醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   85号   聖海

2015-02-08 12:14:02 | 随筆・小説

   「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」 この句に季語はあるの、それとも無季の句なの

華女 「おくのほそ道」に載せてある湯殿山で芭蕉が詠んだ句に季語はあるのかしらね。
句郎 「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」。この句の季語は「湯殿」、季は夏らしいよ。
華女 私が持っている歳時記には載っていないわよ。
句郎 歳時記にもいろいろあるからね。山形県内で出回る歳時記には夏の季語として掲載されているらしい。
華女 季語は地方によって違うの。
句郎 日本は南北に長い国だから地方によって季語が違うということは良いことなんじゃないかな。
華女 元禄時代の出羽地方では羽黒山、月山、湯殿山に詣でる人々が多かったのね。
句郎 役小角(えんのおづの)が開祖だと云われる修験道は9世紀ごろから密教と結びつき奈良時代に隆盛を極めた仏教の改革が始まった。ちょうど漢字から仮名文字が生まれ、仮名文字で書かれた源氏物語が誕生する。ここに国風文化、日本独自の民俗文化が広まっていった。
華女 季語「湯殿詣」と関係があるのかしら。
句郎 もう少し、我慢してくれないかな。文学の世界で日本独自の文化として源氏物語が生まれたように平安時代になると中国から入ってきた仏教が日本化していく。それが修験道と結びついた仏教、山岳仏教としての密教なんだ。これは同時に神仏習合でもあった。
華女 まだだいぶ長そうね。眠くなってきそうだわ。
句郎 つれないこと言うなよ。日本に古くからあった宗教思想と中国から伝わった仏教とが融合することによって外国伝来の宗教が日本の宗教、仏教になった。だから日本の密教開祖の一人、空海は弘法大師さまとして今でも日本人のスーパーヒーローとして絶大な人気を持っている。
華女 修験道は仏教と結びつき、弘法大師というスーパーヒーローが生まれ、平安時代から現代にいたるまでずっと人々の心を捉えてきているということを言いたいわけなの。
句郎 うん、元禄時代にはそうした出羽三山詣でが当時の民衆に広まって行った時代だった。元禄時代の商品流通の普及は同時に出羽三山詣での普及でもあった。出羽地方での湯殿詣での流行が実感できないと芭蕉の句「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」がわれわれの心に響いてこないのではと思う。
華女 当時の人々にとって湯殿山に詣でることはカトリックの秘跡のようなものであったのかしら。
句郎 そうなんだ。湯殿山全体がご神体になっている。特に湯殿山神社本宮には社殿はなく、熱湯の湧き出る「岩」が御神体そのものになっている。この山で体験したことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と今でも戒められているようだ。
華女 法隆寺夢殿の秘仏みたいね。
句郎 実際は写真をネットで見ることができる。もちろん、現地へ行けば見ることができる。
華女 なぜご神体を「語るなかれ」「聞くなかれ」と禁止したのかしら。
句郎 ご神体を見ると分かる。そのご神体はお湯を噴き出す赤い巨岩なんだ。このご神体が女性の下半身に似ている。だからタブーが生まれたのでは。
華女 そんなことからタブーっていうものが生まれるのかしら。禁止するから良くないのよね。なんでもないものをね。
句郎 月山が「月の山」なのに対して湯殿山は「恋の山」と云われ、「恋」の歌枕になった。「こひの山しげきを笹の露わけて入初(いりそ)むるよりぬるる袖かな」と藤原顕仲(ふじわらのあきなか)が詠んでいる。
華女 意味深な解釈ができそうな歌ね。
句郎 神仏習合の深い信仰に包まれて初めて芭蕉の句が味わえるのかな。湯殿山のご神体を拝み、感動の涙が袖を濡らしたというくらいだから。信仰なしにご神体を見ると淫らな笑いが出てきそう。

