醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  846号  白井一道

2018-09-10 11:32:50 | 随筆・小説


 「乾鮭も空也の痩も寒の中」芭蕉 元禄三年(1690)



句郎 この句には、「都に旅寝して、鉢叩きのあはれ   なる勤めを夜毎に聞き侍りて」という前詞がついている。
華女 「空也」とは、お坊さんの名前でいいの。
句郎 そう。空也僧は、11月13日の空也忌から48日間寒中修業に入る。その修業中には毎夜未明に腰に瓢箪を巻きつけて念仏を唱え、鉢を叩き、和讃を唱えつつ踊りながら街中を巡り歩いた。空也僧は念仏宗の在家の信者たちのことようだ。
華女 思い出したわ。京都のどこの寺だったかしら。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝をあらわに草鞋をはき、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに写生した彫刻よね。確か空也像だったように思うわ。鎌倉時代の仏様だったように記憶しているわ。
句郎 六波羅蜜寺なんじゃないの。じっと見ていると気持ち悪くなるような仏さんかな。目が虚ろなんだよね。
華女 飢えと寒さに震える当時の民衆の虚ろな目なのかもしれないわね。
句郎 救いを求める民衆の願いの強さのようなものが表現されているのかもしれない。
華女 痩せこけた体をしていたわね。
句郎 芭蕉は夜の冬の京都、身に染み入る寒さの中で鉢叩きの音を聞いている。その音が乾鮭と痩せた在家の空也僧をイメージしたんだろうと思う。
華女 から鮭の「か」、空也の「く」、「寒の中」の「か」が引き締まった感じを与えているのよね。
句郎 この句、「乾鮭も」で切れているよね。更に「空也野痩せも」でも切れていない。そうじゃない。
華女、この句、三句切れの句ね。私たちがこのような三句切れの句を詠んだら怒られてしまうわ。
句郎 名人に定跡なしと言う言葉があるから、芭蕉は許されるということがあるのかもしれない。三句切れの句であるにもかかわらず、芭蕉作品の中の傑作の一句だという人が少なからずいるようだからね。
華女 自立した無関係な言葉「乾鮭」と「「空也の痩せ」、「寒の中」を並べるとこの三つの言葉が響き合って新たな世界が読者の心に立ち上がってくるのよね。
句郎 その通りだ。そこに芭蕉の芸があるのかもしれない。芭蕉は言葉の魔術師なのかもしれない。
華女 芭蕉の心には寒風が吹いていたのかもしれないわ。
句郎 芭蕉のこの句を読むと凍てついた寒風に背筋を伸ばして立つ姿が瞼に浮かぶような気がする。
華女 何か無機質な音の響きかしら。
句郎 無機質な音の響きがあるように感じるよね。山口誓子の句に「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」という句があるじゃない。何か、この句には芭蕉の句に通じるものがあるように感じる。
華女 「ピストルが」の「が」、このような「が」が上五にある句を初めて知ったような気がするわ。
句郎 誓子のほかにもあるかもしれないけれど、上五の「が」は少ないように感じるな。
華女 そうよね。この句にある音は無機質な音の響きね。
句郎 俳句は「写生構成」だと誓子は言っていたようだ。
華女 芭蕉の句「乾鮭も空也の痩せも寒の中」はまさに誓子の言う「写生構成」の句ね。
句郎 いや芭蕉の句が山口誓子の句に強い影響を与えていたということなんじゃないかと思う。
華女 そりゃそうね。芭蕉は今から三百年も前の人ですものね。
句郎 『おくのほそ道』に載せてある「荒海や佐渡に横たふ天の河」や「五月雨をあつめて早し最上川」、「暑き日を海に入れたり最上川」、「石山のより白し秋の風」という句を「姿先情後」の句だと堀切実は『現代俳句に生きる芭蕉』の中で述べている。この「姿先情後」という俳句の在り方は山口誓子の「写生構成」と同じだということを述べている。
華女 「ホトトギス」から分かれた「人間探求派」と同じように「ホトトギス4S」と言われた俳人の一人山口誓子にも芭蕉の句の精神のようなものが生きているということなのね。
句郎 芭蕉を批判したと言われている正岡子規も高浜虚子もまた芭蕉の句の影響を受けていたようだ。

醸楽庵だより  845号  白井一道

2018-09-09 15:42:01 | 随筆・小説


 「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」芭蕉 貞享元年(1684)



