた張り紙

 

私は、ケアマネージャーさんに、父が入れる施設を紹介してくださるようお願いしました。

 


父のそれから・・・7

2015年06月09日 | 高次脳機能障害の父と・・・

高次脳機能障害を持つ父が自宅で生活することを、私が決断したのは、父が「なやクリニック」の高次脳機能デイケアで訓練を受け、納谷先生からも、ヘルパーさん達のサポートを受けながら、自宅で生活することは可能だと言われたからでした。

また、高齢者住宅での生活も落ち着き、食事などの簡単な家事も自分でこなすようになったからでもありました。

何よりも、実家で生活している弟の存在があったからかもしれません。

 

弟は、高校生の時に不登校になり、それから色んな経過がありましたが、いわゆるひきこもり状態のまま現在に至っています。

その理由は単純なものではなく、簡単に説明できるものでもありません。

ただ一つ言えることは、彼は、私にとって大切な大切な家族であるということです。

 

その彼は、父が実家に帰ることに強く反対していました。

一言で言えば、「時期尚早」と。



確かに、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、リハビリの先生が一緒にいてくれる時間は限りがあり、自由度の高い自宅での生活では、衝動的に行動したり記憶がしっかりしないというのは、大きな不安材料です。

でも、高齢者住宅で生活していても、これ以上障害自体の回復は望めず、自宅での生活の中で新たに生活スキルを積み上げていくしかないと、私は思いました。

 

弟は、「自宅での(父の)生活に一切関与しないし、責任も持てない」と言い、事実、私が実家にいない時に、弟が部屋から出て父と一緒にいることはありませんでした。

それでも、父の様子がおかしい時には、すぐに私に連絡をくれるので、私は、随分助けられました。

 

例えば、父が、セールスマンを自宅に上げ、話しこんでいるとき。

父は、3回も、色んな業者と太陽光発電の契約を結んでしまいましたが、弟のおかげで、早期に解約することが出来ました。

父が車に乗っていることも、弟が何かおかしいと教えてくれたので、問題が起きる前に知人に車を預かってもらうことが出来ました。

 

また、父が畑仕事をしていて、裏庭の崖から落ちたときも。

父は、自分で救急車を呼び、病院に運ばれましたが、その事実を弟から聞き、いち早く病院に駆けつけることが出来ました。

幸い、父は鎖骨の骨折だけで、3週間ほどの入院ですみました。

 

弟の言うとおり、「時期尚早」だったのでしょうか?

でも、万全の状態になることが望めないなら、いつ自宅で生活できるようになるのでしょう。



父が自宅に帰ってから、私は、いつも、これで良かったのかと悩みながら、父が無茶しないかと心配し、気の抜けない生活を送っていました。

 


父のそれから・・・6

2015年06月03日 | 高次脳機能障害の父と・・・

回復期病棟を出てから1年9ヶ月の間、父は、高齢者住宅で、リハビリを兼ねての生活を送ってきました。

 

そして、64歳の誕生日を自宅で迎えられるよう、前日の1月26日、ついに父は実家に戻ってきました。

脳炎により危篤状態になったのが、平成21年10月、あれから2年と3ヶ月余りの月日が流れていました。

 

父が実家で生活出来るのか見極めるため、3月まで高齢者住宅の契約を続けることにしましたが、実家でも良いケアマネージャーさん、ヘルパーさん、訪問リハビリの先生に恵まれ、順調に生活はスタートしました。

ただ、高齢者住宅と違って一人でいる時間が長いため、私は、出来るだけ毎日、実家に帰るようにしました。

 

父は、訪問リハビリの先生と一緒に、裏庭に畑を作ることにしました。

先生に野菜の苗をいただき、育て方を教えてもらい、一緒に土から作っていました。

元々、凝り性の父でしたが、本を読んだりしながら、本格的に野菜を作り始めていました。

 

土など必要なものは、私と一緒にホームセンターに買いに行っていたのですが、ある日、大量に土が増えていることに気付きました。

父にどうしたのか聞くと、「畑を増やすから、車で買いに行ってきたで」と、事も無げに答えました。

 