醸楽庵だより   84号   聖海

2015-02-07 10:40:08 | 随筆・小説


 「雲の峰幾つ崩れて月の山」 この句は「雲の峰」、それとも「月の山」どちらを詠んでいるの

句郎 この句の季語は「雲の峰」だよね。
華女 そうなんじゃないかしらね。
句郎 俳句は季語を詠むと聞いたから、この句は「雲の峰」を詠んでいるのかな。
華女 「おくのほそ道」途上、出羽三山を芭蕉が詠んだ句の一つなのでしょう。だから「雲の峰」じゃ、おかしいんじゃないの。
句郎 そうだよね。「月の山」すなわち月山を詠んだ句でなくちゃならないよね。
華女 季語「雲の峰」は入道雲のことよね。
句郎 太陽の光に白く輝く山の峰のような雲の事だよね。
華女 「しづかさや湖水の底の雲の峰」一茶の句があるわ。分かるわよね。
句郎 「閑(しづか)さや岩にしみいる蝉の声」芭蕉の静かさとは違うね。
華女 そうね。一茶の句には親しみが持てるような気がするわ。湖水に写った雲の峰が見えるわよね。
句郎 そうだね。芭蕉は季語「雲の峰」を用いて「月の山」月山を詠んだ。
華女 芭蕉のこの句は読んですぐ伝わってくるような句ではないわね。
句郎 確かに。
華女 句郎君はこの句をどのように読むのかしら。
句郎 「雲の峰幾つ崩れて」だから芭蕉は月山を登っている。入道雲が出ては見えなくなり、まだ入道雲が出てはなくなる。こんなことを何回か繰り返しているうちに登頂した。雲海を真下に見ると月山が霊峰になって見えてくる。
華女 月山は確かに羽黒山や湯殿山に比べて遥かに高い山よね。だから神が住む雲より高い山を詠んだということなのかしら。
句郎 「日月行道の雲関に入るかあやしまれ」と「おくのほそ道」に芭蕉は書いているから太陽と月が昇っては沈む天空の関所を通って霊峰に至ったと月山登山は同時に霊的体験だったと実感した。この霊的体験を芭蕉は詠んだのかなと考えたんだけれどもね。
華女 芭蕉には何か、禅的世界のようなものを詠む傾向みたいなものがあるわね。月山を「月の山」と表現しているのには理由があるのかしら。
句郎 月山命名の由来は頂上に月読命(ツクヨミ)が祀られているかららしい。月を読むとは満ち欠けを見る。記録する。日月を決める。麓の農民にとって月山に輝く月を見ることは今日がいつかを知ることであった。稲作作業の何をすべきかを教えてくれる山が月の山だった。麓の農民にとって月山は月の山だった。
華女 月山を芭蕉が「月の山」と表現した理由が句郎君の説明では分からないわ。言葉は多いけれども。
句郎 「息絶身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没して月顕(あらわ)る」と芭蕉は「おくのほそ道」に書いているから月山の頂上には月光が神々しく照っていた。月光の輝く山だったことを言うために「月の山」と表現したんじゃないかな。
華女 私はまた土地の人々が月山のことを「月の山」と云っていたから芭蕉も土地の人々のいいようを真似たのかなと句郎君の話を聞いて最初は思ったんだけれど。
句郎 「月の山」とは月山のことだから、そのような理解でもいいのかもしれないけれど、芭蕉が詠んだ世界は霊的な世界のことだと思う。
華女 この句は当時の人々の月山信仰の篤さが分からないと伝わってこないものなのかもしれないわね。

 