句郎 この句には、「西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに」という前詞がついている。
華女 芭蕉は西行の歌をこのようなものだと理解していたということなのね。
句郎 谷合を流れる川で芋を洗う女を見たなら西行は歌を詠まずにはいられないだろうと芭蕉は思ったんだろう。
華女 「芋洗ふ女」に西行だったら間違いなく詩を発見したに違いないということね。
句郎 「芋洗うふ女」に芭蕉は女の美というか、実在感のようなものを感じたんじゃないかと思う。岩波文庫『芭蕉紀行文集』に収められている「野ざらし紀行」の中に「芋洗ふ女」の句が載せてある。そこに次のような注釈がある。「西行は、天王寺詣での途次、江口の里の遊女に一夜の宿を所望したところ断られた。そこで、「世の中を厭ふまでこそ難(かた)からめ仮の宿りを惜しむきみかな」という歌を詠んだところ、この遊女はすかさず「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と読み返してきた」とね。しかしこの注釈はピントを外している。そのように感じる。芋洗う女の実在感と遊女の実在感は違っているように思う。
華女 確かに「芋洗ふ女」には生活感がにじみ出ている。その生活感が遊女の生活感とは違っているように感じるわ。
句郎 そうだよね。遊女の生活感には性的な匂いがあるが、農民であろう「芋洗ふ女」には母性的な愛の匂いがあるように思う。
華女 日々の生活の実在感ね。それが「芋洗ふ女」のどっしり感ね。遊女の生活感には儚さのようなが漂うわ。
句郎 石田波郷の句に「六月の女すわれる荒莚(あらむしろ)」がある。この句にある「六月の女」に匹敵する実在感があるように感じているんだ。
華女 この句は十五年戦争直後の焼け跡・闇市の世界を表現している句ね。
句郎 ここには生活に負けない女の逞しさのようなものが表現されているように感じる。
華女、生活に負けない女の強かさね。そこに女の実在感があると言いたいわけね。
句郎 「芋洗ふ女」にも「荒莚に座る女」にも厳しい生活に耐え抜く力があるように感じるな。
華女 白粉の匂いのしない女よ。ここにこそ、人間としての女は強いのよ。その強さが芭蕉の句にも、波郷の句にもあると句郎君は言いたいわけね。
句郎 その通り。そうなんだ。
華女 波郷もまた芭蕉の俳句精神のようなものを継承していると言いたいわけなのね。
句郎 実はそうなんだ。例えば波郷の「立春の米こぼれをり葛西橋」や「百万の焼けて年逝く小名木橋」という人に知られた句があるでしょ。これらの句について堀切実は『現代俳句に生きる芭蕉』の中で「波郷が、芭蕉から学んだ俳句の詩精神を具体的に示した句」として紹介している。
華女 芭蕉の「俳句の詩精神」とは、どんなものなのかしら。
句郎 「芋洗ふ女」の「情景」に感応する芭蕉の「心境」に「俳句の詩精神」を波郷は見たのではないかと思っている。堀切実の主張を私はこのように理解した。
華女 波郷は俳句の「韻文精神」ということを言ったのじゃないの。
句郎 波郷は「韻文精神」ということを説明した文章を残していないようなんだ。波郷は実作した作品によって「韻文精神」ということを示したようだ。
華女 どのような作品に「韻文精神」が表現されているのかしら。
句郎 「わが胸の骨息づくやきりぎりす」や「早春や道の左右に潮満ちて」。これらの句には「古典にならった格調高い表現法」が屈指されていると堀切実は述べている。
華女 これらの句は芭蕉に倣っているということなのかしら。
句郎 芭蕉に「白髪抜く枕の下やきりぎりす」という句があるでしょ。この句と波郷の句「わが胸の骨息づくやきりぎりす」。波郷は芭蕉の句を継承していると言えるように考えられるでしょ。
華女 わが命に対するドキドキ感が芭蕉の句にも波郷の句にも感じられるわね。キリギリスと呼応いる命ね。

醸楽庵だより  844号  白井一道

2018-09-08 11:39:18 | 随筆・小説


 「蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上」芭蕉 元禄三年(1690)



