醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  856号  白井一道

2018-09-20 16:41:30 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』より「塚も動け我泣く声は秋の風」  芭蕉元禄2年


 私の気持ちに応えて、塚よ応えてほしい。私があなたにどんなに会いたかったか、その気持ちをわかってほしい。あなたが亡くなったと聞いて秋風のごとく悲しみにくれています。
 このような芭蕉の気持ちを表現した句でしょうか。小杉一笑という金沢では有名な俳人に会いたいと思って芭蕉はやってきた。芭蕉はまだ一度も一笑にあったことはない。それにもかかわらずにこのような句を詠んだ。なにか一笑からの手紙に芭蕉の心に触れるものがあったのであろう。江戸時代にあって手紙は今では考えられないほど人と人とを結びつける力があった。噂に聞く一笑の俳諧の力に学びたいという気持ちが芭蕉にあったのかもしれない。きっと芭蕉は人間関係を大事にする人であったのであろう。俳諧そのものが人と人との交わりを楽しむ遊びでもあった。そんな遊び事に芭蕉は命をかけた。
 芭蕉は「塚よ動け」とは詠まずに「塚も動け」と詠んだ。まずここに芭蕉の芸があるように思う。「よ」と「も」ではどのような違いあるのだろう。細見綾子の句に「春の雪青菜をゆでてゐたる間も」がある。このもは「春の雪」も「ゆでていたる間も」という解釈でいいと思う。「春の雪も」の「も」は省略されている。この「も」を読者に喚起させる言葉が「ゆでていたる間も」の「も」である。「塚よ動け」と詠んだのでは「我泣声も」のもを読者に喚起させることはできない。だから「塚も動け」でなければならない。
 「我泣声はㅁ秋の風」の中七の言葉と下五の言葉の間に小さな切れがある。このことに気づかせてくれるのも「塚も動け」の「も」の働きである。「我泣声は」の「は」は、「も」という意味をも表現していることに気付く。
この句の解釈は塚も動いて私の言葉に答えて下さい。私が泣く声も私の哀しい思いを乗せた秋風になってあなたに語りかけています。どうか私に一笑さん、応えて下さい。こう解釈することで追善句になる。静かに故人を思う気持ちが表現されることになる。
 芭蕉学の泰斗、鴇原退蔵がこの句ははげしい悲しみの情をのべたと解釈したのに対して上野洋三は違和感を覚えた。この句は慟哭の
句ではない。そもそも追善句とは静かに故人への思いを表現するものである。
 芭蕉の他の追善句を上野洋三は読む。
 なき人の小袖もいまや土用干し
 数ならぬ身とな思ひそ玉祭
 埋(うづみ)火(び)もきゆやなみだの烹(にゆ)る音
 火鉢の埋火も消え、悲しみの涙もなくなり、会葬の人もいなくなった。囲炉裏にかかっている鉄瓶の音だけが部屋にこだましている。会葬者のいなくなった棺の前で故人を思う気持ちが静かに表現されている。これが追善句なのだ。
 整えられ、鎮静された感情を表現してこそ此岸から彼岸に向けて故人が彼岸に渡っても幸せであってほしいという気持ちが表現されるのだと上野洋三は主張する。慟哭では追善にならない。
 この句を激情、慟哭を表現したものとするのが大勢の中にあってこのような解釈をしたのは勇気ある試みであると思う。私もこの上野洋三の解釈に従ってこの芭蕉の句を理解したい。

醸楽庵だより  855号  白井一道

2018-09-19 08:04:10 | 随筆・小説
 

  渥美清・風天の句を読む



渥美さんの俳号は、「風天」。なんとわかりやすい俳号だろう。

お遍路が 一列に行く 虹の中  

赤とんぼ じっとしたまま 明日どうする

花びらの 出て又入るや 鯉の口 

乱歩読む 窓のガラスに 蝸牛

枝豆の 皮だけつまむ 太い指

好きだから つよくぶつけた 雪合戦

たけのこの 向う墓あり 藪しずか

蓋をあけたような 天で 九月かな

いつも何か 探しているよだな ひばり

ひばり 突き刺さるように 麦のなか

渥美清・風天最後の句
蟹悪さしたように生き

 この世に自分が存在することの不安を表現している。私はこの句をこのように読む。存在の不安なんだ。この世が自分の存在を拒否しているという認識が自分の存在に対して不安を抱かせるのだ。この世に自分は存在していいんだ。自分の存在を社会は認めるべきなんだという強い主張ができない。その気弱さが不安を生むのだ。自分の存在自体が悪さしているという認識を詠ったものが風天最後の句なんだ。

