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防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--英語好きにはお薦めだったりする(結)

2016年06月06日 18時59分24秒 | 英語教育の話題



◆日本の英語教育はどう変えるべきなのか
 --「自衛隊入隊」の路を誰しもとれるわけでもないのだろうから・・・


本稿の主張の核心部分に入ります。日本社会を覆っている、
英語力および英語教育を巡る誤解と妄想を治癒するための
具体的な鍵は何かという問題。再掲します(↓)。

>日本社会を覆う英語力および英語教育に関する誤解と妄想を治癒する鍵
(1)英語はコミュニケーションツール、英語力はコミュニケーションスキル
 →文法・構文・英文和訳に重点を置く「受験英語」は駄目ですってば!
(2)詰め込み教育は英語嫌いを拡大再生産する悪しき研修スタイルなんですよぉ~!
(3)英語力の目標はネーティブスピーカーのコミュニケーションスキルしょ!



▽日本人と日本市民にとって英語とはなんだったのか
英語学や英語教授法の研究者志望の方々、あるいは、もの書きさんやインテリさんを除く私達のような一般ピープルを想定した「英語研修」に話しを限るとき、蓋し、(1)の前段は必ずしも間違いではないでしょう。しかし、後段は間違い。なぜならば、前述の如く英語は一つだから。繰り返しになりますけれども、文法・構文・語彙の習得はコミュニケーションツールとしての英語の核心なのであり、ならば、「受験英語」なるものは--音声面を除けばですが--、英語のコミュニケーションスキルを開発する上でも、かなり優れた<英語教授の仕組み>だったと言えるからです。

裏から言えば、所謂「日常英会話」のスキルなるものは--自己紹介/他己紹介、道案内、買い物、レストランや歯医者の予約、公共交通機関の利用、電話伝言処理、そして、我が街の紹介/日本の紹介、採用面接対応、夏休み/新婚旅行のエピソード紹介等々をなんとか披露する程度の英会話スキルなどは、実は--、先に書いたことと矛盾するようですが、英語力の内容的にはかなり簡単な初級の部類ともいえる。要は、6カ月のアメリカでのESL研修でそれはほぼ調達できる程度の技能ということ。ならば、①国と地域と保護者と<子供達>が総掛かりとなって、②その程度の情報のやり取りを英語でできるようにすることが、しかも、③原則、すべての<子供達>がそうできるようにすることが、初等中等教育の目標や目的なのでしょうか、ということ(★)。

>日常英会話のスキルなどは、寧ろ、簡単に習得できる技術!
>日常英会話力の<子供達>への<標準装備>が日本の英語教育の目標・目的なの?

б(≧◇≦)ノ ・・・そんな目標・目的はおかしいいだろぉー!


★註:日常英会話スキル:「張り子の虎」あるいは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

道案内、スーパーでの買い物。イギリス人の彼氏や彼女と愛を語らうための英会話力、もっと言えば、営業にこられたオーストラリア人の方の説明を聞き質問する程度の英語でのコミュニケーションスキルなど、必要とあれば、誰でも--日本人留学生同士で終日、日本語でおしゃべりすることがなければ(笑)--英語圏のESLに行けば半年といわず4カ月足らずで身につくもの。ということは、必要とやる気があれば、留学などしなくとも、--山形県と秋田県と宮城県の3県の県境あたりでも、兵庫県と岡山県と鳥取県の3県の県境あたりに住んでいらしても--自学自習で(ほんと、良い英和中辞典がそろい、また、良い教材がほとんど無料でいくらでも利用できる時代なのですからね、今は)誰しも1年から1年半年程度で身につけることが十分可能ということ。

