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民主党監視塔☆学力低下と教育力の偏倚低迷(中)

2009年09月12日 17時59分55秒 | 教育の話題

■教育力の相対性と単線的な教育観
学力低下は全国の全地域・全階層の全家庭で均一に生じているのではなくいわば斑状に生起している。ならば、学力低下が孕む問題性もその解決策も全国均一の<金太郎飴>的なものではありえない。一般的には、何より、学力低下は労働力商品の劣化を通してそれは日本の国際競争力の危機であると同時に、それはこの社会の「階層化-社会統合の揺らぎ」が危惧される事態でもある。而して、階層と地域によって一様ではない学力低下のあり方がこれら国際競争力の低下と社会統合の揺らぎに関してどのような作用を及ぼしているか。これが、学力低下が孕む問題の実相であり、また、問題解決の鍵ではないでしょうか。

いずれにせよ、「学力低下-学力格差」の同時拡大モデルとも呼ぶべき、苅谷剛彦さんを嚆矢とする現下の学力低下に関する認識はこのように整理できるし、それは不毛な学力低下論争の唯一の有意義な副産物だった。なぜならば、苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(就中、2章及び5章)が詳説しているように、絶対的な貧困、すなわち、経済的理由がゆえに学力増進が不可能になるほどの貧困がほぼこの社会の表面から消え去った高度成長期以降、戦後民主主義の教育観を信奉する勢力は(子供達の能力の等質性の神話を堅持すべく)学力差の存在自体を直視しなくなっていたからです。閑話休題。


しかし、そもそも、学力格差を生み出す社会の階層化は悪いことでしょうか。また、社会の階層化と階層の固定化が学力格差の原因と言えるのでしょうか。学力格差の<再発見>と「学力低下-学力格差」同時拡大モデルの<発明>は、苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』の忘れられるべきではない功績です。けれども、今年2009年6月に上梓された『教育と平等』で苅谷さんご自身が自問自答されている如く、而して、吉川徹『学歴分断社会』が明確に論証しているように、社会の階層化と階層の固定化を一概に善悪で語ることはできず、また、家庭の所得と子供達の学力には強い相関関係はあるもののそこに因果関係の存在を断定することはできないのです。

蓋し、高度成長期以降の現在、否、失われた90年代以降の所謂「希望格差社会」なるものの時代であるらしい現在も、ある家庭がその子供に高い学力と高い学歴を求めるのであれば、家庭の所得に関わらずそれは十分可能ということです。受験指導の専門家、英語教育の専門家の立場から単刀直入に言わせていただければ、少なくともミクロ的には、所得の低さは学力の低さの原因ではない。而して、当該の子供の先天的な資質を捨象した場合、相関関係という意味では、子供達の学力と学歴を決めているものは家庭の所得であると同時に家庭の教育力であり、因果関係に限定した場合それは所得ではなく教育力である。と、そう言えると思います。

そして、家庭の教育力が個々の家庭の文化であり価値観の一斑をなすものである以上、(現行憲法が国民の義務と定める「その子女に教育を受けさなければならない」義務教育の要請を超えて)自分の子にどの程度の学力や学歴を望むかは他者やまして社会から容喙される筋合いはない。敷衍すれば、例えば、齋藤貴男『教育改革と新自由主義』(寺子屋新書・2004年6月)の如き、家庭がその子供に高い学力や高い学歴を求めるのをあたかも当然のことと考える、あるいは、ほとんどの子供は十分な情報が与えられれば高い学力と高い学歴を希求するはずだと考えるのは、戦後民主主義の教育観とパラレルな<単線的-教育観>からの強弁であり妄想にすぎないのではないでしょうか。

畢竟、世界金融危機に直撃された今春の入試で「大学進学率、初めて5割突破」(読売新聞・2009年8月6日)したこと、逆に言えば、国公立の医学部等々極一部の特殊な事例を除き、東大・京大や早慶から地方の短大に至るまでほとんどの大学が学生集めに四苦八苦する中でも同学齢の18歳人口の50%しか進学しようとしていないことを考えれば、今後、「民主党-日教組」政権がそれを基盤に据える可能性が強いと思われる<単線的-教育観>の社会思想的の前提はすでに<北斗の拳>と言うべきでしょう。

繰り返しになりますが、(イ)所得と学力・学歴には相関関係はあるが因果関係は存在しないこと、(ロ)学力と学歴を直接に決定するものは家庭の教育力であること、(ハ)家庭の教育力は家庭の文化であり価値観であり、それに対する善悪の評価は一概にはできないこと。この地平から、例えば、次の如きニュースを読む場合、

●小6正答率、世帯年収で差=学力テストの追加分析-文科省
年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

委託研究では、5政令市にある公立小100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。

学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万円未満の平均正答率(%)が最低だった。正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた。(時事通信・2009年8月4日)


このニュースに対する感想は「所得格差拡大→学力格差拡大→世代間の学歴と職歴の固定→階層化の拡大と固定」という事実は容認したとしても、はたして、「所得格差拡大→・・・→階層化の拡大と固定」が否定非難されるべきことかに関しては保留することになると思います。