句郎 この句には凝縮した命の輝きのようなものを感じる。芭蕉がじっと蜻蛉を見つめている視線の先に震える命がある。
華女 生きることへの緊張感よね。
句郎 「物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句となる所なり」と芭蕉は述べていたと『三冊子』にある。蜻蛉が羽を震わせて一か所にとどまり草の葉の水滴を吸おうとしている。この蜻蛉の姿をじっと見て、感じたことが句となったということなんだろうな。
華女 トンボの姿を見て感じたことが句になるということなのよね。
句郎 蜻蛉の飛ぶ姿に自分の姿を発見するということだと思う。
華女 封建性社会、身分が厳しく規制されている社会に芭蕉は生きていたのよね。今では考えられないような言論の規制があった社会に生きていたのよね。
句郎 句を詠むということが誰かを傷つけるということがあってはならないという厳しい規制を芭蕉は自分に課していたと思う。
華女 切り捨て御免ということがまかり通った社会だったんでしょう。
句郎 日頃の行い、言動に緊張があった。この緊張感が芭蕉の言葉には反映しているのじゃないかと思う。
華女 トンボが草の葉に止まろうとして止まることができないでいるその緊張感ね。
句郎 このようなことを加藤楸邨は「真実感合」と言ったのではないかと思う。
華女、加藤楸邨は芭蕉の俳諧精神のようなものを継承しているということなのかしら。
句郎 例えば楸邨の句「物の葉にいのちをはりし蜻蛉かな」という句がある。この句は芭蕉の句を詠っていないだろうか。
華女 加藤楸邨は「人間探求派」と言われた近代の俳人よね。
句郎 「寒雷」という俳句結社の創立者かな。
華女 「寒雷やぴりりぴりりと真夜の玻璃」という句から「寒雷」と俳誌の名が生れたのかしらね。
句郎 加藤楸邨は何回も『奥の細道』を読んでいるようだからね。
華女 楸邨にとって『奥の細道』は枕頭の書だったのね。
句郎 堀切実著『現代俳句に生きる芭蕉』を読むと楸邨の句には芭蕉が生きているということを述べている。
華女 「真実感合」とは、客観的なものと主観的なものが一体化ものというようなことでいいのかしら。
句郎 草の葉の前で蜻蛉が羽を震わせている姿の真実とは、草の葉に止まろうとして止まれない。この事実にある真実とは何かということなんだろうな。真実とは人間の事実に対する認識だよ。認識とは主観だよ。
華女 「真実感合」とは、客観的な事実を見てその事実の真実を明らかにするということなのね。
句郎 そうだと思う。俳句とは事実を見て、その事実の真実を探求した営みの結果が俳句として誕生するということだと思う。
華女 じゃぁー、客観と主観の合一ということは、真実を得たということね。
句郎 その真実が読者に納得して受け入れられるか、どうかということだと思う。読者がそうだ、そうだと納得して受け入れてくれるならその真実は真実なのかもしれない。
華女 「蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上」と詠んだ芭蕉の句に私も句郎君と同じような命の躍動を感じるわ。危険と戦っている緊張感のようなものね。
句郎 そう、楸邨も「物の葉にいのちをはりし蜻蛉かな」と詠んで物の葉に止まるということが命の輝きだと認識ということだと思う。
華女 芭蕉の句は、草の葉の前で勇気を奮っている姿を蜻蛉に見ているのよね。この勇気を奮う姿に真実を見ているということね。
句郎 危険だと気持ちと戦うことに真実があるという認識を得たということなのかな。その認識は芭蕉の主観だよ。
華女 楸邨は蜻蛉が草の葉に止まって露を吸う姿に命の輝きを発見した。この発見が句になったということなのよね。
句郎 俳句を詠むということは真実を発見すること、真実を究明すること、そのようなことだということを芭蕉は俳句を詠んで明らかにしたということなんだろうと考えているんだ。

醸楽庵だより  843号  白井一道

2018-09-07 11:56:09 | 随筆・小説


 「病雁(びょうがん)の夜さむに落ちて旅ね哉」芭蕉 元禄三年(1690)