先に、「840」時間という数値を挙げて説明した困難さは、だから、(イ)<840>のボリュームがこのかなり簡単な目標にさえ届かないという指摘、および、(ロ)現在の<840>の中味が、寧ろ、この日常会話研修を見据えたとしても合目的的ではないという認識から述べたことなのです。ならば、ましていわんや、その程度の、<840>から見れば高峰にせよ、富士山に比べれば神奈川県の大山程度の、寧ろ簡単な、ゆえに個々の子供達の労働力商品としての--国際競争の労働力市場における--比較優位性を引き上げる効能に乏しい、かつ、他の英語スキル開発のための基盤とはなりにくい、単発もののスキルアイテム。貴重な初等中等教育の840時間、少なくとも、そのかなりを割いて、そんな低付加価値で汎用性の乏しいスキルを、原則、すべての子供達に身につけさせるなどは社会的資源の無駄遣いに他ならない。そう私は考えるということです。

>営業を受ける英語力と営業する英語力は別次元
>愛を語らう英語力と愛を清算する英語力は別次元
>理科系技術者に要求される英語力と史学や法学の研究者に要求される英語力は別次元

アメリカに行って営業する。あるいは、1時間のプレゼンテーションを行い、その後の1時間の質疑応答、更に、1時間半程度のレセプションを(←三番目はビールかバーボンの力が借りられる、鴨!)乗り切って、アメリカの機関投資家から資金を調達する。または、ニュージーランド人の彼女や彼氏ときちんと別れ話をして(「できちゃった!」の可愛い我が子がいる場合には、親権と養育費負担配分について)、離別・離婚を巡る自分の希望を相手と現地の英語圏コミュニティーに認めさせるために必要な英語力は、上に述べたのとは別次元の上級タイプのものです。それらは別物であり別種目。その差は、相撲とキックボクシング、あるいは、チェスとカーリングの違いほどではないにせよ、少なくとも、サッカーとフットサル、あるいは、陸上の100メートル走と棒高跳びくらいの差は確実にある。しかも、世界大会と県大会のレベル差もともなって。

あのー、ここも、「普通の英語は一つ」という先に述べた命題とは別の位相にあり矛盾しませんから。それらは各々別の位相で--逆に言えば、確かに、「受験英語」と「日常会話」が異なって見えるように、否、実は、指導技術的に厳密に言えば、TOEFLとTOEICさえ最適な対策計画立案の観点からは別の英語系種目であるように--成立する表象であり認識。ならば、「愛を語る」のではなく「愛をかたずける」ために要求される、このより上級カテゴリーの英語でのコミュニケーションスキルの研修プログラムはその内部で更に細分化され、より特化されたものでなければ本当の意味では効率的とはいえないのです。

L(^◇^)/・・・英語は一つ!
L(^◇^)/・・・英語にも「松・竹・梅」「雪・月・花」「春・夏・秋・冬」の違いはある!

蓋し、自衛隊の英語研修は、これら、上級・中級・初級の区別、また、上級なら上級のその内部での細分化に配慮されたものと言える。大田エイミーさんの感動はそこに起因するのだろと思います。






日本の「受験英語」は--もちろん音声面を除けば、ですけれど--ESL/EFLの研究分野では英米でも専門研究者から高く評価されてきた。だってそれは、ほとんど英語話せないにせよ、極東の普通の高校生が、英国や米国の高校生にとってもそう容易ではないタイプのテクスト、極めて高いレベルの評論や論説文を読み解けるようにはしてきたのですから。これ歪といえば歪なこと。それは確かにシュールな光景ではある。しかし、ほとんどの日本人と日本市民にとって、英語は、それを使うとしても文献を読んで意味を理解するだけの用途しかなかった時代が幕末から長く続いていたことはまぎれもない事実。ならば、そんな時代において、「受験英語」は日本の英語教育において<最適解>の一つだったのだと思います。