醸楽庵だより   83号   聖海

2015-02-06 11:08:20 | 随筆・小説

 
 「涼風やほの三か月の羽黒山」と「涼しさやほの三か月の羽黒山」では表現する世界がどう違うのか

 曾良の「俳諧書留」には「涼風やほの三か月の羽黒山」とある。この発案を「涼しさやほの三か月の羽黒山」と芭蕉は推敲した。
 芭蕉らは旧暦の6月3日、太陽暦に換算すると7月19日に新庄を立ち羽黒山を目指した。曾良旅日記によると天気はよかった。一里半ほど歩きそこから最上川を下る舟に乗った。一里半ほど舟に揺られていると船頭から関所ですと声をかけられた。舟を降り関所に出手形を持参した。また舟に乗り、羽黒山登山口で舟を降りると番所に羽黒山登山の届を出した。今夜世話になる予定の近藤左吉宅に着いたのが申の刻、午後の4時であった。汗ばんだ体で芭蕉らは羽黒山を登った。新庄からおよそ舟にも乗ったが7里近くを歩いた上に羽黒山を登った。
 羽黒山の標高は四百m強の山であるから里山に近い。現在は2446段の石段になっている。元禄時代にはきっと今のような石段は無かったにちがいない。山伏が登る険阻な小道がつづいていた。この山伏が通る山道を辿って羽黒山に芭蕉らは登った。杉の大木が連なる小道には涼しい風が体をなぜていく。杉の大木の間からはほのかに三か月が見える。「涼風やほの三か月の羽黒山」と芭蕉の口から漏れ出た。「涼風」は芭蕉の実感であった。羽黒山に登った実感を詠んだ句を芭蕉は後に「涼風」を推敲し「涼しさ」に変えた。
「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を久富哲雄は次のように鑑賞している。「涼しいことよ。三日月が鬱蒼たる木々を通してほのかに見えるこの羽黒山中にいると、涼しさがまことに快く、霊域の尊さもしみじみと感じられることだ」。同じように萩原恭男もまた「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を「夕方の山気が身にしみて快い。ふと見上げると、ほんのりと三日月が黒々とした羽黒山の上にかかっている」と、このように鑑賞している。このような鑑賞では「涼風」と「涼しさ」の違いが伝わってこない。「涼風」でも「涼しさ」でも同じような鑑賞ができるだろう。
 以上のような鑑賞に対して長谷川櫂は次のように鑑賞する。「夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そんな景色の中にいると、心の中まで涼しくなるようだ。『ほの三か月の羽黒山』は眼前の景、この景と『涼しさや』という心の景との取り合わせである」。この「涼しさや」とは芭蕉が肌で感じたものではなく、心で感じたものだと言っている。
 私も長谷川櫂の鑑賞の方がより深いように思う。理由は以下のようなものである。芭蕉は初め「涼風やほの三か月の羽黒山」と詠んでいる。なぜ芭蕉は「涼風や」ではなく、「涼しさや」にしたのかということである。「涼風や」だと杉林の間から吹いてくる風を肌で感じたことになる。この風は夕暮れの疲れを癒す快い風。芭蕉が実感した風である。芭蕉が表現したかったことは羽黒山の厳粛な静かさなのだ。肌で感じる風の快さでは神聖な尊さが表現できない。夕暮れの風の快さでは田の道を歩き疲れた体を癒すものと変わらない。芭蕉が表現したいと思ったことは羽黒山の夕暮れの神聖さ、尊さだった。だから「涼風や」ではだめなのだ。「涼しさや」と言えば心の世界を表現できると気が付いたのだ。「涼しさやほの三の月の羽黒山」と詠むことで羽黒山の夕暮れの厳粛さ、静かさが表現できたと、芭蕉は満足した。
 「古池やかわず飛び込む水の音」と同じように「かわず飛び込む水の音」は現実に芭蕉が聞いた蛙が飛び込む水の音である。この音と心の中の「古池や」とを取り合わせることによって深みのある世界が表現できた。同じように「涼風や」を「涼しさや」と詠むことによって芭蕉は山道を歩き疲れた夕暮れの涼しい風に癒されたことではなく、羽黒山の夕暮れの神聖な厳粛さと静かさに旅の疲れの癒しとともに表現できたと芭蕉は思ったのであろう。