醸楽庵だより  854号  白井一道

2018-09-18 14:25:31 | 随筆・小説


  沖縄知事選について


句郎 沖縄知事選はどうなるかな。
華女 気にかかるのね。
句郎 自分に何ができるっていう思いがあるんだ。
華女 何もできないという気持ちがあるのね。
句郎 そうなのかもしれない。ただ言えることは、沖縄に生きる人々が自立して自分たちの住む地域は自分たちで決めることができるということが認められるようになってほしいと思っているんだ。
華女 そりゃ、そうよね。自分たちの住む島のことを自分たちで決められないというのはおかしいわ。
句郎 日本政府は玉城デニーオール沖縄候補を落とすために全力を挙げているようだからね。
華女 安倍自公政権はどのような選挙戦術をとっているの。
句郎 辺野古に米軍基地を作る事には一切発言しないという戦術のようだ。 普天間米軍基地を返還できるのは政府と太いパイプを持つ私しかいないと佐喜真候補は胸を張っている。
華女 その話、本当なのかしらね。選挙中のいい加減な話なんじゃないのかしら。
句郎 実際、辺野古に米軍基地を作ったら、普天間米軍基地は間違いなく返還されるのかどうか、疑問だと思っているんだけどね。
華女 saco合意ができて何年になるの。1995年に米軍兵士に沖縄の少女が暴行された事件が発端だったように思うわ。
句郎 普天間米軍基地返還と辺野古に新基地建設とは無関係だったんだからね。
華女 自公政権は平気で嘘を言うのよね。
句郎 そうなんだ。普天間米軍基地は誰も住んでいないところに米軍は基地を作った。米軍基地が出来上がったところに沖縄の人々が入ってきたと言っている。
華女 私もそのような話を聞いたような気がするわ。テレビでそのような発言をしている人がいたように思うわ。
句郎 そうそう、それは真っ赤なウソらしいよ。米軍が普天間基地を建設したのは地域住民をすべて強制収容所に隔離した上で普天間基地を建設した。沖縄の人々は強制収容所から解放されて自分の住んでいた所に帰ったら、そこには米軍基地ができていて、基地に入ることができなかった。それが実際だったようだ。
華女 安倍自公政権というのは、日本人の人権を守らないのかしら。
句郎 日本国民の人権より米国を大事にしているということなんじゃないのかな。
華女 それが今の日本政府がとる国体ということなのね。
句郎 日本の国体とはまずアメリカということのようだ。
華女 アメリカは日本を本当に大事にしているのかしら。日本の片思いということはないのかしら。
句郎 アメリカは日本のことなんかそれほど大事だとは思っていないと思うよ。
華女 それが男というものかもしれないわ。
句郎 アメリカは日本に対して関税をかけると言っているでしょ。
華女 中国はアメリカから関税をかけられたら、報復する。中国もまたアメリカからの輸入品には同じように関税をかけると米中貿易戦争が始まっているわね。

醸楽庵だより  853号   白井一道

2018-09-17 15:51:01 | 随筆・小説


  白井聡著『国体論・菊と星条旗』を読む

  
 
 最近、本屋に行くと店頭に山積みになっている書籍が白井聡の『国体論』だと羨ましがる政治学者の話を聞いた。TBS「報道特集」キャスター金平茂紀は『国体論』に全面賛成だと述べ、白井聡とシンクタンク「新外交イニシアティブ」の事務局長猿田佐世と共同で『白金猿』という書籍を出した。白井の「白」、金平の「金」、猿田の「猿」とを取った書籍なのだろう。日本の論壇の一角にデヴューしている。
 私は近所にある市立図書館に白井聡の『国体論』をリクエストした。二週間ほどたったころ、図書館員からわざわざ用意できたから取に来てくれとの電話をもらった。インターネットで確認すると私の後に三人程が『国体論』を待っている。今や『国体論』はベストセラーなんだということを実感した。
 最近、元総理鳩山由紀夫とジャーナリストの角谷浩一の対談「ユーアイチャンネル」をyou tube で見た。この中で安倍総理は「戦後レジームからの脱却」と言っている。「戦後レジーム」とは、戦後の「国体」ということでしょと、角谷氏は述べ、日本の戦後の国体、レジームとはアメリカ政府に従属していることなんだから「戦後レジームからの脱却」とはアメリカ政府から自立すると言うことなんですかねと、皮肉っていた。
 「国体」という言葉を恐れた時代があったことを私は知っている。それは日本の「冬の時代」だった。。言論の自由がなかった時代だ。だから自由な言論ができなかったから一部の知識人たちが冬眠していた時代である。そのような恐ろしい国体という概念の成立、発展、消滅の経過を白井氏は明らかにしている。
 国体と言う言葉に代表される天皇による絶対専制支配の成立、発展、消滅の経過を「天皇の国民(臣民)」が「国民の天皇」になった。それは同時に天皇制ファシズムであった。天皇制ファシズムが恐ろしい国体というものであった。国体と言うものに実態があったのかというと幻のようなものであった。私は天皇も国体もフェティシズムだと『国体論』を読んで思った。
 この「国体」の概念が戦後も生き続けているとことを発見したところに白井氏の手柄がある。戦後の日本にあっては、憲法が国権の最高法規であるということは事実に反していると解明していた人がいる。
その人は新原昭治である。新原は砂川判決を研究し、安保法案は憲法に拘束されていないことを解明している。一九五六年から五七年にかけ、「駐留軍用地特措法」に基づいて、強制的な土地収用が進む中、拡張の対象とされた立川飛行場が立地した東京都砂川町では、農民や労働組合を中心とした反対運動が盛り上がった。一九五七年七月八日、当局による強制測量に抗議するデモ隊と、警察との衝突が発生。この最中に、デモ隊の数人、共産党員のみが米軍基地内に数メートル立ち入ったとして、日米安全保障条約に基づく刑事特別法(刑特法)」違反で起訴された。東京地方裁判所で行われた第一審では、駐留米軍基地の存在は日本国憲法九条に違反するという判決が、伊達秋雄裁判長から言い渡された。駐留米軍が違憲である以上、米軍基地への立ち入りを禁止する刑特法も違憲だという判決である。ところが、検察は、高裁への控訴を飛び越して、すぐさま最高裁判所への跳躍上告という、異例の動きに出る。結果、一九五九年一二月の最高裁判決では、田中耕太郎裁判長により、「米軍駐留は違憲ではない」こと及び「日米安全保障条約のような高度な政治性をもつ条約について、違憲であるかの法的判断を下すことができない」ことを骨子とする判決が出された。
 日本国憲法に則って下された伊達判決を田中耕太郎最高裁裁判長は覆したのだ。安保法制は日本国憲法に優越するということを最高裁長官田中耕太郎が明らかにした。
 田中耕太郎は駐日米国大使マッカーサー二世と事前に協議し、判決内容を決めていたことを新原昭治はアメリカの公文書館で資料を調べ、明らかにしている。このことを白井は『国体論』の中で述べ、戦後の国体は天皇に代わってアメリカになったということを述べている。
 昭和天皇は占領軍最高司令官マッカーサーの下に出向き、沖縄を占領支配することを認め、マッカーサーは天皇の戦争犯罪を不問にした。こうして天皇の支配、戦前の国体は生き延びたと白井は主張している。しかし国体は天皇からアメリカに変わった。問題は衰退していくアメリカに盲従する日本政府はアメリカのために日本を犠牲にするつもりなのか。

