国会では格差社会の論議が盛んのようです。「勝ち組」と「負け組み」の差がここ数年で拡大したのではないかとか、小泉政権下の5年間で国民の中で所得格差が広がったかどうかが論議されているらしい。いい身分の人たちの議論だと思います。馬鹿も休み休みに言えと思います。
この社会の格差が拡大していることなぞ街を小一時間散歩すりゃ分かることでしょう。それでも分からないというのなら、一度、ネットで転職活動をしてみなさいって。勤続25年、現在の年収が800万円の食品商材一筋の営業課長さんに一体幾らの条件提示があると思いますか? 600万円なら破格、450万円でも間違いなく恩の字ですよ。昨日、平成18年2月12日の読売新聞『スキャナー』欄はジニ係数(★)を引き合いに出してこう報じています。
厚生労働省が2004年6月に発表した所得再分配調査では、最新(02年)のジニ係数は、0.4983と過去最大になった。(中略)この10年間、正規雇用者は約407万人減る一方、フリーターやパートなど非正規雇用者数が約650万人増えた。リクルートワークス研究所の04年の調査によると、正社員の平均年収は531万円だが、派遣社員は226万円、フリーターは167万円。親との同居が多いフリーターらを独立世帯とみなせば、ジニ係数はもっと上がる可能性が高い。(中略)
回復基調にある雇用情勢だが、地域間のばらつきは大きい。求職者1人あたりの求人数を示す有効求人倍率(05年12月)をみると、最も高いのは、トヨタ自動車などが雇用をけん引する愛知県の1.61倍。大企業が集まる東京都も1.54倍と高水準だ。一方、最低の沖縄県は0.41倍、青森、高知両県も0.4倍台。(中略)
世代間の格差も広がっているようだ。社会経済生産性本部のまとめによると、従業員1000人以上の企業で、20~24歳の賃金額を100とした場合、55~59歳の賃金は1990年に178だったが、2004年には192に上昇した。また、総務省の家計調査によると、貯金残高から負債残高を差し引いた純貯蓄額は、30歳未満の世帯で、02年の119万円から04年には53万円へと約55%も減った。(以上引用終了)
★註:ジニ係数
国民間の所得のバラツキ具合(所得の不平等)を表す厚生経済・マクロ経済指標の一つ。ジニ係数は0~1の間の数値を取り;国民が全員同じ所得であればその数値は0:一人が社会の全所得を占めていればその数値は1:そして、所得上位25%の層が国民全所得の75%を占める場合にその数値は0.5になります。
尚、参考ですが、ジニ係数は国際標準で計算しなおすと0.322だそうです。 http://money.msn.co.jp/saving/column/columncon.asp?nt=14&ac=fp2004110342&cc=23 この数値はOECDの20005年調査=0.31とほぼ同じですからたぶん信用できるでしょう。わが国はまだまだ「比較的平等な国」に入るということ。しかし、これは註で述べることではないかもしれませんが、私はジニ係数が実は0.322であるにせよ、この10年や5年で国民の多くが格差が拡大したという意識を抱くようになったことも事実だと思います。
◆格差社会は悪でしょうか?
