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日本社会の「右傾化」を嘆き憤るリベラル派の怠慢と傲岸--マーケットの変化には商品の変更でしょ

2015年01月05日 16時49分46秒 | 日々感じたこととか




リベラル派からここ数年、日本社会の「右傾化」を危惧する発言が出されているようです。アメリカでも先の中間選挙では保守派の共和党が爆勝した(↑画像)のですが、それはそう問題ではないらしい。すなわち、例によって、彼等の使う「右傾化」の意味や定義はいまひとつ明確ではない。

けれども、リベラル派が「日本社会のある変化」を嘆きそれに対して憤っていることは事実。而して、仮に「右傾化」なるものを、次のような政策コングロマリットを果敢に推進する政府や政党の存在、および、それらの政府や政党を--消極法的にせよ相対的に--多数の有権者国民が支持している状況が出現していることと捉えれば、<右傾化する日本社会>という理解は満更間違いではない、鴨。悪夢の民主党政権の後、2度の衆議院選挙と1度の参議院選挙で自民党が圧勝したのですから。


▼右傾化?
・憲法9条改正の実現
・憲法96条改正の実現
・集団的自衛権の政府解釈の変更
・特定秘密保護法の制定
・防衛費の増額
・公教育への「愛国心」教育の導入
・公教育での日本の立場をより鮮明にする施策の導入
・公教育の民間委託の推進
・首相、閣僚、国会議員の靖国神社参拝の励行
・支那および韓国に国際法を超えた過度な配慮はしない姿勢
・支那、韓国、北朝鮮という特定アジア三国を包囲する
地球儀俯瞰的な外交の推進
・ロシアおよびインドとの友好関係の強化
・国連の人権委の勧告などは敬して遠ざける姿勢



例えば、「ヘイトスピーチ法規制」や「夫婦別姓制度」の導入に不熱心なこと。あるいは、難民の受け入れに消極的な姿勢等々、他にもいくらでも「右傾化」という事態を構成する要素はあるのでしょうが--経済政策の領域はばっさり割愛すれば、だって、安倍政権は間違いなく先進国でも最も社会主義的な経済政策(アベノミクス)を果敢に推進しているのですからね(笑)--おおよそ、リベラル派が嘆き憤る<右傾化する日本社会>とは、上のような政策コングロマリットを推進する政府や政党の存在、および、それらの政府や政党を多数の有権者国民が支持している状況が出現していることと捉えられるの、鴨。と、そう私は思います。

而して、<右傾化する日本社会>という状況は現実なのでしょう。
で、それがなにか?
喜ばしいことじゃないかい?


畢竟、リベラル派がこれらの政策コングロマリットに反対であるというのはわかる。それは彼等の自由。蓋し、わが国には思想・良心の自由があり、表現の自由があるのですから、彼等がこれらの政策コングロマリットを批判するのも自由だから。けれども、彼等の言説に許しがたい、というか度し難い論理の誤用があるとなれば、我々保守派もその言説の支離滅裂と傲岸不遜を突くことになんの遠慮もいらない。だって、占領憲法を紐解くまでもなく思想・良心の自由および表現の自由は--実は、戦前から!--日本の有権者国民には保障されているのですから。


・暇潰しの言語哲学:「プロ市民」vs「ネットウヨ」
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11370196915.html
 


蓋し、リベラル派の言説の問題点は、<右傾化する日本社会>という事実認識を超えて、それはけしからん--日本の有権者は無知蒙昧な馬鹿かだ!--と論じていること。社会科学方法論における杜撰で初歩的な落ち度。

もし、私のこのリベラル派の「右傾化」批判の認識が満更間違いではないとすれば、そのような言説や認識は、マーケットが変化したのに、70年間同じ品揃えの「商品-政策」を出し続けた結果、赤字続きになった責任を日本の<消費者-有権者>に転嫁するものにすぎないもの。と、私はそう考えます。マーケットが変化したのなら商品の方を変えなさいよ、とも。また、「右傾化」などは「歴史修正主義」や「反知性主義」同様に単なるレッテル貼りにすぎないの、鴨とも。