醸楽庵だより  852号  白井一道

2018-09-16 16:53:26 | 随筆・小説


  声すみて北斗にひびく砧哉  芭蕉 元禄二年(1689)


句郎 最近、暑かったころの空気と違って、澄んできたような感じがするね。
華女 秋なのよね。秋の空気は澄んでいるわ。
句郎 芭蕉の名句の一つではないかと思っている句の一つが「声すみて北斗にひびく砧哉」だと思う。
華女 しみじみとした同じような芭蕉の句があったんじゃないかしら。
句郎 「砧打て我にきかせよや坊が妻」という句かな。
華女 秋の世のつましい僧侶の妻の侘しさを詠んだ句ね。
句郎 その句と比べて「声
すみて」の句には侘しさはないように思う。
華女 秋の夜の静かさが表現されているように思うわ。
句郎 秋の夜の清澄さかな。侘び、寂びの世界を通り抜けた凛とした生の緊張感のようなものがあるように感じるな。
華女 私の母も秋の夜に砧を打っていたのを覚えているわ。土間の床几の上で布地を打っていたわ。単調な音なのよ。
句郎 「砧打つ」という行為には何か、女の哀しみのようなものがあるように感じるな。
華女 そうなのよ。母から聞いた話よ。昔、母がお嫁に来た頃の話よ。秋、稲刈りが終わった頃よ。嫁は夜なべ仕事するもんだと舅に言われ、みんな寝静まったところで砧を打ったという話を聞いたわ。
句郎 昔の農家の生活は厳しいものだったんだろうな。
華女 舅の寝息が聞こえてきたので、父の寝床に行って泣いてしまったという話を聞いたわ。
句郎 砧には昔の女の哀しみがあるんだ。この生きる哀しみに耐え抜いた昔の女には強さがあったのかもしれないな。
華女 女は強いのよ。砧の音には女の強さが籠っているのよ。私も砧の音に励まされるような気もするわ。
句郎 静かな内に籠った強さかな。
華女 そうね。へこたれない強さね。単調なものに耐え抜く強さかもしれないわ。
句郎 若かった頃、李 恢成の書いた小説『砧を打つ女』を読んだ記憶がある。李 恢成は自分の母を書いた小説だったような記憶がある。
華女 日本に生きた在日朝鮮人女性の哀しみね。
句郎 哀しみに鍛え抜かれた女の強さを李 恢成は表現したかったのかもしれないな。
華女 その小説は芥川賞を受賞した小説よね。
句郎 そう。だから読んだのかもしれないな。
華女 紀貫之の時代にはまだ砧に女の哀しみはないみたいよ。「からごろも打つこゑきけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな」という貫之の歌があるでしょ。この歌には月見の静かさと砧の音の楽しむ風流が表現されているように思うわ。
句郎 芭蕉はきっと貫之の歌を読んでいたのかもしれないな。砧を打つ音を聞けば、月見を楽しんでいる人がいるに違いないと貫之は詠んでいるんだからね。
華女 月見を楽しむように芭蕉は「北斗にひびく」砧を打つを聞いて楽しんでいるのよ。
句郎 ショパンの夜想曲を聞くような楽しみが芭蕉の「声すみて」の句にはあるように感じるな。
華女 秋の夜の音、それはノクターンということね。

醸楽庵だより  851号  白井一道

2018-09-15 12:13:57 | 随筆・小説


  秋近き心のよりや四畳半  芭蕉 元禄7年


句郎 此のところ急に寒くなってきたね。
華女 涼しくなってきたわ。それでも午後になるとクーラーがいるわ。
句郎 芭蕉の名句の一つに「秋近き心のよりや四畳半」という句があるでしょ。この句について、華女さんはどう思う?
華女 今頃の季節を詠んでいるのかしらね。
句郎 秋の寂しさのようなものが近寄って切る心情のようなものを詠んでいるのかなと思っているんだけどね。
華女 私もそう思うわ。人恋しいという気持ちよね。
句郎 独り者にとって秋から冬にかけてはなんとなく厳しいような気持ちがするんじゃないのかな。
華女 そうなんでしょ。女には年頃というのが昔はあったのよ。適齢期というのがね。嫌だったわ。何となく寂しくなくちゃいけないような雰囲気がまわりにあったのよね。
句郎 自分としては全然寂しくないのに。
華女 そうなのよ。私自身は寂しくないのにね。何となく一人でいるのを同情されるような目つきが周りにあったような気がするわ。
句郎 「四畳半」という言葉にはいろいろな思いが籠っているように思うな。
華女 そうよね。私の母が詠んだ句に「石蕗(つわぶき)や終(つい)の棲家は四畳半」という句があるのよ。兄夫婦と一緒に母が住むようになった時、母に当てがわれた部屋が二階の東南の角部屋、六畳間だったんだけど、母の話によると熱風が窓から入ってきたと言っていたわ。夏は一日中、クーラーを入れていなければ、いられないとこぼしていたわね。
句郎 お母さんの不満に思う気持ちが「四畳半」という言葉に籠められているということかな。
華女 そうなのかもしれないわ。母が亡くなったときね。兄に母は生前こんな句を詠んでいたのをよと、教えたのよね。そしたら突然兄は怒りだしたのよ。俺はできるだけのことをしたんだ。一度だって母が困るようなことをしたことはないぞと、言うのよ。
句郎 「四畳半」という言葉にお兄さんはカチンときたのかな。
華女 でも「四畳半」と言う言葉には親しい者が集まって心温まるような温もりがあるわね。
句郎 昔、朝、晩の御飯を食べる部屋は四畳半だったかな。家族の温もりがあったような気がするよ。
華女 芭蕉も四畳半の部屋に俳諧の仲間が集まり、歌仙を巻いたのかしら。
句郎 そうだと思う。そま歌仙の発句が「秋近き心のよりや四畳半」だった。
華女 心を寄り添い合った俳諧の会だったということなのよね。とても上手に詠んでいるわね。簡単そうに思うけれども、いざ自分も詠んでみようとすると全然詠めないのよね。
句郎 この句を芭蕉は元禄七年、五十一歳の時に詠んでいる。この年の旧暦十月に芭蕉は亡くなった。最晩年の名句の一つのようだ。
華女 この俳諧の会はどこで催されたのかしら。
句郎 この句の前詞に「元禄七年六月二十一日、大津木節庵にて」とあるから、近江の大津にある木節邸に芭蕉と維然、支考が集まり歌仙を巻いたんだろうな。
華女 芭蕉には日本国中に俳諧の仲間がいたのね。

