沖縄の集団自決に関する歴史教科書の記述が問題になっています。ことの発端は、今春3月30日に文部科学省が公表した2006年度の教科書検定内容。沖縄戦時に発生した住民の「集団自決」について、「日本軍に強制された」という申請図書の内容に検定意見ついた事実が判明したことでした。
沖縄・渡嘉敷島の集団自決については、曽野綾子さんの労作『ある神話の背景-沖縄・渡嘉敷島の集団自決』(文芸春秋・1973年)等により日本軍の強制がなかったことは明らかになっており、沖縄全体を取っても住民の集団自決が日本軍の強制に起因することを示す証拠は皆無であることから「日本軍による強制と集団自決との間に因果関係」を認める記述に対して検定意見が付されたのは当然だったと思います。
しかるに、去る9月29日、沖縄県宜野湾市で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」などの抗議を受けた福田内閣と文科省は教科書記述の再修正を是認する姿勢を示す。すなわち、渡海文科相は10月1日、「沖縄の人たちの気持ちも考え、何をするべきか、何をできるかを考える必要がある」と述べ、同日、町村官房長官も「沖縄の皆さん方の気持ちを受け止めて、修正できるかどうか、関係者の工夫と努力と知恵があり得るのかも知れない」と語った。
この「県民集会」なるものの参加者が主催者側発表の11万人などではなくせいぜい4万人前後だったことが産経新聞等により広く報じられたこと、あるいは、「県民集会」の要求は政治的圧力以外の何ものでもなく、そのような政治的圧力に誘発された教科書記述の再修正など許されるべきではないという正論が、漸次、国民各層の中から澎湃と湧き上がるに従い、官房長官も「文科相に対して教科書再修正の指示を出した事実はない」と述べ、他方、文科相も「政治介入はできないとして検定意見撤回を否定」(沖縄タイムス:10月3日)するなど、福田政権も記述再修正の是認方針を微妙に変えつつある。
正直、今次の騒動とこの件に関する福田政権の評価は、現在、複数の教科書会社が検討している「訂正申請」の手続きを通して具体的に「集団自決と軍の強制」の記述がどうなるかを見なければ何も言えない。よって、本稿では、歴史教科書の記述の本来のあり方に引きつけて、沖縄の県民集会によって歴史教科書の記述が左右された日本の歴史教育の現在の問題状況を照射したいと思います。
◆事実の確認
検定意見によって「集団自決と軍の強制」の記述内容はどう変わったのか。議論を生産的にするためにこの点を確認しておきます。実際、2007年9月29日という僅か10日前のことでも、宜野湾市の県民集会に何人が参加したのかさえ容易に確定できないのが<歴史>なのですから。以下、URL参照。
・2006年の教科書検定における「沖縄集団自決」に関する記述の変更
◆歴史教科書の記述はどうあるべきか
11万人が参加したのか4万人だったのかは別にして県民集会があったから教科書の記述が変わるなどということは、数学や英語の教科書についてはまず起こらないタイプの事象でしょう。県民集会で「台形とひし形の定義の変更」や「時間や条件を表す副詞節の中でも述語動詞は未来時制でよい」とか決議したとしても文科省だけでなく誰も相手にするはずもない。では、なぜ歴史の教科書の記述に関しては再修正を求める政治的圧力の前に、文科省も「沖縄県民の気持ちへの配慮」を口走るような事態になったのか。それは、歴史学の軽視と歴史教科書の目的の理解不足である。而して、私は、今般の事態が炙り出した問題を具体的には次の2点に要約しています。
(甲)「日本軍の強制に起因する集団自決」という確認されない事実を歴史教科書に盛り込むことの是非
(乙)「集団自決への日本軍の関与なるもの」が確認された事実であったとしても、そのような事実を歴史教科書で言及することの是非
●嘘を歴史教科書に盛り込むことの是非
「嘘でもそれが社会の役に立つなら教科書に書き込んでもよい」という主張は、(実は、そう簡単に否定されるものではないのですが)おそらく多くの方が容認しないと思います。アメリカでは進化論だけを教えるのに反対するキリスト教原理主義の運動も盛なのですが、今時、「それでも地球は動いている」と呟いたガリレオの時代でもあるまいに、県民集会の政治的圧力によって「教科書では地動説ではなく天動説を教えろ」という主張が認められる国は少ないでしょうから。
よって、沖縄県民や大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する朝日新聞等が「日本軍の強制により集団自決は起こった」と強弁したいのなら、個々の日本軍兵士の行動を超えた<日本軍の強制>が集団自決の主要な原因であったことを事実に基づいて立証する責任がその論者にはあると私は考えます。
●「強制 Vs 関与」or「エピソード」
第二の論点。「日本軍の強制」ではなく「日本軍の関与」を集団自決の原因とする見解をどう考えればよいか。これについて私は「「関与」があったと主張する論者は、まず、その「関与」なるものの定義を明らかにせよ」などという大人気ないことを述べようとは思いません。実際、公理主義的に数学を再構築したヒルベルトの言葉「点, 線, 面の記号をやめて、それぞれをコップ, テーブル, スプーンに置き換えても幾何学には何の変更も生じないだろう」を踏まえるならば、かつ、分析哲学と現代解釈学を自己の思索の基盤とする身としてはどのような概念も言葉も究極的には定義不可能なものであると骨身に沁みているからです。
