◆包括政党の共通のパラダイムとしてのナショナリズム
ナショナリズムとは「民族と国民を巡る自己幻想と共同幻想を確立し再生産するイデオロギー」に他なりません。例えば、それは「自分=日本人」という幻想を<私>に許容し促し強いるものであり、「自分たち=日本人」という幻想を通して<我々>をこの社会に統合するもの。而して、ナショナリズムはその機能を十全にすべく伝統的事物や英雄的事柄を巡る<物語>によって編み上げられています。このブログでも何度か引用していますが、ゲルナーはナショナリズムについてこう述べています。
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)
ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。
【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】
すなわち、ナショナリズムは政治的神話やイデオロギーに過ぎない。けれども、近代の国民国家(Nation State)でナショナリズムが成立したのは偶然ではなく(あるいは、時の為政者による憲法無効論なみの詐欺的策動の結果ではなく)国民国家の樹立、そして、その国家内部での社会統合をスムースに行なうための歴史的必然であった。と、そうゲルナーは述べているのです。先取りして言えば、ナショナリズムがその神通力をメンテナンスするために伝統的事物をイデオロギー装置のアイテムとしてしばしば使用する所にナショナリズムと保守主義が交錯する最初の契機があるのかもしれません。
畢竟、ナショナリズムは、よって、「保守イデオロギー色の強い主張=ナショナリズムの色彩の濃い主張」は国民国家が成立して以降の近代特有の極めて歴史的に特殊な社会思想です。逆に言えば、それが近代のパラダイムである以上、ナショナリズムは資本主義国であると社会主義国であるとを問わず、アメリカであろうと北欧諸国であろうと、また、保守政党から社会民主主義政党や共産党にいたるまですべての国民国家の国家権力とその政党を拘束する力を持つ共通の社会思想的パラダイムなのだと思います。
而して、国家や民族の権威や価値を否定、もしくは、相対化してやまないある種のマルクス主義やリベラリズムの机上の理論においては、確かに「ナショナリズムは死滅する運命にある観念形象」にすぎないのでしょう。しかし、近代の「国民国家-主権国家」の政治の現実においては(そして、「地球市民」や「世界国家」なるものが現実になんらの実体性を持たない現在、他方、グローバル化の昂進の中で益々人間存在の生活と自己同一性を守護する主権国家の役割が高まるに従い加速度的に!)左翼・リベラル政党といえどもナショナリズムの価値をその政策の枠組みに採用せざるを得ないのです。これが(所謂「一国社会主義路線」を採用して以後)例えば、独ソ戦を「大祖国戦争」と呼称したことでも明らかな如く、ソ連がナショナリズムを最も高揚する国家になっていった背景であり、この同じ経緯は江沢民前主席の打ち出した支那の反日路線の狡猾と姑息の中に、そして、現在の北朝鮮社会にその最も醜悪な形で容易に確認できるのではないでしょうか。
私は何が言いたいのか。上に述べたことと「ナショナリズムの喚起は自民党再生の針路ではない」という前項の主張とはどう関連するのか。もちろんそれは、朝日新聞の薄っぺらな口振りよろしく「偏狭なナショナリズムは危険だ」などと主張したいのではありません。むしろ逆であり、机上の空論を弄ぶ社民党や共産党は別にして「政権を目指すほどの意志と覚悟を持った包括政党にとってナショナリズムは共通のパラダイムであり、白黒はっきり言えば、それは自民党と民主党の識別指標にも、また、保守系有権者が投票行動を選択する際の自民党と民主党の差別化要因にもなりにくい」ということなのです。
もちろん、それらの法案の危険性や違憲性に警鐘を鳴らす記事を2ダース近くアップロードしてきた私が、現在、民主党政権が、夫婦別姓法案、外国人地方参政権付与法案の成立を虎視眈々と狙っている事実、すなわち、ナショナリズムを軽視する民主党の不埒さを看過していることはあり得ません。
けれども、(α)例えば、現在のオランダやベルギーの如く外国人がその社会の文化を破壊する事態に陥る危険性が誰の目にも明らかになったとき、日本の有権者の圧倒的多数を占める保守派の怒りを察した民主党は君子豹変とばかりに極めて無節操にナショナリズムと親和的な方向に舵を取るだろうこと。また、(β)外国人がこの社会の文化を破壊する徴候が誰の目にも明らかというわけではない現在の段階では(繰り返しますが、その危険性を把握している論者には現在でも「徴候は自明」であり、夫婦別姓法案、外国人地方参政権付与法案等は絶対に成立させてはならないのです!)、自民党がナショナリズムと親和的なイシューを民主党との政争の争点に据えれば据えるほど、保守系を含む多くの有権者は自民党が包括政党が必須科目的的に追求すべき「この国が進むべき道筋」の提示を(党内の路線対立の激化や更なる分裂を恐れてなのか)怠ったとしか思わないのではないでしょうか。
