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「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(6)

2010年10月13日 10時04分50秒 | 日々感じたこととか


◆憲法とナショナリズム

日本ではよく「愛国心はならず者の最後の避難場所」という英米の箴言を引いて、ナショナリズムを顕揚信奉する保守派を揶揄する<識者>が見受けられます。愛国心とナショナリズムが当然のこととして理解されている、健全な保守主義の根づく英米では、上のような警句は含蓄のある言葉なのだとも思いますが、しかし、残念ながら、ナショナリズムの当然の価値を看過・軽視・否定する向きもなきにしもあらずのこの社会では、むしろ、

「「愛国心はならず者の最後の避難場所」と口にするのが、日本では、最早、「左翼-リベラル派」の最後の逃げ口上」


と、言っていいの、鴨。実際、そう思わないでもないですね。 畢竟、日本でも、ナショナリズムが「国民国家=民族国家」の正当化イデオロギーであり<政治的神話>であることについては人口に膾炙していますし、本稿でもその冒頭で述べておきました。而して、ナショナリズムが<憲法>の一斑であるという経緯は(特に、<憲法>規範の中でも、憲法訴訟で争われるタイプの憲法規範というよりは、憲法慣習を導きそれが蓄積されていくプロセスにおいて与して力あるタイプの憲法規範であるとことは)説明の必要もないでしょう。

実際、それを構成する素材は、文字通り、神代の時代からことかかない我が日本においても、「国民国家=民族国家」としての日本国やナショナリズムは近代の歴史的に特殊な観念表象であり社会思想である。而して、だからこそ、ある言説が「偏狭なるナショナリズム」に該当するか否かを判定する、謂わば<偏狭なるナショナリズム判定ストライクゾーン>の存在と内容を間主観的かつ論理的に説明することも可能になるのだと思うのです。尚、この点、<憲法>に関する私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。

・古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145667266.html

・女系天皇は憲法違反か
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11140228164.html








蓋し、ナショナリズムが<ナショナリズム>を通して<憲法>に編入される経緯は、(島津藩の領主一族の分家の娘が、京都の摂関家の養女となりその資格で、徳川将軍家に正室として輿入れした<篤姫>の構図に似てなくもないからか)難解でないわけではないがイメージ的に理解されやすいようです。他方、(諸法規間の、あるいは、諸法体系間の授権関係としてみた場合)ある国のナショナリズムが実定的な国際法体系(就中、実定的な国際法秩序の枠組みとしての帝国)の川下にあるという経緯は若干敷衍する必要がある、鴨。要は、ナショナリズムが<憲法>とその周辺に位置する以上、それは<憲法>とパラレルにあるタイプの国際法の規制を受けることになるけれど、逆に、当該の国家は自国のナショナリズムをその同じ国際法の原理を根拠にして守護・堅持に努めなければならない、と。それだけのことなのですけれどもね

例えば、「皇位承継者の選定に際して候補者の性別を考慮してはならない」という内容の法規範を、(A)オランダが制定した場合、(B1)それを定める国際条約が法として有効に発効したけれど日本は加盟しない場合、(B2)日本も加盟した場合を想定してください。


(A)(B1)のケースが日本の<憲法>とナショナリズムに何の影響もないことは自明です。復習になりますが、逆に言えば、「日本は日本、オランダはオランダ」「日本は日本、他国は他国」と悪びれることなく言える根拠が、国際法と国内法との間の授権関係の存在なのです。而して、(B2)の場合、皇位継承を男子に限定している皇室典範とこの条約の効力関係が問題になる。本稿の理路において最も重要なことは、(B2)に関して、効力関係において条約が皇室典範に優越したとして、たとえ愛子様が皇嗣になられたとしても、それは(「授権関係」の帰結ではなく!)あくまでも「皇室典範と条約の効力関係における優劣を定める日本の国内法」の帰結にすぎないということ。

更に言えば、(B2)の事例でも授権関係は存在しており、畢竟、それはこのケースでは、「皇室典範と条約の効力の優劣に関しては、効力関係における優劣を定める日本の国内法の定めに従うべきだ」というルールとして具現するということです。    

要は、実定的な国際法体系が<憲法>やナショナリズムの授権規範であるからと言って、自動的にある任意の国際法の規範内容が日本の<憲法>やナショナリズムに流れ込んでくるようなことはないのです。この知見を受けて、いよいよ「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味について検討します。






◆「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味

改めて自問自答。一体、「偏狭なるナショナリズム」とはどういう意味なのでしょうか。「偏狭なるナショナリズム」の「偏狭なる」という形容句は、例えば、「我が偉大なる巨人軍」、あるいは、「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」とかの修辞的形容句と同様、特別の意味はない、すなわち、独特の指示対象を持たない<無意味>な言葉なのでしょうか。

いずれにせよ、実際、(もちろん、その言説が名誉棄損・脅迫等の犯罪や不法行為を構成するのであれば問題は少ないとしても、そうでない場合)ある言説が「偏狭なるナショナリズム」であるかどうかを、誰が、どんな判定基準に基づき、どのようなプロセスで判定できるというのか。それとも、この「偏狭なる」の4文字に特に意味はなく、而して、仙谷官房長官の「偏狭なるナショナリズムは好ましくない」という趣旨の発言は、逆に、「すべてのナショナリズムは好ましくない」という主張なのでしょうか。冗談抜きに(冗談では済まない問題なので、すぐ後で少し詳しく説明しますが)、もし、「偏狭なる」が、徹頭徹尾修辞的なものなら論理的にはそういう結論にならざるを得ないのですけれども・・・。

