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熟慮の再掲:事故を乗り越え福島とともに進む☆原発推進は日本の<天命>である

2015年08月17日 20時41分35秒 | Weblog
2011年04月24日 23時19分30秒 
Weblog
 
東日本大震災の津波被災を契機とした福島第一原子力発電所の<事故>はいまだに予断を許さない状況のようです。他方、巷には、この<事故>を奇貨とした、原発反対派の言説が流布している。而して、原子力や放射能には全くの門外漢である私達も、この現下の状況を眺めて何が正しいのかがはっきりしてきたように思います。

蓋し、日中戦争への突入の是非にせよ、大東亜戦争後、冷戦期の「全面講和-片面講和路線の選択」にせよ、朝日新聞の主張と逆に行けば日本はまず間違いないという歴史法則を援用するならば、グリーンピース等のカルト的環境団体が原子力発電所に反対している以上、正解はその逆にある。

畢竟、エネルギー資源小国の日本においてはエネルギー安保の観点から、また、近い将来の核武装や核開発を外交カードとして温存する安全保障の観点からも、「原発推進」という四文字は、『記紀』にこそ書かれていないものの、天照大神、否、伊邪那岐神・伊邪那美神の二柱以来の日本の「manifesto majesty:天命」である、と。この二柱が天の浮橋に立って、まだ混沌としている下界をかき回した棒こそ核燃料棒ではなかったか、と。そう私は考えています。





而して、あるブログ友は東日本大震災の翌日こう記しておられた。

◎それでも原発は必要なのだ!

私は原発の絶対的必要性を主張している。
火力とか水力の発電だけでは絶対的に不足しているわけだし、
風力や屋根の上の太陽光では蟷螂の斧なのである。

今回の【福島第一】において腹が立つのは、【菅内閣】による対処のまずさなのである。
これにより、民主党に投票した【レベラル派】が反原発で騒ぎ出すのが最も恐ろしいことなのだ。

それでも原発は必要だという意見がどこからも聞こえてこないことに大きな危惧を感じているのである。


 (2011/3/12(土) 午後 10:26)  

蓋し、卓見でしょう。
而して、別のブログ友は「反原発で騒ぎ出したリベラル派」のさもしい
跳梁跋扈のようすを震災から一月後に淡々とレポートしておられた。

・反原発にみる基地外ども(←リンク切れ)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60392149.html
 
そして、福島県浪江町の被災者のブログともからは、なにが問題なのか
優先順位がわかっていない民主党政権とリベラル派のマスメディアが
引き起こしている事態についての<告発>が・・・。
 
なら、要は、頼りになるのは、結局、自衛隊のみ!

・東日本大震災と政治の不在-避難者のひとこと、「情報が入らない」
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/48cfcbc75078e9b2bafaab77c971f3cb





簡単な話。原発の安全性を確保するための社会的コストが、原発の効能に比して過大であるならば、原発は漸次廃止するしかないでしょう。けれども、この世に、絶対の安全などは存在しない。ならば、「原発は安全だ」「原発は危険だ」という二進法的議論には、最早、なんの意味もない。同様に、福島第一や浜岡が危険だからと言って原発推進の政策全体が間違いということにもならない。
 
実際、飢餓線上で喘いでいる子供達がこの瞬間にも世界で10億人を遥かに越える現在、20年後に健康被害が表面化するかもしれないなどの「優雅な危険性」の恐怖を、真顔で滔々と語る原発反対論者に対して私は、「あのねおば様、病気にならないでいい方法を教えて差し上げましょうか? それはね死ぬことですのよ」とパスカル流の箴言を囁きたくなります。このような、「健康のためには死んでもいい」という、健康や生命、安心や安全に極めて高い価値を置く幸福な人々は、所詮「人や国などは風の前の塵に同じ」という平曲を反芻すべきである。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照ください。

而して、「あんまり安全でもないけれど、十分社会的コストに見合う」のならば、原発はやはり推進されるべきであり、蓋し、(福島第一原子力発電所の事故によって原発の安全神話が崩れ、よって、二進法的不毛な議論の桎梏から日本国民が解放された)今こそ一層推進されるべきである。否、この災害は、それを逆手に取って福島第一の旧式のマークⅠ型を最新式に入れ替える好機でさえある。冒頭にも記した如く、エネルギー安保や近い将来の核武装を睨んだ場合にはなおさらそうである。少なくとも、唯一の被爆国たる日本には核武装する道徳的権利が論理的にはあるはずですから。と、そう私は考えています。

・地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(上) ~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65233299.html
  




畢竟、放射能などは正露丸を飲んでいれば大丈夫なのです。と、思っていれば大丈夫。知り合いの識者によれば、正露丸ではなく葛根湯が効くらしいですが、私は、年間、1000ミリから2000ミリシーベルト程度の放射能などはその程度のものであると思っています。もちろん、根拠のない気休めですが、逆に言えば、この気休めは、そのレンジのものであれば放射能が危険かどうかなどは本当のところは誰もわからないことの裏面でもある。
 

ならば、土台、この世に生まれてきた以上、生きること自体が、例えば、呼吸自体が細胞を老化させる確実な<自殺行為>である以上、あえて高いリスクを求める必要はないけれど、確実に安全な範囲でのみリスクを負おうという態度は、人間が有限な存在にすぎない真理を忘却した、傲岸不遜な理性中心主義であり、西欧中心主義、すなわち、文化帝国主義の醜悪な一斑にすぎないのではないかと思います。而して、危険性が究極のところ不明確なレンジの放射線被爆よりも、全国で猖獗を極めているイジメ問題、すなわち、カルト的原発反対論者の言動の方が遥かに有害であり不健康ではないでしょうか。




