■刑法と刑罰の存在理由としての社会秩序維持
刑法と刑罰の目的は、特別予防と一般予防です。これは前提とせざるを得ない。而して、私の考えは「人権派の主張は正しい。ただし、彼等は正解の意味するもの(一般予防効果の意味内容)を誤解している」というもの。何を私は言いたいのか。以下、敷衍します。
特別予防に関しては、現在の日本では、治療や教導が熟練の専門家達によって、かつ、適切な施設や設備を用いて遂行されているとは残念ながら言えない。否、触法少年・犯罪少年・虞犯少年、触法精神障害者の専門家、あるいは、犯罪心理学や発達心理学の専門家は体力と精神力の限りを尽して頑張っておられる。全体的には私はそう思います。また、保護観察官や児童福祉司の方も大変よくやっておられることを私は直接知っています。しかし、例えば、触法少年や触法精神障害者を治療し教導するための法制と医療とソーシャルワーク、更には、それらと職業紹介や適宜のカウンセリングを含む地域におけるケアが一体となった体制ができているとは言いがたい。私が直接知っているアメリカやイギリスやドイツの例を出すまでもなく日本はお粗末。それは認めなければならないと思います。
一層問題なのは(実は、これこそ人権派が誤解しているそのものなのですが)一般予防。一般予防とは端的に言えば「刑罰の見せしめ効果」であり、究極的には、法の権威を維持し法の尊厳を保つことです。蓋し、一般予防とは、(甲)刑罰の見せしめ効果によって「誰もが持っている犯罪者になる可能性から一般の人々を遠ざける」のみならず、(乙)刑法の(否、井上茂先生流に言えば)法体系全体の権威と尊厳を犯罪から守ること。すなわち、一般予防効果は(甲)の狭義の意味と、(甲)(乙)の両者によりなる広義の意味の二義をもっている。
而して、後者の経緯を、藤木英雄さんは「犯罪が空洞化させた法秩序の権威の刑罰による回復」と表現していますが、いずれにせよ、そのような権威と尊厳を具備する法体系のみが市民を犯罪から守る機能を果たしうる。逆に言えば、一般の人々が「犯罪者の処遇に関してこれはオカシイ」という感情を恒常的に抱いているとするならば、その法体系自体の効力は(法の実効性と妥当性の両面で)危機に瀕していると言うべきでしょう。すなわち、刑事政策はこの市民の法感情や法意識を制度にまで恒常的に昇華させ結晶させ続けるのでなければ、その刑事法体系と刑事司法は市民からの支持を早晩失い、よって、社会を無秩序の状態に陥らせ、ついには、すべての市民を犯罪の被害者か加害者にしてしまいかねないものとなる。そう私は考えています。
畢竟、刑法と刑罰は、被害者が加害者に自力で復讐する権利を奪うと同時に、公権力が被害者に代わって復讐する制度でもあります。故に、公権力が犯罪者に復讐しないのならば、そして、犯罪に対する刑罰の厳しさの度合に市民の多くが納得していないようであれば、被害者が加害者に復讐する権利が復活するのは時間の問題でしょう。而して、それは仇討ちを封じた近代社会の熔解に他なりません。
古典学派の刑法思想は啓蒙期までは大凡応報主義的でした(★)。それは、犯罪者に対して道義的な責任を取らせ、犯罪に見合った刑罰を甘受させることを求める思想です。この応報刑思想は、<復讐するは国家である>ことを、復讐の権利を国家から召し上げられた被害者に納得させつつも社会の秩序を守ることを刑法の目的と解する思想です。復習になりますが、応報刑思想は、犯罪に見合った刑罰を実施することで、(甲)「見せしめ効果」を具現し、更に、(乙)一旦、犯罪により空洞化の危機に陥った「法体系=法秩序」の権威と尊敬を回復すべきだという主張であり、本稿の結論を先取りすれば、応報刑思想の原点に還るべき時代に現下の日本の刑事司法と社会は来ている。そう私は考えています。
このような応報刑思想に立ち戻るならば、厳罰化は目先の犯罪の抑止効果とは別の観点から推進されるべきものとして理解される。もちろん、上でも述べた如く、少年にせよ精神障害者にせよ、彼等に対する特別予防の充実は焦眉の急でしょう。しかし、応報刑思想を基盤とする「厳罰化」(否、刑事法体系の常識的な運用!)の推進は、「社会の責任の解明」なるものや「治療・教導に関する人員・設備の充実」の後になされなければならないという低い優先順位のものではなかろうと思います。