上記のことを踏まえるならば、ナショナリズムの顕揚は当然のこととして、それが「保守派の広範な支持を獲得するための国家ビジョンと政策パッケージ」の中核的内容を形成することはない。では、自民党が提示を期すべき「この国の進む道筋」とはどのようなものか。私はそれを「保守主義の政治哲学に貫かれた社会経済政策のパッケージ」と考えます。以下、敷衍します。
◆保守主義を基盤とする政策の枠組み
ナショナリズムと保守主義は<伝統>を接点として交錯する。而して、<伝統>とはフッサール流に言えば「現在、生きられてある伝統」に他ならず、それは、現在、我々がそれに価値と規範的拘束力を感じる我々のコミュニティーに内在する慣習であろうと思います。すなわち、2010年の今の日本社会では、彼の東郷平八郎元帥が始めて導入したとされるカレーライスも、女子高生のセーラー服姿も、そして、炎天下の甲子園球場で行われる高校野球も間違いなく「生きられてある伝統」である点では、江戸前の握り寿司、花火大会の浴衣姿、そして、例年9月に行なわれる鎌倉は鶴岡八幡宮の流鏑馬と等価なのです。
蓋し、歴史の流れの中で、幾多の「生態学的社会構造」(自然を媒介とした人と人との社会的諸関係のあり方の連関性の総体)の変遷や、地域によって異なる「生態学的社会構造」の非対称性を超えて、現在の日本社会の中で日本人が「生きられてある伝統=価値と規範的拘束力を帯びる慣習」と認定したものが<伝統>である。と、そう私は考えています。
畢竟、<伝統>をこのように理解するとき、本稿のテーマに引きつけて整理すれば保守主義とは以下のような態度や主張の束であろうと思います。
(甲)国家権力にあまり期待しない態度、国家権力からの容喙を忌避する態度
(乙)「真理」を詐称する教条主義的な社会理論を信用せず、社会の改善は(もし、それが必要な場合でも)漸進の前進をもって最上と考える態度
(丙)社会的紛争の解決は、可能な限り国家権力の権力行使によってではなく<伝統>と<慣習>に従って処理すべきであり、間違っても、教条主義的な社会理論に沿って行なわれるべきではないという主張
而して、極めて月並みですが、これら(甲)~(丙)から演繹される(あくまでも、「国防-安全保障」の部面を除く)社会経済政策とは、
(A)自己責任の原則の徹底
(B)競争のルールの公平化と透明化、そして、ルール違反への厳罰化
(C)国家権力の役割を可能な限り、競争条件の整備とルール違反の処罰に限定する
(D)セーフティーネットの整備
(E)「地方再生-国内地域間格差」「所得格差」は所得再配分ではなく競争力向上のための制度インフラ整備を通して(すなわち、その本質的部分は地方や個人の)自助努力で行なう
(F)法人税の大幅減税と生活必需品以外の消費税の大幅増税
(G)行政サービスと経済的規制部面での政府機能の縮小と公務員の大幅削減
(H)社会的規制強化(ルール違反の摘発と厳罰)とそのための監視機関の拡充
の如きものではないかと思います。そして、これらの施策を通して新たな「生態学的社会構造と生きられてある伝統」が再構築されるのではないか。
蓋し、グローバル化の昂進著しい、福祉国家における大衆民主主義社会である現下の先進国で19世紀的な「夜警国家」への回帰を目指すレッセフェール的な保守主義の社会経済政策は不可能でしょう。また、1989年-1991年の社会主義崩壊を経た現在(社会生活と経済生活のあらゆる部面で国家が国民に指図する社会主義が保守主義から見て好ましくないだけではなく)、社会主義が運営不可能なことも自明。畢竟、「第一の道」「第二の道」は最早選択肢ではない。而して、要は、日本の55年体制の二番煎じにすぎなかった「ブレア政権の第三の道」もまた、55年体制の崩壊からいまだ完全には抜け出せていない現下の日本においては選択肢とはなりえない。
ここで重要なことは、どの国でも「通貨偽造罪」や「業務上横領罪」、「詐欺罪」や「背任罪」が刑法に定められていることからも明らかな如く、資本主義は性善説では成り立たないということ。畢竟、資本主義社会では情報や資金、なにより、需給の非対称性が生じた際にはプレーヤーは「ルールのグレーゾーン」(どころか、不当解雇やインサイダー取引、私文書偽造等の違法行為)にさえ踏み込み利潤獲得に動くのであり、(資本主義とそれが共存していかなければならない限り)現実政治において包括政党たらんとする保守政党の保守主義が一切の社会的規制をも放棄する社会思想ということはありえません。
ならば、2010年の日本の保守政党が描き出すべき「この国の進む道筋」は、内容が濃厚な競争の枠組みを「国家-行政権」が民間に指し示す(要は、どの分野に投資するかを政府が民間に指図する)55年体制的なスタイルからは決別して、内容が薄いアメリカンな競争の枠組みを「国家-行政権」が民間に供給する(要は、競争のルールのみを、但し、ルール違反に対しては厳罰で臨む体制を整備した上で、しかも、透明性の高いルールを政府が民間に提示する)、文字通り、よりアメリカ的にシフトしたスタイルによって書かれるべきではないか。
このような、謂わば「よりアメリカンでよりアメリカンな第三の道」が現下の日本の社会に最もふさわしいもの、鴨。而して、自民党はこのような保守主義の社会経済政策を基盤とした3年後、5年後、10年後の「日本社会再生のビジョン=伝統の再構築作業の見取り図」をこそ保守派に可及的速やかに提示すべきである。そして、それこそが自民党再生の王道ではないか。と、そう私は考えています。