醸楽庵だより   82号   聖海

2015-02-05 12:30:04 | 随筆・小説

 
  薫りは「かほり」なの、それとも「かをり」なの 「有難や雪をかほ(を)らす南谷」

句郎 「有難や」。こんな言葉が俳句の上五になるんだね。
華女 「閑(しずか)さや」で始まる芭蕉の名句があるじゃない。
句郎 そうだったね。
華女 「おくのほそ道」羽黒山で芭蕉が詠んだ句ね。「有難や雪をかほ(を)らす南谷」
句郎 この句の季語は何だと思う。
華女 「雪」とあるから雪なんじゃないかと思うわ。違うの。
句郎 「おくのほそ道」に「六月四日、本坊にをゐて俳諧興行」とあるから今の暦でいうと七月二〇日になるみたいだよ。      夏に雪の句を詠むのはおかしくないかな。
華女 そうね。じゃ、この句に季語はないの。
句郎 「雪をかほ(を)らす」が季節を表しているよね。だから「かほ(を)らす」という言葉が季語のようだよ。
華女 「かほ(を)らす」という言葉だけじゃ季語にならないわよね。あくまで「雪をかほ(を)らす」というから「かほ(を)らす」   という言葉がこの句の場合、季語になっているというわけよね。
句郎 「雪をかほ(を)らす」が「薫風」を表現しているからということらしい。
華女 季語というのは季語を表現している言葉があれば、句として成立しているということなのね。
句郎 定型俳句の場合はそういうことらしい。
華女 そうなんだ。大事なことは季節を表現している言葉があるかどうかということなのね。
句郎 岩波文庫の「おくのほそ道」には「かほり」の「ほ」の字を訂正し「を」とルビを振っている。文語として「かほり」   は間違いで「かをり」が正しいと言っている。しかし布施明のヒット曲「シクラメンのかほり」は「かほり」になっているよ。現代口語文では「かおり」だよね。「かほり」には文語文の薫があるように感じないかな。
華女 そうね。「かほり」には文語の匂いというか、たゆたうリズムがあるように思うわ。
句郎 調べてみたんだ。仮名遣いは歴史上大きく二度変わっている。一度目は10世紀から12世紀にかけて大きく変わった。二度目が19世紀後半から20世紀にかけてである。
華女 10世紀から12世紀にかけてなぜ仮名遣いが大きくかわったのかしら。
句郎 10世紀から12世紀というのは東アジア世界に大きな歴史的変化があった時代なんだ。
華女 どんな歴史的変化があったの。
句郎 東アジア世界と云うのは漢字文化圏のことを言うんだ。モンゴル、チベット、ベトナム、満州、朝鮮、日本が漢字文化圏なんだ。中国に誕生した大国、漢帝国の政治的影響を受け国家が誕生した国々が自分の国の言葉を表現する文字に漢字を利用した。
華女 「かほり」の話から歴史の勉強になっちゃったわ。眠気がしてきたみたい。
句郎 そんなこと云わないで聞いて下さいよ。
華女 漢字文化圏と「かほり」とはどうつながるの。
句郎 もう少し、歴史の話をすると10世紀から12世紀ごろにかけて漢字文化圏で国字の誕生が見られるんだ。日本では漢字で仮名を表現した万葉仮名から漢字を簡略化した仮名文字が生まれるのが10世紀から12世紀ごろにかけての頃なんだ。と同時にどのように仮名遣いをするかが決まっていったのが10世紀から12世紀ごろにかけての頃なんだ。
華女 まだまだ先が長そうね。
句郎 もう少しだけれどね。その頃、時代の要請を受けた天才が生まれたんだ。その人が藤原定家、小倉山で優れた和歌百首を選んだ藤原定家、百人一首の選者、藤原定家だよ。彼は仮名遣いの決まりを決めた人でもあった。それを「定家仮名遣い」というんだ。この定家仮名遣いでは「かおり」を「かほり」と書いた。
華女 「定家仮名遣い」まで長かったわね。
句郎 まだ続くんだ。江戸時代の末期に契沖という国学者が時代の要請を自覚し、定家仮名遣いの間違いを正した歴史的仮名遣いを公にした。この契沖の仮名遣いを明治政府は継承した。その結果、「かほり」という定家仮名遣いは間違いで「かをり」が正しい歴史的仮名遣いということになった。
華女 句郎君、なかなか学者じゃない。でも私(わたし)的にはそんなことどうでもいいわ。結果が分かればそれで充分だわ。「かほり」は間違い。「かをり」が正しい。それで充分よ。