句郎 この句には「堅田にて」という前詞がある。
華女 病雁に芭蕉は自分を見ているのよね。堅田といえば、琵琶湖湖畔の街よね。今じゃ、湖西線沿線にある街よ。昔は葦の茂る農村だったんでしよう。その葦の茂み中に一羽、弱った雁を見つけた芭蕉は句を授かった。そんな風景が瞼に浮かぶわ。
句郎 この句には病んだ芭蕉自身の姿が詠みこまれているということなのかな。
華女 自然の風景の中に思いというか、主観を詠みこんでいるのよ。そのような句だと思うわ。
句郎 病雁を見て思いが湧きあがり、その思いを言葉にしたということかな。
華女 そうなんじゃないのかしら。
句郎 そのような句を情先姿後(じょうせんしご)の句というようだ。
華女 思いを自然風景として表現するということね。
句郎 「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」。芭蕉が元禄三年に詠んだ句のようだ。この句も凄いなと、思っているんだ。
華女 鳴く蝉の声を聴いて蝉の命の短さに思いが湧きあがったということね。
句郎 人間も同じようなものだという思いがあったんだろうな。過ぎ去ってしまえば六十年なんてほんの一瞬だっという思いがあるでしょ。
華女、ほんとにそうね。十七文字で人間の一生が表現されているのよね。
句郎 この句も「情先姿後」の句のようだ。
華女 元禄三年に芭蕉が詠んだに「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」という句があるでしょ。この句について高校の頃、古典の時間に教わったような記憶があるのよ。この句は「情先姿後」の句じゃないようなきがするわ。
句郎 芭蕉は漁師の家の軒下で見たことを写生している句のようだ。
華女 早朝の漁師の家の活気のようなものが表現されているわね。人間の生活が表現されているわね。このような句は何ていうのかしら。
句郎 現実の世界を表現することによって人間を表現している。だからこのような句を「姿先情後」というようだ。
華女 句の構造というのかしら。それは「情先姿後」の句と「姿先情後」の句があるということなのかしら。
句郎 『去来抄』の中に「病雁(びょうがん)の夜さむに落ちて旅ね哉」と「あまのやは小海老にまじるいとゞ哉」のどちらの句を俳諧集『猿蓑』に入れるかをめぐって去来と凡兆が話し合ったことが書いてある。 
華女 どちらの句がいいということになったのかしら。
句郎 『去来抄』は次のように書いている。「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑るいとゞハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也 と乞。去來ハ小海老の句ハ珍しといへど、其物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に兩句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などゝ同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」と
華女 「句のかけり事」とは、どのような意味なのかしら。
句郎 「かけり」とは、「翔り」と書くようだ。優れているという意味のようだ。
華女 それで両方とも良い句だということで話合いがまとまり、両方とも『猿蓑』に入集したということなのね。
句郎 この話を聞いた芭蕉は「病鴈のよさむに落ちて旅ね哉」と「あまのやは小海老にまじるいとゞ哉」とを「同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり」と書いている。芭蕉がこの二つの句を同等に論じ合ったことを笑った理由は何だったんだと思う。
華女 句の構造というか、句の成り立ちが違う句を同様に扱うことはできないにもかかわらず、同じような観点から評価しようとしたことを笑ったんじゃないのかしら。
句郎 まったくその通りだと思う。病む雁を見て思いが湧きあがった句と漁師の家の軒下で見た景色の句とを同じ地平では論じられないにも関わらず、論じている去来と凡兆、弟子たちはまだ俳諧と言うものが分かっていないんだということに芭蕉は気づき、笑った。