ならば、前項末尾で発した問い対する解答はこうなる。蓋し、犯罪の抑止効果を「厳罰化」の根拠と考える人権派の論理は間違いではないけれど、その論理に盛り込まれるべき要素の選択において間違っている、と。すなわち、現実に、厳罰化によって犯罪が減少したかどうかは(例えば、飲酒運転の厳罰化によって飲酒運転事故は激減したが、他方、飲酒運転の場合のひき逃げは微増に転じたというような事象は)厳罰化の妥当性判断の一面でしかなく、刑法と刑罰を巡る広義の一般予防効果に関して、一般の人々の法に対する権威と尊厳の意識がメンテナンスされたかどうかがこのイシューの中核的な問題なのである、と。
上で述べた主張を踏まえ次項では、応報刑思想が含む、言葉の正確な意味での<人道主義>、すなわち、応報刑思想が被害者も加害者も、犯罪少年も触法精神障害者も等しく人間としてその人格を尊重する思想であること。そして、応報刑思想は、犯罪者が自己の道徳性を回復し、刑罰によって罪を償い、よって、彼や彼女を社会の平等なるメンバーとして再度迎え入れることを可能にする思想でもあること。このことを詳説したいと思います。
★註:応報刑主義-応報刑思想
刑罰論としての応報刑思想(=応報刑主義)は所謂教育刑主義/目的刑主義と対立する考え方とされています。刑罰を「犯罪への報復」と考えるか「犯罪を減少させるためのなんらかの手段」と考えるかに関して、元来、応報刑主義は前者に立つものと理解されてきたということ。他方、刑罰を正当化するアイデアとしての応報刑思想は、「刑罰=報復」、「罪と罰との均衡を求める思想」、「犯罪者への道徳的な非難を刑罰の根拠とする思想」等々と緩やかに捉えられています。
而して、私は、藤木英雄・大谷実、あるいは、団藤重光・小野清一郎・メツガー等々の先人の教えを踏まえた上で、「応報刑思想」を「犯罪によって空洞化された法秩序を回復することをもって刑罰の正当性を基礎づけるアイデア」という意味で使用しています。この意味の「応報刑思想」自体は、「刑罰=犯罪を減少させるための手段」という機能主義的な主張を超える、(人倫の秩序、あるいは、法秩序全体の権威の維持に価値を置く)抽象度の高い主張ですが、それが刑罰論の次元に投影される場合、それは「犯罪と刑罰の均衡」を通して広義・狭義の一般予防効果に重きを置く主張として理解されます。
■刑罰を受ける権利
自己が引き起こした犯罪を償う権利を大東亜戦争後のこの社会は看過軽視してきたのではないか。少年や精神障害者の刑事事件の報道に接するたびに私はそう感じます。また、それらの事件に対する人権派のコメントを目にするとき、私はそのヒューマンで優しい言葉の裏側に、ある種の傲慢さと知的な怠慢を感じないではない。
すなわち、人権派ののコメントに私は、「刑罰が免除/減刑されるのだから加害者側には文句はないでしょう」「被害者遺族の憤り? 死刑を求める厳罰化の世論? 少年を実名報道しろ? 強制猥褻・強姦罪の累犯者はデータベース化してその転居ごとに各市町村に自動的に通知する仕組みを作れ/GSP衛星システムで常時所在を警察が把握できるようにしろ? 街頭カメラを増設して欲しい? そんなのは感情論。それらは、そのような主張が国家権力が市民を監視する管理社会を容認する結果になることも分かっていない愚民の感情論にすぎない」というような底意を感じてしまうのです。
これに対して、ちょうど8年前、今でもそれを最初に目にしたときに受けた新鮮な衝撃と感じた共感をくっきり覚えている新聞投書がある。本項のテーマ、「刑罰を受ける権利」ということを反芻する際にはいつも読み返すもの。長野県の55歳の女性NDさんの投書。NDさんの息子さんは20歳のころから人格障害と診断され現在に至っている。家庭内暴力を幼児期から見て育ったのが障害の一因とのことらしい。投書はこう語っています。以下、投書引用開始。
「裁かれる権利 与えてほしい」