素人を沈黙させる力を持つものとしての専門知識。そして、資本主義社会の成立と轍を一にした所謂「近代科学の聖俗革命」以降、畢竟、あらゆる専門知識が<北斗の拳的な秘儀>ではなく社会的な諸関係に組み込まれた社会に我々は生きている。要は、年間何ミリシーベルトの放射線を浴びればどんな健康障害が起きるのか否か、東海大地震が何時起きるのか等々、本当の所は、本当には誰も分からないことに関する専門家の権威と、その権威と社会的に結合した国家権力によって、国民の過半が死活的な影響を受けている構図。これこそ、ミシェル・フーコーが予感し、ベックが予想した、リスク社会の展開の一斑なの、鴨。

而して、敵は人智や国家を超えたグローバル化の潮流や、これまた人智を超えた放射能の危険性である以上、放射線被爆の「危険性/安全性」が定量的に臨床事例で確認されるまで原発推進の是非の決定をペンディングして<人類>は立ち止まることなどはできはしない。それは、細胞が老化するからと老化防止の技術開発がなされるまで呼吸を止めることができなのとパラレルでしょう。

而して、ドイツでは合計10万人を結集する規模の反原発デモが今月行なわれ、韓国では放射能の雨が降ると、4月6日の雨天にはソウル圏だけでも130校の幼稚園・小学校が休校になったとか。同じ日、福島の多くの小学生は喜んで元気に登校し始めたというのに・・・。

ならば、これはチャンスでもある。韓国・支那・ドイツやアメリカがこのように足踏みしている間隙を縫って日本が原発路線を再構築するこれはチャンスではないか。ならば、原発推進は日本の<天命>とも言うべきものであり、敵は福島県浜通りではなく<本能寺>にある。敵は、原発被害を封じ込めるスキルを欠く政府、そして、風評とイジメという福島県民に耐え難い二次被害をもたらしている輩ではないでしょうか。すなわち、原発推進を阻害する無能な民主党政権とさもしい原発反対派がそれである。と、そう私は考えています。





と来れば、話は簡単。
すなわち、日本がその<天命>に沿う道は以下の通り、

・福島第一原子力発電所の事態をなにがなんでも沈静化すること。

・想定内の事故を未だに「想定外」と言いつくろっている民主党政権への退場勧告
・想定内の危険を放置して甚大な被害を惹起させた東京電力の「倒産→解体→再生」

・役立たずの政府の地震予知調査委員会等々、盲腸機関の「仕分け→廃止」

・危険性を巡る情報開示の徹底による合理的な放射能除去と浜通り住民の帰還推進
・日本国民全体がバックアップする福島県民による福島県のための福島の再生   


実際、麻生自民党政権下で、福島第一原子力発電所を舞台に、今回の事故と全く同じケースを想定した訓練が行われていたのであり、訓練の報告書自体がマニュアルとして残っていた。ならば、民主党政権が「政治主導」などの戯言を唱えて数日を無駄にさえしなかったならば、少なくとも、官僚はこれらのマニュアルに従いすぐに事態の沈静化に向けて動けるはずだったのです(当該訓練後の報告動画参照)。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14197957?via=thumb_watch





そして、今回の福島第一原子力発電所の事故が及ぼす良い影響がもう一つあるとすれば、それは、これまで絶対に不可能な「絶対安全」という裸の王様の滑稽と悲哀を引きずってきた、原発推進派が、今後は「絶対に安全などではあり得ない」という当たり前のことを前提に、個々の原発の開発や廃炉に向けて当該の地域住民との間で合理的な議論ができるようになることでしょう。訴訟法における法的な意味とは異なりますが、ここには、政治的と社会的な文脈における「原発の安全性と危険性を巡る挙証責任の転換」が推進派から反対派に対してなされた、と。これはそう評すべき事態かもしれません。

蓋し、原発推進は日本の<天命>であり、現在、それへの貢献ゆえに喘いでいる福島県の現状を見れば、なにがなんでもそれを支援することがまた日本の<天命>でもありましょう。なぜなら、この<天命>に限定したとしても、『風の谷のナウシカ』の王蟲の言葉、あるいは、ヘーゲルの「我々としての我、我としての我々」の認識論的の地平を持ち出すまでもなく、福島は<日本>であり、日本は<福島>だからです。

もっとも、福島県における原発推進の今後の是非は福島県民が決めることであろう。まして、それは、賢しらな政府の復興構想会議の識者などが容喙すべきことではない。と、そう私は考えていますけれども。


б(≧◇≦)ノ ・・・無能な民主党政権は可及的速やかに下野せよ!
б(≧◇≦)ノ ・・・差別排外主義のさもしい原発反対派は恥を知れ!
б(≧◇≦)ノ ・・・文化帝国主義の傲岸不遜な原発反対派は地獄へ落ちろ!

而して、

б(≧◇≦)ノ ・・・本当によく頑張ったね、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・これからも一緒に頑張ろうね、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・日本のために共に闘わん!

 
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【2015年現在-海馬之玄関の原発問題のスタンス】
 
<主張>
・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344571.html
 
・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65233888.html
 
・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138967625.html
 
<根拠>
・チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたものは何か
 -放射能狂騒終了の鐘は鳴り響く(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/690b8a180fc5e64810727f3cc571480d

・高田純教授「福島県民は誰も甲状腺がんにならない」
  -放射能狂騒状態の宴の終了を告げる鐘音
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0310d2573c00291a4b0e194161f3e84b
 
・脱原発の狂宴からの卒業-「放射能より避難が危険」「原発事故より風評被害が有害」-(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/690b8a180fc5e64810727f3cc571480d
 
・美味しんぼの因果関係-脱原発の背理
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65218494.html
 
 

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