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◆格差と格差感あるいは格差感と閉塞状況
所謂「格差社会論」は全くの誤謬・妄想でした。けれども、他方、実際に「格差感」は広がっている。これは事実でしょう。就中、<都会>に比べた場合の<地方>の衰退・衰微は覆い隠しようもない現実。それはなぜなのか。蓋し、それは、日本社会において、
(A)全体の「パイ」が、総所得と総資産が縮小していること
(B)行動の選択肢の幅を規定する予測可能性が低下し、リスクが拡大し増大していること
(C)何より「敗者復活」の回路が極めてタイトになっていること
これらが理由なの、鴨。(A)は自明でしょうが、(B)に関して言えば、例えば、「CO2の25%削減」なり「脱原発路線」なる、時の首相の個人的な願望が、あたかも「日本政府」の方針でもあるかのようにして世界に発信される、そんな無責任な民主党政権の下では真面目な企業経営など怖くてできないということ。
実際、「原発の停止によって危惧されていた、2011年夏の電力不足も実際は生じなかった」(だから、脱原発社会は可能だ!)などの戯言は、多くの企業が、何時送電が打ち切られるか分からないような日本では「怖おーてアホくそーて商いなんぞできへんがな」と、電力需要を、よって、雇用を海外に移転させたからこそ成り立っただけのこと。そりゃー、企業が日本を脱出する、よって、雇用が日本を見放すという条件下ならば脱原発社会なるものも充分可能でしょう。人類が死滅した後の地球では振り込め詐欺も強盗事件も惹起するはずはないのですから、多分。
すなわち、(A)に属する、加速した日本経済の空洞化によって、雇用どころか起業の余地も漸減しているということ。加之、(B)の範疇においては、日本に残った企業も投資意欲が萎える結果、端的には、中高年と若年労働者の就職難の昂進に至る。而して、(C)はこれらの帰結でもあり、よって、(A)~(C)三者に必然的に付随する社会保障費の激増によって格差拡大どころか日本経済自体が破綻に近づきつつあるの、鴨。
いずれにせよ、「敗者復活」の余地の乏しい社会に健全な資本主義が生息し続けることは困難でしょう。よって、このままの流れの行き着く先は、(左)「the 99%」による社会秩序の崩壊か、(右)「the 99%」を宥めるための「パンとサーカス」を公費でとことん投入するギリシア化のいずれか、あるいは、(央)その両方ではなかろうかと思います。
要は、(もちろん、「公平感」を維持強化するためには、その施策は満更無意味ではないとしても)「富裕層や大企業/生活保護受給世帯は<ずる>をやって儲けている」「富裕層や大企業/生活保護受給世帯から<応分>の負担を徴収すべきだ」更には「富裕層や大企業/生活保護世帯受給世帯から<応分>の負担を徴収すれば充分に財政はまかなえる」という程度の、「黒幕史観」ならぬ「黒幕社会政策論」によっては、現下の日本の危機は到底打開できないだろうということ。
実際、政府が日銀に国債を買い取らせ、それにより確保した財源に基づいて手厚い財政出動を断行しようとも、企業の投資意欲と家計の有効需要に裏付けられない公共投資の効果は、文字通りの「絵に描いた餅」にすぎないでしょうから。そして、日本の国際競争力が維持強化できない限り、日本列島を逆さにしても社会保障費用など捻出できるはずもないのですから。
もっとも、大急ぎで補足しておきますが、例えば、2008年9月15日に勃発したリーマンショック後の緊急避難的な施策、つまり、短期的な施策としては(麻生内閣がそれを適切に遂行し、政権交代直後の民主党政権がご丁寧にもその施策を急停止させてその後の経済停滞を確実なものとしたように、)公共投資は現在でも財政政策の有力な選択肢ではあるのでしょうけれども。
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要は、この社会に迫る危機の正体。その究明に関しては、「格差」ではなく「格差感」が問題であり、而して、その「格差感」の源泉はパイの縮小と社会においても人生においても進行する予測可能性の低下、逆の面から言えば(ベックの言う意味での)リスクの拡大と増大をその中核とするこの日本社会の「閉塞状況」ではないか。と、そう私は考えるのです。
而して、誰の目にもこの危機の解決策はシンプル。すなわち、それは、
(a)生産性の向上と競争の公平化を苗床としたイノベーションの誘発によるパイの拡大、(b)それによって財政的にも可能になる「セーフティーネットの整備拡充」「敗者復活可能な社会」の実現。そして、これら(a)(b)を条件として説得力が担保されるであろう、(c)自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避です。
例えば、自衛隊・警察・消防、医療・託児・高齢者および障害者のケアを除き、その生産性という意味では、最早、実質的な失業者である非専門的な職域の、地方と中央の公務員全員の平等な解雇を起爆剤とした起業活動の促進(それら現在の公務員が担っている業務は共に任期制の「籤で当選した住民」と公募で獲得した人材で行うこと)、あるいは、公立学校の全廃とそれに代わる「バウチャー」の支給等々、財政健全化と民間マーケットの拡大、加えて、自己責任の原則の啓蒙という一挙両得ならぬ一石三鳥的な施策は幾らでもあるのではないでしょうか。
実際、明治維新とは一種そのような、生産性の低い「公務員=武士」の労働力市場への放出に帰結したのであり、近代日本はそのような構造改革の上に成立したものでもあったのではないか。蓋し、将に今は、小泉構造改革再始動の秋であり、かつ、「王政復古=資本主義の原理原則への回帰」を宣言すべき秋ではないか。と、そう私は考えます。