しかし、時代は変わった。きっぱり。はい、残念ながらそんな「古き良き時代」は、ルーズソックスの軍靴の音と共に1990年頃には、遅くとも、<9・11>の衝撃と共に2001年には終わった。若き伊藤博文が倫敦で注がれたような、あたかも「素朴かつ崇高なる未開人」に与えられるかのような好奇と好意の眼差しを日本人と日本市民が期待できた時代は終わった。倫敦の漱石がそうであったように、極東からの異邦人が陥る陰鬱な葛藤と日本人と日本市民が戯れていられた、そんな甘酸っぱくも優雅な時代は終わった、とにかく、リーマンショック(2008)の時点までには日本人にとっての英語を巡る<ベルエポック>は確実に終わってしまっていた。

この同じ時期に、フランス流の「天賦人権論」「社会契約論」「近代立憲主義」、ならびに、独仏流の「唯物史観-ホイッグ史観のバトンを受けた地球市民的な世界観」「価値形態論-剰余価値説」「疎外論-物象化論」といった有象無象の、しかし、すべて「概念実在論」の基盤の上に聳えていた諸々のファンタジーの神通力はソヴィエトの崩壊をBGMにして消滅した。更に、それらが、--個別日本においては所謂「戦後民主主義」なるものが筋悪の新作落語の類であったことが露呈し、要は、所謂「進歩的文化人」なるものが、「仲間内でしか通じない無内容な思い込み思いつきを深刻そうな表情で偉そうに呟く籠城中の城内の芸人」の一種であることが露見し、もって、内外の諸々のリベラル派の言説が--、単なる<文化帝国主義の醜悪な残滓>であることの赤裸々さを地球規模で暴露されだしたのとパラレルに、この同じ時期に英語は<宝物庫の鍵>ではなくなり<普段着>や<台所用品>の一種になったのだと思います。


・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65200958.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/44eedad84676b8f4cee93611c9b5dc2c

・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679


だが、しかし、だからといって(←ここ、朝日新聞の社説子の口振りのパロディー)、「受験英語」が果たしてきた機能・効能を総否定することは本末転倒であろう。寧ろ、今こそ、「受験英語」が提供してきた英語の基礎基本、コミュニケーションツールとしての英語の基盤を子供達に--英語力で将来世過ぎ身過ぎしようというタイプの子供達には特に--、音声面強化済みの「受験英語-2.0」にバージョンアップした上で提供するべき秋(とき)ではないでしょうか。





▽日本人と日本市民にはどんな英語力が求められているのか
蓋し、(2)(3)は表裏一体の妄想。なぜならば、英語のNSの英語でのコミュニケーションスキルを目標にすることは原理的に不可能であり、ならばとて、もし、その漸近線の手前までは迫ろうとするならば、最低でも、その卒業生の高い語学力に定評があった、かっての旧制高校並みの時間数を--しかも、実は「高校入学時点」でかの弊衣破帽姿の旧制高校の新入生と同程度の英語力をつけるべく、小学校・中学校においても!--英語に傾斜配分しなければならないでしょう。極論をいえば--というか、研修と研修の効果の相関関係に関する相場感を踏まえるならば、寧ろ、「筋論」からすれば--、日本人と日本市民の子供達を小学校入学と同時に英語圏に全員留学させるか、または、お雇い外国人スタイルにならざるをえないと思います。

受け手送り手双方が担うそのあまりの負荷の大きさと研修の成果物の社会的価値の漸減を突きつけられて明治もその前半で幕を降ろした、お雇い外国人スタイル。授業はもちろん、ほとんどの課外活動もすべて英語でNSから直接、かつ、10人程度までの少人数で習うというスタイルを導入しますか、ということ。

それは、しかし、現在の840時間でさえ、他教科との兼ね合いで必死に捻出された840時間であることを想起すればほぼ不可能。実際、それがいかに非効率な840時間とはいえ、そのために多くの中学・高校(現在では小学校でも!)の先生方は誠心誠意努力しておられる。

公立学校の教師の、寧ろ、それが<本業>といえる、部活顧問・生活指導・進路指導・地域対応、等々の厖大な業務が漏れなくペーパーワーク附きで課されている状況下(★)、先生方は--「教え子を二度と戦場には送らせない」とかとか呟いて、優雅な政治遊戯にかまけている日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」はもちろん除きますけれども--誠心誠意努力しておられる、そう言えると思います。