車の鍵のある場所も、運転の仕方も、ホームセンターの道順も、全く問題なく覚えていて、普通に車を運転して、買い物に行ってきたようです。

 

「なやクリニック」の先生から、兵庫に脳損傷者が運転可能であるかテストをしてくれるところがあると聞いていたので、いずれはそこでテストをしてもらおうと思っていたのですが、まだまだ、何かが起こったときに、通常の反応が出来るとは思えません。

 

「手も足も少し麻痺が残ってるし、脳も、もっともっとこれから良くなっていくから、もうちょっと我慢して!今、無理して事故を起こしたら、お父さんの命もそうやけど、相手も、命を落としたり、高次脳機能障害になるんやで。お父さんが、その辛さ、一番分かってるやろ!」

 

私は、父を説得し、車を知人に預かってもらうことにしました。

私が、しょっちゅう実家に来ているし、どうしてもの時はタクシーを呼べばいいのですが、本人はものすごく不服そうでした。

「ちょっとした買い物に行きたいだけや」というのです。

田舎なので、歩いて行くのも遠いというので、がっちりとして安定感のある電動自転車を買いました。

リハビリの先生に練習してもらい、近所限定で乗ってもらうことにしました。

 

運転のように長年身に染み込んだものは、しっかり体が覚えているのですね。

通い慣れた実家の近くの道も、迷うことはないようです。

 

自宅に帰ると、出来ることがいっぱい出てきます。

そして、出来そうに思っていたことが、出来なかったりもします。

 

父は、実家のコーヒーメーカーのフィルターに、コーヒー豆を挽いたものではなく、インスタントコーヒーをセットして飲んでいたのです。

米びつからボタンを押してお米を計る方法が分からなかったり、便利な電化製品の使い方は、全く分からなくなっていました。

分からないことが分かれば、一つ一つ手順書を作り、そばに貼ってあげれば出来るようになります。

ただ、父は、分からなかったこと、困ったことを覚えていることが出来ないので、その時そばにいなければ、私が気付かないこともたくさんあったと思います。

 

それでも、父は、自宅での生活を楽しんでいるように見えました。


父のそれから・・・5

2015年06月02日 | 高次脳機能障害の父と・・・

高次脳機能障害を持つ父は、高齢者住宅を出て自宅で生活することを目指し、食事を自分で作るようになりました。

 

まず、朝食は全て自分で準備し、夕食は、火・木だけ自分で作ることに決めました。

やはり、栄養面が気になるので、昼食と月・水・金・日の夕食は、栄養士さんが献立を考えてくれる施設の食事を食べてもらうことにしました。

土曜日は、私たち家族と一緒に食事をすることが多く、後に、訓練を兼ねて、土・日は自宅で過ごすようになりました。

 

右手に少し麻痺が残っているので、何度か包丁で指を切ってケガをすることもありましたが、食事を作るという仕事は、父の張り合いになりました。

また、食事を作るために、献立を考えたり、買い物に行ったり、作り方を勉強するために本を読んだり、実際に作ったり・・・と、どれもが、脳を活性化する効果的なリハビリにもなっていたと思います。

 

父が自宅で生活するために、まず、介護保険を使って、実家の玄関や階段、お風呂に手すりを取り付けました。

生活している高齢者住宅が大阪で、実家は和歌山だったので、「一時帰宅のために介護保険は使えない」と、なかなか認可がおりませんでした。

けれど、自宅で生活できるよう訓練するためには、手すりがないと危ないので、絶対に必要だとお願いし、取り付けていただくことが出来ました。

 

土・日に家に帰ると、「やっぱり、家は落ち着くな~」とくつろぐ父ですが、夜になると、

「そろそろ家に帰ろか~」と言うことがあります。

父の言う「家」とは、和歌山に引越す前に住んでいた、昔の我が家のことです。

 

「帰ろう」と一度思ってしまうと、父は、そのことが頭から消えずに、そわそわ落ち着かなくなってしまいます。

「ここがお父さんの家だよ」と説明しても、余計に混乱して機嫌が悪くなるので、

「もう遅いから、明日にしようよ」と説得します。



不思議なことに、父は、納得したことについては、すぐに忘れてしまうのです。

翌日になって、私が、「お父さん、こんなこと言ってたで~」と言っても、

「そんなん言うたか~???」と、 きょとんとしていました。

 