・歴史修正主義を批判するリベラル派の知性の貧困--占領憲法をガダラの豚にしましょう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11972266400.html







私は何が言いたいのか。それは、冷戦構造が崩壊(1989-1991)して資本主義と自由主義の人類史における勝利が確定して以降、主権国家各国は、逆に、自国の安全は自国で守ること、ならびに、--グローバル化の激流から唯一その国民と市民たる外国人を護る権能を持つ--その主権国家は自前で自己の社会統合のイデオロギー再構築の使命がまったなし的に課せられたということ。

ならば、昔は(笑)自民党内でも宏池会(岸田派・麻生派・谷垣グループ)に代表されるリベラル派とイデオロギー的に右の清話会(細田派)が競い合うことでイデオロギー的にも政策的にも均衡を保っていたのに、現在では、右の--要は、特定アジア諸国とは国際法を逸脱するような妥協はしないということ?--安倍首相に刃向う動きは自民党内には見られない、これは民主主義の危機だ。などというリベラル派の言説は、マーケットの変化を看過して、自分たちの<商品>の売り上げが芳しくない状況を有権者国民や自民党の国会議員に責任転嫁するものにほかならない。と、そう私は考えます。要は、怠慢、と。

換言して敷衍しておけば、「派閥による疑似政権交代」という55年体制下の自民党長期政権を理解するに便利な<認識枠組み>が現在通用しないことを、現実をより整合的に理解する新しい認識枠組みを構想・構築要できない自分たちの無能を棚に上げて、--噴飯ものの図柄は、例えば、スイス生まれの春香クリスティーン氏などが「派閥による疑似政権交代システムこそ日本政治の要諦のはずなのに、今の安倍政権はそれを無視していて怖い」とか本当に寒い発言をリベラル派の<識者>などが絶賛するというシュールな風景を想起していただきたいのだけれども--「派閥による疑似政権交代システム」が機能しない現実の方を批判する愚である、と。要は、それは、彼等リベラル派の怠慢である、と。

冷戦構造の崩壊と超大国の消失という現実を直視する限り、例えば、シーレン防衛にせよ日本も「自分の国は自分で守る」しかないし、予定調和的な冷戦秩序が崩壊した現在、日本国の社会統合のイデオロギーもまた「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(占領憲法前文)などの<物語>ではない別の<物語>にバージョンアップする必要があることは自明でしょう。

ならば、「規制枠組み-冷戦構造」が変わり、マーケットも変わった現在、自民党内のリベラル派と保守派の切磋琢磨の図式が変わるのは当たり前のこと。だって、自民党自体が元来「自主憲法制定」を目指して結党された政治政党なのですから。

而して、自民党の「1強多弱」体制や、自民党内の「安倍1強体制」は民主主義に反するなどは噴飯もののいいがかりにすぎない。畢竟、それは、マーケットを軽蔑するプレーヤーはマーケットから軽蔑される。ビジネスマネージメントのこの箴言に直球ど真ん中でヒットする言説であろう。と、そう私は考えます。彼等は怠慢だけではなく傲慢なのだとも。

要は、どんな主義主張も表現するのは自由だけれども、根拠を欠いた「私はこう思う、ゆえに、日本の有権者国民もそう考えるべきだ」という他者に向けられた当為命題は傲岸不遜でしょうよということ。例えば、集団的自衛権の政府解釈の変更は立憲主義にも民主主義にも反するとかのリベラル派の言説は、正に、「言うだけならただやで」もんの傲岸不遜であろうと思います。だって、内閣法制局の数次の国会答弁でも「日本は立憲君主主義の国」であり、また、社会思想としての「立憲主義」と「民主主義」は鋭く対立するイデオロギーなのですから。



・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11916914003.html

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11930076948.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3