醸楽庵だより  842号  白井一道

2018-09-06 12:57:24 | 随筆・小説


 吟醸酒を楽しむ黒耀会九月例会「秀鳳恋おまち・毛利ひやおろし」


侘輔 今日のお酒は馴染みのお酒なんだ。一本は山形県山形市、秀鳳酒造の銘柄「秀鳳・恋おまち」、もう一本は山口県周南市山縣本店の「毛利・純米ひやおろし」だ。
呑助 えっ、もう「ひやおろし」の季節ですか。
侘助 九月になると本格的な日本酒の季節到来だよ。
呑助 旨い日本酒の季節ということなんですか。
侘助 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」と藤原敏行が『古今集』に詠んでいるように立秋が過ぎればもう秋だよ。
呑助 季節はもう秋ですか。まだまだ暑い日が続いていますがねー。
侘助 そうだよ。「あかあかと日はつれなくも秋の風」と芭蕉が三百年前に詠んでいるようにお酒の旨い季節が来ているということかな。
呑助 熟成したお酒を「冷おろし」と言うでしたね。
侘助 そう、「秋あがり」とか、「冷おろし」と言っているんだ。
呑助 新酒をおよそ半年寝かせたお酒、真夏でも蔵に入ると冷っとする蔵の中で熟成したお酒を今日は楽しめるというこです
か。
侘助 「秀鳳恋おまち」は広島県が開発した酒造米「こいおまち」を五十%精米した純米吟醸のお酒のようだ。
呑助 酒造米「雄町」を品種改良したものなんですかね。
侘助 「改良雄町」をさらに品種改良した酒造米が「こいおまち」のようだ。この米で醸すと吟醸香が高く濃醇に仕上がる。主に酒どころ広島で使われている酒造米を秀鳳さんが広島県農業組合から分けてもらい醸した酒が「秀鳳恋おまち」のようだ。上品な吟醸香と芳醇な日本酒の味を味わってみたい。
呑助 秀鳳さんのお酒は喉越しが柔らかく、切れのいいお酒ですよね。
侘助 なかなかノミちゃんも酒通のような発言をするようになったね。
呑助 お酒の味が分かってきているんですよ。
侘助 山口県のお酒、「毛利」は今まで何回か楽しんだお酒なんだけれど、印象に残っているかな。
呑助 忘れちゃっていますね。
侘助 今年七月に楽しんだお酒が山縣本店の「毛利無濾過原酒」のお酒だったかな。
呑助 味ののったお酒だったような印象がうっすらとありますね。
侘助 このお酒は酒造米山田錦で醸したお酒なんだ。
呑助 山口県周南市近辺で栽培されている山田錦で醸したお酒なんですね。
侘助 そうなのかもしれない。酒蔵に確認していないけれども、前回楽しんだお酒も山口県産の山田錦で醸したお酒だったから、今回のお酒も地元産の山田錦を使って醸したお酒なんだと思う。
呑助 最近はどこの酒蔵も中心は地元産のお米を使い、醸しているお酒が多いですね。
侘助 地産地消、ここにその土地の風土性というか、特色が出てくるのがいいんじゃないのかな。日本国中、どこで造ったお酒も同じ香り、味、味わいのお酒じゃつまらないし、地方の小さな酒蔵は生き残れない。地方色があってこそ、地方の小さな酒蔵が生き残れる。ここに日本酒の豊かさのようなものがある。だから我々は地方の小さな美味しいお酒を楽しみたい。

醸楽庵だより  841号  白井一道

2018-09-05 14:51:00 | 随筆・小説


  「この秋は何で年よる雲に取り」芭蕉 元禄七年(一六九四)


句郎 芭蕉没年の句だ。元禄七年十月十二日が芭蕉の命日だから。「この秋は」の句は九月二六日に詠まれている。この句を詠んで十五日後には亡くなっている。
華女 芭蕉辞世の句と言ってもいいような句ね。
句郎 芭蕉最後の傑作の句の一つに挙げている人が多いようなんだ。
華女 芭蕉晩年の句として有名な句は「この道を行く人なしに秋の暮」、「秋の夜を打ち崩したる咄かな」、「秋深き隣は何をする人ぞ」などが知られているわね。
句郎 それぞれ深い味わいのある句だと思うな。
華女 芭蕉辞世の句というとやはり「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最も芭蕉の辞世の句のように思うわ。何か、この句には芭蕉の人生が表現されているような気がするでしょ。そう、思わない?
句郎 そうなのかもしれない。五十年も昔、高校生だった頃、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が芭蕉辞世の句だと教わったような気がするな。
華女 「この秋は」の句を詠んだ後に「旅に病んで」の句があるのよ。
句郎 老いは突然やってくるというからね。
華女 突然、老いはやって来て、死は不意に見舞うのよ。
句郎 堀切実は『現代俳句に生きる芭蕉』の中で「この秋は何で年よる雲に鳥」の句を石田波郷は最も推賞し、「この句には芭蕉五十年の生涯の思いがこめられており、この句だけが私どもの生を証す」と述べていると書いている。
華女、波郷は芭蕉の句から強い影響を受けているのね。
句郎 月日が巡ると渡り鳥は雲に彼方に消えていく。人間もまた月日が巡りくるとこの世から消えていく。こうした自然の営みの中に私たちの生活はあるんだということを芭蕉は教えてくれていると波郷は芭蕉の句を読み、理解したということなんだと思う。
華女 当たり前と言えば、まったく当たり前のことを言っているに過ぎないように思うわ。
句郎 俳句は文学なんだ。文学とは、簡単に言ってしまえば、人間についての認識を深くし、他人への理解を深めるということだと思う。だから波郷は芭蕉の句を読み、俳句とは人間に対する理解を深めることなんだと気が付いたということなんだと思う。
華女 「人間探求派」というの。単なる花鳥諷詠でなく、人間を表現する俳句を詠もうとした俳人たちを「人間探求派」と言ったのね。波郷はその中心俳人だったということなのね。
句郎 波郷の他に中村草田男、加藤楸邨、篠原梵らが人間探求派と言われたようだ。
華女 芭蕉の句を読み、そこに人間が表現されていることに気づき、人間を表現する俳句を詠んだということなのかしら。でも芭蕉の句には人間が表現されていないような句もあるように思うわ。
句郎 例えば、どんな句があるかな。
華女 そうね。「夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うず)ツ」というまだ芭蕉が若かったころの句があるでしょ。この句は実に正確な写生の句だという話を聞いたことがあるわ。
句郎 確かに栗名月の句として知られている句の一つなのかな。クリシギゾウムシの幼虫は栗の実の中に入り込み、食べるという話を聞いたことがある。
華女 そうでしょ。この句は写生の句なのよ。
句郎 芭蕉の句には、虚子の言うような花鳥諷詠の句が確かにあるようなんだ。そういう点では虚子は芭蕉の句を継承しているということは言えると思う。子規も虚子も芭蕉の手の内で句を詠んでいたとも言えるように思うな。
華女 日本近代の子規や虚子は、芭蕉の初期の句のようなものから句を詠み始めたということなのかしら。
句郎 もしかしたら、芭蕉の句を知らなかったのかもしれない。だから初期の芭蕉は写生から出発し、徐々に自然を詠み、その背後に人間を表現するようになっていった。晩年の句、「秋深き隣は何を人ぞ」。この句はまさに人間社会を詠んでいる。
華女 この句、「秋深き」なのよね。「秋深し」じゃないのよ。ここに芭蕉の芸があると思うわ。
句郎 「秋深き隣」だからね、切れていないということ。