家に帰る度に、父は、押し入れや引き出しという引き出しを開けて、部屋中ゴソゴソと何かを探し回っていました。

以前帰ってきた時に探した場所であっても、記憶がないので、もう一度探し回ります。

永久に続くかのような作業の中で、父は、見つけた物から、自分が何者なのか探し出そうとしているように見えました。

 

父は写真を撮るのが趣味で、病気前には、1年かけて日本を一周し、たくさんの写真を撮っていました。

その写真をA4サイズで大きく印刷し、ファイルにはさんで父に見せましたが、自分で撮ったことも、撮った景色も全く覚えていませんでした。

それでも、家にあるたくさんのカメラを見て、懐かしそうに手に取り、写真を撮るポーズをとっていました。

 

残念ながら、父はカメラの操作を覚えていませんでしたが、「説明書を読んだら分かる!」と、カメラを高齢者住宅に持ち帰りました。

 

そのカメラで父が撮った写真は、最初は何を撮っているのかよく分からないものばかりでした。

あまりにも拡大して撮った写真が多くて、何を撮ったのか、まるでクイズのようでした。

しかも、右手の麻痺のせいで、どうしてもシャッターをうまく押せずに、ぶれてしまうのです。

 

それでも、父は、こつこつと練習を重ねていました。

「幼稚園最後の運動会には、じいじも見に来てね♪」と、約束していたので、息子の勇姿を撮ってやろうと頑張ってくれていたのです。

作業療法士さんと行く散歩にも、カメラを持って出かけていたようでした。

 

その年の運動会は、感慨深いものになりました。

息子が年少さんの時に父が病に倒れたので、よくぞここまで回復して、運動会を見に来てくれたという思いと、年長さんになった息子の凛々しく成長した姿。

涙腺が緩みっぱなしの一日でした。

 

 父が撮ってくれた写真

 


父のそれから・・・4

2015年05月27日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父は、「なやクリニック」の高次脳機能デイケア『ばあど(B.I.R.D)』に、参加するようになりました。

 

私の家から父の住む高齢者住宅まで車で約40分、そこから「なやクリニック」まで約40分、「なやクリニック」から私の家までも約40分。

ちょうど正3角形を描くような感じで、父を「なやクリニック」に送っていき、帰りは逆向きで3角形を辿っていきます。

 

『ばあど(B.I.R.D)』については、いただいた「しおり」より、目標とプログラムを抜粋すると、

<目標>
 脳損傷で高次脳機能障害のある方が、家庭での生活を円滑に過ごせるよう、また、社会復帰(就学・就労)できるよう支援します。
 具体的には、人との関係作りが円滑に行える、楽しみが増やせる、障害の代償手段を身に付ける、認知機能を高める、日常生活の動作ができるなどのことを目標に行います。原則として、期限は1年とします。

<プログラム> 
 曜日によって、内容は少し異なります。基本的な内容は・・・

AM ・1週間のトピックスを話す練習、聞く練習、質問を考える練習
    ・ホームプログラムの立案と実施状況の確認
    ・認知課題(注意と記憶など)

PM ・各自の目的に応じた個別課題
    ・芸術・音楽・ゲーム・調理・スポーツ・川柳など
    ・掃除・お茶タイム・一日の振り返り

 その他、外出の企画や実施、イベントの企画なども行います。

 

父を送ったついでに、診察の予約を入れてもらい、困った出来事を相談にのっていただくとともに、デイケアにもフィードバックしてもらっていました。

 

先生との会話を重ねていく中で、私は、少しずつ、父の障害を理解・受容できるようになっていったのだと思います。

その最たるは、高次脳機能障害は、治すものではなく、うまく付き合っていくものだということでした。

そのために、何を困っているのか、私自身が、父本人が、まず気付くことが大切だということでした。

 