醸楽庵だより  850号  白井一道

2018-09-14 11:45:57 | 随筆・小説


 西村賢太著 「苦役列車」を読む


     
 芥川賞受賞会見で西村は次のようなことを語った。
 「自分よりだめな人がいるんだなと思ってもらえたら、まあおこがましいけど、ちょっとでも救われた思いになってくれたらうれしいですね、書いた甲斐があるというか。それで僕が社会にいる資格があるのかなと、首の皮一枚、細い糸一本で社会とつながっていられるかな、と本当に思いますね。」
 こう西村は述べ、底辺で働く人との連帯を求めた。一方、現在の日本社会は西村が書くような小説を求めている。この求めに応じて西村は「苦役列車」を書いた。西村は収入を得るため、生活のため、書きたいから書いたに違いない。西村は現在の日本社会からの要請を自覚して書いたわけではないだろう。しかし結果的に西村の小説は現在の日本社会からの要請にこたえることになったのである。
西村が書いた小説「苦役列車」は芥川賞を受賞した。この芥川賞を受賞したということは、社会の要請に西村が答えたと認められたということを意味している。西村は「書いた甲斐があった」のだ。
 高校進学率が九十パーセントを超える時代に中学卒の作家が芥川賞を受賞した。社会的な事件である。NHKのニュースでも中学卒という言葉を添えて報じられた。自分よりだめな人がいることによって心を癒してくれる人がいたら、社会にいる資格があるのかな、と西村ははっきりと小説を書いたことによって社会に貢献できたら、と心のうちを披瀝している。
 年収二百万円以下の人々がおよそ一千万人いるといわれている。ワーキングプアと呼ばれる人々である。毎日、真面目に仕事をしても貧しさから抜け出せない人々である。偶然居酒屋で隣に座った人がいう。毎日、女房と二人、朝から晩まで働いても生活できない。だから店を閉めたんだ。本当に売れなくなった。酒屋が良かったのは八十年代までだった。九十年代に入ると町の小さな酒販店ではやっていけなくなった。ディスカウントの大型店が続々出店してくる。ビールの安売りが始まる。小さな酒販店は淘汰されていく。働き盛り、五十前後の男の愚痴を肴に酒を酌んだ。
 このような男の心を癒す小説がほしい。このような社会的要請が醸されている。この社会的要請にこたえて登場してきたのが西村賢太の小説であった。毎日心を傷つけられて生きている人々を癒すのは笑いである。「苦役列車」は面白い。この小説は最初、雑誌「新潮」に掲載された。テレビのコメンテーターとして出てくる元週刊新潮の編集長であった中瀬ゆかりは西村の小説をすべて読んでいると言う。西村の小説は面白いと真っ赤な口をほころばせ、満面の笑みを浮かべて話す。小説家は学歴じゃありません、と隣に座っていた小説家岩井志麻子は発言し、「才能」です、という。きっと西村は小説家としての才能があるのだろう。
 作者は「苦役列者」を次ぎのように書き出し始める。
「曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。」
「曩(のう)時(じ)」、この漢字熟語を私は読めなかった。初めて見る熟語だ。この言葉を知らない。私が読んだハードカバーの本にはルビがふっていなかった。調べるのも面倒だったのでそのまま読み進んだ。のっけから読めない漢字にパンチをくらった。難しい漢字を知っているんだなとビックリした。「年百年中」、この熟語も読めない。「年(ねん)がら年中(ねんじゅう)」と勝手に読み進んだ。今でも正確には何と読むのか解らない。「後架」、この熟語は「こうか」。読める。意味も知っていた。便所と書かず、「後架」と書く理由が解らない。私だったら「便所」と書く。
 この文章を書くため「曩時」を調べた。「曩」は背嚢(はいのう)の曩の字に似ているなと思い「曩(のう)時(じ)」と当たりをつけて広辞苑を開いた。広辞苑には「曩時」を「さきの時」、「以前」と説明していた。私だったら「そのころ北町貫多の一日は、…」と書きはじめるだろう。なぜこのような漢字を使うのか、その理由を読者は想像する。中卒者の劣等意識がこのような漢字を書かせるのかと余計な想像が働く。「年百年中」、簡明に読めるようになぜ書かないのか。「朝勃ち」。この言葉は広辞苑には載っていない。俗語として広く知られている。このような俗語を使用するところにこの小説の特徴がある。
 『文芸春秋三月号』、受賞者インタビューを読むと藤澤淸造という大正から昭和初期の私小説家に西村は私淑しているという。この作家の文に似せて小説を書いているため西村はこのように今ではほとんど使われない言葉、漢字熟語を用いるのかなと想像する。だから初めて読み始めると漢字熟語に違和感を覚える文章に出くわす。この違和感が苦にならなくなると面白い。この面白さはどうだいい文章だろうが、という気持ちになって書いている作者に対して読者はピンときませんよ、というような微笑ましい笑いである。
「藤澤淸造」という私小説家を始めて知った。今まで本屋で見たためしがない。聞いたこともない。西村がNHKBSの週刊ブックレビューで話すのを聞いて初めて知った。その後、川西政明著「新・日本文壇史・第四巻・プロレタリア文学の人々」を見た。その著書の第二十一章は「忘れられた作家たち」である。その中で藤澤淸造を紹介している。藤澤淸造が一般的にプロレタリア文学の作家として認められているのか、どうか解らないが藤澤淸造についての川西の説明を読んで、この作家をプロレタリア文学の作家とすることに違和感を覚えた。貧苦と病苦を書いた作家のようだ。貧苦を書けばプロレタリア文学といえるのか、どうか疑問である。