・「英語は英語で教えるべきだ」と戯言を記した学習指導要領
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a7b721b5ea5498d542a1ef9d47a9f457


★註:実は頑張っている日本の先生達

日本の保護者の6割は「学校にわが子の学力向上の効果を期待していない=学力は塾・予備校でつけてもらうもの」という調査データが公表されたのはもうかれこれ10年近く前のことだったと記憶しています。もっとも、その後、この数字のあまりの派手さゆえにか、あるいは、差し障りがあったのか、現在ではベネッセさんの質問項目自体が「基礎学力の養成に期待するか」なんちゃらに変わって、現在では「おおいに」と「あるていど」を併せると95%前後の回答者が「学校に期待する」と返答していますが(嘲)、実情は10年前と今とそう変わりはないようにも感じます。

家計の可処分所得が実質シュリンクしたリーマンショック後、第2次安倍政権成立までのデフレ期間も、少なくとも、「希望ベース」では(公立校のブランド力がまだまだ堅固な北関東および根強い大阪圏は別様相にせよ)首都圏を中心に、半数を優に超える保護者が「できることならばわが子は私学に通わせたい」と考えている。このことは民間・公立を問わず教育関係者の常識でしょう。マーケティング的にはこの「希望ベース」というのはかなり重要。もちろん、それは「希望」だから「有効需要」との相関関係は緩いのですけれど--よって、すぐキャッシュに化ける商品の開発には2次的数値だったりしますが--、マーケットが本当は欲している商品、すなわち、提供の仕方と価格設定によっては「お化け商品」になりうる商品イメージの核心をそれが貫いている蓋然性が高いですから。




これらのことを想起するとき「選択肢A:旧制高校」も「選択肢B:お雇い外国人」も、そして--この選択肢には、「じゃ、日本語の指導はどうするの」という素朴な疑問もでるでしょうから、もちろん--、「選択肢C:ピカピカの小学1年生から入学式終了後--6年間または義務教育の9年間--ただちに全員もれなく強制アメリカ留学」のどれも画餅にすぎない。そうではありますまいか。

逆に言えば、ならば、皇紀2676年、平成の御代の日本は、最早、<お雇い外国人講師><弊衣破帽><全員留学>が<最適解>であった古き良き時代ではないということ。加之、--本当は生成文法論とは直接関連はしませんが、チョムスキーの唱える、あらゆる自然言語の基盤にある、その上で個々のアプリケーションソフトたる英語や日本語という各々の自然言語(=各自の母語)が作動可能となるもの、謂わば「人間の言語能力:language competence」のOS(オペレーションソフト)ともいうべき「普遍文法:universal grammar」の存在を仮想するとき--英語でのコミュニケーションスキルの前提も、日本語の母語話者である日本人および日本市民の<子供達>にとっては日本語能力、要は、国語力である。そして、国語力も含めた学習の基盤はセルフマネージメントスキルの品質。自己の行為や生活、他者に対応する言動を自分自身で規律できるディスシプリンの質である。

而して、更に、それらの基盤の基盤には、神州の一員である自覚、換言すれば、この万邦無比、天壌無窮にして皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のメンバーたることの覚悟とプライド--日本市民にとってはそのような日本人と共存共栄している自分という、そんな誇りある在日外国人としてのプライド--でないはずがない。ならば、

б(≧◇≦)ノ ・・・英語より国語だろ-!
б(≧◇≦)ノ ・・・国語よりディスシプリン、礼儀作法だろー!
б(≧◇≦)ノ ・・・なにより、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のイデオロギーだろ!
б(≧◇≦)ノ ・・・寧ろ、英語の時間は減らして国語と道徳を手厚くしたらどうだ!

