第二次世界大戦も終わり次第に落ち着きを取り戻し
平穏な日々が続くようになりました。しかし、食糧難が続くようになり、当時中年のおばさんは大風呂敷に反物を入れて背中に担ぎ、家から家を訪問販売をされていました。また自転車にトロ箱を積み、魚を売りに来られるおばさんもいました。そうした訪問販売人が来られると祖母や両親は家に招き入れ、食事をさせて親切にする姿を思い起こします。祖母や両親は、早くから家は柿やみかんを栽培しており、収穫にいくと、「振り返ってみてはならない。取り残しは恵まれないひとたちのものだから・・・」と、教えられたものです。稲も「仮の残し」を振り返らないように、教えられました。
また、祖母は畳裏の「こも編み」を畳屋さんに依頼され、「こも編み」が日課で、私はそのお手伝いもしていました。するとご褒美に飴玉をいただくのが、うれしかったものです。
また、南西向きの大きな段々畑がありそこでさつま芋栽培をし、澱粉工場に出荷していました。当時家には大きな壺に「芋飴」があり、その飴を箸に丸めて食べていた姿も思い起こします。
当時楽しみだったのは、「にし野の禿げの峠を歩いて超え」て、隣町の母の実家の春の祭りや秋の祭りに連れて行ってもらえることでした。母のご両親はとても優しい人で、いつもたくさんのご馳走を作ってくださり、そのご馳走を食べるのが楽しみでした。帰る時には3段重箱にご馳走を一杯入れてくださり、持ち帰って家で食べるのも楽しみでした。
幸いにも私は食料難を知る機会はありませんでした。しかし、4歳を過ぎると親の手伝いで農作業に進んで行っていたのも思い起こします。薩摩芋や里芋堀や、みかんや柿の収穫、稲刈りは腰が痛かったのですが楽しい思い出になりました。
皆様方は、幼いころの思い出は如何でしょうか。
近くの畑の「ネギ坊主」
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