明らかな誤訳は論外として翻訳文のスタイルを次の4タイプに分類できるとします。つまり、
①上手な直訳、②翻訳語の母語話者には意味不明な直訳、③達意の意訳、④創造的というか破壊的な意訳の4個にカテゴリー分けするとします。この中で良い翻訳とはどのタイプの訳でしょうか。
この問いを考える上で、私は翻訳書の読み方を更に大きく二つに場合分けして考えています。原書原典を傍らに置いて訳書を読むケースと訳書のみを読む場合の二つのケースです。前者では翻訳書は原典原語で理解するための補助手段であり、後者ではそれ自体が単独単体で解読されるべきテクストになりますよね。この両ケースでは翻訳書の用途が異なっている。でもって、用途=機能が異なれば「それが良い翻訳かどうか」の基準も自ずと違ってくるでしょう。
良い翻訳とはなにか? 私は補助手段としての良い翻訳とは①>②>③>④の順番であり、他方、単独のテクストとして訳書を読む場合の良い翻訳は③>(①/④)>②の順ではないかと日頃から思っています。
若干解説を加えれば、後者ではそのテクストを何のために読むかという読書の目的によって銀メダルと銅メダルの行き先が変わるのではないか。私はとんと小説など読まない人間ですが、小説にしても論文にしても映画の字幕にせよ、原著者の真意にできるだけ迫りたいという向きには①が銀メダルになり、逆に、気楽にストーリーを楽しみたいとか原著の主張のアウトラインやエッセンスを短時間で知りたい、あるいは、お気に入りの翻訳者の文章を堪能したいという読者が審査員の多数を占める場合には銀メダルは④の頭上に輝くことになると思うのです。
しかし、「原著者の真意に迫る」とか「原著の主張のアウトラインを知る」とかの度合いは、実は、ともにドイツ系の哲学者:シュライエルマッハとかディルタイの解釈学を持ち出すまでもなくそう簡単に判定できることではない。つまり、「良い翻訳」のメルクマールとして私が掲げた、「上手な」、「達意の」、「創造的というか破壊的」あるいは「直訳」や「意訳」の語義自体、実に曖昧で微妙な基準なのだと思います。
原書が書かれた言語の持つ文法の法則や語法により忠実な(1対1対応関係にあるような)翻訳語の表現をどの程度採用しているかが言わば直訳の度合いの判定基準になるかもしれません。例えば、“There were few students who spoke English at the meeting.” を「英語を話す所の学生はほとんどゼロ人そのミーティングにいた」と訳するのと「そのミーティングには英語を話す学生はほとんど出席していなかった」と訳すのとでは前者が直訳の度合いが高いというふうに。
しかし、ある母語話者が属している集団の歴史や文化の精華たる原語をこれまた特殊文化的で特殊に歴史的な別の言語体系に移すという、<翻訳という営み>自体が孕む暴力的な本性を考えれば、このような直訳と意訳との差異などは枝葉末葉の事柄にすぎないのかもしれません。少々下品な喩え(an indecent allegory)になりますが、意訳と直訳の差などは、意訳:被害者をボコボコに殴り倒した上で財布を奪い去るのと、直訳:被害者を拳銃でまずホールドアップさせて被害者自身からクレジットカードのナンバー・有効期限・暗証番号を聞き出すことの違いくらいしかないのではないでしょうか。では翻訳とはそもそもどんな企てか。
翻訳とは、彫刻や彫像を平面のキャンバスに写し取るような営みではないか。例えば、ニューヨークの自由の女神像をモティーフにして描かれた絵画とか。しかし、ヌイグルミのキティーちゃんもアップリケのキティーちゃんも、東京土産のキティーちゃん饅頭のキティーちゃんも全てキティーちゃんであることには変わりはない。要は、原典のモティーフが読者の許容する自己同一性を失わない限りそれは<翻訳作品>の資格をも失わない。つまり、ある彫像を投影図法で<正確>にキャンバスに移すような直訳的な作業だけが翻訳の営みではないのではないか。翻訳という作業の本性に着目した場合そうなるのではないか。私はそう考えています。
蓋し、ある言語で編まれたテクストを別の言語に<正確に移すこと>など原理的に不可能です。原語も翻訳語も、各々独自の文法・語法の体系を持ち、(言語学ではお馴染みの「虹は何色」の例で示唆されるように)ある単語が世界の森羅万象から切り取るある特殊な部分も言葉によってさまざまなのですから。ならば言葉に着目して考えても、所詮、意訳と直訳の間には相対的な違いしかない。
言語道断の誤訳は論外として、結局、良い翻訳かどうかの判定も読者のニーズから導かれるしかないでしょう(注意すべきは、この「読者」には最初の読者たる翻訳者自身も含まれることです)。ただし、「読者のニーズ」は必ずしも個々の「読者の好み」に還元されるわけでもない。つまり、この「読者のニーズ」とは具体的な個々の読者の個人的で主観的なニーズではなく類型化された読書の諸目的から逆に構成される間主観的なものなのだと思います。歴史的で公共的な二つの言語を使いながら、万人に公開されているという点でこれまた公共的なテクストを素材にして、その原典素材のモティーフのアイデンティティーを損なわないように細心の注意を払いながらこれまた公共的な翻訳テクストを産み出すという作業は(制作道具と完成作品の双方から)二重に公共性を課せられている。ならば、翻訳の良否の判定基準も公共的=間主観的にならざるをえない、と考えるからです。
と、翻訳に関して私は現在このように考えています。すっきりとした結論はなかなかでませんし、最後は哲学の認識論の領域に逃げたと言われても文句は言えないでしょう。良い翻訳とはなんだろうかというテーマは難しいです。しかし、今後とも時々このテーマについて考えていきたと思っています。尚、このイシューにつきましては下記の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
●翻訳をするということの難しさについて
●続・翻訳をするということの難しさについて
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/UG0209.htm
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