蓋し、「強制」や「関与」という字句を穴が開くほど睨んでも、あるいは、広辞苑や大辞林のページをどれほど捲っても、1945年の沖縄で生起した集団自決と日本軍の行動の関係が「関与」であったのか「強制」であったのかを決めることなどできはしない。而して、その関係を定めうるものがあるとすれば、畢竟、それはその両者の間に妥当な因果関係があったかどうかだと私は考えます。
すなわち、「強制」や「関与」をあるタイプの因果関係と再定義しようとするとき、(イ)ある事象と他の事象との間に「前者がなければ後者は生じなかった」という関係が見出せること、かつ、(ロ)ある結果に因として作用する多くの事象の中で特に重要なものについてのみ因果関係があった(よって、「強制」や「関与」がありえた)と言いうる。なぜならば、(イ)だけで因果関係の有無を確定することは無意味だからです。例えば、「自決者の自死に自決者の曾祖母の祖母が関与した」(その曾祖母の祖母が存在しなかったなら自決者はこの世に存在せず、存在しない人間が自決などできないから)という命題は1945年の沖縄の集団自決を巡る因果関係を考える上ではそう大きな意味は持たないだろうからです。
而して、 逆に、(ロ)の「ある結果に対して特に重要な原因であるか否か」を判断する指標が、個別、「沖縄の集団自決と日本軍の行動の関係」においては「強制」と「関与」の辞書的な意味である。蓋し、「関与」と「強制」は(イ)の物理的な因果関係を備えた関係の中でもある特殊なタイプのカテゴリーを形成している(この手法は、所謂定義論の常套手段、関係の経験分析と語義の経験分析の併用に他なりません)。畢竟、「他者の行動の選択肢を暴力・威力を用いて意図的に限定すること」があった場合には、日本軍の行動は「強制」という集団自決の重要な原因であり、そうでないならば日本軍の行動は「関与」という重要な原因であるか「関与」でさえない現象のいずれかになる。尚、「関与」でさえない事象とは集団自決との間に因果の関係が存在しない単なる同所で起きた同時並行的な現象のことです。
この点、1945年の沖縄・渡嘉敷島で「強制」がなかったことは事実であり、かつ、沖縄全体を見ても、個々の日本軍兵士の行動を超える<日本軍>が住民に自死を「強制」したなどと言える事実は見出されていない。ならば、自決者個々の曾祖母の祖母の存在からなにから沖縄の集団自決との間で物理的な因果関係のある数多の事象の中から「関与」があったとして、特に「日本軍の行動」を分離する根拠は何なのか。歴史教科書に「沖縄の集団自決に日本軍が関与した」と書き込むことを主張する論者にはこの根拠を提示する責務があるのではないでしょうか。
数多の事実のなかから「関与」があったとして日本軍の行動を他から切り分ける根拠。正直、私はその根拠としては「沖縄県民を守る日本軍の責任」以外思いつきません。而して、そのような責任が正に最前線で戦っている軍隊に適用される根拠を(蓋し、それは沖縄の集団自決に日本軍の関与を認める根拠の根拠でしょうが、そのような根拠の根拠を)実定法からも実定道徳からも見出すことはおよそ不可能であろうと思います。畢竟、「どの法も「炎の中に自分の腕を突っ込んではならない」と定めることはしない」というイエーリングの言葉の裏面として有名ですが、「法は何人にも不可能を強いることはできない」のです。
蓋し、集団自決と同所同時に行われた日本軍の行動が確認される事実であったとしても、それは「強制」でも「関与」でもない。而して、集団自決と日本軍の行動の関係には因果関係を認めることはできない。畢竟、沖縄戦とそこで起こった悲劇の原因として日本軍の行動を教科書に記すことは歴史学的に誤りである。
けれども、「集団自決への日本軍の関与と称される事実」(=集団自決と同所同時の日本軍の行動)は歴史を彩るエピソードの一つとしては教科書に記述されるに値する可能性は残る。而して、どのような事実を「主要項目と同時代のエピソード」として歴史教科書で言及すべきか、すなわち、歴史教科書の限られた紙面を(特に、ゆとり教育路線の中で益々薄くなった教科書の限られたスペースを)どんなエピソードに割くべきかは歴史教科書の目的に沿って判断されるべきことでしょう。
明確なことは、嘘を書くことは論外としても、歴史に限らず教科書は広範にわたる当該科学の最新の成果を遍く掲載するメディアでは必ずしもないということ。更に、歴史教科書は沖縄県の県民感情や特定アジアの国民を慰撫するためのツールでもないということです。
畢竟、歴史教科書は、この国のメンバーとしてのプライドとアイデンティティーを涵養するための通史としての歴史認識を子供達に提供するためにある。ならば、このエピソードの点でも、沖縄戦を巡る記事としては、集団自決の際の日本軍の行動などよりも、沖縄に向けて戦艦特攻を敢行し撃沈した戦艦大和とその散華された乗員の英霊に関する記述が遥かに望ましい。私はそう考えています。
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