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所得と学力の相関関係と因果関係が投影する<格差論>の傲岸不遜

2009年12月13日 07時25分13秒 | 教育の話題

 


子供達の学力は家庭の所得の<関数>である。塾・予備校業界で世過ぎ身過ぎしている者にとっては常識である<事実>が最近人口に膾炙しているようです。そして、日本のGDPに占める教育機関への公的支出の割合はOECD加盟国中最低水準なのだから、「格差の世代間固定化」なるものを回避するためにも国は教育予算を増やすべきだとう言説を頻繁に目にするようになりました。些か旧聞に属しますが、例えば、

●小6正答率、世帯年収で差=学力テストの追加分析-文科省
年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

委託研究では、5政令市にある公立小100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。

学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万円未満の平均正答率(%)が最低だった。正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた。(時事通信:2009年8月4日)

●教育への公的支出、日本は下から2番目 OECD調査
日本や欧米など30カ国の教育の現状をデータで紹介する経済協力開発機構(OECD)の「図表でみる教育」が8日公表された。06年の各国の国内総生産(GDP)に占める学校など教育機関への公的支出の割合を比べると、日本は3.3%で、データがある28カ国中、下から2番目だった。 28カ国の平均は4.9%。日本の支出割合はこれまで最下位層で低迷し、28カ国中最下位だった前年より、今回は順位を一つあげたものの、支出割合では3.4%から3.3%に落ちた。

支出割合が高い国の1位はアイスランドで7.2%、次いでデンマークの6.7%、スウェーデンが6.2%の順。最も低いのはトルコで2.7%だった。 一方、教育支出に占める家計負担の割合は21.8%で、データが比較可能な22カ国中、韓国に次いで高かった。 また、教育環境面で、先生の負担と結びつく児童生徒数をみると、小学校1クラスの平均人数(07年)は日本が28.2人で、OECD平均の21.4人と開きがあった。中学校も1クラス33.2人で、平均の23.9人と大きく差があった。

教育への公的支出の低さをめぐっては、経済危機で教育費の負担感が増したことを背景に、今回の衆院選で各党が公約にOECDの指標を引用し、改善をうたった。 民主党は、教育への公的支出を「先進国平均(対GDP比5%)以上を目標に引き上げる」「OECD先進国並みの教員配置を目指し、少人数学級を推進する」と掲げた。仮に5%とすると、新たに7、8兆円の財源が必要となる。 文科省の今年度当初予算は約5兆3千億円。(後略、朝日新聞:2009年9月9日)


私は、ここに報じられている事実をもちろん否定する者ではありません。しかし、ここに報じられている事実がそう問題であるとは単純には言えないと考えています。所得による学力格差がそれほど問題かね、と。

私の認識を標語風に言えば、「所得と学力には相関関係はあるが因果関係はない」ということ(よって、厳密には「子供達の学力は家庭の所得の関数ではない」ということ)。そして、私の主張の核心は「学力に価値を置くか否か、学歴に価値を置くか否かは各家庭の<私事>であり、「高学力-高学歴」を求めないのはおかしいとばかりに、家庭の自己決定に任されるべきこの<私事>領域に国家が容喙するのは傲岸不遜である」というものです。以下、敷衍します(尚、GDPに占める日本の教育予算比に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・OECD諸国中最低水準の教育に対する日本の公財政支出は問題か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11184560305.html


・教員の質☆「感情ではなくデータ」で語りましょう佐久間亜紀さん
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-299.html






■所得と学力の相関関係の露見に動揺する人達
所得と学力の間に強い相関関係があることは、塾・予備校の業界人にとっては周知の事実であるだけでなく、例えば、オックスフォード大学の苅谷剛彦さんが精力的に調査してこられたことです。

而して、苅谷さんの秀作、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書・1995年)が告発しているように、問題はむしろ、現下、この事実が赤裸々になることで衝撃を受けている一群の人達がいることでしょう。蓋し、「子供達はみんなどの科目でも本来100点を取れるポテンシャルがある」という、憲法無効論並の馬鹿げた妄想に骨絡みになることによって、個々の子供達の能力差や適性差を看過してきた「教育を放棄した教師集団=日教組」とその与力の進歩的教育評論家達のことです。

けれども、これまた苅谷さんが前掲書で復元しているように、(イ)高度経済成長が始まるまでの戦後15年程は、左右を問わず、すなわち、旧文部省も日教組もこの事実は承知しており、家庭の所得に左右されない教育制度の構築は日本の教育セクターに携わる者が共通に抱えていた課題でした。

しかし、(ロ)所得配分の不均衡はともかく、高度経済成長の中で漸次、最低ラインにある所得層の所得の最低ラインが向上するにともない(少なくとも表面的には、所得が学力や学歴に決定的な影響を及ぼす現象がフェードアウトして行くとともに)、所得と学力の相関関係は「教育を放棄した教師集団=日教組」の内部では次第に争点ではなくなっていった。否、むしろ、所得と学力の相関関係は、「子供達はみんなどの科目でも本来100点を取れるポテンシャルがある」という<子供幻想>と矛盾する節もあり、半ば意図的に日本社会が解決すべき教育問題のリストから外されていった、と。私はこの苅谷さんの分析は正しいと思います(尚、苅谷さんの立論に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・書評☆苅谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/149f778fcddb7041f43a199bf390fb9e