醸楽庵だより  840号  白井一道

2018-09-04 12:13:35 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』途上詠まれた句「早苗にも我色黒き日数かな」  芭蕉



句郎 この句の前には次のような前詞がある。「みちのくの名所名所、心に思ひこめて、まづ関屋の跡懐かしきままに古道にかかり、い    まの白河も越えぬ」
華女 この句は白河の関で詠まれたのね。いつのことだったのか、わかるのかしら。
句郎 『曽良旅日記』旧暦の四月二十一日(新暦六月八日)「 白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由」とあるから、今の六月八日に芭蕉は白河の関跡を見物している。
華女 芭蕉と曽良が江戸、深川を立ったのはいつだったのかしら。
句郎 旧暦の三月二十七日に深川を立ち、その日は日光街道の宿場町粕壁(かすかべ)に泊まっている。
華女 新暦でいうといつになるの。
句郎 五月十六日のようだ。
華女 深川を出て、二十一日目に芭蕉は白河の関まで歩いて行ったということね。
句郎 白河まで歩いてきた感慨が「日数」という言葉に表れているのかな。
華女 この句は「日数」と言う言葉に思いが籠っているのね。
句郎 「早苗にも」という上五の言葉がピンとくるものがないんだけどね。
華女 芭蕉にはもう一句、白河で詠んだ句があるわね。「西か東か先(まず)早苗にも風の音」と詠んでいるのよ。「早苗にも風の音」と詠んでいる。だから「早苗にも日数かな」なのよ。
句郎 早苗の植わっている田を見て、早苗が生き生きしている時間と言うものを詠んでいるかな。
華女 「早苗にも風の音」とは、空間を詠んでいるということかしら。
句郎 「早苗にも我色黒き日数かな」と「西か東か先(まず)早苗にも風の音」とは一体の句なのかもしれないな。
華女 この二つの句は白河の関跡で詠んでいるのよ。白河の関跡のある所には早苗田が広がっていた。この時間の経過と空間の広がりのようなものを芭蕉は詠みたかったんじゃないのかしら。
句郎 「秋風や藪も畠も不破の関」は「秋風」が動かない。決まっている。この句に比べると「早苗にも我色黒き日数かな」、「西か東か先(まず)早苗にも風の音」は句としての出来は今一かな。
華女 「早苗にも日数かな」、「早苗にも風の音」という言葉が喚起するイメージが白河の関跡と結びつかないのよ。前詞があって初めて早苗田が広がった白河の関跡を詠んでいるということが分かって初めて納得できるのよ。
句郎 句としてはまだ熟成していないということなのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。