■教育力とは何か
学歴と学力を決定するものは家庭の教育力であり、所得と学歴・学力には相関関係はあるが因果関係はない、また、家庭の教育力の評価は価値相対主義的に定まるものであり、それに対して一概に善悪を定めることはできない。この地平を前提に据えながらも、しかし、他方で、国際競争力の低下を招いている、また、社会統合のパフォーマンスを劣化させている「学力の斑模様の低下=教育力の偏倚と低迷」にいかに対処すべきなのか。換言すれば、教育力の偏倚低迷を回避する施策と教育力を巡る価値相対主義の間にどのように折り合いをつければよいのでしょうか。いずれにせよ、そのような施策を基礎づける教育思想こそ我々保守改革派が希求すべきものだと思います。而して、そのような教育思想構築の鍵は「教育力」の意味内容に収斂する、とも。保守改革派からの教育思想構築の前哨として「教育力」に関して以下一瞥しておきます。


教育力とは何か。それを子供達に学力を与える家庭の諸能力と一応定義する場合、教育力とは、あるいは、子供達に義務教育以外の学校外教育を受けさせることができる経済力であり、なにより、学習をどのように積み重ねていけばよいのかに関するノウハウであり、モテイベーションを維持するスキルであり、そして、義務教育を含めた学校教育の水準を維持向上せしめる教育への関心の強さ等々と重層的に捉えられると思います。教材や教師やカリキュラム以外の、子供達の能力開発に影響を与える契機から逆算すればそう言えるからです。

パラフレーズすれば、家庭の教育力とは、()教育に価値を置く文化の存在、()学習のハウツーに関する知識と経験の蓄積、()教育の成果を具体的に感じるためのロールモデルの身近な存在によって決定されると私は考えます。すなわち、教育力とは子供達に学習する動機を与える力であり、努力をする方法や努力を持続する方法を示す力であり、子供達が努力をし続けるために有効な具体的な成功例(詰め将棋に喩えれば、詰めあがりの場面)をイメージさせる力に他ならない。ならば、上で述べた「子供達に義務教育以外の学校外教育を受けさせることができる経済力」は、これらの3者を巡る情報を金で買えることにすぎず、必ずしも経済力は教育力の本質的な要素ではないことは明らかだと思います。

畢竟、(A)親族や町内で今まで一人も大学に進学したことがない環境に育った子供と、(B)祖父母から親兄弟姉妹、あるいは、町内の同級生やその兄弟姉妹がほとんど大学に進学する環境に育った子供のキャリアプランニングにおける心象風景を考えてみてください。後者の子供は、たとえ、家業が傾いて経済的に大学進学が難しくなったとしても、将来、社会から機会が与えられた場合、独力で大学進学することもそれほどとんでもないこととは感じないでしょう。実際、第二次世界大戦以前に学歴の社会的価値と効用が確立していたアメリカでは、第二次世界大戦後、(それまで経済的理由で進学できなかった)復員兵士がヴェテランズベニフィット(復員軍人給付金・恩典)によって大量に大学に進学したことが現在に至る米国の高い大学進学率の直接の原因になったのですから。


けれども、日本でも進歩が希望であった時代は終わったのかもしれません。福沢諭吉『学問のすすめ』やスマイルズ『西国立志編』は、最早、現在の日本では大きな共感を得られないでしょう。かなり古い例ですけれど(笑)、「番町小学校⇒麹町中学校⇒日比谷高校⇒東京大学⇒大蔵省⇒同事務次官⇒日銀総裁」などというかって存在した単線的な出世コースに羨望や嫉妬を感じる日本人は(イソップの「酸っぱい葡萄」的のメンタリティーではなくて、)極めて少数ではないかと思います。もちろん、失われた90年代を通して進行した終身雇用制と年功序列制の解体(本当は、労働人口の圧倒的多数を占める中小企業の被雇用者は戦後一貫してそのような労働環境にあったことはないのですが、)更には、成果主義の潮流がこの学歴エリートのポジティブイメージを崩壊させるに与して力あったことは想像できます。

現在では、教えられたことをキチンと学ぶだけの学力エリートが日本や日本企業の国際競争力を維持向上させることは難しい。最早、人間関係調整型のリーダーや上意下達をするだけの中間管理職は組織の労働生産性を下げる邪魔者にしかすぎない。だから、ゆとり教育を推進してきたイデオローグ達が、個性と創造力を伸ばす教育を標榜し、「ナンバーワンよりもオンリーワンを目差す教育」を喧伝したのも、日本の国際競争力の維持向上という目的からは満更間違いではないのです。

しかし、基礎基本なくして創造はない。まして、国際的な比較優位性を帯びる創造的営為は基礎基本の基盤の上にしか華咲くことはありえない。蓋し、学歴エリートとしての単線的な社会階層上昇の魅力は失われつつあるとはいえ、基礎学力の基盤の上に更に高度な専門知識を獲得した者が日本の国際競争力を維持向上する主力である構図は寧ろ益々純化しつつある。と、そう私は考えています。而して、現下の教育力の偏倚低迷はこの構図を危うくするものである、とも。


<続く>





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