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読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧-あるいは、マルクスの可能性の残余(弐)

2009年04月22日 09時22分05秒 | 日々感じたこととか



(Ⅳ)ロンドン時代:1849年9月-1883年3月
マルクスとエンゲルスは1847年の経済恐慌が引き起こした1848年のドイツ三月革命に「民主主義的統一ドイツ共和国の樹立」あるいは「社会主義的民主主義の赤色共和国の確立」をスローガンにして積極的に関わるものの情勢は彼等に味方せず、結局、マルクス一家は英国亡命の道を選びます。而して、爾来30有余年、ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙のロンドン駐在通信員としてのジャーナリスト活動、および、国際共産主義ネットワークの構築に尽力する一方、漸次、マルクスは大英博物館の図書館に通い経済学と経済学批判の研究に打ち込んでいくことになります。こうして、ロンドンはマルクス終焉の地になったのです。

マルクスが亡命した頃の英国はビクトリア朝(1837年-1901年)がその盛期に向かおうとする大英帝国黄金時代の幕開け。而して、人口に膾炙しているように、マルクス一家が暮らしたロンドンはディケンズ(1812年-1870年)が描いたロンドンに他なりません。少し時代は下りますが、1863年には伊藤博文(1841年-1909年)が長州藩秘密留学生としてロンドン大学に赴いていますから、ジャーナリストのマルクスと伊藤博文は大英博物館あたりで邂逅していた可能性はゼロではないと思います(笑)。閑話休題。

ロンドンはハイゲートにある、巨大と言ってよいマルクスの頭像を載せた些か悪趣味なマルクスの墓には英語でマルクスの二つの言葉、「Workers of all lands unite:万国の労働者、団結せよ」(『共産党宣言』の掉尾の言葉)と「The philosophers have only interpreted the world, in various ways; the point is to change it.:哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈してきただけである。而して、重要なことは世界を変えることなのだ」(『フォイエルバッハ・テーゼ』11番)が刻まれています。蓋し、1849年、ロンドンで旅装を解く直前まで、三月革命の成就を祈念しながら1848年と1845年に自身が書き記したこれらの言葉をマルクスは呟いていたのかもしれません。けれども、三月革命では「社会主義革命」どころか「民主主義的共和国の樹立」もその片鱗さえ見えず、(当時見られた10年周期の経済循環による)10年後の1857年の本格的な世界恐慌の際にも「恐慌→プロレタリアートの窮乏化→政治革命」という事態はドイツはもとより世界のどこの国でも起こりませんでした。

けれども、マルクスは1857年の世界恐慌段階でも、「世界市場の大暴風雨たる世界市場恐慌において、資本主義経済のあらゆる矛盾が一挙に暴露されるのであり、而して、恐慌はここにおいて、この前提【現存の生産様式である資本主義】が乗り越えられることを促す全般的な指示であり、新しい歴史形態を受容することを要求する」(『経済学批判要綱』(1858年))と「恐慌→革命」の展望と期待を保っており、他方、その展望の論理的基盤たる「唯物史観」を益々精緻に整えます(『経済学批判』(1859年))。しかし、マルクスの預言は1929年の世界恐慌においても裏切られ、その後、有効需要と金利の政策的管理に道を開くケインズ経済学、および、新古典派総合の経済学によって謂わば「歴史的-論理的」に否定されたことは言うまでもありません。

而して、これら『経済学批判要綱』『経済学批判』を前哨として、「資本主義経済の運動法則の解明」、すなわち、「資本主義経済の単なる記述と説明にすぎない経済学を批判して、資本主義経済の運動の原因とその帰趨」を考究する、マルクスの主著『資本論』(1867年)が書かれるのですが、同書および『ゴータ綱領批判』(1875年)を読む限り(「恐慌→革命」がそう遠くない未来に起こるという展望と期待を撤回した可能性は残るものの)マルクスが「商品と貨幣を媒介とする<資本の無限の自己増殖運動>たる資本主義経済が必然的に孕まざるを得ない矛盾が槓桿となって資本主義は必然的に社会主義に移行する」という唯物史観を『資本論』執筆後の「後期」においても基本的には保持していたことは否定できないと思います。