「苦役列車」の最後、友を失い、日雇いの仕事場からさえも出入りを禁止された貫多は肌身離さず藤澤淸造の小説をポケットに入れ、読んでは心を癒した。このように藤澤淸造の小説が作者の心に沁みる。西村は小説「暗渠の宿」の中で藤澤淸造の文体に似せて書いていると吐露している。「年百年中」という言葉を藤澤淸造が使っているのを知り、真似て書いているのだろう。西村はこの熟語「年百年中」が気に入って、どうだと言っているように感じる。「便所」と書かずに「後架」と書く。こう書くことによって大正末期から昭和初期の文体に新しい命を吹き込んだと作者は考えているのだろう。この試みが成功しているのか、どうかはこれからの読者が決めることであろう。この文体に慣れた私にとっては新鮮な面白さがあった。
「しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。」と段落をかえて「しかし」と書きついでいく。
「しかし」は息つぎの「しかし」だ。一般的に言えば、接続詞「しかし」を一息つくために書くことは文章の力を弱める。
「…無理矢理角度をつけ、」「…放ったのちには、」「…よいものを、」「…自室に戻ると、」「…腹這いとなる。」一段落が一文になっている。実に冗漫な長い文だ。この冗漫な長い文章に貫多の怠惰な意識の流れがある。この意識の流れに文学的新鮮さがあるのかもしれない。一方、怠惰な若者に対する蔑みの気持ちを読者に起こさせる。この若者の意識、怠惰で無気力なのに旺盛な性欲、勃起した心の始末に戸惑っている。この北町貫多の意識の流れが面白い。
 この面白さの秘密は西村が徹底的に自分を対象化しているところにある。「そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを」と自分を決して弁解しない。自分を突き放す。読者は北町貫多の意識の流れをなぞっていく。読者が主人公となって読み進んでいくわけではない。読者が主人公に共感することはあっても、主人公にはならない。ここにこの小説の構造の仕組みがある。貫多を馬鹿だな、うじうじした男だな、と笑うことができる。自分よりだめな人だな、と思うことができる。ここにこの小説の面白さがある。同じような境遇に生きる若者にとって共感すると同時に突き放すことができ笑うことができる。この笑いの面白さが読者を飽きさせないで最後まで読ませる力なのだろう。
 最底辺に生きる若者の風俗の面白さとその生活を笑うだけの小説として「苦役列車」を解釈してはいけない。この小説は現代日本社会を批判している。この小説にある社会への批判性を評価したい。
 石原慎太郎は選評で次のように述べている。
「この作者の(どうせ俺は……)といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジェニュインなるものを感じさせてくれる。
超底辺の若者の風俗といえばそれきりだが、それにまみえきった人間の存在は奇妙な光を感じさせる。中略 この豊饒な甘えた時代にあって、彼(西村)の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である」
 この石原新太郎が「選評」で言っていることは、超底辺に生きる若者の風俗、それだけなんだけれども、そこに生きる若者に人間の真実を感じる。作品の身体性を感じる。このようなことを言っているのではないかと思う。石原の「苦役列車」に対する基本的認識は「超底辺に生きる若者の風俗、それだけ」の小説ということである。
 和田逸夫は民主文学六月号{「働く」ことと「生きる」こと}という評論で次のように書いている。
「この豊饒な甘えた時代にあって、彼(西村)の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である」と石原新太郎が「選評」で示した認識は、反面、的を射ている。最底辺の下にまだ「超底辺」がいるということで慰藉させられる読者が、この「豊饒な甘えた」今日の社会の中で、不満も疑問も抱かず、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れるというなら、この階級社会のヒエラルキーの頂点近くに立つ者たちには、確かに得がたい貴重な作品たりえよう。」
 和田は石原の「苦役列車」に対する認識に同意を表し、この石原の認識に従い、底辺社会に生きる人々の心を癒すだけの小説、何ら現実社会に対する批判意識を生むことのない小説だと批評している。