このような私の主張に対しては、
しかし、次のような事実の指摘がリベラル派から
来るかもしれない。

来る来る。
来るさ来るさ、きっと来る。

すなわち、

>日本は市民革命を経ていないから民主主義が根ずいていない

あるいは、

>70年間の戦後民主主義的な議論の蓄積
>これまでの政府見解との整合性
>東京裁判を受諾してサンフランシスコ平和条約で主権回復した事実

そして、

>サンフランシスコ平和条約に反する集団的自衛権の解釈や、
>まして、占領憲法の改正など許されないとかの主張も来る、鴨

あのー、「市民革命」なるものを経なければ根ずかない「民主主義」なるものには普遍性はないでしょう。まして、じゃ、その価値の正当性の根拠は国連加盟193か国の9割がたにとって欠落している。そうなりませんか。

あのー、民法の事情変更の原則でもないけれど、規制もマーケットも変わったのなら、商品もそれを生産・販売する組織も、あるいは、組織の企業理念・文化(CI・CC)自体から変えなければマーケットから退場させられるのは--今の社民党のように--当然ではありますまいか。政治とは日々変化する状況に対する公的権力の営みであり、「整合性」や「議論の蓄積」とはその施策に対する支持を集めるうえで有効な限り尊重されるもの。

冷戦構造の崩壊、超大国の消失という事情の変更の前には「整合性」や「議論の蓄積」などはそう大したプライオリティーを政策コングロマリット設計と実現において帯びない。そう私は考えます。

而して、東京裁判を受諾して、もって、
サンフランシスコ平和条約で日本が主権回復したのは事実。
そうなのでしょうね。


けれど、(ⅰ)新カント派の知見を持ち出すまでもなく、事実命題と当為命題の根拠は異なる、(ⅱ)戦後体制と言ったってね、その中で、東側ができ東側が崩壊した事実、(ⅲ)アジア・アフリカの数多の諸国が独立した事実--植民地支配を2世紀近く続けてきた帝国主義の本家家元の英国・フランス・オランダ・アメリカは、ただの一言も植民地支配について謝罪などしていない事実!--、(ⅳ)元来、国内においては最高の、対外的には独立平等の主権国家がその社会統合のイデオロギーを条約などで制約されるいわれはないという事実。

これら、(ⅰ)~(ⅳ)を鑑みれば、規制もマーケットも変化したのですよ、と。
そう私は即刻反論する。

土台、例えば、憲法と国際法の優位性論に関して--私も国際法優位の一元論を取りますが--国際法優位説を取るリベラル派がする「だから、サンフランシスコ平和条約に反する集団的自衛権の解釈や、まして、占領憲法の改正など許されない」とかの議論は憲法基礎論に関する無知が炸裂したもの。

国際法優位の一元論の本家家元ハンス・ケルゼンにおいても、あるいは、現在の日本で憲法学の通説を代表しておられる早稲田大学の長谷部恭男さんの著述を見ても、国際法優位の一元論とは、ある主権国家の実定法秩序が他国からも憲法秩序と認められるということ--要は、イスラム国は他国から独立国と認められていないからその実定法秩序は<梁山泊>の秩序にすぎず、台湾は多くの国がその主権を認めているがゆえにその実定法秩序は国際法的にも正当な憲法秩序ということ--にすぎません。つまり、国際法優位の一元論とは法の効力についての形式的・法論理的な議論。

而して、ある主権国家のその領土内で通用するルールや社会統合のイデオロギーの内容はその主権国家が国内法で独自に決めうること。この形式と内容の違いを理解しないリベラル派を無知蒙昧とまでは言わないけれど「反知性主義」と呼んでも、それはそうレッテル貼りの言辞ではない、鴨。つまり、リベラル派の言説は不遜。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

および

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79



畢竟、繰り返しになりますけれど、私がリベラル派に言いたいのは「私はこう思う、ゆえに、日本の有権者国民もそう考えるべきだ」という主張にはちゃんと根拠をつけましょうねということ。これもの凄くささやかなお願いだと思うのですけれども。

どうでしょうかね、彼等には通じないの、かな。(←最近、西野カナさんにどっぷり、鴨)

ということで、なんとか<娑婆>で2015年を迎えることができました。
同志の皆様に感謝します。而して、憲法改正もしくは破棄に向けて
頑張りましょう。共に闘わん。










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