これらの経緯を確認するためにかなり長くなりますが、有名な『経済学批判』の序言の中の「唯物史観の公式」と言われている箇所、および、『資本論』の第1巻7篇24章「いわゆる資本の本源的蓄積」の中の有名なフレーズを引用しておきます。

「わたくしにとってあきらかになり、そしてひとたびこれをえてからはわたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、取り結ぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、いままでそれがその中で動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ、急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。

ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物資的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物資的な存在諸条件が古い社会を胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。(中略)大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである」(『経済学批判』岩波文庫, pp.13-15)

「この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的法則の作用によって、資本の集中によって実現される。つねに1人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ、資本主義的な生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのものとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被と調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(『資本論』岩波文庫(三)pp.414-415)


以下、ロンドン時代のマルクスの著作。その綱領として『共産党宣言』を書いた「共産主義者同盟」が1852年解散する社会主義運動衰退の中で、マルクスは所謂「第一インターナショナル:国際労働者協会」(1864年-1876年)および後の「ドイツ社会民主党」の前身たる「ドイツ労働者党」の組織化と指導に関わる中でこれらの著書を書き上げました。

尚、(18)は『資本論』第1巻7篇24章「いわゆる本源的蓄積」の第1節末尾の「この収奪の歴史は、国によって異なる色彩をとり、順序を異にし、歴史時代を異にして、異なる諸段階を通過する。それが典型的な形態を取るのは、イギリスのみであり、われわれがイギリスを例にとるのはそのためである」という箇所とともに、左翼がよく「マルクスは必ずしも単線的歴史の発展法則だけではなく、例えば、ロシアのような後進的封建国家では資本主義社会を経ずして封建社会から社会主義社会への直接の移行もあり得る等々、多元的な歴史の発展法則を考えていた」と抗弁する際に<証文>として持ち出すもの。ただ、これは「木を見て森を見ない議論」「頭隠して尻隠さずの言説」であることは上で述べた通りです。

(10)フランスにおける階級闘争(1850年-1895年:エンゲルスとの共著)
(11)ルイ・ボナパルトのブリューメル18日(1852年-1869年)
(12)経済学批判要綱(1858年)
(13)経済学批判(1859年)
(14)賃金・価格および利潤(1865年-1898年)
(15)資本論(第1巻・1867年;同第2版&フランス語版・1872年;第2巻・1885年;第3巻・1894年)
(16)フランスにおける内乱(1871年)
(17)ゴータ綱領批判(1875年)
(18)ヴェラ・ザスーリッチへの手紙(1881年)
(19)剰余価値学説史(1905年-1910年:実質、カウツキーの編著)









■マルクス社会思想の背景と構図

[一] マルクス社会思想の背景
レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』(1913年)は、ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義の三個の基盤の上にマルクスの思想は構築されたと主張しています。蓋し、マルクスの生涯と著作を反芻すれば(マルクスの内面生活における、ユダヤ教とキリスト教の対立、あるいは、<神>を巡る問題は一旦捨象するとして)レーニンのこのマルクス理解は大凡妥当なものだと思われます。

畢竟、マルクスの社会思想的言説は、ドイツのヘーゲル左派の哲学、英国の古典派経済学、および、後にエンゲルスによって「空想的社会主義」と一括されることになるフランスの社会主義思潮(もっとも、「空想的社会主義」の代表者の一人オーウェン(1771年-1858年)は英国人であり、また、英国には現在の英国労働党の源流の一つとなる、マルクスと同様「労働価値説」に立つリカード派社会主義の伝統もあったのですけれども)のハイブリッドとして理解されるべきでしょう。すなわち、「弁証法」にせよ「疎外」にせよ、「使用価値」にせよ「剰余価値」にせよ、あるいは、「私有財産制の廃止」にせよ「計画経済」にせよ、これらの言葉を駆使して展開されるマルクスの言説は、これら先行思想の中で用いられたその言葉の<表示義:denotation>に対する<共示義:connotation>によって編み上げられているかもしれないということです。