尚、もちろん、そこに回帰されるべき資本主義とは、(19世紀末葉から20世紀初葉にかけて具現した「近代法から現代法への転換」の過程で、例えば、契約自由の原則と過失責任の原則の修正・所有権の社会的制限によって、資本主義がマルクスの預言を破って自己を再構築した如く)裸の資本主義ではなくて、少なくとも、(就中、「地方再生」というもう一つの課題を見据えるならば尚更なのですが、)金融と投資に関してはより厳格な制約を施されたものでなければならないでしょう。而して、このことには、それこそ、2008年のリーマンショックと2011年のEUの財政危機を目撃した人類史の現段階においては、反論はそう多くないのではなかろうかと思います。
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◆保守主義の社会政策の核心としての地方再生
繰り返しになりますが、重要なことは、保守主義の社会政策を断行しなければ、現下の欧州諸国の如く、日本がグローバル化の波濤を浴びて水没することは必定ということ。そして、様々の施策を駆使して<保守主義>がその具現を目指すべき目標の一つは、間違いなく、「地方再生」、すなわち、<郷里>の再構築ではないかということです。
蓋し、現存在としての人間とそのアイデンティティーを生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の枠組みにおいて支える、「共同体=コミュニティー」としての<郷里>の強化、あるいは、恒常的なその再構築は現下の保守主義からの社会政策メニューの中でも高いプライオリティーが与えられている。と、そう私は考えます。
敷衍します。アリストテーレースが喝破した如く、その実存のあり方において「人間が「ポリス=社会」的動物」であり、かつ、その認識と思索の能力において、フッサールとウィトゲンシュタインが解明した如く、「人間の社会とは言語が編み上げる意味空間」でしかない。ならば、(言語が歴史の中で紡がれ編み上げられる制度であり、他方、歴史とはすべからく「ポリス=世間」、すなわち、<郷里>に包摂される人間存在の自己認識でしかない以上、)人間は<郷里>を持たずに生きることは不可能な存在でしょう。
ならば、グローバル化の波濤の押し寄せの前に<郷里>が消滅・消失しつつある現在こそ、保守主義は地方再生と<郷里>の再構築にコミットしなければならない。すなわち、シーシュポスの如く、生態学社会構造の変遷によって、就中、グローバル化の波濤の咆吼の前に恒常的に脅かされ崩壊させられる運命にある<郷里>を、しかし、恒常的に再構築したいと願う欲求から人間は逃れることはできないと思うのです。
よって、天皇制が女系天皇制をビルトインすることによって再構築され得るかもしれないように、時空を超えて、要は、必要ならば新天地に人間は<郷里>を復旧・復興・再建し続けるしかない。蓋し、保守主義の社会政策はこのような人間存在の本性に根ざす<郷里>の再構築という情念や願望と整合的でないはずはない。そう私は考えます。
では、地方再生、すなわち、<郷里>の再構築はどのようにすれば実現可能なのか?
些かコロンブスの玉子的な回答になりますが、その要件の一つは、間違いなく「他の地域でも売れる競争力のある商品の生産体制」を地域にビルトインすることである。経済活動を包摂する社会関係の修復強化と再編再興の契機を度外視しては<郷里>の再構築などできるはずはないから。と、そう私は考えるのです。
蓋し、グローバル化に対峙して、よって、生態学的社会構造の変遷に拮抗し得る、「収益性の高い商品生産」を具現する産業のシステムとネットワークの整備、そして、それらと親和的な<郷里>の恒常的な再構築が回答。畢竟、(古代・中世と言わず近世においても、夥しい村落が発生しては、衰退し廃村になり、文字通り、現在、地面の下に埋もれている日本社会の現実を見るとき、あるいは、人類史上唯一、組織的な「産業資本主義」の発生が産業革命に先んじた英国で見られる、物流の便益のための夥しい小運河ネットワークの存在を想起するとき、)<郷里>とは本来そのようなものだったのでしょうから。加之、例えば、赤穂浪士が深川の吉良邸に討ち入った元禄の頃の<東京都民>は、そのほとんどが自分の<郷里>を離れて江戸に出てきた人々だったのでしょうから。
ならば、<鎖国>が、最早、不可能であろう現在、まして、英国の産業革命期の「機械打ちこわし運動:ラッダイト運動」の如き施策でグローバル化の波濤を防ぐことなど金輪際不可能なことも自明な現在、人類はそして日本は、グローバル化、すなわち、資本主義と当分の間添い寝し続ける覚悟を決める他の選択肢を持っていないのではないでしょうか。ならば、(正式に「離婚」が成立するまでは)その憎むべき配偶者と同衾して、而して、この憎むべき同衾相手との協働作業として<郷里>を再構築し続けること。これしか<保守主義>に残された道はない。と、そう私は考えます。
些か、叙述が現実から遊離してきました。よって、上記の認識。すなわち、
(α)資源と所得の分配と交換の、資本主義に優るシステムが確立されるまでの間は、資本主義と添い寝せざるを得ないという諦観、(β)<郷里>の死活的な重要性、(γ)資本主義を上手に制御しつつ、しかし、資本主義の原則とゲームのルールを遵守しながら、(a)「生産性の向上と競争の公平化を呼び水としたイノベーションの誘発によるパイの拡大」、(b)「セーフティーネットの整備拡充」および「敗者復活可能な社会」の実現、(c)「自己責任の原則の徹底によるモラルハザードの回避」を希求しつつ、その活動に整合的な<郷里>を恒常的に再構築することの重要性と必然性。
具体的な事例を通して、次項ではこれらの認識を<検算>したいと思います。
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<続く>