 石原の「苦役列車」についての認識は、間違っている。重要なところを見落としている。最底辺に働く若者の風俗の面白さにこの小説の本領ではない。この小説の本領はお金に縛られて働く現代の奴隷のような労働であっても仲間ができれば生き生き働くことができる。ここにある。ここを見落としている。石原は忙しい時間を割いてきっと一度さっと読んだだけなのだろう。この石原の認識を評価した和田の認識も間違っている。更に和田は次のように書き継ぐ。「豊饒な甘えた」今日の社会と和田はいう。「豊饒な甘えた」今日の社会とはどのような社会をいうのか何の説明もないので分からないが、社会の底辺に生活する人々は豊饒な甘えた社会に生きてはいないだろう。甘えちゃいけないと厳しく規律されている。これが現実である。「不満も疑問も抱かず、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れるというなら」という条件を和田自身が入れて、この小説に対する批評をしている。がしかし、この小説の主人公貫多は不満も疑問も抱き、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れてはいない。受け入れざるを得ない状況に生きているということである。「…なら」という条件を入れて解釈しているところに和田の「苦役列車」に対する評価の弱さがある。確かにこの小説の面白さ、笑いに心が奪われかねない危険性があるように思う。ここに石原もこの作品の身体性があると理解している。この点に私は異議を感じる。
「苦役列車」の主人公北町貫多は「豊饒な甘えた」時代のピカレスクではない。父親が猥褻罪で逮捕される。テレビ番組ウィークエンダーで父親の事件が面白おかしく放送される。両親が離婚する。母親と姉・貫多は近所の人々が寝静まった夜、ひっそりと生まれ育った家を後にする。親の事件に打ちのめされた少年がそこにいる。中学を卒業すると母からも離れ、十六歳の少年は家を出て自立する。誰にも心を開くことなく、暗くうつむいて生きる少年はその日の生活の糧を得るため日払いの仕事を求め、東京の街をさまよう。この少年が何でピカレスクなのだろう。この少年が犯罪者の手先となり、盗みをする。俺オレ詐欺の仲間になる。暴力団の使い走りにでもなればピカレスクといえよう。しかし北町貫多は真面目に働き、日銭を稼ぎ、生きている。
 豊饒な甘えた社会のピカレスクとは進学エリート高の少年が劣等感に陥り渋谷のヤクザの手先になったりすることであるだろう。湘南海岸でヨット遊びに興じ、「狂った果実」の少年になったのは「豊饒な甘えた」時代のピカレスクであったであろう。親や学校などの善意に頼って遊びほうける少年たちである。しかし、北町貫多は豊饒な甘えた境遇に生きていない。回りの人の善意に頼ることのできない厳しい社会の荒波に放り出された中学卒の少年である。中学卒の少年や少女が金の卵と云われたのは三十年も前のことである。父親が性犯罪者であるという劣等意識を背負った中学生貫多は父親と自分は別人格だといわれてもこの劣等意識に耐えるにはまだ貫多にその力は備わっていなかった。劣等意識に心を奪われた貫多は中学校の生活を真面目におくることができなかった。そのため貫多は中学校での進路指導・就職紹介を希望することができなかった。教師もまた特に進路に関する相談を持ちかけることもなかった。劣等生に対し学校は冷ややかである。中学からの紹介もなく、親の援助もなく社会に放り出された十六歳の少年がアルバイト情報誌で見つけた仕事、履歴書も、保証人も必要とせず、収入を得る道は日雇い人夫以外になかった。
 貫多は自問する。三十キロの凍った蛸やイカを艀から冷凍庫へ、出荷用に冷凍庫から台車へと積み替える仕事に出て行こうか、行くまいか悶々とする。優柔不断な若者がここにいる。アルバイト、パート、派遣労働を発注する企業が派遣会社に支払う費目は物件費である。物件費とはコピー用紙やインク、ボールペンのような消耗品費のことである。派遣元の企業は派遣労働者を人間として見ていない。まさに現代に生きる奴隷労働が日雇い人夫や派遣労務者の労働なのだ。ウォーターフロントに立ち並ぶ巨大な倉庫での単純肉体労働は中世の奴隷労働のようなものだと貫多は感じている。この労働を貫多は嫌がっているのだ。尽きることのない単純肉体労働、永遠に続く果てしない苦役として貫多は感じている。カミュが「シジフォスの神話」で書いている。巨岩をシジフォスが山頂に運び上げると岩は自らの重みで谷底に転げ落ちる。それをまたシジフォスは山頂に運び上げる。するとまた、岩は自らの重みで谷底に転げ落ちる。そのような苦役として凍った蛸やイカを運び出すことを感じている。賽の河原で石を積み上げては鬼に壊され、また石を積み上げるような徒労としてしかこの労働が感じられない。苦役としてしか感じられない労働をしたあと心と体を癒してくれるものはお酒と女、そんな生活の中にあっても友人ができると奴隷のような仕事であっても出勤するか、どうか、自問することなく体が朝起きると出勤態勢になる。どのような労働であっても仲間ができると、労働そのものが厭わしいものではなくなってくる。ここにこの小説の本領がある。
 フォーリフトの運転作業をするため免許も無料で取らせてもらえる予定になる。がここで仲間の一人が運転練習中に足指を二本切断する事故を起こす。家族を持つ怪我をした仲間を思い、暗い気持ちに貫多はなる。労災保険も何の保障もないフォークリフト運転作業に貫多は物怖じする。フォークリフト運転免許を取ることに躊躇した貫多は運転免許取得を遠慮する。このように貫多はこの仕事のあり方に疑問をもち、不満も持つのだ。
 こうして日雇い人夫の労働が苦役以外の何者でもないということを西村賢太は体験的に告発している。現日本社会の最底辺に生きる者にとっての人生とは苦役を強制される列車に乗っているようなものである、と告発している。ここにこの小説の力がある。この小説は最底辺に位置する派遣労働のルポとしても読むことができる。