而して、当然、マルクスの思想も19世紀の西欧の歴史的な特殊性から無縁ではありません。蓋し、このことは、先に引用した『経済学批判』(1859年)序言の中の認識、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(岩波文庫, p.13)、そして、『ドイツ・イデオロギー』(1845年)にマルクスが書き記した「支配階級の思想が、どの時代においても、支配的な思想である。(中略)支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたものに他ならない」(岩波文庫新編輯版, pp.110-111)等々によって(”When in Rome, do as the Romans do.”の諺やモンテスキュー『ペルシア人の手紙』(1721年)を想起するまでもなく、価値や規範の妥当性は地域的と歴史的な相対性を帯びるという認識は古来存在したのでしょうが)哲学史上始めてマルクスが向自的-論理的に定式化した「思想のイメージ」だと思います。

畢竟、マルクスの経済学・経済学批判と社会思想は19世紀西欧社会の特有な産物である。そして、それは、長尾龍一氏がしばしば口にさたように西欧近代の「鬼子」というより、ある意味、その「嫡出子」でさえあると私も考えています。而して、このマルクス理解は、アダム・スミスを始祖としリカードを中興の祖とする英国古典派経済学の二つの最高峰としてJ・S・ミルの『経済学原理』(1848年)とともにマルクスの『資本論』(1867年)を捉えた森嶋通夫氏の認識とも通底するものかもしれません。

他方、マルクスの経済学・経済学批判と社会思想は19世紀西欧社会の特有な産物にすぎない。例えば、『1858年10月8日エンゲルス宛書翰』を読むときその感を深くします。

「ブルジョア社会の本来の任務というのは、世界市場を、すくなくともその輪郭からいって世界市場をつくりだすこと、そしてこの世界市場に基礎をおく生産をつくりだすことである。世界はまるいのだから、この仕事はカリフォルニアとオーストラリアが植民され、そして支那と日本が開国したことで終りをつげたように見える」


実際、『資本論』第3巻5篇27章「資本主義的生産における信用の役割」(岩波文庫・p.175ff, p.176ffとp.178のエンゲルスの註)に明らかなように、マルクスの生きた時代(1818年-1883年)、所謂「株式会社」はまだ資本主義経済の補助的プレーヤーだったのです。ならば、後にレーニン(1870年-1924年)が『帝国主義論:資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)で、預言した「自由放任的競争の結果、勝ち残る少数の金融資本による全産業資本の独占体制の成立→過剰な資本の輸出→列強諸国による世界分割と再分割のための戦争の惹起」という<帝国主義>の時代の到来も、他方、「金と銀は生まれながらにしての貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金と銀である」(『資本論』第1巻1篇2章・岩波文庫, p.160;『経済学批判』・岩波文庫, p.204)と信じていたマルクスにとって(1929年の世界恐慌にともない)1930年代にアメリカを除く先進各国が「金本位制=兌換制度」を廃止し、1971年にはそのアメリカも金本位制の維持を断念するに至った、「不兌換-変動相場型」の現在の為替制度も想像だにできなかったと思います。畢竟、マルクスの預言に反して資本主義が消滅することはなく、世界史の舞台から退場させられたのは「社会主義-共産主義」の方だったことは、蓋し、不思議ではないのではないでしょうか。


[二] マルクス社会思想の構図
1895年のエンゲルスの死去を合図にマルクスとエンゲルスが強くコミットしていたドイツ社会民主党の内部で路線論争が惹起します。『ゴータ綱領批判』(1875年)においてマルクスは、共産主義社会には「資本主義から生まれたばかりの、共産主義社会の第一段階」と「より高度の段階」があることを明示した上で(岩波文庫, p.35ff, p.38ff)こう述べています。

「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」(岩波文庫, p.53)


また同書が頻繁に引用する『共産党宣言』(1848年)には更にこう記されている。

「共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命において鎖のほかに失うべきものをもたない。かれらが獲得するのは世界である」(岩波文庫, p.87)