左翼活動家の経歴を誇る仙谷氏のことですから、ご本人はこの発言で、率直に「すべてのナショナリズムは好ましくない」と言いたかったの、鴨。しかし、本稿で論証したように、(a)近代以降の国家では、ナショナリズムは左翼の論者に対しても規範的拘束力を帯びる。また、(b)ナショナリズムは<憲法>の一斑でもあり、仙谷氏の願望がどうあれ、「すべてのナショナリズムは好ましくない」という主張は、少なくとも、実践的には社会思想と憲法論の双方の領域で成立しようがないのものなのです。




表現の自由を巡る憲法訴訟を想定すれば自明の如く、政府高官の主観やTVのワイドショーのコンメンテーターの多数決で、ある言説の「偏狭度合」が決まるものではない。蓋し、ある言説や行動が「偏狭なるナショナリズム」であるか否かは、国内法的には、その言動が<憲法>と整合的であるかどうかで定まり、国際法的には、実定法的な国際法体系と整合的であるか否かで定まる。と、そう私は考えています。而して、後者に関して重要なことは次の2点、

(α)法体系間の効力関係を制御する原則から見ても、国際法の具体的内容が日本の国内法に自動的に流れ込むことはあり得ない

(β)実定法的な国際法体系や帝国から導かれる「偏狭なるナショナリズム」のストライクゾーンに関する意味内容は、(戦争犯罪等の極めて特殊な領域を除けば)法体系間の授権関係を律するルールに限定されること   


◎「偏狭なるナショナリズム」の判断基底

・国内法的判定:<憲法>との整合性
・国際法的判定:授権規範のルールとの整合性







「偏狭なる」という言葉に戻ります。蓋し、「ナショナリズム」という観念的表象に「偏狭なる」という形容句がつく場合、その形容句が修辞的なものではないとするならば、それは、「ナショナリズム」を要素とする集合の内部に、「偏狭なるナショナリズム」や「偏狭ではないナショナリズム」と呼ばれるに相応しい要素が構成する集合が包含されていることと同値でしょう。

例えば、「赤い薔薇」という言葉の「赤い」という形容句がこの世に存在する/存在した/存在しうるすべての「薔薇」の中から、あるタイプの薔薇を選び出し切り取っているように、「偏狭なるナショナリズム」という言葉は、世に散見される多様なナショナリズムの中から特殊なあるタイプのものを選び出し切り取るものなのか。

それとも、それは、例えば、「偉大なる領袖」「我等が親愛なる指導者」とかの修辞的形容句に飾られた語句とパラレルな、J.A.オースティンの言う意味での「言語行為」の一斑として、「そうなれあれかし!」という話者の意志や願望、あるいは、「その実現を妨害するようなら対抗措置を覚悟せよ!」という威嚇の表明等々のどれかなのか。   

畢竟、「偏狭なる」の用法が後者の修辞的な言語行為であれば、「偏狭なるナショナリズム」はすべての「ナショナリズム」を包摂可能な極めて曖昧で不適切な言葉の用法であり、もし、前者であるとすれば、「偏狭である/偏狭ではない」の判定を誰かの主観の判定で済ますのではない以上、「偏狭なるナショナリズム」は<憲法>と実定的な国際法体系から枠づけられ補完されるべき概念ということになる。と、そう私は考えています。





而して、仙谷発言のコンテクストに引き付け、国際的な局面を想定して言えば、ある言動が「偏狭なるナショナリズム」であるかないかは、次のトライアッドテストで判定可能ではないかと考えます。

(壱)覇権主義テスト
(弐)排外主義テスト
(参)差別主義テスト


(壱)自国の主権の及ばない領域で惹起した事態へのコミットメントが見られないかどうか、(弐)(もちろん、ナショナリズムである以上、「おらが国が1番!」という心性を世界のすべての論者が抱くのは当然として) 他者の抱く「自分の国が1番!」という主張を認めないメンタリティーが露出していないかどうか、そして、(参)国籍・民族・人種のグループに着目して、十羽一絡げ的に相手への否定的評価を下す態度が露呈していないかどうか。   

而して、(壱)は、対外主権の割り振りそのもののルールのナショナリズムへの反映。(弐)は、領土主権をお互いに尊重するルールの反映。そして、(参)は、主権国家のみが原則国際関係の主体であることと責任主義の反映として、各々授権規範のルールから抽出・再構成したものです。

些かテクニカルになる憾みもあり詳述は割愛しますが、これらの3個の判定指標は、実定的な国際法の授権関係から直接・間接に演繹可能なものであり、我が国<ナショナリズム>の内容とも親和的であろうと考えます。いずれにせよ、<皇帝なき帝国>の時代こそ、ナショナリズム再構築の旬。「偏狭なるナショナリズム」に陥る<死に至る病>を抱えた「中華主義」への警戒を怠ることなく、日本では今こそナショナリズムの華の百花繚乱が希求されている。と、そう私は確信しています。

頑張って行きましょう。
共に闘わん。








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