 この文章は西村氏が芥川賞を受賞した時に書いたものである。

醸楽庵だより  849号  白井一道

2018-09-13 16:24:28 | 随筆・小説



 沖縄知事選挙立候補者の政策発表会見を聞いて


 
 自民・公明・維新推薦佐喜真淳候補者は「対立や分断からは何も生まれない。政治は交渉だ」という政府とのパイプを生かして普天間米軍基地の返還を求めて行くと発言していた。
 私は佐喜真淳候補者の「対立や分断からは何も生まれない。政治は交渉だ」と言う言葉に引っかかった。相手側のオール沖縄からの立候補者玉城デニー候補の政策は沖縄を分断するものだと暗に批判した。
 前沖縄県翁長雄志知事は「イデオロギーよりアイデンティティー」と述べていた。アイデンティティーと言う言葉に翁長前沖縄県知事がこめた意味、沖縄県民の心は一つと言うことであった。保守であろうと革新であろうと沖縄県民の心は一つ。米軍基地の存在は沖縄経済発展を阻害するものだということ、沖縄県民が安全安心して暮らすには米軍基地を返還させることだ。
 沖縄県民が心を開けば、米軍よ、沖縄から出て行ってくれ、これ以上沖縄県民を苦しめることはやめてくれと言うことだ。ここに沖縄県民のアイデンティティーがあるということだ。
 前翁長沖縄県知事の「イデオロギーよりアイデンティティー」という沖縄県民の意思を分断しているのは自民・公明・維新推薦佐喜真淳候補者ではないかと考えていたが、その佐喜真淳候補があろうことか、翁長前沖縄県知事の意思を継ぐ玉城デニー候補は沖縄を分断すると批判している。沖縄県民の気持ち、意思を佐喜真候補は分断しているにも関わらず、相手候補玉城氏を沖縄の分断者だと批判している。
 佐喜真候補はなぜオール沖縄推薦の候補者玉城デニー氏を沖縄の分断者だと批判するのか。安倍自公政権は口を開けば沖縄県民に寄り添ってと言うが寄り添った政策をしたことはない。反対に沖縄県民よ、安倍自公政権に寄り添え、と言っている。安倍自公政権に寄り添った沖縄県政をしますと誓った佐喜真候補は米軍基地存続、辺野古新基地建設推進するのが沖縄県民の意思だとの認識に基づいて玉城候補を沖縄の分断者だと言っているのだ。
 安倍自公政権に寄り添う。米軍基地存続、辺野古新基地建設推進が沖縄県民の意思であると考えるのであるのなら、正々堂々と佐喜真候補は辺野古米軍新基地建設賛成と県民に訴え、選挙戦を戦えばいい。辺野古新基地建設については何も語らない。語るのは安倍政権とのパイプ、このパイプによって普天間米軍基地返還の実現と県民への福祉を主張している。
 権力に寄り添う。権力は絶えず公民化を推進する。公民とは、権力に寄り添う人間だ。権力に寄り添わない者は弾圧する。このような現実を知って佐喜真候補は安倍自公政権に寄り添うことが沖縄のためになると主張している。
 しかし権力に寄り添う道は沖縄の破滅の道であることに気づいていない。米軍基地の存在自体が沖縄を危険にさらすことである。米軍基地の存在は沖縄の人の安全と平和を脅かす。この事に気づいていたからこそ翁長前沖縄県知事は付きのような発言をしていたのだ。
「辺野古の新基地は絶対に建設できない。移設を粛々と進めるという発言は問答無用という姿勢が感じられ、上から目線の言葉を使えば使うほど県民の心は離れ、怒りは増幅する。官房長官の言葉は、キャラウェー高等弁務官の姿を思い出させる」(15年4月5日、菅義偉官房長官との初会談で)
 「今本土で飛んでいるオスプレイは一定程度が過ぎたら、みんな沖縄に戻ってくるんです。これを日本の政治の堕落ということを申し上げているんです。どうか日本の国が独立は神話だと言われないように、安倍首相、頑張ってください。ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー(沖縄の人をなめてはいけない)」(同5月17日、辺野古新基地建設に反対する県民大会で)
安倍自公政権は普天間返還合意に基づいて作られたSACO(沖縄に関する特別移動行動委員会)に基づいて普天間返還の交渉をアメリカ政府と交渉しなければ日本国の政府とはいえないだろう。日本は独立した主権国家だと言うのであるなら、直ちに日本国民の主張普天間米軍基地返還をアメリカに要求すべきであろう。
安倍自公政権がアメリカ政府に寄り添い、日本国民の正当な要求をアメリカ政府に主張しないどころか、日本国民に我慢を強制するのなら日本政府はアメリカの属国、半ば植民地だということなのか。
アメリカ政府に寄り添うことが日本国民の意思、アイデンティティーであるはずがない。日本国民は日本国民の平和と安全を願っている。

醸楽庵だより  848号  白井一道

2018-09-12 15:43:54 | 随筆・小説


  「牛部屋に蚊の声暗き残暑哉」芭蕉 元禄四年(1691)



