ある大手生命保険会社の要請で、「そもそも英語力は必要か」をテーマとした人事部とのブレスト(ブレーンストーミング)に参加したことがあります。こういう英語研修制度のコンセプト創りや制度づくりの注文を受けることは珍しくないのですが、「そもそも英語力は必要か」という「そもそも論」をテーマとしたミーティングを仕切る依頼はそうめったにあることではありません。興味がない話題であろうはずもなく、実に楽しい仕事でした。10年一日の如き日本企業の人事制度も確実に変化していることを確認でき有意義でもありました。詳細は守秘義務もありこのBLOGには書けませんが、考えさせらた幾つかのポイントを述べたいと思います。
要は、日本企業の横並び意識:バブル崩壊までの「他社も行っていますから論」や90年代の「成果主義論」は一巡してしまい、自社にとっての社員の英語力開発の必要性の究明が、個々の社員の成果と企業の中長期の成長戦略に関連づけて再検討されるようになったということでしょうか。そして、そこでのキーワードは「成果」と「成長」と「戦略」と「責任」だと思います。
思えば、「他社もやっていますから」とは何と甘美な言葉だったことでしょう。人事部にとっても研修業者にとっても企業経営者にとってもです。それは、しかし、甘美であるが安易な言葉だったに違いありません。私は、駆け出しの営業マンの時からこの呪文の恩恵を受けてきました。「何、社員をMBAに企業派遣留学させる理由が見つからない?」 「人事部長! そんなんどないかてよろしいんちゃいまっか? 競合他社もやってますせ。そんなん、言うてはったら来年の新卒採用で痛い目にあわんとも限りまへんで」、てなトークで、大阪でも名古屋でも東京でも、家電メーカーからも銀行まで、あるいは、人事院から大手弁護士事務所にいたるまで大量の注文を受注できました。古き良き時代でした。
片や、成果主義の時代も終わりました。否、素朴成果主義の時代が終わった、と書くべきでしょうか。成果をかなりの蓋然性で達成しうる能力(コンピテンシー)などという悠長なことを企業は言っておられる状況ではなくなっています。2005年の企業は、ズバリ成果そのものが欲しいのです。英語の時制の未来完了形で言うところの、「近い将来の納期までに結果を出した社員」が欲しいのです。可能性などはどうでもよろしい、のです。
そして、これは英語教育屋にとってはゆゆしきことなのですが、多くの企業にとって、ある種の職種や職階においては、英語力は渇望され希求される成果/結果とはあまり関係がないことが確認されてきています。而して、関係がないものを無理やり関係があるとして来た所に、90年代の成果主義からの英語力養成の理論武装には土台無理があったと私は思います。それは、厳しいようで甘く論理的なようで曖昧なものにすぎませんでした。21世紀に入り、そのような観念的なコンピテンシーを基礎とした素朴な成果主義からの英語教育制度の位置づけは裸の王様にしか過ぎないことが誰の目にも解るようになってきています。
ならば、幾つかの企業が採用している「部課長に昇進する条件としてのTOEIC860点」などは、このような流れの中で理解し直されるべきです。つまり、社員に所定のTOEICのスコアやMBAの学位を要求する企業は、最早、他社との横並びでそのようなルールを作成しているのではありません。最早、そのような曖昧な気分でルール作りはできませんし、ましてそのような曖昧な根拠ではルールを実効性のあるものとして維持することは絶対にできません。そのような制度を維持している企業にとって、(一応、昇進の基準をオープンにした上で人事を行っているという社内のモラル維持の機能は置いておくとして、)上級管理職や経営管理候補の英語力は企業の死活を左右する要素になってきたということであり、他方、そうではない企業にとっては、英語力などは「花嫁修業としての茶道か華道」程度のものとして今後、人事評価の場面では切り捨てられるだろうということです。それは、二極化どころか多極化の進行と表現できるでしょう。
国内派と国際派の分化が企業間や職種間で進行しているということ。そして、もし形式的ではない実質的な成果主義が更に日本の企業社会で今後も進行するとするならば、それは、日本も欧米並みにモビリティーの高い社会に変容することを意味するでしょう。そこでは、一般的に、英語力開発は個人のキャリア戦略にとって2005年の現在より一層重要な考慮要因になるに違いない。何故ならば、そこでは、転職が今よりも一層、普通になるということですし、その場合、英語力(使える、もしくは、証明できる英語力)があることは転職可能領域の選択肢を広くするために極めて有効だろうからです。よって、英語力開発は企業の責任ではなく個人の責任で行われるべき、かつ、自己のキャリア戦略を睨みながら達成すべき事柄になるのでしょう。私はそう考えています。
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確かに使いもしないのに「とりあえず英語ぐらいは…」という雰囲気がある(あった)のかもしれませんね。
今は、「とりあえず」では企業もお金をかけられなくなった厳しい時代なんですね…。
他方では、ある企業や官公庁の中だけでは大部分の方のキャリア生活が収まらなくなる分、個々人が標準装備すべき英語力の水準は上がることも間違いない。そうなると、極々一握りの英語の名人上手を除けば、英語力で勝負するタイプのキャリアを目指す人は逆に、「内容もあるねー♪」の人にならなければ一般社員との間で差別化ができなくなる。この競合関係/適者生存関係を数値モデルでいろいろ試しているのですが、大体、同様な傾向を示します。f597132さんもお忙しいでしょうが、ゲームのあいまにいちどモデル作成してみられればどうですか? で、結果、こっそり教えてくださいね(笑)。
でも、語学は楽しい。だから、英語が嫌いじゃなけりゃ、あんまり目的的合理性とか考えずに英語やるのが一番賢いかも。要は、下手な数値モデル&ゲーム理論よりも「好きこそものの上手なれ。而して、人生至るところ青山あり」の不動戦略が優れているのかも。今後とも宜しくお願いいたします。