英語教育論的にもこう言えるのではないか。蓋し、平泉渉さんが(そして、前述の如く、実は、渡部昇一さんもなのですが)提言された如く、(X)すべての子供達に共通の到達目標を設定すること自体が間違いなのです。(Y)適性もあり英語力を活かした進路を希望する子供達には英語重視で、そうではない子供達の英語の負担は相対的に削減するべきだ。(Z)いずれにせよ、英会話幻想から--英会話は難しい、けれども、英会話ができることが英語でのコミュニケーションスキルがあることなのだという大きな勘違いを--脱却して、初等中等教育においては(音声面、特に、リスニングの強化を織り込んだ上で)文法・構文・語彙の基盤形成に注力すべきなのです。

畢竟、教育とは、就中、取り敢えず自分とは疎遠な非母語の習得とは論理的に<詰め込み>以外のなにものでもありえない。問題は--トレーニー個々の適性、ならびに、モティベーションおよびマインドセットを織り込んだ--<詰め込み>の仕組みの出来映である。このように私は確信しています。

(X)研修目標自体の多様化
 ・・・<子供達>に各自の能力・適性、および、
 ・・・<家庭の教育力・世界観>に適合したオーダーメイドの目標設定を!
(Y)研修の個別化-オーダーメイド化&テイラーメイド化
 ・・・上級中級初級のレベル差、各レベル内での種目差を直視しよう!
(Z)文法・構文・語彙(+リスニング)という基礎の強化
 ・・・<詰め込み>の復活、「受験英語-2.0」の逆襲!


元全国区の予備校で英語教育推進部長を務め、また、20年近く大学院留学予備校で教務部長・主任カウンセラー・講師を務めた--例えば、多くの上場企業の企業派遣研修と中央官庁からの人事院枠海外研修に携わってきた経験から、また、私のなにより誇りとすることは、自衛隊から米国MBA・行政学/国際関係論の大学院に派遣される隊員の方々の留学準備サポートを5年間自身直接担当した経験から--私はそう断言します。

而して、自衛隊の英語研修は、実に、これら(X)~(Z)のすべてに目配りされた合理的、よって、効率的・実践的なプログラムである。ですから、「子供を英会話できるようにしたいなら英会話スクールに行かせなさい、あるいは、自衛隊に入隊させなさい」と書いたのはネットウヨ風の冗談的の物言いではないのです。畢竟、日本の英語教育の問題について、繰り返しを恐れず、マルクスが『ユダヤ人問題によせて』(1844)の掉尾に記したレトリックを借用して敷衍するとすれば、われわれ保守派の市民はこう考えるべきなの、鴨です。みなさんはいかがお考えでしょうか。

б(≧◇≦)ノ ・・・<子供達>の英語教育における解放は、
б(≧◇≦)ノ ・・・英語教育の平等幻想からの解放である。
б(≧◇≦)ノ ・・・「受験英語」の逆襲はその鍵をなす。


そして、最後に、
このことも、また、

∠(^◇^)/・・・まだでしたら、『MAMOR』の定期講読をお薦めします!
∠(^◇^)/・・・近隣の高校や図書館とかに定期購読をお願いしましょう!

URL: http://www.fusosha.co.jp/magazines/mamor/

その際、例の「船橋焚書事件・2001」--船橋市西図書館における司書・土橋悦子(元日本国際児童書評議会理事!)が保守系の図書・雑誌100点以上を不適切に廃棄処分していたことが発覚し、最高裁から損害賠償・慰謝料請求の命令が下された事件--のような、リベラル派による不埒な行いがなされないか、保守系の市民・教職員(←あっ、日本では7割を超える市民が保守派なのだからここは、単に「市民・教職員」と書いてもいいのですよね。)が監視するアフタ-ケアーやメンテナンスも必要なの、鴨。子供達のためには。孰れにせよ、

∠(^◇^)/・・・日本の<子供達>のために、共に闘わん!

P/S

===>「番外編」も(↓)書きましたよぉー!(2017/8/2)

防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--番外編「ちーぱか・すっぴんインタビュー」










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