醸楽庵だより   81号   聖海

2015-02-04 10:03:47 | 随筆・小説

 
  苦かった酒もいつかは甘い酒になる

 忍ぶれど色に出にけり盗み酒
            詠み人知らず
妻 お酒飲んできたの。
夫 いや、飲んでいないよ。今日は、事務連絡だけだったよ。
妻 誰と飲んできたの。
夫 だから飲んでいないと言ったじゃないか。
妻 駅前で一人、飲んできたの。
夫 うん、赤提灯に誘われてね、ついふらふらと暖簾をくぐったんだ。
妻 何杯、飲んだの。
夫 軽く、一杯だよ。
妻 つまみは何だったの。
夫 おでんを二つぐらいかな。
 家を建てた頃、こんな会話を家内としたことがある。家内は今でも千円札一枚を持ってスーパーに行ったというような話をする。私も持ち金がなく、飲み会を断ったことがある。不思議と惨めではなかった。

 論語孟子を読んでは見たが酒を飲むなと書いちゃない
                       詠み人知らず
 アルバイトの金が入るとあらかた使って二日酔いになった。試験の前日でも友だちがいると酒を飲んだ
酒を飲んでは政治と哲学を語った。最後は堕ちた話になった。政治や哲学の話には何のリアリティーも無かった。ただ互いに解ってもいない知識を披瀝しあっただけだった。ただ妙に堕ちた話は現実的だった。友だちと張り合ったガード下の飲み屋の娘とデートしたというような話を聞くと悔しかった。どこまでしたんだとしつこく問い詰めた。

 酒飲みは如何なる花の蕾やら行く先毎にさけ、さけ、さけ
                         江戸の町人
 若かったころ、職員旅行に行った。東海道新幹線に乗って京都に行った。新幹線に乗ったと同時に早速酒盛りが始まった。周りには酒を飲んでいる人は一人もいなかった。六人掛けのところは特に賑やかだった。
私もその中の一人として缶ビールを飲み、その後、一升瓶から酒をついで飲んだ。車窓から朝日に映える富士山を眺めながら酒を飲んだ。
京都に着き、南禅寺で豆腐を食った。その時も酒を飲んだ。街中の旅館に入り、風呂に入って宴会をした。宴会が終わると初めて先斗町のバーにいった。そこではウイスキーの水割りを飲んだ。先輩職員が研修旅行の下見で開拓したところだと言っていた。その同僚は帰り際、ホステスさんと軽いキスをした。畜生、面白くねぇー。持てない男同士で飲み直した。翌日、朝食が終わると解散だった。私は一人奈良に向かった。中学時代の友を訪ねたが会うことはできなかった。

 腹がたつときゃ茶碗で酒を飲んでしばらく寝りゃ直る
                       詠み人知らず
 言うこととすることが違う同僚先輩に指導されたときほど腹が立ったことはない。言い返せなったことが悔しくて同輩と二人、飲み屋に繰り出し、茶碗酒など飲んでほざえた。ママさんがよく話を聞いてくれた。それで一晩寝れば元気になった。毎日、毎日、勉強に忙しかった。苦しかった。プレゼンテーションに立って、初めて何も知らないことを知った。漢字も満足に書けないことが分かった。いつになったら楽になるのか、皆目検討が付かなかった。十年が過ぎ少し仕事が分かってきた。仕事が楽しくなったのはそのころからだった。
  