所得格差は拡大している。しかし、<格差社会>なるものは無条件で悪いことなのでしょうか? あるいは、<格差社会>は政策によって是正できる類の事態なのでしょうか? 而して、「勝ち組」と「負け組み」が綺麗に切り分けられる現下の状況は小泉政権の失政によるものでしょうか? これらに対して、私は「否」と答えます。
簡単な話しです。産業構造が比較的安定していた古き良き時代ならば、所得格差の是正は総有効需要管理政策(=ケインズ政策)によって達成されたかもしれない。要は、慎重な通貨総量管理に伴われた大規模な公共事業投資によって多くの企業が潤い→新しい民間投資が行われ→新たな企業活動の出現により→多少の時間差はあったとしても国民の大部分に所得が再配分されジニ係数が縮小する。
こんな古典的なケインズ政策は、しかし、グローバル化の潮流に起因する、産業構造自体が恒常的に変化する現在では最早通用しない(ケインズ政策が再度有効になるような安定した(=停滞した)産業構造がこの社会に戻る可能性を否定はしませんが、2006年の今それを望むべきではないでしょう)。それは、失われた90年代において「真水」だけでも一体幾らの公共投資が行われたか:しかるに、小泉構造改革以前には景気さえ回復しなかったことを想起すれば私の主張も満更間違いではないと思うのです。
ならば、「産業構造自体が不断に変化する現在の日本社会」においては(マクロ経済におけるイノベーションとイノベーターの枢要性を喝破した)シュンペーターの示唆した通り、才能・技能・野心に溢れリスクを取る気概を持ち、そして、最終的に運も味方した「勝ち組」が経済の拡大と生産性向上を牽引することなしには、国民所得全体を維持拡大することは到底無理なことではないでしょうか。蓋し、これが<格差社会>なるものは無条件で悪いことではなく;また、<格差社会>は政策によって是正できる類の事態では最早ないと私が考える所以です。
敷衍します。「所得格差はなぜ拡大したか」についてです。これまた単純な話です。要は、給与が減ったから。ではなぜ給与が減ったか? それは、以前と同じ水準の給与を払える企業が減ったからであり、(これと実は同じことなのですが)労働力市場で以前よりも低い価格(=給与)で労働力商品が調達できるようになったからです。
ならば、このような事態はいかにして生じたか? それは国際的競争の激化の反映であり、最も直截に言えば、(自動車・精密機械・アニメ等々、国際的な比較優位性を保有する商品・サーヴィスに依存することによって社会全体としては)低い労働生産性が温存されていた国際競争力脆弱な産業が崩壊したからです。
この経緯は、現在に至る公務員への世間の冷淡な視線と90年代を貫いた金融機関の統廃合に顕著でしょう。数年前のタオル製造業界の業界としての消滅や技術力のない町工場や印刷所の倒産廃業の続出、あるいは、価格破壊の量販店に文字通り破壊された幾多の商材製造・卸業界の姿:更には、ネットショップやアフィリエイトビジネスの成長にともなう量販店自体のスクラップアンドビルトの流れを見ればこの産業構造変化の<破壊力の凄まじさ>は誰しも思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。
正に、<護送船団方式>に守られてきた日本の多数の企業や雇用主としての官公庁の少なからずは、国際化の潮流の中で世界との籠城戦に敗れたのです。ならば、「勝ち組」と「負け組み」が鮮明に二分される格差社会の登場は、少なくとも1979年の第二次オイルショック以降からバブル期を通して道筋がつけられたものですが、バブル崩壊とともに顕在化したものにすぎない。蓋し、格差社会は、豪も、小泉政権の失政によるものではないと思います。
このことは次の思考実験によって一層明らかになるでしょう。蓋し、もし社民党や共産党が政権を奪取して強制的に<平等な所得の再分配>を実行したらどうなるか、そう、強権的な経済政策によってジニ係数を限りなく0に近い数値にしたらこの社会はどうなるだろうか、と。そうすれば、夢のような<平等な社会=非格差社会>が出現するでしょうか?
断言します。そこに立ち現れるものは悪夢のような<貧困の平等>でしょう、と。畢竟、75%の国民が国民所得全体の25%しか得られないような状況でも、その大多数の国民にとって<平等な貧困>に比べれば、そのような格差をもたらす社会の方がよりましな社会であることは確実です。なぜそう言えるか、それはそのような平等な社会には国民全体の生存を維持するための富が生産される保障などないからです。分かりやすく言えば、そのような<平等な社会>とは、グローバル化の進行激しい現在に、失われた90年代にかけて市場から撤退させられたような国際競争力の乏しい企業とその企業よりも一層労働生産性低劣な官公庁だけで社会を構成するようなものだからです。
◆格差社会を突き破る構造改革を!