精神病は通常の人のストレスの延長上にある病でもあり、だれもがなる可能性のあるものです。国も、ハンセン病政策を真に反省するのなら、「精神病者、即隔離」という考えが、どれほど大きな偏見で、医療的にも誤りか分かるはずです。精神病者とて、自ら犯した罪は分かるのです。私の知る限りの精神障害者と家族は、罪を犯したら通常者と同じく刑事責任を問い、裁判を受けさせてほしいと思っています。裁判を受けさせないのは、保護ではなく、裁かれる権利さえも奪っていると思えます。裁判によって、なぜその病になったかのか、病が犯罪にどうつながったのか、あるいは無関係だったのかを究明し、世の人々に伝えてほしいです。それが精神病を予防する道となり、精神障害者の犯罪の減少、予防へとつながると思います。(朝日新聞・2001年6月20日朝刊・東京本社版、「声」欄より要約紹介、以上、引用終了)
カントは、「人間を主体・目的としてのみ処遇し、道具・手段として扱ってはならない」と語っていますが、現行憲法の基本理念の一つ、「個人の尊厳」は、正に、このカントの主張から基礎づけられると思います。而して、この社会思想の地平からは、<精神障害者&少年≒責任無能力者>というアプリオリな規定は、本質的に人間を馬鹿にした、コトナカレ主義的で官僚的な「思考停止-知的怠慢」の帰結ではないか、とも。
例えば、精神障害者や少年の犯罪に対して実名報道を控える慣行は、終戦後の混乱期や高度経済成長にともない家族形態と地域コミュニティーが揺らいでいた不安定な時期というそれが成立・確立した時点では、世間の不当な偏見から<自分で自分を守れない弱者>を守護し、加害者が社会復帰して自立することを容易にする(過ちから自力更生することを触法精神障害者や犯罪少年達に可能にする)一つの妥当な、<加害者と社会を和解させる制度>であったかもしれません。しかし、それが牢固な慣習となりルーティンとなりタブーとなり形骸化した現在、この弱者保護の慣行は、触法精神障害者や犯罪少年・触法少年から、「精神障害者」や「少年」という記号論的な差異だけを根拠に彼等からこの社会の正規の会員として社会に貢献する機会を奪う<人格を否定する制度の暴力>に成り果ててはいないでしょうか。
蓋し、刑法と刑罰を基礎づけ正当化する論理としての応報刑思想をもう一度見直すべき時期にこの社会は来ているのではないか。而して、罪を犯した自分自身を認識でき、かつ、罪の償いの意味を了解できる者には裁判を通して刑罰を受けさせること。罪も罰も認識し了解できない者には、教育と治療によりその社会への危険性を逓減せしめること。刑法と刑罰の広義の一般予防と特別予防の効果を踏まえるならば、このシンプルな原則を愚直に実行すべきではないでしょうか。この投書を読み返す度にそう私は感じるのです。
而して、人権派がしばしば主張する先述の主張、「少年犯罪・精神障害者による犯罪、通り魔事件や幼児虐待事件の多発に対して厳罰化だけで立ち向かえるわけではない」「家庭や学校、地域の取り組みの強化、犯罪を引き起こす社会の歪みを是正することが大切だ」という主張は、この「刑罰を受ける」権利の観点と地平からは否定的に解されざるを得ないのです。蓋し、そのような主張は、一面で刑罰や刑法に過大な要求を押しつけつつ、そして、その要求が達成できないからといって刑罰や刑事法体系自体の枢要な役割をネグレクトするものではないでしょうか。喩えれば、それは国家権力を全能のものと勝手に想定しておいて、権力の無策非力を声高に非難する類の、朝日新聞的主張とパラレルと言ってよいと思います。
確かに、刑罰や刑法は完全でもオールマイティーでもない。だから、「刑事罰の強化だけで犯罪現象に立ち向かえるわけではない」という認識は100%正しい。また、確かに、厳罰化によっては犯罪は減らないかもしれません(先にも言及しましたが、飲酒運転罰則の強化により飲酒運転は激減しましたが、所謂自然犯では諸外国の例を見ても死刑制度の存置を始め厳罰化によって犯罪が減るとは必ずしも言えません)。けれども、応報刑思想を前提にすれば、刑法と刑罰の重要な機能の一つは社会的な報復を通して被害者感情を慰め社会における法の権威と尊厳を回復すること。ならば、法と秩序への信頼が揺らぎつつある現下のこの社会の現状を鑑みれば、厳罰化は、正に、この日本社会が渇望している施策と言える。そして、この応報刑思想に基づく施策の裏面には、社会が納得する重さの罰を受けることで罪を償う。「刑罰を受ける権利」の擁護の姿勢が存在している。畢竟、この刑罰を受ける権利は誰からも奪われることのない人間の固有の権利ではないか。私はそう考えます。
■犯罪者は犠牲者と考える「優しい社会」は正常な社会か?