醸楽庵だより   80号   聖海

2015-02-03 10:37:00 | 随筆・小説

  酒の飲み方、紅茶の飲み方  作法は文化だ

侘輔 樽から搾った酒を杉の升で飲むのはなかなか乙なものだね。
呑助 杉の香が立って、美味しいね。どこで飲んだの。
侘助 うん、この間、落語を浅草に聞きに行ったんだ。演芸ホールに行く前にちょうど昼時分だったから藪蕎麦に寄ったんだ。
呑助 藪の「もり」は笊が盛り上がっているんじゃないの。
侘助 そうなんだよ。箸で三回も掬うと終わりなんだ。周りを見渡すとオヤジたちはみな「もり」を二枚注文していたよ。
呑助 それでワビちゃんも「もり」を二枚注文したわけね。
侘助 うん、そうなんだ。見渡すと樽がデンと据えられ、木の栓を抜いて杉の升に注いでいるじゃないの。升を乗せた皿にお酒がこぼれている。
呑助 酒飲みの情緒にワビちゃんは刺激されちゃったわけね。
侘助 うん、そうなんだ。「もり」が来る前に一杯と言う気持ちになってね。それが二杯になっちゃたわけなんだ。
呑助 もちろん、皿にこぼれた酒を升に注ぎ、舐めるようにして樽酒を飲んだわけね。俺も飲みたいな。
侘助 うん。みんな皿にこぼれた酒を升に注ぎ飲む。これが酒飲みの作法というもんだよ。
呑助 皿にこぼれた酒があると少し豊かな満足した気持ちになるよね。
侘助 そうだよ。それが男のロマンだと言った男がいたよ。
呑助 店の客に対する優しさのようなものが皿にこぼれた酒にあるように感じるのかも知れないね。
侘助 確かに客がその店を好きになるきっかけになるように思うね。
呑助 日本の文化なんて言っちゃ大げさ過ぎちゃうように思うけど、かっちりしているのが欧米の文化だとしたら、日本の文化はすこし遊びがある。この遊びが皿にこぼれた酒にはあるように思う。
侘助 ノミちゃん、凄いことを言うもんだね。この皿にこぼれた酒を日本で見たイギリス人が国に帰り真似をしたのではないかという話を読んだことがあるよ。
呑助 皿の上にコップを置き、溢れるばかりにウイスキーをコップに注いだの。
侘助 いや、違う。イギリス人の嗜好品は紅茶だろう。紅茶のカップは受け皿のソーサーの上に乗せて注ぐ。日本人はソーサーにこぼれないように紅茶をカップに注ぐけれどもイギリス人は紅茶をカップに注ぎ、ソーサーにこぼす。
呑助 小皿にこぼれた紅茶を日本人のようにカップに戻して飲むの。
侘助 そうじゃないんだよ。カップに注がれた紅茶をソーサーに空け、そのソーサーに口を付けて紅茶を飲むようだよ。
呑助 へぇー。本当ですか。紳士の国、イギリスでそんな無作法な紅茶の飲み方をしているんですかね。
侘助 日本の文化では無作法でもイギリスでは無作法ではないのかもしれない。
呑助 確かに作法は国によって違っているかもしれない。
侘助 イギリスには二つの国民がいるというね。
呑助 本当ですか。
侘助 本当だよ。働く国民、労働者と働く者を管理する国民、有閑階級だよ。
呑助 リヴァプールの働く若者の歌がビートルーズの歌だという人がいるけどそのことなのかな。
侘助 そうだと思う。この二つの国民は交わること決してないみたいだよ。だから言葉まで違う。有閑階級の言葉がキングスイングリッシュだよ。イギリスに留学した角山榮という歴史学者が「辛さの文化・甘さの文化」という本の中でイギリスの労働者たちの紅茶の飲み方はカップに注がれた紅茶をソーサーにあけ飲んでいたと書いていた。イギリスの紳士たちはこのような飲み方をしていないのかもしれないけれどね。