父自身は、病識の欠如(自分の病気への認識がない)により、何でも出来るつもりでいるのですが、一つ一つ出来ないことを明らかにし、そのためにどうしたらいいのか、代償手段を身に付けていかなければなりません。

また、何かがうまく出来ないとかそれ以前の、父の持つ生き辛さを理解することが大切でした。

 

検査で分かった父の障害の実態の他にも、

意欲・発動性の低下により、自ら物事を始められない

易疲労性(いひろうせい)により精神的に疲れやすい

聴覚過敏のために、混乱・疲労しやすい

 などの困難があることも分かりました。

 

リハビリではどうにもならないことを幾つも抱えて、それでもなお、父は、自宅で生活することを強く望んでいます。

父のために、どうすればいいのだろうと、思い悩む日々が続きました。

 


父のそれから・・・3

2015年05月25日 | 高次脳機能障害の父と・・・

息子を高齢者住宅に住む父の部屋に連れて行くと、決まって、

「じいじ、ベッドに寝て~」

と、父を電動式ベッドに寝かせて、リモコンを操作し、ベッドの高さを変えたり、体を起こさせたり、足を上げさせたりしながら、父に遊んでもらっていました。

また、リクライニングの椅子がくるくる回るのが珍しかったのか、父や私を座らせ、くるくる回して、私達が「やめてやめて~!」というのを面白がっていました。

父は、息子をとても可愛がってくれ、買い物に行く度におもちゃやお菓子を買って、息子に渡すのを楽しみにしてくれていました。

 

そんな父でしたが、「家に帰りたい」という思いが募り、そのことが頭から離れなくなり、イライラするようになってきました。

「いつまでこんなとこに閉じ込めとくんや!」

「家に帰らせてくれ・・・」

 

私としては、自宅よりもここで生活する方が安心なので、父がより快適に過ごせるようにと心を砕いてきたのですが、父には私の思いは通じませんでした。

それなら、なんとか父が自宅で生活できるように、高次脳機能障害が回復するようにと、本を読んだり、講演会に参加したり、インターネットで検索しながら情報を集めていました。

そして、たどり着いたのが、高次脳機能外来の「なやクリニック」でした。

 

それまで、いくつかの病院に父のリハビリをお願いしてみたのですが、回復期訓練を終え、また、病気の発症から時が経っていることもあり、リハビリをしてもこれ以上の回復は望めないと断られていました。

最初にかかった急性期病院には、大腸癌手術後の定期検査もあり、脳神経外科にも通い続けていたのですが、薬を処方してくれるだけで何のフォローも望めません。

病気はすでに回復し、障害はここで診るものではないというように感じられました。

 

そんな中で、すがるように「なやクリニック」を受診し、納谷先生に私の不安・父の不安を聞いていただくことが出来ました。

そして、神経心理学的検査によって、父の障害の実態を次のように明らかにしてくれました。

 

注意障害・・・集中が続かない。二つ以上のことを同時進行する時に誤りが生じやすくなっている。

記憶障害・・・逆行性健忘障害あり。日付や場所などの見当識は良好だが、新しく覚えることは難しい。また、記憶する際に、大筋は理解して、その場は覚えていられるのだが、何か作業が入ったり、出来事が起こると忘れてしまうことがある。

遂行機能障害・・・次々に切り替えていくこと・新しい問題に直面した時に解決すること・効率よく物事を進めることが良好。正答や規則を覚えておくことが難しいという記憶障害の影響、行動を修正する能力や衝動性の抑制が低下している可能性あり。

 

また、父の希望する自宅での生活を目指して、週1回、10時~4時まで、ここで「高次脳機能デイケア」に参加することになりました。

病院を転院し、これまで服薬していた薬もなやクリニックで処方してもらえるようになり、デイケアと合わせて、精神障害者自立支援の公費負担が受けられるようになりました。

それによって、父の場合、月5000円の負担で済むようになりました。

父の薬代はかなりの負担だったため、自立支援のことをもっと早くに知ることが出来れば・・・と思いました。

 

さらに、「脳損傷協会」という家族会に参加するようになり、同じ悩みで苦しむ人の話を聞いたり、父以外の当事者の思いにも触れることが出来ました。

 