すなわち、このように明確に「暴力革命」と「プロレタリア独裁」(そして、おそらく過渡期の「共産党一党独裁」)を想定していたマルクスに対して、ベルンシュタイン(1850年-1932年)は非合法的-暴力的手段による国家権力の奪取ではなく議会制民主主義の枠内での権力獲得を目指すことを主張した(『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』(1899年))。これが後に英国のフェビアン協会の漸進的に社会主義の実現を目指す路線とともに現在に至る欧州の「社会民主主義」の源流の一つとなります。

ベルンシュタインの投じた一石は激しい路線闘争を巻き起こす。マルクスを教組と仰ぐカウツキー主流派はベルンシュタイン派を「修正主義」と罵倒し、その「修正主義=社会民主主義」を主張するベルンシュタイン派はカウツキー(1854年-1938年)擁する主流派を「教条主義」と揶揄しました。けれども、第一次世界大戦勃発に際してカウツキー主流派が「祖国防衛」の名目で戦争協力を表明し、よって、各国のその参加メンバーが敵味方に分かれることになった「第二インターナショナル」(1889年-1920年)が解体するとともに、それまでマルクスの威光で世界の共産主義運動の<総本山>的権威を享受していたドイツ社会民主党はその地位を人類史上最初の共産主義国家を樹立したレーニンのソヴィエト・ロシアに譲ることになります。以後、1989年-1991年の社会主義崩壊までの70年間「マルクス=レーニン主義」がマルクス主義の正統であり続けることになったわけです。尚、ドイツ社会民主党は『ゴーデスベルグ綱領』(1959年)において公式に「プロレタリア独裁」を掲げるマルクス主義(≒「マルクス=レーニン主義」)を放棄しました。


ことほど左様に、世界の近現代史に影響を及ぼしてきたマルクス主義とは所謂「マルクス=レーニン主義」(自称「科学的社会主義」)のことに他なりません。そして、1960年代以降、上に紹介した社会民主主義とは別の位相で、(簡単に言えば「後進国ロシア・支那での共産主義革命の生起」「資本主義の残存と発展」という現実を糊塗すべく)マルクスの経済学と社会思想を読み替える、アルセチュールを嚆矢とする諸潮流が登場する。例えば、曰く、唯物史観は法則ではなくイデオロギー的仮説にすぎない、そして、それこそが<マルクスの真意>であると主張する潮流です。而して、レーニンにも旧ソ連にも何の義理もない我々保守改革派がマルクスから何がしかを学ぼうとする場合、「マルクスの社会思想」と「マルクス=レーニン主義」とは一応区別すべきだと思います。

これはアルセチュール等に対して述べてきたことと一見矛盾するようですが、我々は、それが保守主義の社会思想・社会理論の再構築に使える限り「マルクスの社会思想」からも「マルクス=レーニン主義」からも学べばよいのです。而して、マルクスから使えるアイデアのアイテムをより多くより完全な形で入手するためには、一応、<マルクスの真意>を巡っては流派の異なる(必ずしも相互に共約可能とは言えない、incompatibleな)複数の解釈体系が現存している構図を理解しておいた方が混乱が少なくより生産的であろうということです。

敷衍します。例えば、「科学的社会主義」なるものをいまだに信奉する日本共産党系の論者から「トロッキスト」と蛇蝎の如く忌み嫌われる新左翼系やポスト=モダン系の論者、他方、反対に彼等から「スターリニスト」という蔑称を奉られている日本共産党系の論者に混じって、<マルクスの真意>なるものを求めて競い合う義理も暇も我々にはない。私が尊敬してやまない小平先生の言葉「黒猫も白猫も鼠を取る猫は良い猫だ」を借用させていただければ、何が<マルクスの真意>であるかなどは(本当の所は、マルクスからより豊潤な社会思想を学ぶ上での作業仮説を超えては)我々保守派にとってはどうでもよいことであり、「「マルクスの社会思想」であろうが「マルクス=レーニン主義」であろうが、反面教師的にせよ保守主義の社会思想・社会理論の再構築に役立つアイデアを提供するマルクスを巡る知識体系は良い社会思想だ」ということです。


<続く>



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