醸楽庵だより   79号   聖海   

2015-02-02 09:50:26 | 随筆・小説

   春は三々九度、旨い酒が呑めるな。

侘輔 ノミちゃんはもう三々九度は済んだのかい。
呑助 いや、まだなんですよ。せっつかれてはいるんですがね。
侘助 誰に。
呑助 いやー。言わなくちゃだめですか。
侘助 そういうわけでもないけどね。どうなの。
呑助 女にですよ。はっきりしてよと、逢うと言われるんですよ。
侘助 おお、ノミちゃん、隅におけないね。それも二・三人の女に言われているのかな。
呑助 いや、そんなことはないですよ。もちろん、二・三人ですかねと、言いたいところですが、高校の時からの女友だち一人からですよ。
侘助 長い付き合いだね。女としてもそろそろという気持ちになっているのかな。
呑助 そうかもしれませんね。
侘助 今じゃ、三々九度というと神社での婚姻の儀式の一つになっているけれども、三々九度というのは昔の酒の飲み方だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。どうしてまた、
侘助 昔と言っても室町時代の頃だそうだがね。その頃はお酒を普段に飲むことなんてできなかった。神社の祭礼、例えば千葉県の北部、このあたりでは今でもオビシャが行われているよね。
呑助 農家が中心みたいだけれど、街場でも古いお店が集まる飲み会をオビシャと言っているね。
侘助 もともとオビシャというのは年頭に弓を射ってその年の豊凶を占う神事だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。酒飲みと神事というのは切っても切れない関係なんですね。
侘助 神様の意向を伺い、聴いた後の直会(なおらい)が神様に捧げたお酒を下げ、頂く行事だったらしい。
呑助 人によっちゃ、飲み会のことを直会という人がいますね。
侘助 そうかい。昔は一人一人の杯というものがなかったらしい。大きな杯に並々とお酒を注ぎ、回し飲みした。参加する人の数にもよるが、おおよそ三回まわると大盃のお酒が無くなった。仲間の数が多くなると大盃を二つ用意した。一つは右回り、もう一つは左回りという具合に行ったようだ。一つの大盃のお酒が無くなるまで飲むことを一献といったそうだ。この大盃に三回お酒を並々と注ぎ、飲み干すことを三々九度といったらしい。
呑助 そういうのが三々九度の始まりですか。
侘助 大盃が回ってきたら、三口お酒を飲むのが仕来りだった。
呑助 そうですか。みんな自分の番になったときはガブッと大口あけてたっぷり飲んだんだろうな。
侘助 もちろん、この時とばかりに皆、たっぷり飲んだじゃないかと思うよ。だから、酩酊する人が多かったそうだ。
呑助 当時の人にとってはオビシャのような行事の時にしかお酒は飲めなかったんですかね。
侘助 そうだと思うよ。ほとんどの人がお酒を一人で晩酌するなんていうのは日清・日露の戦争後のことのようだよ。
呑助 それはどうしてですか。
侘助 戦争に行った兵隊たちにはふんだんに酒を軍隊は飲ましたんだ。大半の兵隊は戦争で酒を覚えたんだ。
呑助 日清・日露の戦争が日本の庶民に飲酒文化を広めたんですか。
侘助 明日をも知れない兵隊たちはへべれけになるまで三倍醸造酒を飲んだ。飲ん平が嫌われるようになったのも兵隊たちに広まった飲酒文化のせいかもしれないね。
呑助 旨い酒を味わって飲む飲酒文化はこれからですかね。
侘助 吟醸酒に親しむ文化はこれからなんだろうね。