醸楽庵だより  839号  白井一道

2018-09-03 15:36:52 | 随筆・小説


  現代文学の課題について 


 現代文学の課題を岩渕氏は小林多喜二の言葉を引いて「貧困を書くのではなく、いかに貧困であるのかを書くのだ」と主張した。
小林多喜二がどこでどのような文脈でこのように述べているのか、わからないが、貧困がいかにしてつくられているのかを書け、と言ってるのだと私は理解した。
 多喜二が生きた明治末から大正時代の初めごろの文学の課題が貧困の問題であった。それから百年後の現代も貧困の問題が文学の課題になっている。資本主義という経済の仕組みは貧困の問題を基本的には解決することができない。
いかに貧困が高度に発達した資本主義国・日本で、いやアメリカ合衆国にあってもつくりだされているのか、この問題に文学はとりくまなくてはならないようだ。
 現代日本の貧困に対して文学者が発した言葉の中で力を持った言葉の一つが「生きさせろ」だ。若手作家・雨宮処凛のルポの表題である。処凛は主張する。「無条件で生きさせろ」。労働意欲も旺盛な元気な若者がホームレスとなり、生きられない現実がある。この現実に対して人間すべてを無条件で生きさせろと主張する。この日本の現実はアメリカの現実でもあるし、世界の現実でもある。この現実がいかに、どのように、もっともらしくつくられていっているのかを表現することが現代文学に課せられている。
 憲法が保障する生存権が脅かされている。この生存権の実現が現代日本社会に課せられている。それはまた同時に現代文学の課題でもあるのだろう。多喜二が生きた時代には憲法が生存権を保障していなかった。主権在民、自由・平等を求める者に対して権力は剥き出しの暴力でもって弾圧したが現在はこのようなことはできない。現代の権力者たちは憲法二十五条が保障する生存権は実現すべき目標であって直ちに生活に困っている人々を救済できないことがあっても憲法に違反しないと主張して、生存権の実質的な実現を拒んでいる。
 資本主義という経済システムの下では財政上、生存権を保障する予算がないという理由で貧困を政府は解
決しようとしない。なぜなら生存権というものは抽象的な目標でしかないのだから直ちに実現しなくともよい。憲法に反するわけではないというのだ。
 われわれ国民の課題は生存権の保障という抽象的な政府の課題を具体的に実現する課題にしなければならない。だから憲法は次のようにも述べている。
日本国憲法第十二条は、憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない、と述べている。
 国民は不断の努力によって生存権の保持を実現しなければならない。国民の生存権を実質的に実現する不断の努力の一環として文学もあるのだろう。
 今までのいつの時代も、社会も底辺に生きる弱者に社会の負担を背負わせようとする。強者は弱者に負担をしわ寄せし生き延びようとする。この実態を具体的な生活の場で表現し、訴えることが文学に課せられている。
 文学は弱者同士の協力や連帯を表現することによって権力者を弾劾しなければならない。