多くの人達に支えられながら、父のリハビリが進んでいったのでした。 


父のそれから・・・2

2015年05月22日 | 高次脳機能障害の父と・・・

回復期訓練終了後に、介護サービス付きの高齢者住宅に入るにあたって、要介護認定を申請することになりました。

 

父は62歳だったため、まだ介護保険の使える年齢ではありませんでした。

ヘルペス脳炎は特定疾病にあたらず、「初老期の認知症」として、「要介護2」と認定してもらうことが出来ました。

 

今ほど高齢者住宅が建てられる前だったので、私の家から40分、実家からは、1時間20分もかかるその住宅は、大阪で一番初めに出来た高齢者サービス付きの賃貸住宅だったそうです。

 

居室は、40.00 m²と広く、トイレやお風呂・キッチン・ベランダまでついていて、普通の賃貸住宅といった感じでした。ここでの暮らしを出来るだけ快適にと思い、私は、電化製品や家具、座り心地の良い一人用の椅子などを父と一緒に買い揃え、ケアマネージャーさんと介護のプランを作りあげていきました。

 

食事は、3食調理師さんが作ってくれ、ヘルパーさんが家事をしてくれ、週に2回デイサービスに通うという具合でした。
お風呂も、共同の大きなお風呂は嫌がるので、居室のお風呂に入るのを見守っていただき、ストーマを変えているか声掛けでチェックしてくださいます。

また、看護士さんの巡回があり、2週間に1回は医師の診察も行われていました。

 

でも、そんな暮らしは、父にとっては、満足のいくものではありませんでした。

 

デイサービスは、とにかく疲れるようで、具合が悪くなり、施設で寝込んでしまうことも多いようでした。

居室では、いつも一人用のリクライニング椅子でうつらうつらとしていて、テレビも、聴覚過敏のせいか疲れるようで、あまり見ようとしませんでした。

部屋では何もせず、思いついたように外に散歩に行きたがるのですが、右手右足に麻痺がある上、記憶障害があるので、一人で行かせるわけにはいきません。

 

そこで、デイサービスを週1回にし、買い物の同行をお願いして、ヘルパーさんと一緒に買い物に行くようになりました。また、訪問介護で作業療法士さんに散歩や体を動かすリハビリをお願いしました。

念のため、ココセコムの契約をし、携帯とセットで持ち歩くようにしてもらいました。



人との会話が1番の脳のリハビリだと聞いて、私は、1日おき+日曜日に父を訪ねるようにしました。

簡単な脳トレのドリルをコピーして、クリアファイルに1枚ずつはさみ、父に1日1枚を課題にして、私が答え合わせをするようにしていました。

 

父は自分でトイレに行けるのですが、失禁することも多いのでリハビリ用のおむつをしていました。失禁しても着替えなかったり、汚れたおむつを押し入れやタンスに入れてしまうことがありました。

全く障害を感じさせないほどしっかりしている時と、そうでない時の差が激しく、私は、戸惑うとともに、不思議な感じがしました。

 

ただ、高次脳機能障害によくみられる怒りっぽさはなく、病気前よりもかえって穏やかになった気がしました。

父は、買い物に行く度に同じ品物を買ってしまい、部屋に3つも4つも増えていくのですが、私が、「お父さん、またこれ買ってきたん? 同じの、たまってるで~!」と言うと、ぺろっと舌を出し、バツが悪そうに微笑みます。

「しゃあないなぁ・・・」と、こっちまで笑顔になりそうな感じで・・・。

 

病気前の父は、無口で、いつも仕事や自分の趣味に没頭しているイメージがありました。

60歳で定年退職した後も、1年かけて、車で一人、日本一周の旅に出かけていました。

人に頼ることが嫌いで、「自分のことは自分の責任で好きにしろ」という感じだったので、私もそんな父に、進学も就職も結婚も、何一つ相談したことがありませんでした。

 

だから、今まで見たこともない父の人懐っこい笑顔を見ると、とても切ない気持ちになりました。

これが、父の第2の人生なんだと思いました。