醸楽庵だより   78号   聖海

2015-02-01 11:54:27 | 随筆・小説

   俳諧師芭蕉は歌仙を巻く   五月雨をあつめて早し最上川  

句郎 芭蕉たちは俳諧師の営業である歌仙を大石田で巻いた。
華女 歌仙を巻くとはどんなことをするの。
句郎 和歌に優れた人を歌仙といった。平安時代に藤原公任(ふじわらのきんとう)が奈良時代からの歌人36人を選び「36人歌合」を編んだ。それ以来36人の優れた歌人を36歌仙というようになったそうだ。これにちなんで36句の連歌形式を俳諧の歌仙というようになった。
華女 歌仙を編む宗匠さんが俳諧師ということなのね。
句郎 歌仙とは36句で一巻とする。このことを歌仙を巻くという。
華女 芭蕉たちは大石田でどんな歌仙を巻いたの。
句郎 大石田は最上川水運のターミナルだったようだ。芭蕉と曾良は大石田の船宿経営者、高野平右衛門亭に招かれ、俳諧を楽しんだ。発句をまず芭蕉が詠んだ。今日はお招きいただき有難うございましたと、挨拶の句を詠んだ。「五月雨を集て涼し最上川」。歌仙を巻いた日は現在の暦でいうと七月十五日。曾良旅日記によると「夜にいり小雨す」とあるからむしむしと暑い日だったことが想像されるんだ。この屋敷は本当に最上川の川風が入り涼しゅうございますねと、高野平右衛門亭に招かれ座敷に座り、川風の涼しさを芭蕉は詠んだ。
華女 俳句の挨拶句とは何だか、分からなかったけれど、本当に挨拶の気持ちを詠んだ句のことを言うのね。
句郎 そのようだよ。曾良の俳諧書留に大石田で巻いた歌仙が載っている。高野平右衛門の俳号を一栄といった。一栄は芭蕉の五七五の発句に七七の脇句をつけた。「岸にほたる(を)つなぐ舟杭」。夜になると最上川の岸にはほたるが灯ります。その船杭がほたるをつないでいるかのように集まってくるんです。
華女 詠まれている世界が移り変化していくのね。
句郎 それが俳諧というものらしい。
華女 一栄さんの後は誰が詠んでいるの。
句郎 曾良なんだ。第三句は「瓜畑いざよう空に影待て」と五七五と長句を詠んだ。
華女 瓜畑の空に蛍の影が出て来るのを待っているという句なのかしら。こうして36句も詠んでいくのは時間がかかったでしょうね。
句郎 そうかもしれない。曾良旅日記によると一巡して一日目が終わったと書いている。
華女 何日かけて歌仙を巻いたの。
句郎 二日で巻いたようだよ。その間、食事もしただろうし、お酒も嗜んだと思うね。
華女 俳諧とはまさにお金持ちのお遊びだったのね。
句郎 そうだよ。遊びだよ。遊びに亭主が満足すれば楽しゅうございましたと祝儀が貰えたんじゃないかなと思う。招かれた亭主の意を損ねるようなことをしては遊びにならない。また遊びのお礼どころじゃなくなるからね。
華女 俳諧師とは一種の男芸者のような者だったのかしらね。
句郎 もしかしたら、そえかもね。芭蕉の発句に戻って考えてみたいんだ。「五月雨を集て涼し最上川」。この発句には季語が二つあるよね。
華女 「五月雨」と「涼し」かしら。
句郎 発句に季語が二つ入っていても特に問題はないと思うんだけれども、何かもたつきのようなものを感じない。確かに挨拶句として良いと思うけれど。
華女 そうね。だから「おくのほそ道」には「五月雨をあつめて早し最上川」としたのかしら。
句郎 そうだと思う。仲間内の座の発句としては「五月雨を集て涼し最上川」と挨拶感がある句が良いが晴れ着を着た世界では挨拶感を払い落とし「五月雨をあつめて早し最上川」の方が良いと芭蕉は自分自身で判断し、「涼し」を「早し」に推敲し直したのではないかと思う。
華女 独立した句としては断然「五月雨をあつめて早し最上川」の方が良いと思うわ。
句郎 僕もそう思う。