醸楽庵だより  838号   白井一道

2018-09-02 16:50:00 | 随筆・小説
 

 
  白井聡著『永続敗戦論』を読む



 始め、「永続敗戦」という言葉が何を意味するのか、分からなかった。読み進むうちに分かった。日本国(政府)はアメリカ合衆国(政府)の属国だということを白井聡は「永続敗戦」という言葉で表現していた。
 日本がアメリカの属国だということは新しい発見ではない。ガバン・マコーマック著『属国-米国の抱擁とアジアでの孤立』という著書が二〇〇八年に出版されている。さらに日本共産党はすでに一九六一年に発表された党綱領で日本はアメリカに従属した国家であるということを見抜いていた。しかし日本国民が日本国の主権を獲得する動きはあってもその動きが日本国民の心を捉え、多数者になることはなかった。なぜ日本国民がアメリカからの主権回復を求める運動に共感し、アメリカの軛からの解放を求めなかったのか。その理由を解明した著書が白井聡の『永続敗戦論』だと私は思った。
 自立することは大人になることである。大人になることは未成年のような保護を受けることができない。保護される安逸から抜け出て冷たい風雨に曝されることが大人になることである。大人になる恐怖に怖気づいていた。戦後日本の政治を支配した保守政治家たちはアメリカの保護があれば、日本の安全を確保できると安心していた。その安心感が国民意識として定着したが故に日本の主権を回復し、独立国になる道を日本国民は選ばなかった。このような日本の社会意識を解明したのが『永続敗戦論』なのではないかと私は解釈した。
 『永続敗戦論』を読み、カントの「啓蒙とは何か」を思い出した。未成年から大人になることが啓蒙ということだとカントは述べている。『永続敗戦論』は日本国民への啓蒙の書であるのだろう。大人になる勇気を持とう。アメリカの保護から抜け出し、自立した大人の国になろう。大人になる勇気を持とう。このようなことを述べていると私は理解した。
 アメリカの保護に安住しようとする日本の保守政治家たちが恐れるのは日本の共産化、社会主義化のようだ。日本の保守層は共産化、社会主義化に恐怖している。この恐怖がアメリカの保護を求めている。白井聡は『永続敗戦論』文庫版二二七頁に河原宏の著書から次のような文章を引用している。「近衛らが”革命より敗戦がまし”という形で、なんとしても避けようとした「革命」とは、究極のところ各人が自主的決意と判断によって行動するに至る状況のことだったのではないか」
 そうなんだ。日本の共産化とは、社会主義化とは日本国民が自分の判断に基づいて決断し、行動することであったのだ。
 「国体」とは、国民に犠牲を強いるシステムである。この「国体」を護持したいということだ。国民自身が判断し、決断した行動をするようにでもなったら国体を護持することができない。
 戦前から続く「国体」を護持するため昭和天皇はアメリカへの敗戦の道を選んだ。このアメリカへの敗戦の決断は永続して国民に犠牲を強いる「国体」を護持するためであった。だから「敗戦」は「終戦」なのだ。「終戦」は決して「敗戦」であってはならない。「終戦」であったが故にA級戦犯岸信介は戦後総理大臣になった。台湾や朝鮮を植民地支配したことはマニュフェスト・デスティニー、遅れた国を文明化したのであって、感謝されこそ、糾弾される謂れはない。中国へ侵略したということはこれからの歴史学者が決めることと、安倍総理は認めない。

醸楽庵だより  837号  白井一道

2018-09-01 11:50:14 | 随筆・小説


   「冬蜂の死にどころなく歩きけり」  村上鬼城

 日本将棋連盟順位戦C級一組第4回戦、青野照市九段(六五歳)対藤井聡太七段(一六歳)の試合をyou tube で見た。高校一年生の将棋プロ棋士が元A級青野九段とどのような将棋をするのか興味があった。青野九段は将棋入門の著書を何冊も書いている。中でも鷺宮定跡という対振り飛車戦を迎え撃つ定跡の考案者としての名がある。
 プロの将棋指しになれたとしても九段にまでなれる棋士は少ないであろう。九段より上位の段はない。
 また青野九段は前将棋連盟の専務理事のような要職をしたトップ棋士の一人であった。勝負師の世界は厳しい。九段という輝かしい経歴があっても将棋NHK杯選手権などの場合、予選から立ち上がらなければ本戦(テレビ放送)に出場することはできない。ここ何年か、青野九段がNHK杯に出場しているのを見たことがない。将棋観戦を楽しみにしている者にとって青野九段はすでに過去の棋士になっていた。私の将棋観戦にとって久々の青野九段の対戦だということもあって藤井七段とどんな戦いをするのか、興味があった。
 対藤井戦を見ていて、村上鬼城の句「冬蜂の死にどころなく歩きけり」を思い出した。六五歳、九段、輝かしい棋歴を持つ老棋士が高校一年生一六歳の少年に完敗した。
 将棋の解説をしていた現役八段の棋士が将棋はすでに終わっていると、述べていたが、青野九段は指し続ていた。
 将棋の終盤、青野九段は負けを百も承知していた。その証拠に青野九段は欠伸をしていた。「俺も弱くなったものだ」と、自分を自分で笑い、テレを隠すつもりの欠伸だったのかもしれない。無様な姿を曝し続けた。
 老いることは、無様である。無様であることをそのまま、あるがままにさらけ出すことも、勝負の世界に生きた人間の在り方なのかもしれない。六五歳、老勝負師の生臭さが青野九段には漂っていた。
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」村上鬼城
 現世への未練はまだまだ捨てきれるものではない。