 

「背に腹はかえられぬ」ということなのか、所得と学力の相関関係の露見に動揺した「教育を放棄した教師集団=日教組」とその眷族達は、<子供幻想>が抽象化してしまいその説得力が低下するリスクも委細かまわず、現在、昔懐かしい社会主義リアリズムばりの「経済決定論」を振りかざしているようです。すなわち、「子供達はみんなどの科目でも本来100点を取れるポテンシャルがある。しかし、そのポテンシャルが花開くかどうかは教育予算の関数」である、と。上に引用した日教組の眷族筆頭格の朝日新聞の記事は、精一杯、第三者を装ったこの社会主義リアリズムばりの<教育を放棄した教育論>の言説ではないでしょうか。



■所得と学力の相関関係と因果関係
私の基本的な認識、「所得と学力には相関関係はあるが因果関係はない」とはどういうことか。それは、統計的に見れば両者には有意の相関関係が観察されるけれども、個々の子供達の学力を向上させるために必要な教材・教具・教師・情報を「学力の形成要素」と規定した場合、それらの「学力の形成要素」を入手するコストは、最低層の家庭の所得から見ても無視できる程度のものだという認識です。例えば、全国の高校3年生の中で英語の偏差値がビロー70%(Top30%)に入る英語力をつけるために必要な教材の価格は英和辞書とNHKの基礎英語のテキスト代金を除き6000円(中学1年からの6年間ですよぉー!)で収まる。まして、現在、インターネットを通して、あるいは、無料相談の回路を通して、そこそこ妥当な学習ノウハウやリスニングを含めた補助教材はただでどれくらいでも入手できるのです。

ならば、「子供達はみんなどの科目でも本来100点を取れるポテンシャルがある。しかし、そのポテンシャルが花開くかどうかは教育費の関数」という認識は基本的に間違っている。所得差では説明のつかない子供達の能力差が厳然と存在しているのです。

実際、現役で東大理Ⅲに合格する子の多くは、高校3年の夏休みまでに1科目か2科目かは受験水準的にはほとんど手つかずで来ている。なのに、その1科目か2科目を夏休みからクリスマスまでのどこか2週間程で本番の受験で「致命的なスコア」を取らないですむレベルまでキャッチアップしている。他方、数学教師歴35年の私の実父の経験と、大手予備校・学習塾での私の統計調査からは、およそ10%の子供は(家庭の所得とは無関係に!)「数と式」の文字式の展開はできるが因数分解は本当の所は理解できていない。ましていわんや、新書一冊を与えて、「400字原稿用紙2枚半で要約させる」場合、そこには目も眩まんばかりの能力差が炸裂します。

けれども、世間には足の速い子も遅い子もいるのと同様、このような能力差は子供達の個性でしょう。別に、足が速いから偉いわけでも、因数分解ができないから駄目な子でもないのであって、私はこのような子供達の<能力差=学力差>が存在することは特に社会が解決を期すべき問題でもないと思うのです。


■<私事>としての学力と学歴
所得と学力には相関関係はあるが因果関係はない。而して、実は、これは計量教育社会学の常識と言えると思いますが、学力と学歴に対して所得よりも遥かに強い相関関係を示すものがある。それは、親の学歴であり、要は、「家庭の教育力」です。これは重回帰分析の結果であり(つまり、親の学歴と家庭の所得の相互の影響を切り離す数学的な操作を経た結果であり)、まず、動かない事実と言ってよい(尚、この計量教育社会学的な認識に関しては、下記拙稿をご参照ください)。

・書評☆吉川徹「学歴分断社会」(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148905265.html


要は、教育、学力、学歴に価値を置く家庭の子供は、たとえ、その家庭が経済的に窮乏化したとしても、チャンスがあれば、自己の学力と学歴を向上させる動機を保持する。逆に、曽祖父の代から職人・自営業者であり、地域コミュニティーの有力者としての人生を誇らしいと感じるような、つまり、学力と学歴に対してそう価値を置かない家庭はいかに高所得であろうが、その親も子供達も学力・学歴を向上させるモティベーションはそう高くないということです。

例えば、私が事務局長を務めていた浅草の神輿同好会の若い衆の中には、日本でも有数の鳶職一族の家庭に生まれて、実家は二部上場企業並の優良企業の下町のお嬢さま、記念受験で早慶上智とも合格したくらい本人も中学・高校で成績最優秀であったにも関わらず、将来、鳶の婿さんを盛り立て自分は小料理屋のママさんになるのが夢で、経験のために高校卒業後は歌舞伎町のホステスさんになった子がいますが、私はそれはそれで自立した素晴らしい人生設計ではないかと今でも思っています。

畢竟、学力に価値を置くか否か、学歴に価値を置くか否かは各家庭の<私事>であり、家庭の自己決定に任されるべきこの<私事>領域に他者や教育評論家、マスコミや国家が容喙するのは傲岸不遜である。而して、所得と学力の間に因果関係を見る者は社会主義の独善に感染している。そう私は考えます。




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