少年や精神障害者、外国人グループによる凶悪犯罪の横行を受けて、厳罰化や少年法の改正を求める世論が強くなっています。実際、加害者の人権は地球よりも重く、片や、被害者や被害者遺族の人権は羽毛よりも軽んじられてきたこの社会の現状を見れば、それは当然の流れでしょう。しかし、他方、凶悪犯罪の横行を目の当たりにしてもなお(よって、再々になりますが)「犯罪は社会的矛盾の顕現であり、加害者も被害者も社会的矛盾の被害者である点では同じです。ならば、犯罪に対しては、加害者を非難し厳罰を求めるだけでなく犯罪を自分達の社会の問題として捉え返してみることが大切です」、などとのたまう人権派も存在しています。
例えば、評論家の大塚英志さんは「長崎幼児殺害事件」について朝日新聞に「考え続ける大人はいるか」(2003年7月19日・オピニオン面)なる論考を投稿しておられた。曰く、
「少年や若者によるどうにも不幸な事件が社会を揺るがした時、それを自身の問題として受けとめるひどく当たり前の立場が戦後社会にはあった。(中略)事件の直接の加害者が法の下で責任を負うことや、被害者やその家族の人権が配慮されるべきことに異論はない。しかし青少年の犯罪を自身の、そして社会問題として受け止めるかつてのありふれた態度が、たった今、この国ではひどく衰退してはいないか。(中略)自身の問題として青少年の不幸な事件を受け止める『社会』は、この国の戦後に確かにあった。そのような社会が、少年犯罪の温床となったのか、あるいは抑止する力だったのか、そこからじっくり考えよう」、と。
犯罪を自分の問題として捉え、どうすれば犯罪をなくすことができるかを被害者と加害者を含め社会全体で話し合うことが大切、とは何と美しい言葉でしょうか。これを聞いたら、右の頬を打たれたら左の頬も相手に差し出すことを勧めたナザレのイエスも裸足で逃げ出したかもしれません。しかし、犯罪被害者とその遺族の激情を前にしても、社会的矛盾の解決のプライオリティーを冷静に説くそのようなヒューマニズムは、犯罪の被害者とその遺族にとっては無内容かつ不条理な言説を笑顔でもって説く傲岸不遜にすぎないのではないでしょうか。而して、これらの傲岸不遜の基盤には大東亜戦争後の戦後民主主義が垂れ流してきた観念的な人間観と性悪説的な国家観が横たわっているのかもしれません。
身体障害者に優しい社会は、実は、健常者にとってもより快適な社会である。この命題を私はある程度正しいと思います。ホイールチェア-の使い勝手を考慮した駅や歩道は、そうではないブッキラボウな駅や歩道に比べて健常者にとっても心地よいことが多いことは確かだからです。けれども、では、犯罪者に「優しい社会」は犯罪者以外の者にとってもより快適な社会でしょうか? 私は必ずしもそうではないと考えます。犯罪者に優しい社会は正常でも健全でもない、と。否、犯罪者への処罰と社会的非難が曖昧に済まされるような社会は、究極的には1個の社会としては成立できなくなるのではないかとさえ私は考えるのです。
畢竟、苛政は虎よりも猛かもしれませんが、犯罪者に優しい社会は犯罪者を含む誰にとっても非道で不条理な社会なのではないか。蓋し、上記の大塚英志さんの如き、犯罪者に優しい社会を推奨する論者は、大東亜戦争前の健全な教育を受けた日本人が具現していた戦後も1990年前後くらいまでのこの社会の相対的な治安の良好さという社会インフラの上に胡座をかいて、かつ、彼等のその空虚な主張を可能にしてきたこの社会の良風美俗を批判しているだけではないのでしょうか。
しかし、現下の日本社会の治安の劣化、就中、市民が皮膚感覚で感じる治安の悪化はここ十年ほどの『警察白書』が示すデータを見れば思い半ばにすぎるものです。犯罪全体の認知件数の数値とは無関係に、通り魔事件や幼児虐待事件等の理不尽な犯罪の横行、他方、少年犯罪一般の増加と、就中、所謂「虞犯少年≒不良少年」ではない<普通の青少年>によって惹起される凶悪犯罪の増加等、(それはおそらく戦後民主主義が崩壊させてきた)この社会の病理の反映としてカテゴリー化可能なタイプの犯罪の恒常化は一般の市民に治安の悪化を文字通り肌で感じさせるものだからです。ならば、崩壊しつつある日本社会の治安インフラの上に胡座をかいて犯罪者に優しい社会の実現を求めるなどは恐らく正気の沙汰ではない。そして、彼等の戦後民主主義的な主張の基盤に、「国家の性悪説-国家の必要悪説」、すなわち、近代立憲主義の社会思想が横たわっているとするならば、畢竟、近代立憲主義が間違っているか、彼等、戦後民主主義を信奉する論者が近代立憲主義の意味内容を誤解しているかどちらかであろう。私はそう考えています。
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