句郎 農家の牛部屋の残暑の実在感が実に見事に表現されていると思う。
華女 子供の頃を思い出すわ。季節は九月頃ね。
句郎 蒸し暑さと牛の鳴き声がなんとも耐え難い。この気持ちが分かるということかな。
華女 そうよ。「蚊の声暗き」が凄いと思うわ。
句郎 牛部屋の暗さがまた耐え難い。蚊の声がイライラさせる。が、どうにもならない。
華女 この句は「残暑」というものを的確に表現しているわね。
句郎 蛇笏の詠んだ残暑の句「口紅の玉虫いろに残暑かな」。この句の残暑には人間が表現されていると思う。
華女 女の残暑ね。私には抵抗感があるわ。実際、そうであってもこのリアル感が嫌なのよ。
句郎 残暑とは、誰もが嫌だと感じることなんじゃないのかな。
華女 俳句とは現実をしっかりと受け入れるということなのね。
句郎 現実を知るということなのかな。
華女 現実と向き合うということはある面、厳しいことなのね。
句郎 久保田万太郎の句「牛堀でうなぎくひたる残暑かな」。この句はどうかな。     
華女 「牛堀」とは、地名よね。どこにあるのかしら。
句郎 この句を読んだとき、ゴミゴミとした東京の下町のうなぎ屋を想像したんだ。しかし調べてみると登記用の下町ではなく、茨城県潮来にあるウナギの名店で詠んだようだ。
華女 なんか、うなぎ屋というとゴミゴミした雰囲気があるんじゃないのかしら。
句郎 昔の田舎町のうなぎ屋でウナギを食べたからこの句は句になったということなのかな。
華女、ゴミゴミした場所でなくては残暑の表現はできないのかもよ。
句郎 「牛堀」という地名自身にゴミゴミしたイメージが付きまとっているようにも感じるな。実際はそうでなくてもね。
華女 芭蕉の句の牛部屋にも暑苦しく暗いゴミゴミしたイメージがあるわ。
句郎 またウナギとはそのような部屋で食べてこそ美味しいものなのかもしれないな。
華女 万太郎はなかなかの食通だったんでしょ。
句郎 またこんな句を発見したよ。阿波野青畝の句だ。「朝夕がどかとよろしき残暑かな」。「どかと」という言葉が効いているよね。     
華女 芭蕉の句「あかあかと日はつれなくも秋の風」と同じような世界を表現した句ね。
句郎 残暑にもいろいろな面があるということをいろいろな俳句を詠んで知ったように思う。
華女 俳句とはいろいろな季語についての認識を深めることでもあるのね。
句郎 そうなんだと思う。残暑にもこんな面があるよという発見があった時に句が生れるのかもね。
華女 芭蕉の句、「牛部屋に蚊の声暗き残暑哉」を初めとして少し「残暑」というものについての認識を深めることができたように思うわ。

醸楽庵だより  847号  白井一道

2018-09-11 16:15:10 | 随筆・小説



「  山里は万歳おそし梅の花」芭蕉 元禄四年(1691)



句郎 この句には「伊陽山中初春」という前詞がある。
華女 「伊陽山」とは、どこにある山なのかしら。
句郎 分からないんだ。調べてみたけれど分からない。場所が分からなければ理解できない句でもないから。
華女 街場から離れた山里と理解すれば、いいのね。
句郎 この句について服部土芳が著した『三冊子(さんぞうし)』の中の「くろぞうし」の冒頭に次のような文章がある。「発句の事は行きて帰る心の味也。たとえば、山里は万歳遅し梅の花、といふ類なり。山里は万歳おそしといひはなして、むめは咲けるといふ心のごとくに、行きて帰るの心、発句也。山里は万歳遅しといふ計(ばかり)のひとへは平句の位なり。」
華女 「行きて帰る心の味」とは、どのようなことを言っているのかしら。
句郎 「山里は万歳おそし」と言い話しただけでは、単に説明しただけ。それでは句にならない。「梅の花」と取り合わせると「山里は万歳おそし」という言葉と響き合って新しい世界が心の中に広がるということなんじゃないのかな。新しい世界が心に広がる言葉群を句という。このようなことだと理解しているんだ。
華女 山里は街場と違って梅の花が咲くころになると万歳師がやって来て、家々を巡り、新年を寿いでくれるということね。
句郎 山里の新年の清々しさは万歳と梅の花が咲くころなんだなぁーという感慨が読者に伝わるということなんだと思う。
華女 そのようなことを芭蕉は「行きて帰る心の味」と言ったということね。
句郎 「行きて帰る心の味」を表現する言葉が俳句だと言っているんだと思う。
華女、俳句は「取り合わせ」だということを言っていると理解していいということね。
句郎 俳句は取り合わせだということは、現代俳句に生きているんじゃないの。
華女 芭蕉の句が現代に生きているということなのね。
句郎 その通りだと思う。山本健吉は『現代俳句』の中で中村草田男の句「冬すでに路標にまがふ墓一基」について「行きて帰る心」が表現されていると述べている。「墓一基路標にまがふ冬来たり」では俳句にはならないと述べている。「冬すでに」と言い放している。これが「行きて」ということ。「路標にまがふ墓一基」が「帰る心」ということのようだ。芭蕉が俳句は行きて帰る心の味と言ったことが現代俳句に生きているということを山本健吉は述べている。
華女 上五の「冬すでに」が読者に何がという問いを発しているのね。
句郎 一里塚のようなものかと見間違いしそうだけれども、良く見ると打ち捨てられたお墓だった。人の世の寒々しさが漂ってくる。
華女 確かに「路標にまがふ墓一基」と言う言葉は「帰る心」になっているわ。「冬すでに」という言葉への答になっているわ。
句郎 何なのと問う。その問に答えるということなのかな。「行きて帰る心」とは、一種の問答なのかもしれないな。
華女 草田男の句、凄いわ。子供のいない私など。私の墓など誰からも見守られることなく、打ち捨てられてしまうと思うわ。「冬はすでに」私には来ているわ。
句郎 人間社会にある人の在り方についての認識を深めように働きが俳句にはあるのかもしれないな。
華女 それが文学と言うものなんじゃないかしらね。
句郎 文学になっている俳句が名句というんだと思う。
華女 人間の真実のようなものが表現されている句が俳句ね。私たちが楽しんで詠んでいる句にもたまには人間の真実のようなものが表現される場合があるのかもしれないわ。
句郎 そうだよね。しかしほとんどの句は単なる遊びの域を出ることはできないのかもしれないな。
華女 まぁー、そうよね。でも俳句らしきものを詠んで楽しめればそれでいいとしたいわ。
句郎 有り余る老後の時間を楽しめれば十分だよね。
華女 そうよね。だから句会などに参加して悪く言われたりして楽しめないということは最悪よ。
句郎 お金もかかるしね。お金をかけて不愉快な気持ちになるようだったら、本当だよ。最悪。