格差社会は端的な悪ではない。格差とは社会の活力の裏面ですらある。では、格差拡大への対応は不要なのでしょうか? 私はそうとも思いません。ポイントは、新保守主義の行き過ぎた(私に言わせれば、それは中途半端に新保守主義が実施されたものにすぎないのですが)欧米を見るまでもなく次の5点ではないでしょうか。
①社会の治安維持コストの増大
②負け組みの労働力商品価値の低下
③新たな投資と起業の停滞による国内総生産の低下
④新たな投資と起業の停滞による生産力の脆弱化
⑤労働力の需要と供給のミスマッチに起因する社会全体の生産力と生産性の低下
第1点の治安維持のコスト増大は説明するまでもないでしょう。喰って行けないから食料品を万引きする事例等は、実際、既に低所得の高齢者に広がっている悲しい現実です。犯罪者や犯罪予備軍に扶助を与えできれば生計を立てる方途を与えて彼等が犯罪に手を染めないようにする施策。彼の鬼平こと長谷川宣以(通称、長谷川平蔵)が寛政の改革で石川島人足寄場を作ったような施策は犯罪からの社会防衛と社会福祉の交点であり、格差社会化の進行とともにそのコストは膨れ上がるに違いありません。
この点で大きな問題は社会の中での孤立感や社会から邪魔者扱いを受けているという被害者意識から犯罪に走るケースの多発かもしれません。家計単位の所得や資産の状況からは犯罪惹起の可能性を予測しにくいこのような者から社会を守るコスト:ガードマンの配置や防犯ビデオセットの設置等々のコストが格差社会の進行とともに増大するのも必然でしょう。
治安対策はもちろん重要。しかし、グローバル化の進行にともなう産業構造の変化と経済社会の構造改革という観点からは、格差社会の最大の問題は、②負け組みとその子女の労働力商品価値が低下して国際的競争力を持つ労働力が減少すること、ひいては、生活保護需給対象者が増大すること:さらに、それは③労働力の需要と供給のミスマッチに起因する社会全体の生産力と生産性の低下を引き起こすかもしれないということです。
特に、労働力商品の価値を維持するための教育を、国民に平等に与える体制が格差社会の進行の中で崩れる限り、また、一旦、負け組みになった者に敗者復活のチャンスが与えられない限りこの可能性は高いと思われる。
上記のような状況下では、④新たな投資と起業を行うプレーヤー自体が社会の極少数派になってしまい、而して、⑤新たな投資と起業の停滞による(国内で現在のチャンピオンの座を狙う挑戦者の枯渇による)生産性と生産力の脆弱化をもたらすかもしれません。このような事態は、国際化の潮流に拮抗すべく構造改革を推進してきた小泉改革の正当性をさえ削ぎかねない。皮肉な話しです。産業と社会の透明化を推進する構造改革によって、構造的に社会の生産性が危うくなりかねないのですから。
畢竟、構造改革は更に前進せしめるべきです。しかし、それは次の2点をともなう前進でなければ構造改革の推進は破綻を招きかねないと私は考えるのです。
(甲)その子女を含めて負け組みに対して、労働力商品としての価値を維持向上させるに十分な社会全体のセーフティネットの仕組み
(乙)「負け組み」に対する敗者復活の余地を制度的に保障する仕組み
上記の仕組みを、田中=竹下=旧社会党的な社会保障ばら撒きではなく、自己責任のもとに構築することが肝要ではないでしょうか。それは例えば、負け組みに対して次のようなメッセージを送る社会の創出なのかもしれません。すなわち、
負け組みになったのは運がなかっただけかもしれない。だから自暴自棄や卑屈になんなさんな。しかし、運味方せずにせよ負けは負け。再起を期すなら一時低所得に甘んじ、かつ、一層の節制と研鑽をつまれよ。この社会は敗者復活のチャンスを幾らでも与える社会。それに、貴殿の子女の教育の機会均等は保障されているのだから、と。
蓋し、構造改革の修正ではなく、自己責任と社会的ケアの明確な住み分けの再構築、畢竟、独立自存の精神と自己責任の原則、あるいは、国を愛し勤労を尊ぶような意識改革によってする構造改革の徹底が格差社会問題解決の道ではないか。国民の意識改革に裏打ちされた構造改革によって、改革の歪みである<格差社会>を突き破り乗り越えることが肝要なのではないでしょうか。私はそう考えます。
Ponkoがいつも感覚的にヘンだと思うことを先生が論理付けてくれるので、ああやっぱりと納得することが多いです。